この鼓動が止まったとしても、君を泣かせてみたかった
望月くらげ/ビーズログ文庫
第一章 泣けない私は道化師と踊る
1-1
電話の向こうで、友人が笑っているのが聞こえる。
「
「もう
「待って! ねえってば!」
「……り……と……」
電話の向こうで友人が何かを言った気がした。けれど
夕方の、小学生たちが帰ったあとの公園で、友人たちの
莉子は自分の目の前で意地悪い
高校に入学してから半年以上が過ぎた。いつの間にか二度目の
いや、馴染んだのは制服だけではない。人も学校に馴染んでいく。気付けばクラス内での立ち位置やグループ内でのポジションも完全に固まっていた。莉子はクラスでも目立つ
「莉子は本当にバカだよねえ」
「そう、かな? えー、そんなことないよ」
「ううん、バカすぎるよ。心配になるぐらい」
その言葉が善意によるものか、それとも悪意が
入学当初はここまでではなかった。イジられることはあっても、度が過ぎるということもなく、よくある仲間内でのからかいに過ぎなかった。それが夏休みが明けた頃から、少しずつおかしくなっていった。言葉がきつくなり、明確に馬鹿にされることが多くなった。やめてと言えばよかったのだろうか。ちょっとやりすぎだよ、と声を上げるべきだったのだろうか。
何も言えなかった莉子が今の
グループ内でイジられ、パシらされる莉子だけれど、外から見ると仲よさそうに見えるらしい。莉子が何かされていても、どれもじゃれているようにしか見えないというから
かつての、友人のように──。
「ってかさ、莉子わかってる? 自分がどれだけ
どうするのが正解かわからず莉子が
真凜の反応にニヤリと笑うと、戸川は少し興奮したように莉子に向き直った。ああ、なんて楽しそうなんだろう。まるで
「だってさ、今日の体育の授業のとき──」
戸川が口にするのは、本当のことを十倍も二十倍も
実際は「
でもこれは、今に始まったことではない。だからもう慣れた。例えば、莉子が誰かの
「ちゃんと
「う、うん」
「何、その顔。私は莉子のためを思って言ってあげてるのに」
「あ、えっと、そうだよね。わかってるよ、ありがと」
「いやいやいや! 思ってもないのにそんなこと言わなくていいよ。あーあ、莉子ってそういうところあるよね」
「そ、そんなことないよ」
「そんなことあるでしょ。私だったらさ、こんなふうに友達から注意されたらきっと泣いて謝るよ。だって自分が悪いことしたって気付くんだから」
ああ、始まってしまった。またこのパターンだ。
「ねえ、莉子ってすっごく図太いよね。こんなになっても涙の一
「それは……」
「申し訳ないとか酷いことをしてしまったって思わないの? ねえ、なんで?」
「思ってるよ。思ってる、けど」
「じゃあ、なんでそんなふうに平然としているわけ?」
責めて責めて責め立てて、それでも泣かない莉子に
莉子を泣かせるための、いつものお決まりのパターンだ。
泣けるものなら莉子だってさっさと泣いて満足させている。でも、泣くことができないのだ。
けれどそんなことを伝えたところで信じてもらえるとは思えない。むしろ泣けないのなら泣くまでさらにイジられるだけだとわかっている。だから莉子は申し訳なさそうに見えるであろう表情を作ることしかできないのだ。
ごめん、と謝るのもおかしいので黙ったままでいると、戸川はあからさまにため息を
「結局さ、自分が同じ目に
「え?」
「だからね、教えてあげる」
そう言ったかと思うと、戸川は莉子の肩を強く
「うわー、莉子ってばそんなところに
「なっ……っ」
頭上から馬鹿にしたような戸川の声が聞こえる。逆光で顔は上手く見えないけれど、楽しそうに笑っているのが声からもわかる。
反射的に声を
「……なんてね。どう? これで言われたさっちの気持ちがわかった?」
戸川は
莉子は差し伸べられた手をそっと取ると、立ち上がった。
笑え、笑うんだ。心の底から感謝をしていると、そんな笑みを浮かべるんだ。
必死で自分に言い聞かせると、莉子は一度二度と呼吸を
「うん、ありがとう。ホント私ってダメだよね。ごめんね、こんなことさせちゃって」
「ううん、莉子ならわかってくれるって思ってたよ。大丈夫だった?
