第三章 君の優しさに守られていた

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 朝起きて、いつも通り弁当を作る。今日は昨日の夜多めに焼いておいたハンバーグときんぴらゴボウ、それからあまい卵焼き。

 はしを口に入れると、優しい甘さが広がる。昨日、そめしそうに食べていたな。ふと思い出して自然と口角が上がる。あんなふうに喜んで食べてくれると作りがいがある。どこかむずがゆくくすぐったい気持ちになるのはどうしてなんだろう。

「お姉ちゃん」

 いつの間にキッチンに来たのか、となりにはの姿があった。

「どうしたの?」

 たずねるに夕雨はあきれたような視線を向けた。

「これ何人前?」

「え?」

 これ、と言われ夕雨の言葉が指し示す方へと視線を落とす。そこには二人分以上のおかずが並んでいた。

だれかの分も作ってんの?」

「誰かのって……」

かれ、とか」

 夕雨の言葉に、なぜか染井の姿が頭をよぎった。

「ち、ちがう!」

 卵焼きをほおうれしそうに笑う染井の姿を、のうからあわてて追い出す。

 別に染井のために作ったわけじゃない。そう、これは、えっと。

「お、お母さんの分だよ」

「ふーん?」

 信じているのか、いないのか。夕雨はかたをすくめると回れ右をする。リビングにもどろうとしている夕雨に莉子は声をかけた。

「ねえ、夕雨」

「なに?」

「はい、あーん」

 余分に作ってしまった卵焼きを一つまむと、かえった夕雨の前に差し出した。

 いつしゆん、意味がわからないといったような表情をかべたあと、わかりやすく夕雨は赤面した。

「ばっ……。ち、ちっちゃな子どもじゃないんだから一人で食べられるよ!」

「あー……」

 莉子の手から卵焼きを取ると、口にほうむ。「あまっ」なんて言いながらも嬉しそうな表情を浮かべる夕雨がわいくて仕方がない。

「よし、じゃあめるか」

 自分の弁当を詰め終えると、残りを母親の弁当箱へと詰めていく。それでもいつもよりは多くて、余らせてしまってももつたいないし、と少しだけ、ほんの気持ちだけ多めにおかずを入れて、莉子は自分の弁当箱に蓋をした。

 そのせいか、だんよりも家を出るのがおそくなってしまった。慌てて飛び出そうとして思い出す。もう別にいつもの時間に行かなくてもいいのだ。行ったところで誰も莉子を待ってなどいないのだから。

「いってきます」

 重い足をなんとか動かしながらげんかんのドアを開ける。どんよりとくもっているせいで、昨日よりも気温が低く感じる。もうすぐ秋が終わり、本格的な冬になりそうだ。

 家を出た莉子はうつむきがちに歩き始める。胸が苦しい。空気が重い。息を吸っているはずなのに、肺がどんどん苦しくなる。

「って、え……?」

 莉子の視界に誰かの足が見えた。見覚えのある制服のズボンに顔を上げると、そこにはへいにもたれかかる染井の姿があった。そのしゆんかん、少しだけふっと息が楽になるのを感じた。

「おはよ」

「……おはよ」

 まさか今日もいるなんて思わなかった。まどう莉子を置いて染井は歩き出す。どうしようかと一瞬だけ考えて、莉子はすぐにその背中を追いかけた。

 何を話したらいいかと考えているうちに染井が口を開いた。

「昨日、おこられなかった?」

「え……あ、うん。バレなかったみたいでだいじようだった」

「そ。ならよかった」

「心配してくれたの?」

「そりゃ、まあね」

 事もなげに染井は言うと、思い出したかのように莉子の方を向いた。

「そういえばさ、作ってきてくれた?」

「何を?」

「弁当に決まってるだろ」

「なっ……」

 瞬間、朝の夕雨との会話を思い出してしまいほおが熱くなる。違う、あれは量をちがえただけで別に染井の弁当を作ろうとしたわけではない。違うんだから。

 慌てて否定しようとして、けれどどうようしているように思われるのもしやくだったから、莉子は一度二度と深呼吸してから何気なさをよそおって言葉を発した。

「作るわけないでしょ」

「えー、なんでだよ。ケチだなー。彼氏だろ?」

「ホントの彼氏だったら作ってあげたかもね」

 そう言ってからふと気付く。今のはまるでにせものかのじよであることに莉子が不満をいだいているように聞こえたのではないか。本当の彼氏になれば弁当を作ってあげるとそう取られてしまうのではないか、と。

「あ、あの」

 何か言うべきだろうか。どうするべきか、ぐるぐるとなやんでいる莉子よりも先に染井が口を開いた。

「だよな」

 けれど、隣を歩く染井は莉子の言葉になぜか嬉しそうな表情を浮かべる。その表情の理由がわからなくてかんを覚えるけれど、結局そのあと何も話せないままただ無言で学校までの道のりを歩いた。


 学校が近くなるにつれ、同じ制服を着た生徒の姿が増えてきた。みんな莉子と染井の姿を見つけると何かをヒソヒソと話し、指を差す。

 校門をくぐるとその視線と声はさらにひどくなる。まるで動物園のちんじゆうコーナーにいる動物になったみたいでいい気はしない。しようこうぐちから中に入ると、階段の近くに立っていた女子二人があからさまにこちらを指さした。

 何を言われているんだろう。思わず俯いてしまいそうになる莉子に染井は「ねえ」と声をかけた。

「んー?」

「今日の数学で当たるところなんだけど」

 立ち止まりわざとらしく身体からだを莉子の方にかたむけると、とつぜん数学の話を始めた染井に戸惑いをかくせない。どうしたのだろう、そう思い染井の方を見ると、ちょうど染井の身体でさきほどの女子たちの姿がさえぎられていた。

