2-2


 くしゅん、という音が聞こえた気がして莉子は目を開けた。その音が自分のくしゃみの音だと気付いたのはゆうに十秒はってからだった。

 いつの間にかねむってしまっていたようだ。まだぼんやりとする頭で、思った以上に自分が深く眠っていたことに気付き、驚く。

 だん、自分の部屋のベッドでさえることができないのに、外で、そして染井の隣でこんなにもぐっすりと眠ってしまうなんて。

「あれ?」

 ようやく莉子は自分の上にブレザーがかけられていることに気付いた。染井のもののようだけれど、当の本人の姿がない。どこに行ってしまったのだろう。

 辺りをキョロキョロと見回すと、随分と遠くから歩いてくる染井の姿が見えた。

「あ、起きたんだ」

 染井は両手にココアとコーヒーのかんを持ったまま莉子の隣にこしを下ろした。

「どっちがいい?」

「……ココア」

「だと思った」

 莉子にココアをわたすと、染井はブラックと書かれた缶コーヒーを開ける。

「そっちでよかったの?」

「もちろん。俺、あまいの苦手だし」

「私がコーヒーがいいって言ったらどうするつもりだったの?」

 莉子の問いかけに染井は目を丸くする。

「え、莉子ってブラックコーヒー飲めるの?」

「……飲めないけど」

「でしょ。それに、莉子はココアが好きだから」

 当たり前のように言うと缶コーヒーに口を付けた。その通りなのだけれど、言い切られてしまうと何で知ってるのと言いたくなる。……言わないけれど。

 莉子も染井にならってココアに口を付けた。

「……甘い」

 ホッとする甘さが口いっぱいに広がる。残暑のような日差しがあったといえどそこはやはり十一月。秋風が吹く中で眠っていたせいで、思った以上に身体が冷えていたらしい。あたたかいココアは冷え切った身体を優しく温めてくれた。

 ココアを飲み干すと、ちゆうはんに胃に物を入れたからか空腹がおそってくる。展望台に設置された時計を見ると正午をとっくに過ぎていた。おなかが空くはずだ。

 染井も同じことを思ったのか「腹減った」と隣で呟いた。

「昼飯食べようよ」

「ここで?」

「そ。他にどこで食べるんだよ」

 まあそう言われるとそうなのだけれど。まどう莉子に染井は笑う。

「それにさ、なんか遠足みたいじゃない?」

 楽しそうに言うと、染井はカバンの中からパンをいくつか取り出し、莉子が昼食の準備をするのを黙って待っている。莉子は自分を見つめる染井の視線にえきれず、カバンに入れていたお弁当箱をひざの上にせた。

 ふたを開けると、朝めたおにぎりとおかずが並んでいる。

「……どうかした?」

 ふと気付くと、染井は莉子のお弁当の中身をジッと見つめていた。そんなに変わったものは入れていなかったはずだけれど。莉子も自分のお弁当箱に視線を落とす。

 卵焼きにからげ、ウインナーに夕飯の残りのカボチャのけ。それからきのおにぎりが二つ。至って普通のお弁当のはずだ。首をかしげる莉子に、染井はお弁当箱の中を指さした。

「それって、何入ってるの?」

 染井が指さしたのは卵焼きだった。

「え、ほうれん草のソテーだけど」

「へー、卵焼きにほうれん草なんて入れるんだな。緑色が見えたからいつしゆん、何が入ってるのかわかんなかったよ」

「昨日の夕飯の残りだけどね。勿体ないから入れちゃった。意外としいよ」

「もしかして、自分で弁当作ってるの?」

「そう、だけど」

 少し驚いたように言われ、莉子はおずおずと頷いた。

 看護師をしている母親は夜勤も多く、必然的に晩ご飯と弁当は莉子の担当となっていた。弁当といっても晩ご飯の残り物を詰めることが多いのでそこまで苦ではない。なんなら、翌日の弁当分も合わせて作ってしまう日さえあるぐらいだ。それでもめんどうになれば最近はれいとう食品も美味しいものが多い。朝からパスタをでるぐらいなら、カップに入っていて常温でかいとうされるものをれいざい代わりに入れておく方がいい。

