2-2
くしゅん、という音が聞こえた気がして莉子は目を開けた。その音が自分のくしゃみの音だと気付いたのはゆうに十秒は
いつの間にか
「あれ?」
ようやく莉子は自分の上にブレザーがかけられていることに気付いた。染井のもののようだけれど、当の本人の姿がない。どこに行ってしまったのだろう。
辺りをキョロキョロと見回すと、随分と遠くから歩いてくる染井の姿が見えた。
「あ、起きたんだ」
染井は両手にココアとコーヒーの
「どっちがいい?」
「……ココア」
「だと思った」
莉子にココアを
「そっちでよかったの?」
「もちろん。俺、
「私がコーヒーがいいって言ったらどうするつもりだったの?」
莉子の問いかけに染井は目を丸くする。
「え、莉子ってブラックコーヒー飲めるの?」
「……飲めないけど」
「でしょ。それに、莉子はココアが好きだから」
当たり前のように言うと缶コーヒーに口を付けた。その通りなのだけれど、言い切られてしまうと何で知ってるのと言いたくなる。……言わないけれど。
莉子も染井に
「……甘い」
ホッとする甘さが口いっぱいに広がる。残暑のような日差しがあったといえどそこはやはり十一月。秋風が吹く中で眠っていたせいで、思った以上に身体が冷えていたらしい。あたたかいココアは冷え切った身体を優しく温めてくれた。
ココアを飲み干すと、
染井も同じことを思ったのか「腹減った」と隣で呟いた。
「昼飯食べようよ」
「ここで?」
「そ。他にどこで食べるんだよ」
まあそう言われるとそうなのだけれど。
「それにさ、なんか遠足みたいじゃない?」
楽しそうに言うと、染井はカバンの中から
「……どうかした?」
ふと気付くと、染井は莉子のお弁当の中身をジッと見つめていた。そんなに変わったものは入れていなかったはずだけれど。莉子も自分のお弁当箱に視線を落とす。
卵焼きに
「それって、何入ってるの?」
染井が指さしたのは卵焼きだった。
「え、ほうれん草のソテーだけど」
「へー、卵焼きにほうれん草なんて入れるんだな。緑色が見えたから
「昨日の夕飯の残りだけどね。勿体ないから入れちゃった。意外と
「もしかして、自分で弁当作ってるの?」
「そう、だけど」
少し驚いたように言われ、莉子はおずおずと頷いた。
看護師をしている母親は夜勤も多く、必然的に晩ご飯と弁当は莉子の担当となっていた。弁当といっても晩ご飯の残り物を詰めることが多いのでそこまで苦ではない。なんなら、翌日の弁当分も合わせて作ってしまう日さえあるぐらいだ。それでも
莉子の話を聞きながら、染井はクリームパンを
「弁当かぁ」
「どうしたの?」
「や、随分食べてないなって思って。うち、母親と一緒に暮らしてないからさ」
「え、あ、そうなん、だ」
思いがけない言葉に
たしか、鼠動病の話を聞いたときに、両親を泣かせることが辛いと話していたはずだから死別ではないのだろう。
「そ。うち、俺が中学上がったと同時に両親が離婚してさ。俺は今、父親と一緒に住んでるの」
莉子の予想通りだった。「そっか」と返事をする莉子に、染井はふっと笑った。
「莉子ならそういう反応するだろうなって思ってた」
「どういうこと?」
「他の奴はさ、この話聞くと『まずいことを聞いた』って顔をして、それから『
染井の言葉に莉子は小さく頷く。こういうとき気を
母親の代わりにご飯を作っている、と知られたときに「可哀想に」と言われるのが嫌だったから。
莉子にとってはそれが当たり前で、家族として協力するのが当然だった。なのに、莉子の事情も気持ちも知らない人から勝手なことを言われるのは腹立たしく思うのだ。
「だからもう、他人には親が離婚したことは言わないようにしてるんだ」
「なんで私には言ったの?」
「莉子は彼女だからね」
本当の彼女でもないのに
「それにさ、離婚したっていっても母親も近くに住んでるんだ。だから会おうと思えばいつだって会えるしね」
「そうなんだ」
「そ。でもまあうちの母親、家事が
染井は昔を思い返すかのように少しだけ遠い目をしていた。その表情がどこか
「うちの父親、仕事が
「そう、なんだ」
「うちの母親は寂しがり屋で……心の弱い人だったんだ」
その
「人間にはさ、誰にも
「依存……」
思わず染井の言葉を
「そう。最初は、父親。でもその父親に相手にされなくなると、今度はその
「あ……」
「でもそれで家の中のバランスは保たれるようになった。父は仕事に向き合いたかったし、母は誰かから強く愛されたかった。結局、母が家を出る形になったけど、あの頃の