 もしかしなくても、かばってくれた、のだろうか。

 尋ねようかどうしようか悩んで、やめた。その問いかけをすることを、染井が望んでいないように思えたから。

 そのまま莉子は染井と連れ立って教室へと向かった。莉子の席がすぐそばにある後ろのドアから中に入る。そっとドアを開けたつもりだった。誰も気付かないでいてしかった。

 けれど、莉子と染井が入ってきたことがわかると、教室中の視線が注がれた。

「……っ」

 その視線からげるように、莉子は慌てて席に着くと俯いた。

「大丈夫?」

「……ん。だい、じょぶ」

 必死にしぼすようにしてそれだけ言うのでせいいつぱいだ。そんな莉子に染井は何も言わず、ただ肩を優しくたたくと自分の席に向かった。

 幸い、今日はいつもより遅く学校に着いたので担任が来るまであと数分だ。それまでの時間をやり過ごせばなんとかなる。大丈夫、いつもだってりんがいいと言うまではこうやって席で一人すわっていたんだから。

「莉子」

 そう、こんなふうに名前を呼ばれるまでは──。

「え?」

 聞き覚えのあるその声に慌てて顔を上げると、きようたくの前のいつもの席からこちらに視線を向ける真凜の姿が見えた。

 聞き間違い、だろうか。今たしかに莉子の名前が呼ばれた気がするけれど、そんなわけがない。だって、真凜は一昨日あんなにも莉子に怒っていたのだから。

 真凜の声には間違いなかったから、もしかしたら莉子ではない違う子を呼んだのかもしれない。うん、きっとそうだ。

 けれど、そんな莉子の予想をくつがえすようにもう一度みを浮かべると、真凜は莉子に向かって手招きをした。

「もー莉子ってば聞こえてないの? こっちおいでよ」

「え……あ……」

 こんなとき、他の人はどんな気持ちになるのだろう。少なくとも莉子はあんして嬉しくなって、そして。

「ご、ごめん。今行くね」

 慌てて席を立つと真凜たちのもとへと向かう。いつものように集まるグループの輪に莉子はまぎむ。

 どうやら真凜たちは今度の土日に出かける予定の場所がっている雑誌を見ていたようだった。

「やっぱりさ、これは絶対乗りたいよね」

「えーでも、高いところこわいよ」

「じゃあ、下で待ってる?」

「ウソ、ウソ。いつしよに乗るからぼっちはやだよ」

 はたから見ると楽しそうに話す真凜たちの輪の中に莉子も入っているように思うだろう。けれど、実際はそこには見えないかべのようなものがあって、その壁の向こうに莉子は行くことができない。

 それでもこの場からははなれられない。ここにいるよね、離れないよね、という無言の圧力をかけられ続けている。

 ただけたようなみを浮かべたまま、その場に立っていることしか莉子にはできないのだ。

「はぁ……はぁ……」

 息があらくなる。

「はぁ……はぁ……」

 胸が重く、苦しい。息を吸っているはずなのに、肺の中に空気が入っていかない。血液中の酸素がどんどん少なくなって頭がクラクラしてくる。このままじゃたおれてしまう──。

「莉子」

「あ……」

 その声が聞こえた瞬間、まるで水の中から顔を出したかのように、肺の中に空気が入ってくるのを感じた。

 いつの間にそこにいたのか、すぐそばには染井の姿があり、莉子のうでつかんでいた。

「え、な、なに?」

「今、莉子は私たちと話してるんだよー? 彼氏だからってそれはダメだよー」

「ね、莉子? そうだよね?」

 友人たちが口々に言う中、黙ったままの真凜の目はここで断ればどうなるかわかっているよね、と言っているようだった。

 わかっている、このままここにいれば今までと何も変わらない日々を送れることを。けれどそれとえに、人の顔色をうかがい、グループにいることにしつし、自分を殺して生き続けることになるのだ。

 それが当たり前のころは苦しくもなんともなかった。でも、今は。

 莉子はそばに立つ染井の姿を見上げる。その目は大丈夫だよと言っているかのようだった。

「莉子のこと、返してもらうね」

 染井は莉子の手を引くと、真凜たちのところから自分の席へと戻っていく。

 そんな莉子の背に、真凜の声がさる。

「莉子! あんたはそれでいいわけ?」

 真凜の問いかけに一瞬、足を止めた。けれど、莉子の手をギュッとにぎりしめると染井は真凜の言葉を無視して歩き続けた。莉子もその手に導かれるまま、染井の席へと向かった。

 染井の席の周りには、何人かの男子たちの姿があった。突然、莉子を連れてきた染井に対して少しおどろいたような表情を浮かべていた。

 それもそうだろう。普段、ほとんど女子と話すことのない染井が、突然女子の手を引いて自分の席に連れてきたのだ。驚くなと言う方が無理だろう。

 けれど、それでもからかうこともなく、自分たちのグループに仲良くもない女子が交じることに対していやな表情を浮かべることもなく「おかえりー」とむかえてくれる姿に、染井の友人たちのひとがらの良さを感じた。……それから、そんな友人たちがいる染井に対しても、案外いい人なのかもしれないと少しだけ印象が変わった。

 染井は友人たちに莉子のことを特に説明することなく、当たり前のように自分の一つ前の席のを反対に向けると、自分と向かい合うようにして莉子を座らせた。この席は、誰の席だっただろうか。勝手に座っていても大丈夫なのだろうか。不安に思う莉子に「大丈夫だよ」と染井は優しく言った。

「そこの席のやつ、今日休みだから」

「そうなの?」

 莉子が尋ねると「な?」とかくにんするように周りの男子に声をかける。男子たちは染井の言葉におかしそうに顔を見合わせた。

「そ。昨日の放課後、木登りしてて落ちてさ。今日は病院に行くらしいよ」

「バカだよな」

「骨は折れてないといいけど」

「木に引っかかった風船なんて放っておけばいいのにさ」

 男子たちは休んでいるという友人に対してするような言葉を投げながらも、こわいろはどこか心配そうだ。口では心配しながらも実際、腹の中では笑っている真凜たちとは正反対だ。