 莉子の話を聞きながら、染井はクリームパンをほおる。口の中のものをむと、ポツリと呟いた。

「弁当かぁ」

「どうしたの?」

「や、随分食べてないなって思って。うち、母親と一緒に暮らしてないからさ」

「え、あ、そうなん、だ」

 思いがけない言葉にみような反応を返してしまう。こん、だろうか。今の時代、両親がそろっていないことなんてめずらしくない。

 たしか、鼠動病の話を聞いたときに、両親を泣かせることが辛いと話していたはずだから死別ではないのだろう。

「そ。うち、俺が中学上がったと同時に両親が離婚してさ。俺は今、父親と一緒に住んでるの」

 莉子の予想通りだった。「そっか」と返事をする莉子に、染井はふっと笑った。

「莉子ならそういう反応するだろうなって思ってた」

「どういうこと?」

「他の奴はさ、この話聞くと『まずいことを聞いた』って顔をして、それから『わいそうに』『大変だね』『えらいね』なんて言うんだ。別に俺にとっては昨日の晩ご飯を話すのと同じぐらいのノリなのに、勝手に気の毒がって同情されてさ。バカにすんなよってな」

 染井の言葉に莉子は小さく頷く。こういうとき気をつかわれるのも気の毒がられるのも嫌な気持ちになるのだと莉子は身をもって知っていた。

 母親の代わりにご飯を作っている、と知られたときに「可哀想に」と言われるのが嫌だったから。

 莉子にとってはそれが当たり前で、家族として協力するのが当然だった。なのに、莉子の事情も気持ちも知らない人から勝手なことを言われるのは腹立たしく思うのだ。

「だからもう、他人には親が離婚したことは言わないようにしてるんだ」

「なんで私には言ったの?」

「莉子は彼女だからね」

 本当の彼女でもないのにりちなことだ。そう思いながらも、とくべつあつかいされていることをどこかくすぐったく感じるのは、どうしてなんだろう。

「それにさ、離婚したっていっても母親も近くに住んでるんだ。だから会おうと思えばいつだって会えるしね」

「そうなんだ」

「そ。でもまあうちの母親、家事がかいめつ的に苦手でさ、そもそも一緒に暮らしていたときも、手料理なんてほとんど食べたことなかったから、離婚してなかったとしても弁当なんて作ってもらえなかっただろうけど」

 染井は昔を思い返すかのように少しだけ遠い目をしていた。その表情がどこかさびしそうに見えた気がした。黙ったままの莉子を気にすることなく、染井は話を続ける。

「うちの父親、仕事がいそがしすぎて家にほとんどいなくてさ。小さい頃はほとんど母親と二人暮らしみたいなもんだったよ」

「そう、なんだ」

「うちの母親は寂しがり屋で……心の弱い人だったんだ」

 そのこわいろには辛さとか悲しみとかじゃなくて、優しさがめられているようにすら感じた。

「人間にはさ、誰にもかんしようされずに一人でいたい人と、逆に誰かにぞんしてずっとそばにいて欲しい人がいると思うんだけど、母親はまさに後者だったんだ」

「依存……」

 思わず染井の言葉をかえす莉子に、静かに頷いた。

「そう。最初は、父親。でもその父親に相手にされなくなると、今度はそのほこさきが俺に向いた。小学生ぐらいのときまでは上手くバランスが取れてたんだ。俺も母親のことが好きだったしね。でもさ、中学生になるとどんどん世界が広がって母親の存在がうつとうしくなっていった。だけど、俺が距離を置こうとすればするほど、母親は俺にまで捨てられると思ったんだろうね。──外にこいびとを作ったんだ」

「あ……」

「でもそれで家の中のバランスは保たれるようになった。父は仕事に向き合いたかったし、母は誰かから強く愛されたかった。結局、母が家を出る形になったけど、あの頃のいびつな関係に比べれば、今の方が何倍もいいんだ」

 言い切る染井の表情は明るくて、強がりなんかじゃなく心の底からそう思っていることが伝わってきた。ベタベタとくっついているだけが幸せじゃない。

 上辺だけ仲がよくても、心の中ではきらい合っていたりにくみ合っていたりすることもある。反対につかず離れずの距離にいることで、上手くまとまる関係もあるはずだ。

「そっか、じゃあ今の関係が染井たち家族にとってはちょうどいい距離感なんだね」

 莉子の言葉に、染井は一瞬驚いたような表情を浮かべたあと嬉しそうに破顔した。その表情が、普段の染井が見せる表情とあまりにも違っていて、思わず莉子は視線を逸らす。動揺したのをさとられないように、手元の弁当箱から二つ入っている卵焼きの一つを口に入れた。

