第二章 あの日と同じ青空の下で
2-1
カーテンの
「学校、行きたくないな」
昨日の朝も同じことを思い、それでもなんとか自分を奮い立たせることができた。あれはまだ
でも今日は
みんな自分のところに莉子という名の
胃の
それでも
「……え?」
外に出たところで
「なんで」
「おはよ」
「おはよ……って、じゃなくて。なんでここにいるの? だって染井の家ってうちと反対方向でしょ」
莉子の問いかけに返事をすることなく、染井は手を
「ねえ」
「…………」
「染井ってば」
「別に。
意味がわからない。一緒に学校に行くためにわざわざこの時間に、高校を通り過ぎて反対方向にある莉子の家に来たというのか。
風に
「なんで、そんな」
「…………」
「私の、ため?」
莉子が学校に行きたくないと思っているだろうから、一人であの教室に向かうのは不安だろうから。もしかして、それで──。
『じゃあ、
不意に昨日の染井の言葉が頭を
「別に。付き合ってるんだから、一緒に学校に行ったって変じゃないでしょ」
染井はこちらを
──染井って体温高いんだ。
不意に頭を過った思考が
「これじゃあ付き合っているの、丸わかりじゃん」
莉子の
「昨日の一件で学校中に
「……たしかに」
いや、その知れ渡らせるきっかけは染井が引き起こしたんだろう、そう思うとなんとなく
「…………」
「…………」
それ以上何も言うことなく無言のまま染井の隣を歩く。染井も何かを
いったい染井は、どういうつもりなんだろう。そもそもどうして莉子だったのだろう。
いや、莉子が染井のことを好きじゃなくて、莉子なら染井が死んだとしても泣かない、泣けないからというのはわかっている。けれど、いくら染井がモテるとはいえ学校中全員が染井のことを好きだというわけじゃない。染井のことを苦手な人だって好ましく思っていない人だって何人かはいるだろう。その中でどうして莉子だったのか。だいたい染井は、なぜ莉子が泣けないことを知っていたのだろう。
そっと隣を歩く染井に視線を向けると、ちょうどこちらを見ていたようで目が合った。
「なに?」
「べ、別になんでもないよ」
何か、何か言わなければ。
莉子は必死で話題を探す。
「えっと、その……今日、いい天気だね」
「は?」
必死に
「っ……あはは、なんだそれ。法事で話題に困った
「どういうことよ」
「最近、うちの法事で同じようなことを言ってた人がいたなって話。もうちょっと
「なっ、みっ見つめてなんて!」
慌てて否定をする莉子の声なんてもう染井の耳には届いていないようで「まあ、でも」と言いながら空を見上げる。つられるようにして莉子も顔を上げると、そこには雲一つない青空が広がっていた。
適当に言ったにしては本当にいい天気だった。こんな日は──。
「こんな日はどこか遠くに行きたくなるよなぁ」
考えていたことを染井が口に出しドキッとする。そんな
染井は少し無言になったあと「よし」と
「サボろっか」
「は?」
染井は莉子の手を摑んだまま、学校とは逆方向に向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「待たない」
「じゃあせめて手を
「離したら死にそうな顔して一人学校に行くだろ? だから離さない」
莉子の行動などお見通しだと言わんばかりの染井の言葉に何も言えなくなる。仕方なく染井に手を引かれたまま歩いた。
時折、同じ学校の生徒が真逆の方向に向かって歩く莉子たちを不思議そうに見ている。今の時間はまだ忘れ物をしたんだと言い訳ができるけれど、これから始業時間を過ぎても制服姿で外にいればきっと補導されてしまうだろう。どうするつもりなのか。
スマホを取り出して何かを
「ねえ、今どこに向かってるの?」
「行きつけの古着屋」
「古着屋?」
莉子は思わず聞き返した。
古着屋、と言われて頭の中にはテレビで見たヴィンテージの服を取り扱うお店が
「今、なんか変なこと考えただろ?」
「え? そんなことは」
ごまかそうとする莉子に「顔に出やすすぎでしょ」と染井は笑う。
「古着屋っていっても莉子が想像しているような感じじゃないと思うよ」
「そう、なの?」
「まあ行ってみたらわかるよ」
自信満々に言う染井に連れられて、莉子は駅近くにある小さなショップへと向かった。
そこはたしかに莉子のイメージとは全く違っていた。古着屋、と言われなければ
「すみません、開店前なのに開けてもらっちゃって」
「いいよ、いいよ。
どうやら来る
染井は手慣れた様子で店内の服を物色し始めた。
莉子はどうしていいかわからず、その隣に並ぶ。
「この辺とかどう? あ、スカートとパンツどっちがいいとかある?」
「え、あ、ううん。どっちでもいいけど」
「そ? じゃあこの辺かなぁ。これとこれならどっちが好き?」
莉子の答えに染井は満足そうに頷く。
「うん、俺もそっちだと思った」