 友人、というのはきっとこういうあいだがらのことを言うのだろう。であれば、真凜たちと莉子はどういう関係だったのだろう。考えれば考えるほど気持ちが重くなる。

「にしても、女子ってこえーのな」

「聞こえるぞ、はら

 井原と呼ばれた男子が、莉子の頭上しに教室の前方に視線を向け肩をすくめる。

「だってさ、さっきからずっとこっちにらんでんの。で、ぼくが向こう見たらにこって笑うんだぜ。なにあの使い分け。ホント怖いんだけど」

「うちも姉ちゃんいるから知ってるけど、女子は怖いよ」

そうのみーちゃんもあんなかもしんないぞ?」

「みーちゃんは違うから! 絶対!」

 颯太、と呼ばれた男子は慌てて否定する。話についていけない莉子に、染井は小さく笑った。

「こいつ、うち颯太。わかる?」

「え、それ僕の前で聞いちゃう? わかんないって言われたら泣くよ?」

「えっと、あの、うん。わかるよ。大丈夫」

「よかったぁ」

 木内はホッとしたようにその場にしゃがみむ。その態度がみように可愛くて思わず笑ってしまい慌てて口元をさえる。気を悪くしていないだろうか。

 けれど、不安がっているのは莉子だけで周りははばかることなく木内を笑っていた。

「で、さっきのみーちゃんってのがうえのこと」

 言われてようやく、みーちゃんが誰かわかった。上野はるは、別のグループの女子だ。明るくてよく笑う印象がある。一度真凜が「美術部じゃなかったらうちのグループに入れてあげたのに」なんて言っていたのを覚えている。

 そうか、上野は木内と付き合っていたのか。教室で一緒にいるところを見たことがないから気付かなかった。

 話を聞くと、彼女がいるのは木内だけで他の二人、井原とおおしろにはいないらしい。染井だけでなく三人も莉子をじやけんにすることなく、かといって気をつかっている感じでもなく、自然に接してくれる。

 女子とは、真凜たちとは違う空気感にホッとする。それと同時に、背中に感じ続けている視線が気になる。先程、井原も言っていたけれど、今もなおこちらを見ているのだろうか。それは莉子のことを気にして見てくれているということではないだろうか。

 あいあいと話す染井たちと一緒にいると、ホッとすると同時に不安がおそう。このままでは本当に莉子は居場所を失ってしまうのではないか。ぬるま湯のような優しい場所を知ってしまえば、もうあの場所に帰れなくなる。ううん、絶対に帰りたくなくなってしまう。

 莉子は不安と期待をめて、背中に感じる視線の先にいるはずの真凜たちを振り返った。

 目が、合った。けれど真凜はまっすぐに莉子を睨みつけると、そのまま顔をそむけ隣にいたがわに話しかけた。もう莉子のことなんて眼中にないどころか、存在すらしていないものとしてあつかうように。

 その態度に、今さらもう戻ることはできないのだと改めて思う。これじゃあのときと同じだ。いや、あのとき明日音には莉子がいた。莉子には誰もいない。

 もうこのクラスに。莉子の居場所は──。

「見なくていいよ」

 真凜たちの方を見たまま固まった莉子の目を、染井は後ろから右手でかくしをするようにしてふさいだ。視界が真っ暗になる。けれど、染井の手のひらから伝わってくるぬくもりのせいか、そのくらやみは不思議と怖くなかった。

 指先の毛細血管が脈打っているのを感じる。そのどうの音は莉子のものよりもずいぶんと速く感じた。

「見てもいいことない、というか見ない方がいい。わかった?」

 念押しするように言う染井に莉子は静かにうなずく。手のひらに導かれるようにゆっくり染井の方へと向き直る。完全に後ろが見えなくなった頃、ようやく染井の手が莉子の目から離れた。

 木内たちは目を開けた莉子を心配そうに見ていた。

「大丈夫? あんなの忘れた方がいいよ」

「それにしても。ほんっと、女子って怖いよな」

「女子でひとまとめにしちゃだめでしょ。みーちゃんとかりこちんみたいな子もいるわけだし」

「りこ……ちん?」

 聞き慣れないあいしように戸惑い聞き返してしまう。けれど木内は逆に莉子の態度こそ不思議だという顔をして首をかしげた。

「え、りこちんって呼んじゃだめ?」

「ダメというか、そんなふうに呼ばれたことなくて」

「可愛いでしょ、りこちんって呼び方。リコピンみたいで。あ、可愛いといえばりこちんのスマホのストラップのうさぎ可愛いよね」

 木内の言う『可愛い』の基準がよくわからない。リコピンって聞いたことあるけどなんだっただろうか、なんて考えているうちに、当たり前のように他の二人からも『りこちん』と呼ばれていた。ストラップの話題からスマホの最新機種の話題へと移り変わっていくのを、莉子はついていけずにただ見つめていた。

 愛称を付けられることが嫌なわけではない。けれど、今までこんなふうな呼ばれ方をしたことがなかったので少しだけ戸惑ってしまう。

 それでもそこに悪意はなく、ただただじゆんすいに莉子へのこうしか感じられなかった。

「ここにいればいいよ」

 違う話題に移り、話をする木内たち三人をよそに染井は莉子に言う。

おれのそばにいればいいって言ったでしょ」

 優しい口調で言われると、どうしてか泣きたくなった。泣けないのに、なみだなんて一つぶも流れ落ちないのに。

 感情がぐちゃぐちゃでどうしていいのかわからない。しんけんに受け止めるのも怖くて、莉子はへらっとした笑みを浮かべた。

「な、何言ってんの」

 嬉しい。ううん、嬉しくない。嬉しいなんて言わない。

 だって染井は莉子を好きなわけじゃない。ただ自分のことを好きにならない相手がしかっただけだ。なのに嬉しいなんて思いたくない。

 だって──。

「私のこと、好きじゃないくせに」

「そうだよ、知ってるでしょ」

 さらりと言われた言葉に、ついいらつく。何がそんなに苛つくのかわからないけれど、表情を変えることのない染井に何か言いたくて仕方がなかった。

「知ってるよ。……でもそばにいればいいなんて言ったって、死んだらそばになんていられないじゃん」

 言ってしまってから冷静になって、莉子は慌てて口を押さえた。このことは、他の人には秘密のはずだ。自分の感情をぶつけることに必死で、木内たちがそばにいることを忘れてしまっていた。どうしよう、聞かれてしまっただろうか。

