1-2


 翌朝、目覚めたときから気が重かった。昨日のことは全て夢だと思いたいのに、メッセージアプリを開いて一番上に表示されている染井の名前を見ると、昨日の出来事が現実だったのだと思い知らされる。

 半ば無理矢理、交換させられたメッセージアプリのアカウント。別れてすぐに『これからよろしく!』というメッセージとりのクマのスタンプが届いたが返信はしていない。

 莉子はため息とともに、染井の名前をながししてれきさくじよした。なるべくしようは残さずにおきたい。教室では他人、他人なんだから。

 いつも通りの時間に家を出ると、気は進まないけれど学校へと向かう。一瞬、休もうかとも考えたけれど染井の反応もこわかったし、それ以上に一日休んでしまえば莉子の居場所がなくなってしまうのではないかという不安の方が大きかった。

 いつも通りの通学路を一人で歩き、けんそうにまみれるしようこう口をけ教室へと向かう。とびらを開けると、真凜たちがきようたくの前の席で楽しそうに話しているのが見えた。何を話しているのだろうか、そんなことを思っていると真凜と目が合った。

「おはよう」そう声をかけられたらどれだけいいか。そんなことができるのは、真凜が友達だと思っている子だけだ。

 莉子のようなグループのすみっこにいるような人間は、こちらから声をかけることは許されない。いつも通りろう側の一番後ろにある自分の席に静かに座った。

 莉子にできるのはここに座って真凜に名前を呼ばれるのを待つことだけだ。それまでは誰とも話してはいけない。自分から真凜たちのもとに寄っていってもいけない。こんなくだらないルール、いつ誰が作ったのかわからない。でもそう決められている以上、守らないわけにはいかないのだ。

 そわそわしながら、何度も真凜たちの方を見てしまう。クラスのあちこちで楽しそうな話し声が聞こえる。みんなが楽しそうな中、独りぼっちで座っているのは落ち着かない。早く名前を呼んで欲しい。こっちに来ても良いよ、と教えて欲しい。

 そのとき、真凜がこちらを見たのがわかった。笑っているところを見ると機嫌が良さそうだ。きっとあと少し。もう少し待てば『莉子』って名前を──。

「莉子」

 瞬間、名前を呼ばれた。でもそれは真凜の声ではなく、もっと低い、つい最近聞いたような声だ。違う、かんちがいだ。そう思おうとするのに、声の主はもう一度「莉子」と名前を呼んだ。

 どこから呼ばれているのか。慌てて辺りを見回そうとして、声の主が廊下の窓を開けこちらを見ているのに気付いた。

 ニコニコと笑みを浮かべた染井の姿に、莉子は反射的に窓を閉めた。そして辺りをかくにんする。誰にも見られていないか、誰にも聞かれていないかどうか。幸い、みんな自分たちの話に夢中でこちらを気にするひまなどないようだ。

 ホッと息をしたのもつかの間、再び廊下の窓が開けられた。

「なんで閉めるんだよ」

「なっ、ちょっと待って!」

 莉子はもう一度窓を閉めると、真凜たちの視線がこちらを向いていないことを確認してから、教室を出た。

「あれ? どうしたの? わざわざ出てきてくれるなんて、わいいなぁ莉子ってば」

「まっ、なっ……」

 まるで金魚のように口をパクパクしてしまうばかりで言葉が出てこない。この人はいったい何を言っているんだ。

 とにかく口をふさがなきゃ。手をばすとその口を物理的に塞ごうとする。けれど逆に腕を摑まれて引き寄せられてしまう。

「なに……っ」

「何ってそれは俺のセリフだよ。そんなに俺に会いたかった? でも、ここ廊下だから、俺はいいけどみんなに見られたら困らない?」

 その言葉に我に返る。

 おそおそる振り返ると、気付けば廊下は静まり返り、みんなの視線が莉子と染井に向けられていた。このままだと教室にいるクラスメイトが──真凜が、異変に気付くのも時間の問題かもしれない。