 目の前でクリームパンの最後の一口を頰張る染井を見て思う。本当の彼女だったらかれに弁当を作ってあげたりするのかもしれない、と。けれど莉子は本当の彼女ではない。だからそんなことをする必要はない。ないのだけれど──。

 さっき一瞬見せた寂しそうな表情が妙に気にかかって、おせつかいだとわかっているのに気付けば声をかけてしまっていた。

「……ね、一ついる?」

 思わず聞いてしまったものの、染井の反応が怖くて俯く。けれどそんな莉子の不安とは対照的な染井の明るい声が聞こえた。

「え? いいの?」

 その声に顔を上げるとパッと顔をかがやかせる染井の姿があった。

 ホッとして頷くと、莉子は取りやすいように弁当箱を差し出す。染井は嬉しそうに手をばすと、卵焼きをまみ口にほうんだ。

 染井が卵焼きを頰張る姿に、莉子は九さい年下の弟、みたいだなと思った。今はもう小学一年生で給食があるけれど、保育園に通っていた頃は、年に何度か弁当が必要な日は莉子が作っていた。甘い卵焼きが好きで、弁当が必要のない日でもねだられると作っていた。

 最近は言われなくなったけれど、染井が食べている姿を見るとまた夕雨にも作ってあげようと思う。それにしても、こうやって食べているのを見ると──。

「可愛いなぁ」

「ばっ……げほっげほっ」

 思わず口をついて出た言葉に、染井はむ。なみだになりながらカバンの中から取り出したペットボトルに口を付けた。

「ご、ごめん」

「いや、いい、けど。あービックリした。なに、可愛いって」

 ようやく落ち着いたのか、まだ少し咳き込みながらも染井は尋ねた。一瞬、どうつくろおうか考えた。今までの莉子ならたりさわりのない答えを返して、なんとなく納得させてきた。でも。

「や、その、嬉しそうに卵焼きを食べている姿が弟と重なるなって思って」

「弟いるの? なんさい?」

「七歳」

「七歳……小学生と一緒かよ」

 その口ぶりがどこかねたように聞こえて、莉子はもう一度笑ってしまう。染井と一緒にいるとさいなことさえも楽しく感じるのはなぜだろう。久しぶりに心の中が明るくなるのを感じる。

 けれどそれと同時に再び罪悪感が莉子を襲う。

 ──明日音も、卵焼き好きだったなぁ。

 不意に思い出す。莉子がお弁当に卵焼きを詰めていくと「私にもちょうだい!」といつも一つ取って美味しそうに食べていた。その姿があまりにも嬉しそうで、お弁当を持っていくときは自然と一つ二つ多めに入れていくようになった。今はもうそんなことはないけれど。

 おくおくそこに沈んでいた思い出が、頭を過ればもうダメだった。

 自分だけがこんなふうに楽しく過ごしていいのだろうか。明日音はもうこうやって誰かと笑い合うこともできないというのに。莉子だけが楽しんでしまって、本当にいいのだろうか。

 ぎゅっと口を結んで俯く。考えてもどうにもならないことだとわかっているけれど、それでもつい思ってしまう。あのとき自分が気付けていれば、手をべられていれば、今も明日音は生きていたのではないか、と。それなのに──。

「……え?」

 とつぜん、隣に座っていたはずの染井が莉子の鼻を摘まんだ。どういう反応をしていいのかわからず固まってしまう。動けずにいる莉子の鼻を摘まみ続ける染井。ついに耐えきれなくなって莉子は口を開いた。

「何をする……んぐっ?」

 その瞬間、莉子の口に何かがまれた。サクサクとしたそれは、先程まで染井が手に持っていたメロンパンだった。反射的にしやくし甘さに顔がほころぶ。

いだろ、それ。甘くて美味いもの食べて幸せな気持ちになっているときは、ネガティブなことなんて考えられないんだから、しんどくなったときほど甘い物食べとけばいいんだよ」