言い切る染井の表情は明るくて、強がりなんかじゃなく心の底からそう思っていることが伝わってきた。ベタベタとくっついているだけが幸せじゃない。
上辺だけ仲がよくても、心の中では
「そっか、じゃあ今の関係が染井たち家族にとってはちょうどいい距離感なんだね」
莉子の言葉に、染井は一瞬驚いたような表情を浮かべたあと嬉しそうに破顔した。その表情が、普段の染井が見せる表情とあまりにも違っていて、思わず莉子は視線を逸らす。動揺したのを
目の前でクリームパンの最後の一口を頰張る染井を見て思う。本当の彼女だったら
さっき一瞬見せた寂しそうな表情が妙に気にかかって、お
「……ね、一ついる?」
思わず聞いてしまったものの、染井の反応が怖くて俯く。けれどそんな莉子の不安とは対照的な染井の明るい声が聞こえた。
「え? いいの?」
その声に顔を上げるとパッと顔を
ホッとして頷くと、莉子は取りやすいように弁当箱を差し出す。染井は嬉しそうに手を
染井が卵焼きを頰張る姿に、莉子は九
最近は言われなくなったけれど、染井が食べている姿を見るとまた夕雨にも作ってあげようと思う。それにしても、こうやって食べているのを見ると──。
「可愛いなぁ」
「ばっ……げほっげほっ」
思わず口をついて出た言葉に、染井は
「ご、ごめん」
「いや、いい、けど。あービックリした。なに、可愛いって」
ようやく落ち着いたのか、まだ少し咳き込みながらも染井は尋ねた。一瞬、どう
「や、その、嬉しそうに卵焼きを食べている姿が弟と重なるなって思って」
「弟いるの?
「七歳」
「七歳……小学生と一緒かよ」
その口ぶりがどこか
けれどそれと同時に再び罪悪感が莉子を襲う。
──明日音も、卵焼き好きだったなぁ。
不意に思い出す。莉子がお弁当に卵焼きを詰めていくと「私にもちょうだい!」といつも一つ取って美味しそうに食べていた。その姿があまりにも嬉しそうで、お弁当を持っていくときは自然と一つ二つ多めに入れていくようになった。今はもうそんなことはないけれど。
自分だけがこんなふうに楽しく過ごしていいのだろうか。明日音はもうこうやって誰かと笑い合うこともできないというのに。莉子だけが楽しんでしまって、本当にいいのだろうか。
ぎゅっと口を結んで俯く。考えてもどうにもならないことだとわかっているけれど、それでもつい思ってしまう。あのとき自分が気付けていれば、手を
「……え?」
「何をする……んぐっ?」
その瞬間、莉子の口に何かが
「
「何それ」
染井の言葉に思わず笑ってしまう。けれど、染井はそんな莉子を優しく見つめていた。どうしてそんな目で見つめてくるのだろう。その視線が、莉子を妙に
「あの、えっと」
「どうしたの?」
何か言わなくては、と口を開くものの上手く言葉が出てこない。何か、何か……。ふと、自分の手の中に食べかけのメロンパンがあることに気付いた。
そういえば、これどうしよう。返した方がいいのか、いやでも食べかけを返すというのもどうなのか。それなら食べてしまう? 少し
自分の思いつきに、不安になる。もしかしたら
「あの、さ。えっと、メロンパン、ありがとう」
「ん? いいよ、メロンパンぐらい」
「や、でもこれ私が食べちゃったら染井、足りないんじゃない?」
莉子の言葉に染井は少しだけ困ったように頭を
ぎゅっと弁当箱を
「だから、その、
「交換? 何と」
「メロンパンと、私のお弁当を……」
だんだんと自分の声が小さくなっていくのがわかる。どんな反応をしているのか、知るのが怖くて染井の顔が見られない。
そのままの姿勢で固まっていると、頭上で染井がふっと笑ったのがわかった。
「食べていいの?」
「え、うん。交換してくれるの?」
「してくれるのったって、メロンパンとでホントにいいの? あとで返せって言っても返さないよ?」
「言わないよ!」
前のめりになる莉子に、染井は一瞬驚いたような表情を浮かべていたけれど、もう一度笑うと「んじゃ、もらう」と莉子の手の中にある弁当箱を受け取った。
染井はおかずの一つ一つを嬉しそうに頰張っていく。莉子はそんな染井の姿を見ながらメロンパンにかじりついた。甘くて優しい味が口いっぱいに広がる。
たしかに染井の言うとおり、甘い物を食べているときはネガティブなことなんて考えられない。甘さが脳内を幸せにしてくれる。
……そういえば。
莉子はふと、染井がメロンパンの前に食べていたのもクリームパンだったことを思い出す。甘いのが苦手でブラックコーヒーを飲んでいた染井のはずなのに、昼ご飯として買ったのがメロンパンにクリームパン? コンビニで買ったのであれば、