「どういうつもり? 約束と違うじゃん」

「約束? ちゃんと守ってるつもりだけど」

「どこが! 教室では今まで通り無関係でいるって言ったじゃん!」

「でも、ここ廊下だし」

「は……?」

 ほうける莉子を染井はしてやったりといった表情で見つめる。その顔に、莉子はようやく自分の間抜けさに気付く。たしかに染井は教室の中にはいない。なんなら莉子自身が、染井がいる廊下へと自分の意思で出てきて話をしている。

 だから約束通り、染井は莉子に教室で話しかけたりなどしていないのだ。

「そんなくつみたいなことっ」

「屁理屈でも何でも、俺はちゃんと約束を守ってるでしょ?」

 それはそうかもしれないけれど。いや、それでもなつとくするわけにはいかない。

「だいたい莉子って何よ」

「何って自分の名前も忘れたわけ?」

「そんなわけないでしょ! なんで染井が私のことを呼び捨てしてるのって言いたいの」

「言っていいの?」

 意地悪く笑ったその顔に莉子は嫌な予感が頭を過った。ダメだ、きっとこのままじゃろくでもないことを言われる気がする。

「言わなくていい。お願いだから黙って」

「それは、俺たちが──」

「俺たちが、どうしたの?」

 莉子のすぐ後ろから、聞き覚えのある可愛い声が聞こえたと同時に、莉子の肩に誰かの手が乗せられた。こんなにも可愛い声なのに、莉子の背中はまるで冷や水を浴びせられたかのように寒くなる。ポンと肩に置かれた手にぐっと力が入ったのがわかった。

 ぎこちなく振り返るけれど、そこにいるのが誰かなんて見なくてもわかる。だって、この声は。

「真凜……」

「おはよ、莉子。さっきから呼んでるのに来ないから来ちゃった。二人楽しそうに話してたけどどうしたのー?」

「え、あ、えっと」

 いつの間に廊下に出てきたのだろう。私の肩を摑んだまま笑みを浮かべる真凜の姿に、のどの奥がきゅっとせまくなり声が上手く出せなくなる。誤解だと、違うんだと説明しなきゃ。楽しそうになんてしてないと、染井とは無関係なのだと説明しなければ。

「莉子ったらホントどうしたの? 変なのー。ね、悠真君もそう思うでしょ?」

 少し小馬鹿にしたような声でクスクスと笑いながら、うわづかいで染井を見つめて真凜は言う。染井が同意する以外の回答などこれっぽっちも想像していないかのようなこわいろで。

 莉子はぎゅっと手を握りしめる。そうだ、ここで染井が「ホントにな」と同意して笑ってさえくれればきっと真凜の機嫌もよくなる。だから、それでいいんだ。そうすれば全てが丸く収まるんだから──。

「そう? 変な子とは俺は思わないけどな」

「え?」

 驚いたような真凜の声が聞こえた。けれどそんな真凜など気にも留めず、染井は話を続ける。

「ってか、さっきの俺たちが──の続きだけど」

 染井は真凜の手からはなすように莉子の手を引っ張ると、自分の方へと引き寄せる。まるできしめられるような体勢になった莉子は、自分の身体に回された染井の腕の力強さと、それからブレザーしに伝わるぬくもりに、心臓がうるさく鳴り響くのがわかった。

「な……」

 莉子と染井の姿に真凜はぼうぜんくす。そんな真凜に染井はおかしそうに言った。

「俺たち付き合ってるんだ。だから、人の彼女バカにするのやめてくれない?」

 その瞬間、廊下だけではなく、教室からも女子の悲鳴と、それから男子たちのはやてるかんせいのような声が聞こえた。頭がクラクラする。これが現実だと思いたくない。いっそ気を失ってしまえれば楽なのに。

 けれど、あちこちから聞こえる声が、そして目の前で睨みつけるようにして莉子を見る真凜が、現実からのがれさせてくれない。

「そう、なんだ」

 真凜の声は普段教室で聞くのとは違い、冷たくこおいているようだった。この声を莉子は知っていた。それは放課後、莉子で遊ぶのにきたときに「つまんない」と言うトーンと同じだったから。