「何それ」

 染井の言葉に思わず笑ってしまう。けれど、染井はそんな莉子を優しく見つめていた。どうしてそんな目で見つめてくるのだろう。その視線が、莉子を妙にごこわるくさせる。

「あの、えっと」

「どうしたの?」

 何か言わなくては、と口を開くものの上手く言葉が出てこない。何か、何か……。ふと、自分の手の中に食べかけのメロンパンがあることに気付いた。

 そういえば、これどうしよう。返した方がいいのか、いやでも食べかけを返すというのもどうなのか。それなら食べてしまう? 少しなやんでそれから膝の上に置いたままになっていた弁当箱の存在に気付く。

 自分の思いつきに、不安になる。もしかしたらめいわくだと思われるかもしれない。同情していると、怒られるかもしれない。でも、さっき莉子の作った卵焼きを嬉しそうに食べていた染井の姿を、どうしてももう一度見たいと思ってしまった。

「あの、さ。えっと、メロンパン、ありがとう」

「ん? いいよ、メロンパンぐらい」

「や、でもこれ私が食べちゃったら染井、足りないんじゃない?」

 莉子の言葉に染井は少しだけ困ったように頭をきながら笑う。言うなら、今だ。

 ぎゅっと弁当箱をにぎりしめると、染井に差し出した。

「だから、その、こうかん、しない?」

「交換? 何と」

「メロンパンと、私のお弁当を……」

 だんだんと自分の声が小さくなっていくのがわかる。どんな反応をしているのか、知るのが怖くて染井の顔が見られない。

 そのままの姿勢で固まっていると、頭上で染井がふっと笑ったのがわかった。

「食べていいの?」

「え、うん。交換してくれるの?」

「してくれるのったって、メロンパンとでホントにいいの? あとで返せって言っても返さないよ?」

「言わないよ!」

 前のめりになる莉子に、染井は一瞬驚いたような表情を浮かべていたけれど、もう一度笑うと「んじゃ、もらう」と莉子の手の中にある弁当箱を受け取った。

 染井はおかずの一つ一つを嬉しそうに頰張っていく。莉子はそんな染井の姿を見ながらメロンパンにかじりついた。甘くて優しい味が口いっぱいに広がる。

 たしかに染井の言うとおり、甘い物を食べているときはネガティブなことなんて考えられない。甘さが脳内を幸せにしてくれる。

 ……そういえば。

 莉子はふと、染井がメロンパンの前に食べていたのもクリームパンだったことを思い出す。甘いのが苦手でブラックコーヒーを飲んでいた染井のはずなのに、昼ご飯として買ったのがメロンパンにクリームパン? コンビニで買ったのであれば、そうざいパンだってあったはずだ。それなのに……。

 おにぎりを口に放り込む染井の姿をそっと盗み見る。もしかすると染井も、甘いパンでネガティブになりそうな気持ちをなんとかさえもうとしていたのかもしれない。

 苦手な甘い物を食べてでも、やがて来る死へのきようやわらげようと。

 隣で莉子の作った弁当を幸せそうに食べる染井の姿を視界に入れないようにしながら、莉子は手に持ったメロンパンを口いっぱいに頰張った。


 日中の暖かかった日差しが噓のように、冷たい風が身体を冷やす。あんなに高かった日は、ずっと遠くに見える山の向こうへと沈もうとしていた。

「もうこんな時間なんだな」

「ホントだね」

 時計の針は、気付けば下校の時間を示していた。一日をこんなに短く感じたのは、そして放課後の時間をゆううつに思わないのはいつぶりだろう。

「そろそろ帰ろうか」

「そう、だね」

 染井の言葉に頷きつつも腰は重い。非現実のような今日から現実へと返ることを全身がこばんでいる。明日になればまた学校に行かなければならない。真凜は、他のクラスメイトたちはどんな目で莉子を見てくるのか、考えただけでゾッとする。

 あの頃、明日音は毎日こんな思いをしていたのだろうか。「大丈夫?」 と口先で声をかけるだけで手を差し伸べることができなかった自分を恥じる。

 当時の、中学生の頃の莉子にとって、明日音を助けることで自分たちのグループまでえをらうことが怖かった。それだけじゃない。明日音を助けることで今度は莉子が標的にされるかもしれないことが怖かったのだ。だから明日音から目を逸らした。