わざとらしい言葉。作られた笑み。でも、それは全部莉子も同じだ。
「大丈夫だよ。戸川さんが私のこと思ってやってくれたんだってわかってるから」
莉子の言葉に真凜の周りにいた他の子たちがクスクスと笑っているのが見える。きっと馬鹿にされているのだろう。こうまでしてグループにいたいのかと思われているのかもしれない。
思い出した苦い
きっとあの日から、莉子の心は止まったままなのだ。友人だった
「ならよかった。だよね、私たちみんな仲良しだもんね」
それはまるで
「そうだよ、私たち仲良し──」
「あーあ、つまんないの」
けれどそんな友情ごっこは真凜のお気に召さなかったらしく、莉子にもそして戸川にも目を向けることなく隣にいた友人に「帰ろ」とだけ言って公園の出口へと向かっていく。
戸川は慌てたようにその背中を追いかける。自分以外誰もいない公園で、一人残された莉子はようやく今日が終わったことにホッと息を吐いた。
そう思うのに離れられないのは、もはや
「はぁ……」
そろそろ自分も帰ろう──。
ベンチに置いたままになっていたカバンを取りに行く莉子の耳に、ふと誰かの足音が聞こえた。
一瞬、もしかしたら真凜たちのうちの誰かが
けれど、振り返った莉子の視線の先にいたのはクラスメイトの
学校で人気のある染井と莉子に共通点はない。あるとすれば同じクラスというだけだ。女子と話をすることはほとんどなく、いつも特定の仲のいい男子と
たしかに整った目鼻立ちをしている。読者モデルをしているなんてことを真凜が言っていたけれど、そういう
こんなところで話しているのを知られたりなんかしたら、何を言われるかわからない。それこそあることないこと言われ、悪者に仕立て上げられてしまう。
気付かなかったふりをしよう。向こうもこちらには気付いていないかもしれないし。
莉子はカバンを手に取ると
「……なに?」
「三橋こそこんなところで何してんの?」
「別に。用がないなら手、離して」
一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。冷静に
「あのさ」
「なに!」
苛立ちを
「泣いてやめてって言えばさすがにやめてくれるだろうに、どうして泣かないの?」
一瞬、言われた言葉の意味が理解できなかった。ゆうに十秒は
「
「たまたまだよ」
「へえ。……言っとくけど、あれ別に
けれど、染井は莉子の言葉なんてこれっぽっちも信じていないようだった。
「先生に相談はしないの?」
「だから──」
「ちなみに、さっきの。動画に
染井の言葉に、莉子は頭の中が真っ白になるのを感じた。まるで耳鳴りのような音が鳴り響く。こういうとき
口を開けるけれど、上手く言葉が出てこない。
「
「どうだろ」
けれど、どうにか絞り出した莉子の言葉を、染井は肩をすくめるようにして返答をぼかす。ふっと笑う染井の姿に苛立ちさえ覚える。
声を荒らげそうになるのを必死に堪えると、莉子は口を開いた。
「何がしたいの」
「ね、そんなことよりさっきの質問に答えてよ。どうして泣かないの?」
「別にそんなこと」
あんたに関係ないでしょ、そう
少し悩んだあと、莉子は
「泣かないんじゃなくて、泣けないの!」
「──知ってるよ」
「は?」
何それ、知ってるなら聞かないでよ。だいたいなんであんたが知ってるの。適当なこと言わないで。知ってるわけないでしょ。
言いたいことはたくさんあった。そんな
染井の視線に、莉子はバツが悪くなって顔を
「
「だからなに!」
「俺、あと三ヶ月で死ぬんだ」
あっけらかんとした口調で言われた言葉の意味は、
そもそも染井は文脈というものを知らないのか。今、莉子とそんな話をしてはいなかったはずだ。急にどうして、染井があと三ヶ月で死ぬなんて話になるのだろう。
結局、なんて返事をするのが正解なのかわからず、気になんてしていないふうを
「
莉子の態度を気にすることなく染井は話を続ける。 知ってる? と、
染井が口にしたのは近年明らかになった新しい病気の名前だった。
けれどこの病気の人間だけは、鼓動の回数が二十三億回と決まっているのだ。鼠動病の人間は、まるで鼠のように
知っている、と言っても、先日たまたまつけていたテレビの中でレポーターが言っていた程度の知識しかなかったけれど。知らないわけではないからまあいいだろう。だが、それがいったいどうしたと──。
「俺、鼠動病なんだって」
言っていい冗談と悪い冗談があると、子どもの頃に教わらなかったのか。反射的にそう言いそうになったけれど、やめた。そんなことを言う関係ではない。
ただ、染井の口調は冗談を言っているようには思えなかった。まさか本当に……?
