雲の彼方、満天に星は瞬く

シンカー・ワン

雨と涙と男と女

 とある大都市の片隅。

 古いが造りのしっかりしてそうな鉄筋コンクリート三階建ての賃貸集合住宅、その三階、西の角部屋。

 夜のとばりの下りた街を眺める様に、開け放たれた南側の窓から女が顔を覗かせていた。

 年の頃は二十代半ばといったところか?

 すでに湯上りなのだろう、化粧っ気は無いがそれでもハッキリとわかるほど美しく整った顔立ちだ。

 ブラッシングされ艶のある髪は烏の濡れ羽色。背の中程までの長さのあるそれをシュシュでまとめ無造作に流している。

 まだ熱の抜けきっていない、ほんのりと赤みが差す透けるような白い肌は、翠色の瞳と相まって女が東洋人ではない事がうかがえたが、純粋な西洋人にも見えない。

 東洋と西洋が交わった存在、女は混血なのだ。

 夜着なのであろう、ドライ生地のルームウェアのトップスをはち切れんばかりに押し上げる双丘はたわわに実った南国の果実を思わせ、同素材のショートパンツから伸びる脚は実になまめかしい。

 意識せずとも周囲に妖しく色気を漂わせる、女はそんな存在だった。 

 窓際に置かれたシングルサイズベッドの上にしどけなく座り込み、壁にもたれる様にして外を見やる女。

 その視線は街ではなく、上。空の方へと向いていた。

「……見えそうに無いなぁ」

 厚く垂れ込めた雲を見ながら、硬質だがつやのある声音で誰にともなく呟く。

「何が見えないって?」

 返事があった。よく通る張りのある声で。

 居間なのか寝室なのかよくわからない雑多な部屋のほぼ中央、座卓にノートパソコンを据えて、ディスプレィを見詰めながら手馴れた風にキーを叩く男がいた。

 年の頃は女とさして変わらない感じだが、なぜか実年齢以上に見て取れる雰囲気がある。

 こちらも既に風呂上りなのか、小ざっぱりした様子。

 適当に伸ばした風な散切り頭を使い古したタオルで包み、精悍な面立ちに無精ひげが目立つが不快な感じはない。

 座り込んでいる座卓と比較しても割りと大柄なのがうかがえ、迷彩柄のタンクトップの上半身はナチュラルに鍛え上げられた筋肉に覆われているのが見て取れる。

 どこから手に入れたのか、今では貴重な旧モデルの米海兵隊ご用達下着シルキーズを穿いた下半身も上と同様、しなやかだが張りのある筋肉によって包まれていた。

「――星、星よ」

 女が男の方へと向き直り、言葉を繋ぐ。

「星……。あぁ、そういや今日は七夕か」

 男は顔を向けもせず、キータイプしながら話す。

「年に一度の逢瀬よ、出来れば会わせてあげたいって思うのが人情ってものでしょ?」

 女が女性らしい感覚で返すが、

「……お前って、そんなにロマンチストだったっけ?」

 男はそんな女の言葉になにか引っかかるものがあったのか、やや間をおいて答える。

 顔はディスプレィを見詰めたままだ。

「いいじゃない、たまにそんな気持ちになったって……」

 そんな男の態度に対し、拗ねる様にまた窓の外へと視線を戻す女。

 一向に切れ間の見えそうに無い、むしろ今にも降り出しそうな空を見上げながら、男とのこれまでを思う。

 初めて会ったのは十五の歳。

 転校した先で出来た同性の友人から紹介された、そのの彼氏の親友のひとり。

 出会った時の印象は最悪で、何でも判った様な顔をして物を言う男と、その仲間たちが嫌いだった。

 連中の言う事はほとんど的を射ていて、それが女の触れられたくない気持ちの部分をひどく傷つけるから。

 連中の事で女友達にきつく当たったりもした。その度に彼女は "皆好い人たち" だと "もっと付き合っていけば判る" と根気よく女を諭してくれた。

 その成果なのか、女も徐々にその輪に馴染み出し、気がつけばいつしか連中を生涯の友人と認めるまでに。

 連中の傍らは居心地が良かったが、特に落ち着けたのが男の隣りだった。

 特別な約束を交わした訳でもなく、いつの間にか関係が出来上がり、互いの進学や就職で離れた時期もあったが、男が大学を卒業し女の住むこの街へと来た事から関係は元に戻り、今に至っている。