 それでも明日音を完全に一人にするのはしのびなくて、そして明日音からも見捨てられたと思われたくなくて、人目がないところでは普通に話したし放課後、自宅で一緒に遊んだりもした。

 今ならわかる。あの頃の莉子はそうすることで自分の身を守りながら、明日音を気にかけている自分自身にっていた。優しいんだとおごっていた。

 そんな優しさ、ぜんでしかないというのに。

「莉子、また暗い顔してる」

「あ、え、えっと、ごめ、ん?」

『ご』の発音で口を開けた莉子は、染井に何かを放り込まれた。

「チョコ?」

「そ。これから莉子が暗い顔するたびに口に入れようかな」

「やめて、太っちゃう」

「じゃあ笑ってなよ。ほら、こんなふうに」

 染井は自分自身の頰を引っ張ると、口角を上げてみせた。

「…………」

「……ちょ、真顔にならないでよ。恥ずかしいじゃん」

 無言のまま見つめる莉子の姿に、染井は頰を引っ張るのをやめると、恥ずかしそうに頰を染める。その様子が妙に可愛くて、つい笑ってしまった莉子に、染井は頭を搔くと、はにかむように笑いながら言う。

「莉子はさ、笑ってる方がいいよ。ね?」

「……考えとく」

 莉子の言葉にほほみながら頷くと、染井は歩き出す。少しおくれて莉子も隣に並ぶ。

 夕暮れ時の道のりを二人で歩く。行きはあんなにも気まずかった道のりなのに、帰りはどこか胸の奥があたたかく感じられるのはなぜだろう。

 それはもしかしたら、隣を歩く染井との時間が思ったよりも楽しかったから、なのかもしれない。

 そういえば──。莉子は一度二度と深呼吸をして思う。

 呼吸をしても胸が苦しくならない。心臓の嫌なドキドキを感じない。高校に入ってから、ううん、明日音のことがあってからずっと感じていた息苦しさを今は感じなかった。

 気付かれないように隣を歩く染井の顔を見上げる。認めたくない。認めたくないけれど、もしかしたら染井のおかげ、なのかもしれない。

 今の私は、染井のことをほとんど知らない。これまで知る必要なんてないと思っていた。でも……。

 ──もう少し染井と話がしたい。染井の話が聞きたい。染井のことが、知りたい。

「どうしたの?」

 隣を歩く染井に見つめられ、わずかにどうが速くなるのを感じながらも、気付かれないように少し深めに息を吸うとあしもとの小石を軽くった。

「んー。染井はさ、にせものでもいいから彼女が欲しかったんだよね」

「まあ、ね」

「彼女を作ってどうしたかったの? どこか行きたいところとかしたいことがあったの?」

「うーん、そうだなぁ」

 少しかんがんだあと、染井は何かを思いついたかのように口を開く。

「こんなふうにサボったり、デートもしたりしたかったなぁ。あ、友達とWデートとかもいいよね。みんなでどっか行ったりとか。俺の友達と彼女が仲良くなってくれたら嬉しいし」

「彼女と友達が?」

「そ。自分の好きな人と好きな人が仲いいのってなんか嬉しくない?」

 を上げて染井は尋ねてくるけれど、いまいちその感情が理解できないのは莉子に友達がいないからだろうか。例えば、明日音が生きていたとして、染井と仲良くなってくれたら莉子は嬉しいだろうか。

 と、そのとき莉子は自分自身の前提条件がちがっていることに気付いた。なぜ自分の友人と仲良くなる相手が染井なのか。染井とはきようはくされて付き合っているフリをしているだけで、好きな相手でも恋人でもない。気にする必要も想像をめぐらす必要もないのだ。

「莉子?」

「なんでもない! ほ、他には!?」

「他? 他かー、そうだなぁ。夏なら海に行きたかったかな。あとは──」

 染井が向けた視線を追いかけると、そこにはゲームセンターなどが入った複合せつがあった。一階はクレーンゲームコーナーになっているようで、たくさんの人でにぎわっていた。