「じゃあなんでワンピースも出したのよ」
「似合うかなって」
「え?」
染井の言葉に莉子はパンツを選んでいた手を止めた。染井の方を見た莉子に、優しく
「このワンピース着た莉子、きっと可愛いだろうなってそう思って」
「なっ……!」
そんなことを言われると思ってなかった莉子は
「変なこと言わないでよ!」
「変なことなんて言ってないよ。似合うだろうな、可愛いだろうなって思ったから言っただけで」
「そんなわけないでしょ! こういうのは可愛い子が着るから似合うの。私なんかが着たって似合わないよ!」
否定をする莉子に「そうかな?」と首をかしげると染井は手に持ったままになっていたワンピースを莉子に重ねるようにしてみせた。
「うん、やっぱり可愛い」
「可愛くない!」
「なんで俺が思ったことを莉子が否定するの? 可愛いって思う気持ちは俺の自由でしょ?」
けれどこれ以上言い返してもきっと莉子に染井を言い負かすことはできない。結局「勝手にして」と
そのあと染井も自分の服を選び、莉子のものと合わせて会計をした。二人合わせて七百円。破格すぎてこの店の経営が心配になる。
「ねえ、いくらなんでも安すぎない?」
「あれは学生価格だよ」
「学生価格?」
「そ。俺らぐらいの子どもでも自分の
「そうなんだ」
たしかにあの値段であれば莉子たちの小遣いでも十分に服を買うことができる。例えば莉子であれば一ヶ月の小遣いは三千円だ。服を買おうとするとよくて二着。プチプラ以外のものを買おうとすれば一着買ったらマイナスになる、なんてこともあるぐらいだ。
親と一緒に買い物に行けば金額を気にせず買えるだろうけれど、その場合莉子だけの意思ではなく母親の好みも混ざってしまう。自分の気に入った服と母親が選んだ服が異なったときに、自分の好みを
「さて、それじゃあ行きますか」
「どこに行くの?」
学校ではないことはわかっているけれど、染井がどこに向かう気なのか莉子にはわからなかった。
「どうしようかな」
「え? まさかノープラン?」
「もちろん。プラン決めてサボる
いると思う? と聞かれたところで、そもそも莉子は学校をサボるのが初めてなのだ。何がスタンダードかなんてわからない。
隣に並ぶ染井の姿を、そして自分の姿を見る。古着屋に入るのもこんなふうに学校をサボるのも、悪いことをしているようでドキドキする。
「でもさこんな天気のいい日に学校で授業を受けるなんて馬鹿らしいでしょ」
「あ……」
『こんなに天気がいいんだもん。教室に
かつて、
「ねえ」
「え?」
「わっ」
「なに変な顔してんの?」
「変な顔なんてしてない! ってか、顔近いから!」
思ったよりも近かった
隣で
「で、さ。この辺ってどこかいいとこないのかな?」
「いいとこって?」
「サボってもバレないような場所。具体的に言うと、補導員が来ないところ」
そんなところがあればすでにサボりスポットにされているか、気付いた補導員のような大人がパトロールしているのではないか。そう思うものの、何かあっただろうかと考える。
サボってもバレない、ということはあまり人が来ることなく、さらにこの晴天が
「あ」
「なんかあった?」
「ちょっと歩くけど
「もちろん」
染井の返事を聞いて莉子は歩き出した。明日音と行った思い出の場所へ。
そこは駅から山手の方に歩いたところにある山の上の展望台だった。普通だったらロープウェイで上がるぐらいの高さを、階段だけを使って展望台まで登る。初めてここに登ったのは中学に入ったばかりの
でも。
「着いたよ」
「へえ。
開けた場所から自分たちの住む街を一望──というには少し高さが足りないけれど見下ろすことができる。
あのときも明日音と二人でこんなふうにここから街を見下ろした。明日音が少しだけ元気がなくなって、学校に来ない日が増えて、放課後様子を見に行ったあの日。ここに登りたい、と言ったあのとき
笑っていたのだろうか。苦しそうだったのだろうか。莉子に何を伝えたかったのだろうか。
「莉子?」
「あ、うん。ごめん、ボーッとしてた」
「俺に
「バーカ」
フェンスに足をかけながら親指を
その表情があまりにも優しくて、莉子は
「はー、それにしてもほんっといい天気だな」
転落防止のための
染井はどうして今日、学校をサボろうと思ったのだろう。
天気がいいから、なんてそんな理由で本当にサボるだろうか。莉子のため、そうも思ったけれどこの表情を見ているとそれだけじゃない気がしてしまう。
あの
もしかすると、染井も──。
「ねえ、もしかして学校に行くのが
「……なんで?」
染井はこちらを向く。その表情がどこか
「や、なんとなく。そう思っただけだけど」
「ふーん」
染井は同じように柵にもたれかかると、そのまま地面に
そよそよと風が木々を
そのまま空を見上げて染井はポツリと言った。