「知らなかったー。ねえ、莉子。私たち友達だと思ってたのに、どうして言ってくれなかったの? あ、それとも友達だと思ってたのは、私だけだったってことかな。悲しいなー」

「あ、ま、真凜」

「あは、もう莉子なんて知ーらない」

 笑みを浮かべているはずなのに目はいつさい笑っていなかった。冗談っぽく言ってはいるけれど、どう考えても本気だ。

 ああ、これで終わりだ。もう教室の中に莉子の居場所はない。

 自分の席に戻っていく真凜を見つめながらがくぜんとする莉子をよそに、染井は「女子ってこえー」なんて莉子のすぐそばでつぶやいた。

 慌ててその腕を振り払うと、莉子は染井を睨みつける。

「どうしてくれるのよ!」

「ん? どうって? 俺はホントのことしか言ってないよ」

「だからって!」

「何か文句でもある?」

 染井は莉子に微笑みかける。その笑顔で見つめられたら、たいていの女の子はだまってしまうだろう。莉子以外は。

「文句しかない」と言い返そうとした莉子の目の前に、染井はスマートフォンを見せつけるようにした。まるでそれ以上何か言うとあの動画を先生たちに見せるよ、と言わんばかりに。

「ぐっ……」

 黙りむ莉子にもう一度笑みを浮かべると、染井は教室の中へとようやく足をれる。男子たちは染井を囲むと何やら楽しそうに話し始めた。時折、莉子の方へと視線が向けられるのを感じたから、きっと先程の話をしているのだろう。

 廊下に立ち尽くす莉子に、こうの視線が向けられていることに気付く。慌てて教室に戻ると、莉子は力なく自分の席に座り、俯くと机の木目だけを見つめる。みんなの視線が怖い。何を言われているのかなんて想像がつく。

 これから先、いったいどうしたらいいのだろう。教室にいるみんなが莉子と染井が付き合っていることを知ってしまった。

 ──このあと教室どころか一気に学年を、そして学校中をまわることを、莉子はまだ知らずにいた。


 うわさばなしが広まるのは早い。昼休みになる頃には学年どころか学校中の女子が染井と莉子が付き合い始めたことを知っていた。それどころか、噂に尾ひれがついて『染井が莉子との交際宣言をした』と話題になっていた。

 廊下側の席だったことが余計に不幸を呼んだ。休み時間が来るごとに「あの子が染井くんの彼女なんだって」「え、普通じゃん」「むしろ普通以下だよ」という会話が廊下でひろげられる。その言葉が全て莉子の耳に届いてしまうのだ。

 そして、さらに──。

「あ、ごめんねー」

 廊下を歩けば、通りすがりに上級生から肩をぶつけられる。ばこの靴はいつの間にかゴミ箱に捨てられ、代わりに落ち葉やゴミが入れられていた。

 真凜たちはそんな莉子をおかしそうに見ているし、今まで少しきよはあったもののそれでも用事があれば話をする程度の距離感だったクラスメイトの女子たちは、あからさまに莉子のことを避けるようになった。めんどうくさいことにまれたくない、莉子のことが気に食わない。色々な感情がそこにはあるのだろうけれど、教室でのごこは今までにないぐらい最悪だった。