 そっと顔を上げて木内たちの方を見る。幸い、話に夢中になっていて、莉子の声なんて聞こえてはいないようだった。

 ホッとして、染井の方を向く。きっといつもみたいに笑ってると思っていた。「まあ、そうだね」なんてすずしい顔で言って。それで……。

 けれど、莉子の目の前で染井はつらそうに顔をゆがめた。辛くて、苦しくて仕方がないとでも言うかのように。こんな表情の染井は今まで見たことがなかった。

 どうしてそんな顔をするのかわからない。ただ莉子が、染井を傷つけたということだけは、痛いほどわかった。

「……そう、だね」

 先程までの表情をスッと消すと、染井はいつものようにやわらかな笑みを浮かべた。ごめんとあやまるべきなのはわかっている。でも、染井の空気は莉子が謝ることを許さなかった。

 染井は笑顔のはずなのに、空気が重い。重く、苦しい。

 せっかく作ってくれた居場所を、自分でこわしてしまった。優しい空気もあたたかいまなしも、自分で壊した。

「どうかしたの?」

 無言になった莉子と染井に気付いたのか、木内が不思議そうに首をかしげる。

 染井が「なんでもないよ」と言うのと、教室に担任が入ってくるのが同時だった。

 結局、何も言うことができないまま、莉子は自分の席へと戻るしかなかった。


 その日、染井はりちに休み時間になるたびに莉子の席までやってきた。そのたびに謝ろうと思うのだけれど、木内や井原、大城といった面々の誰かが一緒にいて、二人きりになることができなかった。次こそは、次の時間こそは。そう思うのに、結局謝れないまま気付けば昼休みになっていた。

 昼ご飯も、上野と食べるという木内以外の三人と一緒に食べることになった。染井の一つ前の席に座り机を後ろに向ける。井原と大城も同じように机を向けるとそれぞれ弁当だったり買ってきたパンだったりを並べた。

 莉子も持ってきた弁当箱を開ける。朝少しそわそわしながらんだ、いつもより多めのおかずが見える。

 じようだんでも「食べる?」なんて聞くことはできず、無言のままそれを口の中にんでいく。

 昨日の夜、美味しく食べたはずのハンバーグは、まるで砂をんでいるかのように何の味もしなかった。

 別に、染井に無視をされているわけじゃない。つうに話しかけてくれるし優しくほほんでいる。けれどその言葉に、笑みにきよを感じる。

 やっぱり一度きちんと謝ろう。放課後、きっと一緒に帰ろうって言ってくれるはずだから、二人になったらそのときは謝って、それで──。

 莉子はホームルームが終わり、席を立つことなく染井を待った。

 視界の端で染井が荷物を持って立ち上がったのが見える。一歩、また一歩と莉子へ近づいてくる。心臓が痛いぐらいにうるさい。

「ごめん」って言うだけなのに、どうしてこんなにもきんちようしているのだろう。

 染井が近づいてくるのに気付いていないふりをしながら、莉子は帰る準備をする。そして、染井が莉子のすぐ後ろに立った。けれど──。

「じゃあ、また明日ね」

「えっ……」

 当たり前のように莉子のそばを通り過ぎようとする染井に、莉子は思わず声を上げた。自分を見上げる莉子に染井は不思議そうに首をかしげる。

「どうかした?」

「えっと、あの、もう帰るの? このあと何か予定があるとか?」

「ああ、うん」

 表情を変えることなく、ただ少し辺りを見回してから染井は莉子にだけ聞こえるぐらいの小声で言った。

「今日、病院なんだ」

「あ……」

「だからまた明日ね」

 引き留める間もなく染井は立ち去っていく。謝ろうと思っていたはずなのに、小さくなる後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 莉子は染井の背中が見えなくなるまでその場から動けずにいた。

 ようやく席から立つことができたのは、染井の姿が見えなくなって五分以上ってからだった。周りのけんそうをどこか遠くに聞きながら、莉子はろうを歩く。

「いたっ」

「あ、ごめーん」

 クスクスと笑いながらぶつかってきた人に見覚えはなかった。もしかしたら上級生なのかもしれない。

 ぶつかられて痛む肩を押さえながら莉子はとぼとぼと歩き出す。以前は当たり前のように一人で歩いていた道のりなのに、なぜだか心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになるのはどうしてだろう。隣に染井がいないことを、妙にさびしく感じるのはどうしてだろう。


 翌朝、いつものように準備をして学校に行くため玄関に立つ。この数日も朝、学校に行くときは気が重かった。けれど、今日はよりいっそう重い気がする。ううん、気のせいじゃないのはわかっている。染井のことを考えるとむねおくがずんと重くなる。

 自分が悪いのなんて百も承知だ。昨日、本当はちゃんと謝りたかった。謝るべきだったのだ。

「はぁ」

 莉子がため息をくよりも早く、すぐそばで別のため息の落ちる音が聞こえた。振り返ると、そこには暗い顔をした夕雨の姿があった。

「どうしたの? 元気ないけど」

「……別に」

「熱でもある? 具合悪い?」

「……ちょっとしんどい」

かな。今日は休んでおく?」

 今日はたしか、母親は夜勤のはずだから日中は家にいるはずだ。夕雨のことを病院に連れて行ってもらうことも、病院に行くほどじゃなければとりあえず家にいて様子を見ていてもらうこともできる。

 授業が終わってすぐに家に帰れば、一人にさせる時間は一時間ほどだからなんとかなるだろう。

 今日の予定を考えていると、莉子のスカートのすそを夕雨が引っ張った。

「夕雨?」

「……ごめん、ウソ」

うそ?」

「うん……。具合悪いって、ウソなんだ。ごめんなさい……」

 謝る夕雨の顔は真っ青だった。具合が悪いのでなければ、心理的な理由だろうか。そういえば、昨日はめずらしく晩ご飯を残していた気がする。自分のことで精一杯で気にかけるゆうはなかったけれど、もしかしたら何かあったのかもしれない。