……だとしても、莉子には関係ないことだ。
「ふーん、だから?」
残念ながら、目の前の特に仲がいいわけでもないクラスメイトが鼠動病だったとしてどうだというんだ。関係のない人間が、関係のないところで死ぬだけだ。
「お気の毒に、としか思わないんだけど、それを聞かせて私にどう思ってもらいたかったの?」
「別に? それぐらいの反応で良いよ」
「どういう意味?」
問いかけてからしまったと思った。これではまるで染井に対して興味を持っているようではないか。けれどそんな心配は莉子の
「そのまんまの意味だよ。──話は変わるんだけどさ、俺自分で言うのもなんだけどそこそこモテるんだよ」
「は?」
「まあ、だからなんだって話だけどさ」
モテることになんて大して興味はない、と言わんばかりの態度の染井に、莉子は
「読者モデル様が何を言ってるの。自分が
「なんだよ、それ。だいたい読者モデルったって、あれはたまたま街で写真撮ってもらって
「へー?」
莉子から発せられる冷ややかな空気を気にすることなく、染井は話を続けた。
「でもさ俺、今まで誰とも付き合ったことがないんだよ」
「そんなにモテるのに? 王子なのに?」
「そんなにってなんだよ。ってか、王子って呼ぶなよ。……で、まあそんな感じでさ、今に至るまで誰とも付き合ったことないんだけど、俺このままじゃ誰とも付き合わないまま死んじゃうってことに気付いちゃって。これはヤバいなと」
「ヤバいんだ」
「ヤバいでしょ、そりゃ」
死ぬことよりも誰とも付き合わずに死ぬことの方がヤバいって、なんだそれは。その感覚が莉子には理解できない。
「好きな人は?」
「いない。いないから、今こうやって言ってるんだろ」
それもそうか。けれど、まあそれなら。
「好きだって告白してくれた子に『やっぱり付き合う』って言えばいいんじゃないの?」
「
立っているのが
「手、離してよ」
「話が終わったらね」
どうやら本当に腕を離す気はないようだ。こうなればさっさと話を聞いて解放してもらうより他ない。
日は完全に暮れ、公園の街灯に明かりがつく。時折風が
一年のうちでこの季節が一番好きだ。暑くもなく寒くもなく、過ごしやすいこの時期が。なのに、年々秋の時間が短くなっていっている気がして
こんなところでグズグズしていないで、早く帰ろうと、莉子は隣に座る染井へと投げやりな口調で問いかけた。
「前の子が嫌なら、これから告白してくれる子でもいいんじゃない?」
「そういう問題じゃないんだよ。そもそも今の状況で、俺のことを好きな子と付き合うのが
「どういうこと?」
染井の言っていることが理解できない。自分を好きでいてくれる子と付き合わずに誰と付き合うというのか。
「俺のことを好きな子だと、俺と付き合って俺が死んだら泣くだろ?」
「まあ、そりゃ泣くんじゃない? 好きな人が死ねば。付き合ってる人ならなおさらだよね」
「でしょ? それが嫌なの」
「もう何言ってるのか意味わかんないんだけど」
「あのさあ」そう言いかけた莉子の言葉より早く染井が口を開いた。
「だからさ、泣かせたくないの。俺のことを好きな子を」
その声がどこか寂しそうに聞こえて、莉子は思わず隣に座る染井の顔を見てしまう。
こんな顔を、していただろうか。
すぐそばの街灯に照らされた染井の顔は、普段教室で見るよりも随分と大人っぽく見えた。
「今回のことがあってさ、まあ当たり前だけど親とか泣くわけだよ。俺の前では
言わんとしていることはわかる気がする。大切な人を自分のせいで傷つけるなんてことしたいと思うわけがない。
でもそれと莉子にこの話をするのとどういう関係があるのだろうか。
いや、うん、まさか。そんなわけないと思いつつも一度頭を
「そっか、じゃあしょうがないよね。もうこのまま誰とも付き合わずにいれば傷つけることも悲しませることもないもんね。それじゃあ、まあ元気出して──」
「待てよ」