「別にそんなんじゃないよ。……たださ、あと三ヶ月で死ぬっていうのに、学校に行くなんて
染井の言葉に、莉子は何も言えなくなる。
やっぱり、染井は本当に
聞いていたはずなのに、今までどこか現実味がなかった。それどころか、この期に
「どう、して」
「え? 何が?」
絞り出した莉子の言葉に染井は少しだけ不思議そうな表情を浮かべ、それから「ああ」と頷いた。
「どうして自分が鼠動病だってわかったのかってこと?」
先程のどうして、に何か意味があったわけじゃない。けれど染井が莉子の言葉に意味を持たせてくれたから、莉子はまるで初めからそうだと思っていたかのように頷いた。
真凜たちと一緒にいるときもよくこうやって頷いていた。なんとなく笑って、なんとなく同意して頷いて、そうやってやり過ごしてきた。そうすれば相手は勝手に
けれど、そんな莉子の態度に染井は「ホントかよ」と笑う。
「今、適当に話合わせただろ?」
「そ、そんなこと」
「隠そうとしたってダメ。すぐにわかるんだから」
どうして染井には気付かれてしまうのだろう。どうして染井は、わかってくれるのだろう。
「莉子?」
「……ううん、なんでもない」
「そ? ……ま、いっか。で、なんだっけ。ああ、そうだ。どうして鼠動病だってわかったか、だ」
莉子が話を合わせただけだというのはわかっているのに、笑いながら染井は続ける。
「春にさ、健康診断があったの覚えてる? 高校に入学してすぐのやつ」
そういえばそんなものあったな、と莉子は頷く。入学直後にあった健康診断は、身体測定だけでなく心電図や
「あれでさ、要再検査ってなったんだ。何が引っかかったかとか教えてもらえなくて、とにかく一度、大学病院で検査をしろって。変だろ? 親も先生も深刻な顔をしていたのに、俺にはなんの説明もしてくれないの。さすがにおかしいって思うよな」
たしかにその
隣に座る染井の顔をそっと
「それからこの半年、いろんな検査を受けたよ。血もいっぱい
言葉通り笑いながら言うけれど、染井の表情は
……ううん、違う。笑うことしか、できないのかもしれない。笑ってないと、こんな話できないのかもしれない。
全部、莉子の勝手な想像でしかない。でも、きっと莉子が同じ立場でも笑ったと、思うから。
「噓、みたいだろ」
「……うん」
だから、へらっとした笑みを見せる染井に、莉子は頷くことしかできなかった。
莉子も病気の存在は知っていた。けれど身近にその病気になった人はおらず、テレビの中の新病、
どこか
思わず
「そんな顔するなよ」
隣を見ると、染井が困ったような笑みを浮かべていた。
「最初に言っただろ。俺のことを好きじゃない奴がいいんだって。莉子はさ、
その言葉に、莉子は明日音の両親の姿を思い出した。明日音の
子どもに先立たれ、辛く苦しい
たしかに、
大切な人に置いて
「私の友人も、そう思ってたのかな」
自分で命を絶った明日音と、病で命を
「……その子は?」
「…………」
無言のまま首を
「もっとしてあげられることがあったんじゃないかって、今も思っちゃう。思い上がりもいいところだってわかってるんだけどね」
莉子が気付けなかっただけで、あのときの明日音もこんなふうに辛く苦しかったのかもしれないと思うと、染井の姿に明日音を重ねてしまう。あの頃、何もできなかった、そして何もしようとしなかった罪の意識が胸を過る。
「──本当に、好きにならないまま付き合っていればいいの?」
「うん、それが一番
「……わかった」
かつて明日音にできなかった、辛いときや苦しいときにそばにいること。それを染井にすることで、自分の中の罪悪感を少しでも
「ね、今何を考えているか当ててあげようか」
「え?」
「自分の気持ちの整理のために、俺のことを利用していいんだろうか。そう思ってるでしょ」
「どうして……」
どうしてわかったのだろう。だって、明日音の話は今まで誰にもしたことがない。なのに、染井はどうして──。
「顔に全部書いてある」
「噓っ」
思わず両手を頰に当てる莉子を染井は笑った。
からかわれたことに気付いて莉子はムッとする。そんな莉子に「ごめん、ごめん」と笑うと染井は口を開いた。
「
そんなもの、なのだろうか。当てずっぽうで言ったにしてはあまりにも的を射ていて、まるで莉子と明日音の間にあったことを知っているかのようだった。
でも、そうか。それっぽいことを言っただけ。そっか。
かつて、自分が友人を見捨てたことを知られていたわけじゃないとわかり、莉子は小さく息を
「それにしても、ここ気持ちいいな」
そう言ったかと思うと、染井はその場に
「服、
「そっちこそ」
「まあ、制服じゃないし」
「だね」
顔を見合わせて笑うと、もう一度空を見上げた。
そっと目を閉じると、耳には草木の揺れる音だけが聞こえ続けていた。
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