 一秒でも早く、教室から、そして学校からしたかった。少しでも人目から逃れようと、休み時間はトイレに、昼休みは人気のない校舎裏へと向かった。

 それでもかげぐちは、ちようしようはついて回る。どこにいても誰かが莉子のことを指さしあざわらっていた。

 だから莉子は、帰りのホームルームが終わった瞬間、とにかくこの場所から逃げ出そうと、カバンを持ちクラスの誰よりも早く席を立とうとした。なのに。

「ねえ」

 声をかけながら莉子の肩を摑んだのは、その日一日中莉子のことを存在しないかのように無視していた真凜──ではなく、戸川だった。

「え?」

 驚きが隠せなかった。だって、真凜があんな態度を取っているのに、戸川が話しかけてくれるなんて。

「ど、どうしたの?」

 思わず声がうわってしまう。そんな莉子を馬鹿にしたように見て戸川は言った。

「真凜が呼んでる。行くよ」

「あ……」

 チラッと戸川が視線を送った先には、こちらを睨みつける真凜の姿があった。莉子はどうすればいいか、ほんの少しだけ悩んだ。でももしかしたらこれが最後のチャンスなのかもしれないと思った。今、このチャンスを逃せばきっともう真凜たちのグループに戻ることはできない。

「わかった」

 カバンを持って立ち上がる。一瞬、染井と目が合った気がした。けれど、その視線を振り払うと、莉子は戸川の後をついて教室を出た。

 向かった先は、昨日もおとずれていたあの公園だった。

 夕暮れにはまだ早いこともあり、小学生が何人か遊んでいた。けれど莉子たちの異様な空気に何かを感じたのか、そそくさと公園を出て行ってしまう。

 残されたのは真凜たちと戸川、そして莉子だけだった。

 あからさまにイライラした様子の真凜を、戸川はチラチラとうかがいながら莉子を睨みつけた。

「弱みでも握ったの?」

「弱み……?」

 戸川の言葉の意味が理解できなくて思わず復唱してしまう。首をかしげる莉子に戸川は苛立ちをぶつけるかのように声を荒らげる。

「だから! どんな手を使ったらあんたなんかが染井と付き合えるのって聞いてるんだよ。何か脅したんでしょ? あーあ、染井ってばわいそうに」

「脅してなんてないよ!」

「じゃあなに? 染井があんたのことを好きで付き合ってるとでも言いたいの?」

「ちがっ……」

 否定しようとして慌てて口をつぐむ。違うと言ってしまえば、じゃあどうして付き合っているのかと再び問われるだろう。問われたところで、理由を答えるわけにはいかない。真凜たちに虐められていると誤解されるような動画を撮られてしまったんだ、なんて言えるわけがない。