おにぎりを口に放り込む染井の姿をそっと盗み見る。もしかすると染井も、甘いパンでネガティブになりそうな気持ちをなんとか
苦手な甘い物を食べてでも、やがて来る死への
隣で莉子の作った弁当を幸せそうに食べる染井の姿を視界に入れないようにしながら、莉子は手に持ったメロンパンを口いっぱいに頰張った。
日中の暖かかった日差しが噓のように、冷たい風が身体を冷やす。あんなに高かった日は、ずっと遠くに見える山の向こうへと沈もうとしていた。
「もうこんな時間なんだな」
「ホントだね」
時計の針は、気付けば下校の時間を示していた。一日をこんなに短く感じたのは、そして放課後の時間を
「そろそろ帰ろうか」
「そう、だね」
染井の言葉に頷きつつも腰は重い。非現実のような今日から現実へと返ることを全身が
あの頃、明日音は毎日こんな思いをしていたのだろうか。「大丈夫?」 と口先で声をかけるだけで手を差し伸べることができなかった自分を恥じる。
当時の、中学生の頃の莉子にとって、明日音を助けることで自分たちのグループまで
それでも明日音を完全に一人にするのは
今ならわかる。あの頃の莉子はそうすることで自分の身を守りながら、明日音を気にかけている自分自身に
そんな優しさ、
「莉子、また暗い顔してる」
「あ、え、えっと、ごめ、ん?」
『ご』の発音で口を開けた莉子は、染井に何かを放り込まれた。
「チョコ?」
「そ。これから莉子が暗い顔するたびに口に入れようかな」
「やめて、太っちゃう」
「じゃあ笑ってなよ。ほら、こんなふうに」
染井は自分自身の頰を引っ張ると、口角を上げてみせた。
「…………」
「……ちょ、真顔にならないでよ。恥ずかしいじゃん」
無言のまま見つめる莉子の姿に、染井は頰を引っ張るのをやめると、恥ずかしそうに頰を染める。その様子が妙に可愛くて、つい笑ってしまった莉子に、染井は頭を搔くと、はにかむように笑いながら言う。
「莉子はさ、笑ってる方がいいよ。ね?」
「……考えとく」
莉子の言葉に
夕暮れ時の道のりを二人で歩く。行きはあんなにも気まずかった道のりなのに、帰りはどこか胸の奥があたたかく感じられるのはなぜだろう。
それはもしかしたら、隣を歩く染井との時間が思ったよりも楽しかったから、なのかもしれない。
そういえば──。莉子は一度二度と深呼吸をして思う。
呼吸をしても胸が苦しくならない。心臓の嫌なドキドキを感じない。高校に入ってから、ううん、明日音のことがあってからずっと感じていた息苦しさを今は感じなかった。
気付かれないように隣を歩く染井の顔を見上げる。認めたくない。認めたくないけれど、もしかしたら染井のおかげ、なのかもしれない。
今の私は、染井のことをほとんど知らない。これまで知る必要なんてないと思っていた。でも……。
──もう少し染井と話がしたい。染井の話が聞きたい。染井のことが、知りたい。
「どうしたの?」
隣を歩く染井に見つめられ、
「んー。染井はさ、
「まあ、ね」
「彼女を作ってどうしたかったの? どこか行きたいところとかしたいことがあったの?」
「うーん、そうだなぁ」
少し
「こんなふうにサボったり、デートもしたりしたかったなぁ。あ、友達とWデートとかもいいよね。みんなでどっか行ったりとか。俺の友達と彼女が仲良くなってくれたら嬉しいし」
「彼女と友達が?」
「そ。自分の好きな人と好きな人が仲いいのってなんか嬉しくない?」
と、そのとき莉子は自分自身の前提条件が
「莉子?」
「なんでもない! ほ、他には!?」
「他? 他かー、そうだなぁ。夏なら海に行きたかったかな。あとは──」
染井が向けた視線を追いかけると、そこにはゲームセンターなどが入った複合
「学校帰りにこういうところに来るのもいいなあ」
「あ、待ってよ」
言うが早いか、染井はどんどん中へと入っていく。どうするべきか一瞬悩んだけれど、おいでおいでと手招きをする染井のもとへ
染井が立っていたのは、入り口前に設置されている一回百円のクレーンゲームの前だった。中を
「こういうところにあるやつって、客引き用だから案外簡単に取れたりするんだ」
「へえ、そうなんだ」
「だから簡単に取られても
言われてみると、店内に置かれたクレーンゲームは最近
「あっ」
莉子は目の前のクレーンゲームの中に、見覚えのあるキャラクターのストラップがあることに気付いた。
「泣き笑いうさぎのティールだ」
思わず声を上げてしまったけれど、それも仕方がない。小学校高学年の頃、とても好きで集めていたキャラクターだった。『泣く』のtearと『笑う』のsmileを合わせてティール。同時期に流行っていたキャラクターに比べると知名度も人気もいまいちだったけれど、泣きながらも