腕を摑んだ手に力が込められるのがわかる。振りほどきたいのに振りほどけない。痛いぐらいにまっすぐ染井が見つめてくる。
「離して!」
「どうして?」
「いいから、離してって──」
「ね、俺と付き合ってよ」
「なんでっ」
「三橋なら俺が死んでも泣かないでいてくれるだろ。泣けないから、泣かれなくていい。自分が死んだときのこと考えても気が楽だ」
意味がわからない。いや、言っていることの意味がわからないわけじゃない。けれど、だからといってどうして莉子が付き合わなければいけないのか。
「嫌だ」
「なんで」
「好きじゃないから」
「だからいいんだよ。好きになんてならないで。俺のこと
「どうしてそこまでして」
「さっきから言ってるだろ? 誰かと付き合ったことのないまま死ぬなんて嫌なんだって」
むちゃくちゃだ。こんな話に付き合っていられない。どうにかこの腕を振り払ってこの場を立ち去ろう。
でもさっきの動画を本当に撮られていたとして、あれを誰かに見せられたりしたら……。
──そういえば。
ふと、莉子は気付く。撮ったとは言われたけれど、実際に見たわけじゃない。もしかするとあれは染井の噓だったのではないか。本当ならあの場で再生してみせるはずだ。
そもそも再生してみせてよ、と言わなかった莉子の落ち度ではあるのだけれど、あのときは気が動転してそれどころじゃなかった。
ああ、そう思うと全てに
「それに三橋は断れないよ」
染井はニッコリと笑ってみせると、ポケットから取り出したスマホの画面をタップする。すると、先程までの莉子と真凜たちの姿がそこには映っていた。
「それ……ホントに撮ってたの……?」
「噓だと思った? 断ったら、これ校長先生とか担任とか、ああ教育委員会もいいな。そういうところに持って行くから」
「何それ最悪。
「
染井が音量ボタンを操作すると、戸川と莉子の会話が鳴り響く。
「これ、他の人が見たらどう思うかな? 俺にはどう見ても虐めにしか思えないんだけど」
「と、友達同士の悪ふざけだよ」
「ふーん? まあでも見る人によっては虐めに見えたりすることもあるかもしれないよ? 感じ方は人によって違うからね。ほら、これとか俺には三橋が思いっきり突き飛ばされて転ばされているようにしか見えないなぁ」
「それ、は」
手をぎゅっと
この動画を他人に見られてしまえば、きっと莉子がどれだけ違うと言い張っても虐めだと
「……付き合ったら、その動画見せたりしないの?」
「もちろん」
笑みを浮かべる染井に苛立ちを覚える。けれど、今の莉子にはこの提案を受け入れるしか。いや、この脅迫に
強く握った手のひらに
「……わかった」
「そうこなくっちゃ」
「でも、一つだけお願いがあるの」
「お願い?」
首をかしげる染井に莉子は頷く。
「教室では今まで通り無関係でいて欲しいの」
莉子と染井が付き合っていることがわかれば、きっと真凜は莉子を許さない。染井に黙って真凜に事情を話す、という手もあるけれど、たとえ理由があって
真凜以外にも何か言ってくる人間はいるかもしれないけれど、それは莉子にとってどうでもいいことだった。自分の居場所を守りたい。ただそれだけだった。
「無関係、ねえ」
「そう。今までだって別に私たち教室で話したりしてなかったでしょ? だからみんなの前ではそのままでいて欲しいの」
「……おっけ、三橋の話はわかった。教室では今まで通りにして欲しい、と」
頷く莉子に染井は
ひとまず
いつもよりも真っ暗な道のりは、今の莉子の心の中のようにどんよりとして見えた。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
とりあえず、絶対に真凜たちには気付かれないようにしなければ。
重い足を引きずるようにしながら、莉子はとぼとぼと自宅への道のりを歩き続けた。
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