 それに……言えば必然的に染井の鼠動病についても話さなければならなくなる。さすがにそれを染井のいないところで勝手に話すのははばかられる。

 黙ってしまった莉子に、とうとうまんができなくなったのか「あのさ」と真凜が口を開いた。

「ぶっちゃけさ、付き合ってる理由なんてどうでもいいの」

「真凜……」

「そんなことより、いつ別れるのかを聞きたいわけ」

 ジャリッという音を立てて真凜が莉子の方へと近づいてくる。一歩、また一歩と進むたびに莉子はどうが速くなるのを感じる。息が上手くできない。

 莉子とほとんど身長が変わらないはずなのに、目の前に立たれるとみようあつかんに身体が縮み上がりそうになる。

「ねえ」

「…………」

「別れるよね」

「それ、は」

 どう答えるのが正解なのか莉子にはわからない。

 黙ったまま立ち尽くす莉子の腕を、真凜は摑んだ。痛みで持っていたカバンを地面に落としてしまう。けれど、拾うことなど許されるわけがない。

 落ちたカバンをみつけながら真凜は笑みを浮かべた。

「別れてこいよ」

「っ……できるなら! できるなら私だってそうしてるよ!」

「は?」

 思わず言い返してしまった莉子を真凜はきっと睨んだ。火に油を注ぐ、とはまさにこのことだ。

 腕を摑んだ真凜の手に力が入る。制服越しに立てられた爪が莉子のはだす。

「なに言い返してんの? 何様のつもり? ……ねえ莉子さあ」

「え?」

「一回ちょっと頭冷やせば?」

 ゾッとするほど可愛く笑うと、真凜は莉子の腕を摑んだまま歩き出す。向かった先には公園に設置されているふんすいがあった。

「やっ、何を」

「ん? 何ってだから頭冷やすの。ほら、こうやって」

 真凜は莉子の肩を摑むとそのまま噴水の中へとれた。

 体勢をくずした莉子は、激しい音を立て勢いよく噴水の中へと落ちた。その場にすわみ全身ずぶれになった莉子の頭上へと噴水の水が降り注ぐと、真凜は手を叩いて笑った。

「あーおっかし。そんなタイミングよく噴水出てくる? 莉子、あんたってホント持ってるね」

「…………」

「なにその目。何か言いたいことでもあるの?」

 呆然と真凜を見つめる莉子の視線が気に食わなかったのか、真凜は舌打ちをすると戸川を呼んだ。

「ねえ、莉子のカバン持ってきて」

「え、あ、うん」

 地面に落ち、砂だらけになった莉子のカバンは先程、真凜に踏みつけられたせいで靴のあとがくっきりとついていた。それを拾って戸川は真凜にわたす。

 いったいどうするつもりなのか──。

「わー、きったなーい。ねえ、莉子。このカバン凄く汚いよ」

「それは……」

「こんな汚いカバン持って学校行けないよね。可哀想だかられいにしてあげるよ」

 何がおかしいのか真凜は楽しそうに言うと、手に持ったカバンのファスナーを開けた。そして。

「やっ……!」

 莉子が止める間もなく、カバンを逆さに向けた。莉子の頭上から教科書が、ノートが、ペンケースが降り注がれる。それら全てを受け止められるわけもなく、カバンから落とされたほとんどが噴水の中へとんだ。

 最後に仕上げとばかりにカバンをむと、満足そうに真凜は笑った。

「ふふ、これで綺麗になったね」

「あ……あぁ……」

「なに? お礼を言いたいの? ふふ、いいよ。私たちの仲でしょ」

 それは染井の言うとおり、もはやイジリではなく虐めと呼ぶ方が正しかった。噴水のふちに足をかけると、真凜は座り込んだままの莉子を見下ろす。

「だからさ、もう一回言うね。莉子、悠真君と別れてくれるよね」

「…………」

「莉ー子?」

 もういっそ、頷いてしまおうか。どっちにしてもダメならせめて真凜の機嫌を損なわない方がいい。もしあの動画が公表されたとしても、莉子が望んだわけじゃないと真凜さえ信じてくれれば少しは違うかもしれない。

 そうだ、それがいい。

 うん、という返事がのどもとまで出かかったそのとき──少し離れたところで悲鳴が聞こえた。

「きゃっ」

「え?」

 莉子は思わずそちらに視線を向ける。気を取られたのか、真凜も声のした方を振り返っていた。

「そめ、い」

 そこには尻餅をつく戸川と、そしてそのすぐそばを通り過ぎる染井の姿があった。逆光で表情が見えないけれど、どこか怒っているような雰囲気を纏っていた。

「悠真、君……!」

 慌てた様子の真凜はどうにかつくろおうと染井のそばにる。

「どうしたの? こんなところに。あ、もしかして私になにか用だった? なんちゃって」

「…………」

「ねえねえ、悠真君ってば。何か言ってよー」

じや

 腕にからみつく真凜の手を振り払うと、染井は莉子の目の前にやってきた。

 差し伸べられた手を摑んでいいのか一瞬、躊躇ためらう。そんな莉子に「仕方がないな」と染井は笑うと自分も噴水の中へと足を踏み入れた。

「えっ、な、何をしてるの」

「何って、救出?」

「だからって自分も入るなんて、染井って馬鹿じゃないの?」

「そうかも」

 染井は笑うと莉子の腕を摑んで立ち上がらせる。水を吸った制服は随分と重く感じられ、ぺったりと身体にく。

「泣いてるのかと思った」

「……こんなことぐらいで泣けるなら、とっくに泣いてる」

「知ってる」

 莉子の答えに、染井はなぜか満足そうに笑った。

 染井に手を引かれながら噴水から出ると、もうそこには真凜たちの姿はなかった。

 ベンチに莉子を座らせると、染井は噴水へと戻っていく。そしてもう一度中に入ったかと思うと、ばらかれた教科書やノートを拾い集めた。

「酷いことするな……。かわかしたら大丈夫だと思うけど」

 染井はカバンに本やノートを入れる。れたものを入れるなんて、と思ったけれどそもそもカバン自体も噴水に投げ込まれて色が変わるほど濡れていた。今さら中に濡れたものを入れたところで大差はない。