 莉子は玄関の段差にこしをかけると、夕雨の隣に並んだ。

「そっか。じゃあ元気なんだね?」

「うん……」

「ならよかった」

「え?」

 莉子の言葉に、夕雨は驚いたように言うと顔を上げた。

「怒らないの?」

「何を?」

「ウソついたこと」

 不安そうな表情で見つめる夕雨の手を莉子はそっと握りしめると、優しく微笑みかけた。

「怒らないよ。だって夕雨は噓をつくことが悪いことだってわかってるでしょ。それでもつこうとしたってことは、その噓は夕雨にとって必要な噓だったんだよ」

「僕にとって、必要な、ウソ」

 夕雨は莉子の言葉をかえすと、何かを思い返すかのように目を閉じた。そして。

「僕ね、ともくんとケンカしたんだ」

「ともくんと?」

 それは保育園から付き合いのある夕雨の幼なじみの名前だった。ぜろさいクラスから一緒にいるため友人というよりは兄弟のように育ってきた。いつだって仲良しで、一年生になったときも「ともくんが一緒なら安心だね」と母親とも言っていたのだけれど。

 しょんぼりとしたまま夕雨は莉子の隣にひざかかえるようにして座った。

 小学生になって大きくなったような気がしていたけれど、こうやっていると小さくて可愛いままだ。

「そっか。それで学校に行きたくなかったんだね」

「うん……」

「ちなみにけんの原因は?」

「……言いたくない」

 言いたくない、か。

 そういうこともあるだろう、と思うと同時に、理由がわからなければ解決のしようがなくて困ってしまう。

「でもね、ともくんが悪いんだ。僕は悪くないよ。だから」

「そうなの? ともくんだけが悪いの? 夕雨は何も悪くないの? 絶対?」

 莉子の言葉に、夕雨が言葉に詰まったのがわかった。

 膝に額をつけるようにして俯く夕雨に莉子は優しく話しかける。

「喧嘩にね、どっちかだけが悪いなんてことはないんだよ」

「……でも」

「それが友達同士ならなおさらだよ。夕雨は本当に何も悪くない? ともくんに何か嫌なことを言ったり悪い言葉を使ったりしなかった?」

「…………し、た」

 消え入りそうな声で、夕雨は言う。ぎゅっと膝をき小さくなった夕雨の頭を莉子は優しくでた。

「ちゃんとともくんと話をした方がいいよ」

「でも、もう許してくれないかもしれない。怒ってて僕のことなんてきらいになったかもしれない!」

 初めての喧嘩に、どうやって仲直りをしたらいいのかわからないのだろう。そしてそれはきっとともくんも同じだと莉子は思う。それなら。

「いいこと教えてあげよっか」

「いいこと?」

「そ。喧嘩したときはね、仲直りをするためには謝らないといけないの」

「何それ、当たり前じゃん」

 くちびるとがらせる夕雨に莉子は小さく笑った。

「そ、当たり前。でも、今の夕雨はそれができてないでしょ」

「あ……」

「仲直りはね、したいなって思った方がしようとしないとできないんだよ。このままともくんとずっと喧嘩したままで夕雨はいいの?」

「……やだ」

「じゃあ、勇気出さなきゃ」

 一瞬の躊躇ためらいのあと、頷いたかと思うと夕雨は立ち上がりくついた。

「僕、ともくんに謝ってくる! いってきます!」

「あ、夕雨! ランドセル!」

「忘れてた!」

 莉子の言葉に慌てて靴をてリビングへと戻ると、ランドセルを背負ってけてくる。

 そして「いってきます!」と言い残し家を飛び出していった。

 きっと夕雨とともくんなら大丈夫だろう。莉子は二人のいつもの姿を思い出し小さく笑う。多分放っておいてもそのうちあの二人なら仲直りしたと思う。それでも夕雨のしょんぼりとした顔を見たくなくてつい余計なことを言ってしまった。

「仲直りするためには謝る、か」

 自分のことをたなに上げて、よくもまあえらそうに言ったものだとちよう気味に笑ってしまう。夕雨にはあんなふうに言ったくせに、自分は今もこうやって謝らないまま逃げているというのに。

 本当はわかっている。これが夕雨とともくんとの間に起きた喧嘩よりももっと単純でもっとたちが悪いってこと。

 莉子と染井の間に起きたのは喧嘩ではない。莉子が一方的に染井を傷つけた。ただそれだけだ。

 言ってはいけない言葉を言った。それなのに、謝ることもせず挙げ句の果てに……。

「最悪」

 自分が悪いと言いつつ、染井に責任てんしようとしている自分に気付いてしまう。全て人のせいにして逃げているだけじゃないか。

 本当は勇気が出なかっただけだ。傷つけたことはわかっていたのに、謝る勇気が出なくて、逃げて逃げて、それできよぜつされた。

 結局、明日音を失ったあのときから莉子は何一つとして成長していないのだ。自分に甘く、都合の悪いことや嫌なことから逃げているだけ。こんなんだから、誰もかれも莉子のそばからいなくなるんだ。

「……謝らなきゃ」

 もしかしたら染井はもう許してくれないかもしれない。昨日のように上辺だけで笑ってくれることはあっても、一昨日二人で展望台に行ったときのように心の内を見せてくれることはもうないのかもしれない。

 それでもきちんと謝りたい。傷つけたことを謝って、それで。

 莉子はカバンと、それからかみぶくろを手に持って立ち上がると玄関のドアを開けた。もう足は、心は重くなかった。

「……え?」

 一瞬、何が起きているのか理解できなかった。莉子が玄関を出て門の外へと向かうと、そこには当たり前のように塀にもたれかかる染井の姿があった。

「おはよ」

「おは、よ」

 染井は当たり前のようにあいさつをして「行こうか」と歩き出す。あまりにも昨日と同じで、ひようけしてしまう。もしかして怒っていると思ったのは莉子の気のせいだったのだろうか。もしくは昨日は怒っていたけれど一晩たら怒っていたことを忘れてしまうタイプ、なのだろうか。

 ──それならもう、このままでもいいのかもしれない。

 一瞬、そんな考えが頭を過った。けれど、そんなことを思ってしまう自分が情けなくて腹立たしくて、大っきらいだ。

 ──変わりたい。

 今みたいに何かから逃げるのではなく、向き合える自分になりたい。染井に、きちんと謝りたい。

「……染井!」

「ん?」

 莉子の呼びかけに、染井は振り返る。口元は優しく微笑んでいたけれど、その目は莉子が何を考えているのかさぐるように見つめていた。

 一瞬、たじろぎそうになるものの、小さく息をみまっすぐに見つめ返す。そんな莉子に、染井が真顔に戻ったのがわかった。

「あの、ね」

「……うん」

「えっと、私……」

 怖い。

 きちんと自分の感情を人に伝えるというのはこんなにも怖いものだっただろうか。夕雨にあんな偉そうなことを言ったのに、まっすぐに謝りに行けた夕雨の方が莉子よりもずっとしっかりとしているじゃないか。