「学校帰りにこういうところに来るのもいいなあ」

「あ、待ってよ」

 言うが早いか、染井はどんどん中へと入っていく。どうするべきか一瞬悩んだけれど、おいでおいでと手招きをする染井のもとへしぶしぶ向かった。

 染井が立っていたのは、入り口前に設置されている一回百円のクレーンゲームの前だった。中をのぞくと、昔なつかしいキャラクターのキーホルダーやストラップが入っていた。

「こういうところにあるやつって、客引き用だから案外簡単に取れたりするんだ」

「へえ、そうなんだ」

「だから簡単に取られてもしくないような景品が入っているってわけ」

 言われてみると、店内に置かれたクレーンゲームは最近りのアニメキャラクターや有名なゲームに出てくるモンスターのぬいぐるみが目立つ。そしてそれは二回三回と繰り返してプレイしてもなかなか取れないようで、たくさんの人がちようせんしている様子が見えた。

「あっ」

 莉子は目の前のクレーンゲームの中に、見覚えのあるキャラクターのストラップがあることに気付いた。

「泣き笑いうさぎのティールだ」

 思わず声を上げてしまったけれど、それも仕方がない。小学校高学年の頃、とても好きで集めていたキャラクターだった。『泣く』のtearと『笑う』のsmileを合わせてティール。同時期に流行っていたキャラクターに比べると知名度も人気もいまいちだったけれど、泣きながらもみを浮かべるそのうさぎの愛らしさといじらしさに莉子は心かれずにはいられなかった。

「って、染井?」

 莉子があまりにもストラップを見つめていたせいか、染井はクレーンゲームに百円を入れると、アームを動かし始めた。アームが向かう先にあるのは、先程の泣き笑いうさぎのティールだった。

「俺も昔、あのキャラ好きでさ」

「え? 染井が?」

 驚きを隠せず、思わず声を上げてしまう。『このキャラクター好きなんだよね』と、小学校高学年の頃に明日音に言ったときでさえ『え、何このキャラ』と聞かれたぐらいだったのに。

 けれど染井は莉子の言葉に、少し不快感をにじませながら言った。

「何その意外そうな声。俺が、ティール好きじゃ変? それとも男子がうさぎのキャラを好きだとおかしい?」

「え? なんで?」

 染井の言葉の意味がわからず莉子はキョトンと間の抜けた表情を浮かべてしまう。男子がうさぎのキャラを好きでおかしい理由が莉子には全くわからなかった。

「別に男子が可愛いキャラを好きでも変じゃないし、逆に女子がいかついキャラを好きでもいいんじゃないの?」

「……そっか」

 その言葉が妙に嬉しそうに聞こえた気がしたのは、気のせいだろうか。

 そんな話をしている間にも、染井の操作するアームは器用にティールについた商品タグを摑み、そして──。

「わっ、取れた!」

 取り出し口に落ちてきたストラップを手に取ると、莉子の顔の前にぶら下げた。何年経ってもやはり可愛い。泣いている顔をしているのに愛らしくて、笑っているはずなのに切なくなる。相反する感情のはずなのに不思議だ。

 染井がすんなり取れたのを見ると、自分にも取れそうな気がするけれど、ためしてみる勇気はない。失敗しても百円を失うだけで別に何があるわけでもないというのはわかっているけれど、それでもその失敗するかもしれないという思いが、莉子に二の足をませる。

「ねえ、莉子。手、出して?」

「手? どうして?」

「いいから、ほら」

 言われるがまま莉子は右手を染井へと差し出す。こうを向けていた莉子の手をひっくり返すと、その上に先程取ったストラップを載せた。

「はい、これあげる」

「え……? で、でもこれ、染井も好きだったって……」

「昔の話だよ」

「じゃあ、なんで取ったの?」

「なんでだろうね」

 頭の後ろで手を組んで飄々とした口調で言うと、莉子を置いて染井は歩き出す。手の中のストラップと染井の後ろ姿を見比べながら慌てて追いかける。

「待ってよ、これどうしたら……」

「だからあげるって。プレゼントってことで」

「もらえないよ。せめてお金……」

「いいじゃん、彼氏が彼女にプレゼントあげるの、変じゃないでしょ?」

 そう言われてしまうと言い返すのも難しい。それでも莉子は必死に食い下がる。ここで引いてなおに「ありがとう」と言うべきなのはわかっているけれど、そうできないのが莉子なのだ。