 ふと我に返って自分自身の姿を見下ろす。制服はずぶ濡れで、頭の上から降り注がれた噴水のせいでかみからはいまだに水がしたたっている。

 まるで濡れねずみのような自分の姿に笑ってしまう。すぼらしくみっともない。必死にり続けてきたメッキはがれるときは一瞬だ。

「……え?」

 小さく笑う莉子の頭上に、何かがふわりとかぶさった。それがタオルだと気付いたのは、手を伸ばし柔らかいに触れてからだった。

きなよ」

 どうやらこれは染井のもののようで、ベンチの上に置かれた口の開いたカバンから取り出したのだとわかった。

「……ありがとう」

 ずぶ濡れの身体に乾いたタオルがありがたかった。莉子は小さく頷くと、頭に載せられたタオルを手に取り、濡れた制服を拭き始めた。

「違うだろ」

 けれど莉子の行動を否定すると、染井はタオルを取り上げた。そしてまだすいてきのついた莉子の頭をそっとタオルでぬぐう。「やめてよ」とか「大丈夫だから」とか、普段の莉子ならそう言っただろう。けれど、かみを拭く染井の手つきがあまりにも優しくて、何も言えずされるがままになっていた。

 染井に頭を拭かれながら先程までの出来事を思い出す。あそこまでされなければいけないことを、自分はしたのだろうか、と。ただクラスで浮いた存在になりたくなかった。グループに所属して、あいわらいをして空気を読んで、それで……それで……。

 この半年、莉子が必死にがんってしがみついてきたものとは、いったいなんだったんだろう。

 うなれる莉子の頭上で、染井が「なあ」と声をかけた。その声に顔を上げると優しく莉子を見下ろす染井の姿があった。

「帰ろうか」

「……うん」

 染井は当たり前のように莉子に手を差し出す。一瞬躊躇ったものの、莉子はなおにその手を摑んだ。別に染井に気を許したわけじゃない。ただ心が弱っていた。誰でもいいから莉子を一人にしないで欲しかった。けれどそんな自分を悟られたくなくて、渋々手を引かれているフリをした。

 染井に手を引かれたまま公園を出る。いつの間にか日が暮れ始め、辺りが暗くなっていく。おかげでびしょれのまま歩いている莉子と染井が目立たなくて済む。

「あのさ」

 それまで無言だった染井が口を開いた。

「無理に泣かなくてもいいけど、でも嫌だっていう意思表示はした方がいいと思うよ」

 染井の言うことはわかる。わかるけれど。

「それができれば苦労しないよ」

「嫌だって言うだけじゃん」

「嫌だって言って居場所がなくなったらどうしたらいいの」

「そもそもそんな居場所なんてホントにいるの?」

 染井の言葉は正論すぎて、だからこそ引くに引けなくなる。

「いるよ!」

「ふーん」

 素っ気ない返事に心配になる。あきれられてしまっただろうか。でも一人にはなりたくない。グループから爪弾きにされた結果どうなったのか莉子は嫌というほど知っているのだ。

「じゃあ、俺のそばにいればいいよ」

「え?」

 染井の言葉が理解できず聞き返す。染井は振り返るとまっすぐに莉子を見た。

「だから俺のそばにいればって言ってるの」

「……なんで」

「彼女だから」

「噓の彼女じゃん」

「それでもさ、彼女には変わりないでしょ」

 なんと答えればいいかわからずにいる莉子に「あ、でも」と染井は言葉を続けた。

「好きになっちゃダメだよ」

「当たり前でしょ!」

「ならよかった」

 くつたくのない笑顔を染井は莉子に向ける。染井がどういうつもりなのか莉子には全くと言っていいほどわからない。けれど、こんな笑顔を自分に向けてくれる人が現れるなんて想像もしていなかった。