「……っ」

 ぎゅっとスカートを握りしめると、莉子は頭を下げた。

「ごめんなさい」

「…………」

「昨日、あんなこと言って、ごめんなさい」

 声がふるえないように必死だった。固く握りしめすぎたせいでスカートがしわになっているのが見える。それでも手を離すことはできなかった。

 染井は莉子の目の前でだまったままくしていた。染井が何も言うことなく莉子を見つめているこの時間がまるで永遠のように長く感じられた。

「……いいよ」

「あ……」

 その声色が優しくて、莉子は思わず顔を上げた。そこには優しいひとみを向けながら微笑み、莉子を見つめる染井の姿があった。その姿に思わずれてしまう。

 染井は、こんな顔をしていたのだろうか。顔なんて何度も見たことがあるはずなのに、今まで見ていた染井とは違って見える。

「莉子?」

「あ、え、えっと」

 あまりにも見つめすぎたせいか、染井は不思議そうに首をかしげる。ずかしさから慌てて目をらすと、莉子は歩き出そうとして思い出した。カバンに入りきらずに手に持ったままになっていた、紙袋の存在を。

「……っ。これ!」

 ぐっと握りしめた紙袋を染井から顔を背けたまま差し出した。「へ?」という間のけた声が莉子の目の前から聞こえてくる。

「くれるの?」

「……うん」

「俺に? え、ちなみに中身見てもいい?」

 少しこうようしたような染井の言葉に、莉子は黙ったまま頷く。莉子の手から紙袋を受け取った染井は中を見たのか、すぐそばから息をむような音が聞こえた。

「弁当……? 俺のために?」

「ち、違うから! これは! 今日のはその、おびのために作っただけで、別に染井のためとかそういうんじゃ……」

「今日のはって、もしかして昨日も作ってくれてたの?」

「ちが……っ。い、今のは言葉のあやで……」

 必死に否定する莉子の目の前で染井は優しく微笑む。その笑顔に心臓がはやがねのように打ち続けるのを隠そうと、莉子は「ほ、ほら。急がなきゃこくしちゃうよ」と、ごまかすように言って歩き出す。そんな莉子の背後から染井のしたような笑い声が聞こえた気がしたけれど、気付かなかったふりをして莉子は歩き続けた。

「待ってよ、一緒に行こうよ」

 莉子を追いかけると、染井は並んで歩き出す。隣に染井がいる。それをこんなにもここよく感じるなんて、どうして……。

 自分の中に芽生え始めた感情の正体に、莉子はまだ気付けずにいた。


 教室の空気は相変わらず最悪だった。莉子たちが教室に入った瞬間、にぎやかだった教室は静まり返る。そして真凜たちの様子をみんなが窺うのだ。

 莉子の存在をないもののように扱う真凜たちに逆らいたくない。そんな空気を感じる。

 それでも染井は莉子のそばにい続けてくれた。休み時間ごとに莉子の席まで話しかけに来たり、用事を作ったりしては莉子を呼んだ。

 ──でも。

「女子は体育館、男子は運動場だって」

 三時間目が終わり、次の体育のために移動しなければ、そう思っていると、体育教師に確認に行った生徒が指示を伝えた。

 染井は心配そうに目の前に座る莉子を見た。

「大丈夫?」

「う、ん。まあ、大丈夫」

「ごめんね」

「なんで染井が謝るの。体育は男女別なんだから仕方ないよ」

 そう、仕方ないのだ。こればかりは、いくら染井でもどうしようもない。

 体育は他の授業とは違い、ペアで何かをすることが多い。準備体操もそうだし、例えばバレーならレシーブの練習を、たつきゆうならラリーを二人一組で行う。

 真凜たちのグループは幸いにもぐうすうだったから莉子があぶれることは基本的にはなかった。たまたま誰かが休んでいたりして三人組になることはあったけれど、それでも誰とも組むことができず独りぼっち、ということはなかったのだ。

 けれど。

「それじゃあ、ペアを作れー」

 体育教師の呼びかけで、女子たちはペアを作っていく。男子はどうかわからないけれど、女子はこういうときいつもの人と一緒になる。つまり、グループからはじき出され一人あぶれた莉子が入る余地などないのだ。

 莉子があぶれたということは、偶数だった真凜たちのグループにも一人あぶれた人がいるのでは、そう思い真凜たちの方へと視線を向ける。

 バスケットゴールの下で何かを話しながら集まっている真凜たちは、当たり前のような顔をして二人組と三人組に分かれていた。まるで最初からそうだったとでもいうかのように。

 結局、独りぼっちなのは莉子だけだ。

 そうこうしている間に、全員がペアになれているか確認するかのように見回っていく体育教師の姿が目に入った。

 このままでは莉子が一人でいることに気付かれてしまう。そうなればあの体育教師のことだ。「誰かはしと組んでやる人はいないのかー」なんてデリカシーのないことをみんなの前で言うに決まっている。そんなみじめなことはけたい。

 なんとか体育教師の視線からのがれようとすみに移動する。このまま具合が悪いことにでもして保健室に行ってしまおうか。そんな考えが頭を過る。誰も莉子を守ってくれないのだ。自分自身で守るしか──。

「三橋さん!」

「え?」

 誰かが莉子の名前を呼びながら肩をトントンと叩いた。振り返ると、そこには木内の彼女、上野美春の姿があった。

「えっと、何?」

「あのね、三橋さんペアいなかったりする?」

 上野の言葉にぐっとのどおくが鳴った。同情、されているのだろうか。

 せめて何か言わなければ、そう思って顔を上げると上野がくりっと丸い目で莉子を見つめていた。

 この視線に、莉子は覚えがあった。

 染井が真凜たちのグループから莉子を連れ出してくれたとき、木内たちは莉子のことを拒絶しないでいてくれた。あの態度にどれほど莉子が救われたか。そうだ、あのとき。あのときの木内もこんなふうに莉子を見つめていた。