 女は自分の住む場所を持っているが週の半分は男の部屋で過ごしている。

 男は女のそんな生活を気にしていなかった。

 一緒に居るからと特に何かする訳でなく、互いに気を遣う事も無しにただ傍に居る。

 それだけ。

 ただ居心地がいいからと続けているこの関係に、女は漠然とした何かを感じていた。

 言葉にすれば容易い事なのだが、女にはそれを切り出す事が出来ない。

 男も承知でやっている、今の女の仕事がそれを押し留めているから。

 女の職業はAV女優。今風に言えばセクシー女優だ。

 一糸纏わぬ姿を、肌を重ね合う露わな様を見せる事で糧を得ている。

 この業界では珍しい、芝居で魅せれる女優として支持層はコアだが業界内外にファンが多い。

 その演技力を買われてか、今はビデオよりも映画での仕事が多くなっていた。一般向けからのオファーも増えた。

 アダルト業界を選んだ事を悔いてはいないし、仕事に対する誇りもある。

 だけど、踏み込み切れない一線があった。

 媒体を選ばない物書きを生業としている男は、女の出演作のシナリオを書いた事もある。

 それほど承知している事実であるのに、女は切り出せず、男は何も言わない、そんな境界線。

 このまま、形無くこの関係が続いていくのだろうと女は思っている。

 それは別段不都合も無く、悪くないものだろう。

 今と、今までと変わらないのだから。

 それでも、それでもと女は考えてしまう。

 これまで望んでいなかった確かな関係を、何も言わずに通じるのではなく、言葉にして欲しかったし、目に見える形で欲しくなっていた。

 そんな憂鬱な気分を曇天の七夕の空に重ねる。

 泣き出しそうな空は今の自分自身の気持ちなのだろうか? それすらも判らない。

 自分の気持ちの落としどころがまるで判らない。

 どうしたいのか、どうして欲しいのか。

 考えれば、思えば、それだけ気持ちが沈んでいく。

 もう何度目かのため息をついた時、頬に水滴が触れた。

 ついに空が泣き出す。

 ゆっくりと降り出した雨は次第に勢いを増し、あっという間に本降りへと変わる。

 降り出した雨が自分に対する答えの様な気がして、恨めしそうに天を仰ぐ女。

 開け放していた窓を閉じ、そこへ映りこむ自分の顔が見える。

 泣いてしまいたいような、笑いたいような、そんな情けない顔をしていた。

「降ってきた?」

 相変わらずディスプレィを見詰めたまま、窓を閉める気配に対して言葉を投げかける男。

「うん。織姫の涙雨かな……」

 何かを諦めた様な、そんな気持ちが乗った声音で降りしきる雨を見ながら答える女。

 そのまま諦念に沈んでいきそうな女の背に、

「――涙は涙でも、案外、嬉し涙だったりしてな」

 と、男のどこか楽しげな声がかかった。

「えっ?」

 その声音から伝わるそれまでと違う雰囲気に、男の方へと向き直り続く言葉を待つ。

「下から見れば雨雲だらけかも知れんが、雲の上はスッキリしたもんだろ? 地面に這い蹲ってる俺らにゃわかりゃしないが、お空の上で何の問題も無しに会えてんだろうさ、織姫と牽牛」

 弾む声でそう言うと、勢いよくエンターキーを叩き、

「よし、終わり」

 今し方打ち込んだテキストデータが無事保存された事を確認し、ノートパソコンを閉じるとおもむろに女の方へと顔を向け、

「だから、なーんも心配する事ねーんだよ。お前もな」

 と、頼もしげな笑顔で女に言い放つ。

「俺はお前から離れていく気はねーし、お前を放す気もねぇ。じぃさんばぁさんになるまで一緒に居るつもりなんだがね?」

 何の気負いもなく投げ掛けられた、きっと自分が今までずっと待ち望んでいた言葉に、端正な顔を喜びでくしゃくしゃに歪ませる女。

「近いうちに左手の薬指用のアクセサリーでも買いに行くか。で、そのあと区役所かな?」

 男のあっけらかんとした笑い顔がとても頼もしく見えた。

「――シンさんっ」

 男の名を呼びながら、そのたくましい胸へと飛び込む女。

 エメラルドグリーンの瞳から溢れるのは嬉しさゆえの涙だろう。

 女を抱きかかえ、大きな手のひらでその頭を撫でながら、

「ま、それより先に、まずはちゃんと一緒に暮らすとこからだな?」

 優しく言葉をかける。

「うん、うんっ」

 男の胸に顔を埋めながら、何度も頷く女。

 女を抱きかかえ直すと、そのまま寝床へと連れていく男。

「んじゃ、今夜は織姫たちに負けないくらいにしっぽりと濡れますか?」

 これから行うであろう情事を感じさせない爽やかな顔でそう告げる男。

「いっぱいいっぱい、可愛がってね?」

 心底嬉しそうに答える女。


 七月七日、夜。

 天上の織姫と牽牛に負けじと、地上でも星の数ほどの男女が睦みあう。

 そんな一組の男女のお話。

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