 染井はどんな気持ちで莉子と付き合っているのだろう。ほんの少しだけ、染井に興味がいた、気がした。

「あ、そうだ」

 前を向いた染井が、何かを思い出したかのように振り返る。

「このあとどうする?」

「は?」

「や、だってさ濡れたままで帰るのもおかしいだろ? あ、うちに来て乾かす?」

 染井の言葉に莉子は動きを止めた。前言てつかい。こんなやつに興味なんて欠片かけらも持っちゃいない。

「さいってー」

「は? っ……て、バカ! そんな顔、すんなよ!」

 莉子の表情の意味を理解したのか、慌てたように染井は言う。握りしめたこぶしで口元を押さえる染井の耳は、真っ赤に染まっていた。

 その反応に、思わず莉子は笑ってしまう。クラスの女の子どころか学校中からモテていて、西高の王子様なんて呼ばれてて、女の子だって選び放題のはずなのに、そんな純情な反応をするなんて。

「……なんだよ」

「別にー」

 ふくわらいをする莉子に染井は不服そうだった。その表情にまた笑ってしまう。そんな莉子に染井はふっと表情をゆるめた。

「いつもさ、そうやって笑ってたらいいんじゃない?」

「え?」

 染井の言葉に莉子はまどう。

「私、教室でも普通に笑ってると思うけど?」

 真凜たちと一緒にいて普通に笑っているはずだ。でも莉子の言葉に染井は首を振った。

「笑ってはいるけど、いつもは全然楽しそうじゃないだろ」

「……そう、かな」

「そうだよ」

 言い切られてしまうと、そうなのかと思わざるを得ない。普段の自分はそんなに楽しくなさそうな顔をしていたのだろうか。じゃあ、今は? 今はどんな顔をして笑っていたのだろう。知りたいような、知るのが怖いような複雑な気持ちだ。

「まあでも冗談は置いといて。ホントにこのまま帰るわけにいかないだろ? どうする? うちはすぐそこだけど」

 親切心から言ってくれているのが伝わってくるからだろうか。それとも思っていたよりも純情な反応を見たから? 理由はわからないけれど、先程のように嫌な気にはならなかった。

 たしかに言われたとおり、このまま家に帰れば何があったのかと心配されるのはわかりきっている。それ以前に、こんな格好で歩いていればそのうち心配した大人に声をかけられてしまいそうだ。

 染井の優しさにあまえてしまおうか。そんなことを考えた、そのとき──。

「わっ」

「マジか」

 スコール、といっても不思議じゃないほどの雨が一気に降り出した。日が暮れてきていると思った空はどうやら雨雲におおわれていただけだったようで、辺りは一瞬にしてみずまりだらけとなっていく。

 慌てて近くの店ののきしたへとなんした莉子と染井は、たがいの姿を見てした。

「これじゃ誰も噴水に落ちたなんて思わないな」

「そうだね」

 染井の家に行かずに済んでホッとしたような残念なような複雑な気持ちだ。隣に立つ染井の姿をそっとぬする。染井は「通り雨だといいんだけど」と言いながら空を見上げていた。

 染井の言葉通り通り雨だったようで、数分後にはほとんど雨はやんでいた。

「これなら平気だな」

 そう言ったかと思うと、染井は軒下を出てまださめが残る中、莉子の方を向いた。

「気をつけて帰りなよ」

 手を振ると、先程歩いてきた道を染井は走っていく。その後ろ姿を見つめながら、ようやく染井の自宅があの公園をはさんで莉子の自宅とは正反対の方角だったことを知る。

 ではどうして昨日も今日もあの公園に染井は現れたのだろう。

 莉子は自分の腕にそっと手を当てる。

 染井が何を考えているのか、莉子にはまるで理解できない。ただ……染井に摑まれた腕だけが、妙に熱を持ち続けていた。

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