 今の上野と同じように悪意の欠片かけらもなさそうな目で。

 莉子は小さく息を吐くと、上野に向き直った。

「そう、だけど。どうかした?」

 莉子の返事に上野は少しだけ安心したような表情を浮かべた。

「よかったー。私もね一人なの」

「え? でもいつもは……」

「うん、いつもはあんずちゃん──あいかわさんと組んでるんだけど、今日休みなんだ。だから三橋さんと一緒に組めたらと思って。どうかな?」

 そうか、欠席は上野と仲がいい子だったのか。それで莉子に声をかけてくれたようだ。

 ほっとして、それから『ありがとう』と伝えようとした莉子の声を遮るように、真凜の声が聞こえた。

「あ、いたいたー。ねえ、上野さん。今日相川さん休みでしょー? うちらも一人足りなくて、よかったら一緒にしないー?」

 真凜は莉子にいつさい視線を向けることなく上野に話す。まるで莉子などそこに存在していないとでも言うかのように。

「っ……」

 莉子は口をきゅっと結んだ。このじようきようで莉子を選ぶことに何の得もないことはいちもくりようぜんだ。クラスの中でもリーダー格である真凜たちのグループと、そのグループから飛び出しぼっちになった莉子。どちらと一緒にいるのがいいか、なんて小学生でもわかる。

 自分を選んでもらえるわけがないし、そもそもこの状況で莉子を選んだりしたら声をかけてくれた上野にめいわくがかかる。

 やはり保健室に行こう。おなかが痛いとでも言って体育の授業中休ませてもらおう。そう決めて上野からそっと離れようとした莉子の腕を、上野がぎゅっと摑んだ。

「え……」

「ありがと。でもね私、『りこちん』と組むから大丈夫だよ」

 そんなふうに呼んだことはないはずなのに、わざとらしく莉子をニックネームで呼ぶ。まるでそこに真凜の入る余地はないのだと言うかのように。

 周りにも聞こえるほどの声で上野が言うと、真凜だけではなく体育教師も莉子に視線を向けた。

「お、三橋と上野が組むんだな。よーし、全員組む相手が見つかったようだから始めるか」

 辺りをざっと見回して言った体育教師のはりきったような声が、体育館にひびいた。

 さすがに真凜たちもその状態で反対するのは気まずかったのか、視線を逸らすと莉子たちから離れていく。

 他のグループが準備体操をし始めたのを見て、上野は莉子に声をかけた。

「それじゃあ、私たちも始めよっか」

「う、うん」

 背中を上野と合わせて腕を組むと、莉子は身体をかがめる。背後で上野が「あわわわわ」なんて声を出すから思わず笑いそうになる。

 次は反対に莉子の足が浮き、上野の背中に乗せられた。

「あの、さ」

「え? どうかした? あ、もしかして背中痛い? 大丈夫?」

 体育館のてんじようを見上げながら莉子が声をかけると、上野は慌てたように言う。後ろに気を取られすぎたのか、その瞬間上野の身体がぐらつき、その場にくずちそうになる。

「……セ、セーフ」

「や、全然セーフじゃないでしょ」

 幸いにも落ちる前のタイミングで莉子が背中から飛び降りたのでだいさんは避けられた。あのまま崩れ落ちていれば上野はをしていたかもしれない。上野は「失敗、失敗」と笑っているけれど、莉子は同じように笑うことはできなかった。

「あの、えっと……」

「どうしたの?」

 莉子が立ち尽くしたままでいるのに気付いた上野は、不思議そうに首をかしげる。その表情がなぜか木内と重なっておかしくなる。

 長い時間一緒にいるとふうは似てくる、なんていうけれど付き合っていても似てくるものなのだろうか。で、あれば莉子と染井もそのうち……なんて思って、自分の思考に笑ってしまう。似てくるほど一緒にいることのない期間限定のこいびとである上に、そもそも本当の恋人ですらないのだ。似てくるなんてことはない。

「三橋さん? 大丈夫? 具合でも悪い?」

「あ、えっと」

 いつまでも話し始めない莉子を心配したのか、上野は不安そうに莉子を見る。慌てて意識を目の前の上野に戻した。

「違うの。あの、さっきはありがとう」

「さっき?」

「ほら、真凜の……」

 真凜の名前を出すと、上野は「ああ……」と小さく笑う。

「私ね、真凜ちゃん苦手なんだー」

「え?」

 立ち尽くして話し続けている莉子たちを、前方から体育教師が睨みつけているのに気付いて上野は莉子の手を取り体操をしているふりをする。

 莉子は上野を意外な気持ちで見ていた。真凜のことを好きではない子がいるのはわかっている。それでも、クラスの中で明らかに真凜はリーダー格だ。いわゆるカースト上位、上位どころかトップに君臨してさえいる。

 そんな真凜のことを、いくら真凜のグループを追い出された莉子相手とはいえ、こんな周りに人もいて聞かれてしまいそうなところでハッキリと『苦手』なんて言えるのか。

「だから私が向こうのグループに交ざりたくなかっただけだから気にしないで」

「そう、なんだ」

「まあそれだけってわけじゃないんだけどね」

「それだけじゃないって?」

 準備体操も終わり、体育教師が集まるように言う。今日はバドミントンをするとのことでそのまま上野と一緒にラケットを取り、自然と二人で打ち合いを始めることになった。

 少し離れたところから真凜たちが莉子を指さしながら何かを言っているのに気付いたけれど、なるべくそちらに意識を向けないようにした。

 上野は少しもたつきながら、シャトルを投げる。どうやらバドミントンは得意ではないようで、く打てなかったシャトルは莉子のところまで届くことなく落ちた。

 えへへ、と恥ずかしそうに笑う上野に、莉子はラケットでシャトルを打った。放物線をえがいてシャトルは上野のもとへと飛んでいく。上野がそれをなんとか打ち返すと、どうにかラリーが続きだした。