「で、でもいくら彼氏だからって何でもない日に彼女にプレゼントしないでしょ」

「それは経験談?」

「違う、けど」

「ふーん? まあいいや。そういう彼氏もいるかもしれないけどさ、でも何でもない日だからこそ彼氏が彼女にプレゼントあげるのってよくない? 特別な日じゃなくてもおくものをできる関係って感じでさ」

 言っている意味がわかるような、わからないような。けれどどこか楽しげな表情を浮かべる染井に、否定することもはばかられてあいまいに頷いた。

 無言で歩きながら手に持ったままのストラップに視線を落とす。ポケットからスマホを取り出すと、ケースのはしに空いた穴にストラップのひもを通す。スマホからぶら下がったそれを見ると懐かしさで胸がいっぱいになる。

「……ティールってさ」

 とうとつに染井が口を開く。

「ティールってなんか、莉子に似てるよね」

「私に?」

 思わず首をかしげた莉子に染井は頷く。

 莉子はもう一度、スマホからぶら下がったストラップを顔の前にかかげる。泣きながら笑っているティールのどこが自分に似ていると言うのだろう。莉子は不思議に思う。他の人に言われたのなら、泣けない莉子への嫌みだろうかと思うかもしれない。だが、染井の口調からは意地の悪さは感じられない。ただじゆんすいにそう思ったという感情だけが伝わってくる。

『どこが似ているの?』と尋ねてみようかとも思ったけれど、その言葉は口から出ることなくみ込んだ。聞けば答えてくれるかもしれない。けれど聞くだけの勇気はない。もしもう少しだけ仲がよければ、尋ねられたのだろうか。そんなことがかすかに頭を過った。


「家の前まで送るよ?」という染井の申し出を断ると、莉子は自宅から少し離れたところで染井と別れ一人帰宅した。この時間なら夕雨はもう帰っているだろう。今日、母親のシフトはどうだったか。たしか、今週は日勤の日が多いと言っていた気がする。

 少しドキドキしながら玄関のドアを開けると、そこには小さな青いくつが一足あるだけだった。ホッと胸をなで下ろす。

 リビングには予想通り、夕雨の姿があった。

「おかえり。今日早かったね」

「うん、ちょっとね。宿題は?」

「もう終わったよー」

 ソファーに座る夕雨の頭を撫でてやると「やめてよ」ときよぜつされてしまう。小学生になってから小さなどもあつかいされることを嫌がるようになった。もしかしたら甘い卵焼きをねだらなくなったのはそのせいもあるのかもしれない。

 莉子はふとリビングの端にあるたなの上に目をやると、留守番電話が光っているのに気付いた。電話といえばスマートフォンにかかってくるのがほとんどだけれど、昔からのごりで自宅には固定電話が置かれていた。かけてくるのは役所関係やそれから──。

「学校だ」

 音量を、夕雨に聞こえないぐらいにまで下げると再生ボタンをす。そこには予想通り高校から莉子が来ていないがでも引いたのか? というかくにんの連絡が入っていた。電話の声色からめんどくささが伝わってくる。メッセージは、明日も連絡がないようであれば母親のけいたいに電話をすると続いていた。

 電話機を操作しメッセージをさくじよすると胸をなで下ろした。どうやら今日学校をサボったことは母親には知られていないらしい。

「お姉ちゃん、何してるの?」

「なんでもない!」

 不思議そうに首をかしげる夕雨にそう告げると、莉子は自分の部屋へと向かう。

 ドアを閉め、一人きりになると今日一日のことが思い出される。楽しかった。とても、楽しかった。

 二人で展望台に行き、ただ話をしたりひるをしたり昼ご飯を食べたりした。それだけのことが、そんなのんびりとした時間がとても楽しかったのは、やっぱりきっと染井のおかげ、なのだろう。

 机の上に置いたスマホにつけたストラップが、不意に莉子の視界にんだ。染井が取ってくれたストラップ。大好きだった、泣き笑いうさぎのストラップ。何かこのお礼ができないだろうか。例えば──。

「お弁当、喜んでたなぁ。もしもまた──」

 ふと思いついてしまった考えを必死に打ち消そうとかぶりを振ると、ふわっと風のにおいがただよった。それはあの展望台で包まれた、あの風と同じ匂いがした。

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