「って、染井?」
莉子があまりにもストラップを見つめていたせいか、染井はクレーンゲームに百円を入れると、アームを動かし始めた。アームが向かう先にあるのは、先程の泣き笑いうさぎのティールだった。
「俺も昔、あのキャラ好きでさ」
「え? 染井が?」
驚きを隠せず、思わず声を上げてしまう。『このキャラクター好きなんだよね』と、小学校高学年の頃に明日音に言ったときでさえ『え、何このキャラ』と聞かれたぐらいだったのに。
けれど染井は莉子の言葉に、少し不快感を
「何その意外そうな声。俺が、ティール好きじゃ変? それとも男子がうさぎのキャラを好きだとおかしい?」
「え? なんで?」
染井の言葉の意味がわからず莉子はキョトンと間の抜けた表情を浮かべてしまう。男子がうさぎのキャラを好きでおかしい理由が莉子には全くわからなかった。
「別に男子が可愛いキャラを好きでも変じゃないし、逆に女子が
「……そっか」
その言葉が妙に嬉しそうに聞こえた気がしたのは、気のせいだろうか。
そんな話をしている間にも、染井の操作するアームは器用にティールについた商品タグを摑み、そして──。
「わっ、取れた!」
取り出し口に落ちてきたストラップを手に取ると、莉子の顔の前にぶら下げた。何年経ってもやはり可愛い。泣いている顔をしているのに愛らしくて、笑っているはずなのに切なくなる。相反する感情のはずなのに不思議だ。
染井がすんなり取れたのを見ると、自分にも取れそうな気がするけれど、
「ねえ、莉子。手、出して?」
「手? どうして?」
「いいから、ほら」
言われるがまま莉子は右手を染井へと差し出す。
「はい、これあげる」
「え……? で、でもこれ、染井も好きだったって……」
「昔の話だよ」
「じゃあ、なんで取ったの?」
「なんでだろうね」
頭の後ろで手を組んで飄々とした口調で言うと、莉子を置いて染井は歩き出す。手の中のストラップと染井の後ろ姿を見比べながら慌てて追いかける。
「待ってよ、これどうしたら……」
「だからあげるって。プレゼントってことで」
「もらえないよ。せめてお金……」
「いいじゃん、彼氏が彼女にプレゼントあげるの、変じゃないでしょ?」
そう言われてしまうと言い返すのも難しい。それでも莉子は必死に食い下がる。ここで引いて
「で、でもいくら彼氏だからって何でもない日に彼女にプレゼントしないでしょ」
「それは経験談?」
「違う、けど」
「ふーん? まあいいや。そういう彼氏もいるかもしれないけどさ、でも何でもない日だからこそ彼氏が彼女にプレゼントあげるのってよくない? 特別な日じゃなくても
言っている意味がわかるような、わからないような。けれどどこか楽しげな表情を浮かべる染井に、否定することも
無言で歩きながら手に持ったままのストラップに視線を落とす。ポケットからスマホを取り出すと、ケースの
「……ティールってさ」
「ティールってなんか、莉子に似てるよね」
「私に?」
思わず首をかしげた莉子に染井は頷く。
莉子はもう一度、スマホからぶら下がったストラップを顔の前に
『どこが似ているの?』と尋ねてみようかとも思ったけれど、その言葉は口から出ることなく
「家の前まで送るよ?」という染井の申し出を断ると、莉子は自宅から少し離れたところで染井と別れ一人帰宅した。この時間なら夕雨はもう帰っているだろう。今日、母親のシフトはどうだったか。たしか、今週は日勤の日が多いと言っていた気がする。
少しドキドキしながら玄関のドアを開けると、そこには小さな青い
リビングには予想通り、夕雨の姿があった。
「おかえり。今日早かったね」
「うん、ちょっとね。宿題は?」
「もう終わったよー」
ソファーに座る夕雨の頭を撫でてやると「やめてよ」と
莉子はふとリビングの端にある
「学校だ」
音量を、夕雨に聞こえないぐらいにまで下げると再生ボタンを
電話機を操作しメッセージを
「お姉ちゃん、何してるの?」
「なんでもない!」
不思議そうに首をかしげる夕雨にそう告げると、莉子は自分の部屋へと向かう。
ドアを閉め、一人きりになると今日一日のことが思い出される。楽しかった。とても、楽しかった。
二人で展望台に行き、ただ話をしたり
机の上に置いたスマホにつけたストラップが、不意に莉子の視界に
「お弁当、喜んでたなぁ。もしもまた──」
ふと思いついてしまった考えを必死に打ち消そうと
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