「えっと、なんだっけ」

「だから、それだけじゃないってどういうこと?」

 何度かラリーを繰り返したあと、ようやく少し慣れてきたのか上野は口を開く。ただ視線は必死にシャトルを追いかけている。あんなに上ばかり見ていたらそのうちけるのでは。そんな不安が過るけれど、案外器用に上を見たまま足を動かし続けていた。

「それねーふふ、えっとねー」

 小気味いい音を立ててシャトルをラケットで打つと、上野は笑った。

「私が三橋さんと話をしてみたかったから」

「私と? いったいどうして……」

「あ、あとついでに『りこちんをよろしく!』ってそうちゃんに言われたし」

「りこちん……そうちゃん……」

 その単語に、ニコニコと笑う木内を思い出す。まさかそんなことを上野にたのんでくれていたとは思わず言葉に詰まる。そんな莉子を気にすることなく上野は話を続ける。

「そうちゃんが言うには──やっぱりないしよ

「内緒って……」

「気になる?」

「別に」

 全く気にならないと言えば噓になる。けれど、追及してまで知りたいと思うほど興味はなかった。

「残念。ね、三橋さんってはるくんと一緒のときもそんな感じなの?」

「はる、くん?」

 聞き覚えのない名前に今度は莉子が首をかしげる番だった。下の名前で呼ぶことのない莉子は、名字でしか男子の名前を覚えていなかった。

「え、三橋さん付き合ってるんでしょ?」

「誰と?」

「はるくんと」

 だから上野が驚いたように言うのを聞いて、ようやくそれが染井のことだとわかった。彼氏の名前も知らないだなんておかしいと思われるだろうか。どうごまかしたものかと思ったものの、ヘタにつくろってもボロが出そうで、結局莉子はなおに答えることにした。

「あー……。私、染井のこと下の名前で呼んだことなかったから忘れてた」

「ええ〓〓。絶対、下の名前で呼んであげた方がいいよ! その方が彼女って感じするし、はるくんも喜ぶよ」

 幸い、彼氏の下の名前を知らないということよりも、彼氏を下の名前で呼んだことがない、という方が上野にとっては重要だったようで、そちらに話題が移る。深くまれなかったことにホッとしながら、莉子は飛んできたシャトルを打ち返した。

「そうかな? そんなもん?」

「そうだよー! そうちゃんなんて初めて私が名前呼んだとき、顔を真っ赤にしてその場にしゃがみ込んじゃって。とっても可愛かったんだから」

 なんとなくその姿が想像つく。けれど、それは木内だからだ。染井が同じような反応をするとは思えない。そう言う莉子に「そんなことないよ!」と上野は力説する。力みすぎてシャトルが莉子の頭上をえて体育館の壁にぶつかった。

「ご、ごめん!」

「いいよ。で、そんなことないってなんで言い切れるの?」

「好きな子に名前を呼ばれて嫌がる人なんていないよ」

「好きな子、ねぇ」

 実際、本当に好きな子であれば喜んだかもしれないけれど、別に染井は莉子のことが好きなわけではない。なのに、莉子から「はる」なんて呼ばれれば「慣れ慣れしくするなよ」「お前は本当の彼女なわけじゃないんだぞ」そう思われかねないのではないか。

「それにほら、はるくんは三橋さんを莉子って呼んでるし」

「あー、まあそれはそうなんだけど」

「莉子って呼ばれるのやだ? 嬉しくない?」

「え……」

 嬉しいか嬉しくないか、なんて考えたこともなかった。染井は当たり前のように「莉子」と呼んでくる。きっと他の人ともそういう距離感なんだと思っていた。

「ちなみに私、そうちゃんとはるくんとは中学から同じなんだけど」

 上野はイタズラっ子のような表情を浮かべて莉子を見た。ああ、その顔。本当に木内とそっくりだ。

「はるくんが女の子を呼び捨てで呼んでるの、初めて聞いたよ」

「……うそ」

「こんなつまんないウソつかないよー。だいたいはるくんが女の子と名前呼びするぐらい仲良かったことなんて一度もないんだから」

 私だってそうちゃんと付き合ってなかったら、きっとはるくんなんて呼べなかったよ。笑いながら言う上野の言葉は莉子の耳には届いていなかった。

 だって、そんなこと。

 莉子は頭が上手く働かない。

 莉子のあしもとに、上野が放ったシャトルが落ちた。立ち尽くしたまま拾おうとしない莉子の代わりに、上野はそれを拾い莉子に差し出すと「ふふっ」と笑った。

「三橋さん、顔真っ赤だよ」

 上野の言葉に慌てて両手で自分の頰を押さえる。赤くなっているかどうかはわからないけれど、頰が熱い。

 いったいどうしてしまったんだろう。

「はー、りこちん可愛いなぁ」

「可愛くないよ! ……ってか、今りこちんって言った?」

 先程までの『三橋さん』から木内同様『りこちん』呼びに変わっているのに莉子は気付いた。莉子の問いかけに上野は笑う。

「あ、気付かれちゃった。そうちゃんがいつもそう呼んでるから私もつい移っちゃって。今日、何回りこちんって呼びそうになって三橋さんって言い直したか」

 そういえば真凜に対して莉子のことを言うときも『りこちん』と言っていた気がする。言い直したのには気付かなかったけれど、普段はそう呼ばれていたのか、と思うと少しだけ胸の奥がふわふわとした気持ちになる。

「ね、私もりこちんって呼んでいい?」

「べ、別にいいけど」

「やった。私のこともみーちゃんか美春って呼んで」

「……そのうち、ね」

 みーちゃんと呼ぶのはさすがにずかしいけれど、気が向いたら『美春』と呼んでみるのもいいかもしれない。不思議とゆるむ頰をめながら、莉子はラケットを握り直した。

 そのあとも上野──美春と他愛のない話をしながらラリーを続けた。気まずい時間になるかと最初は思っていたけれど思ったよりも会話ははずんだ。

 ──楽しい。

 そんな感情がわき上がる。今までずっと真凜たちに固執ししがみついてきた。真凜たちといなければ一人になってしまうとおもんでいた。けれどもしかしたら、莉子がそう思い込んでいただけで、周りを見回せば違う景色が広がっていたのかもしれない。

 美春と過ごす時間は莉子にそんな考えを抱かせた。

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