なぜ彼女は立っているのか⑥
目があった。ような気がした。
実際には窓からの薄い逆光で顔は見えない。ぼんやりと顔や体の輪郭が見える。震えて見えるのは、自分のせいか。
「あなた!」榛菜は怯えを振り切るために声を上げた。思っていたより小さな声だった。
一歩、階段を登る。
「あなたね! 幽霊の真似事しているのは!」今度は、もう少し大きな声が出せた。
もう一歩、階段を登る。
「迷惑してるんだから! もうやめなさい!」いいぞ、この調子。
さらにもう一歩。行ける。続けてもう一歩——
『どうして』
「えっ」
あれ? 耳元で声が。階段の上の人影からもわずかに聞こえた気がしたが、はっきり左側で聞こえた。
『こっちに来たらだめ!』
また
榛菜が後ろを向いた瞬間、階段の上で『少女』が動く気配がした。
しまった、
急いで体を捻って、階段を登ろうと足を前に出した。
榛菜の体が急に浮いた。
足が滑った、そう彼女が認識した時には、ゆっくりと、階段から踊り場へ、踊り場から窓へ、窓から天井へと榛菜の視線が勝手に動いていく。視界の隅に少女が見えた。顔など見えるはずもないが、どうしてそんなに驚いているの、と榛菜は思った。
右足が階段を踏む感触がなかった。体を捻った時に左足を十分に踏み込んでなかったのだ。地面を蹴ったはずの左足の踵が滑り落ちてすぐ下の段にぶつかり、踏み出した右足は宙に浮いたまま、体が後ろへ引っ張られるように崩れる。とっさのことで声も出ない。体をひねることもできない。左手だけが何かを掴もうとするように伸ばされている。右手は……もう、どうなっているのか分からない。このままだと後頭部から———
「あっぶな!」
宙に浮いていた榛菜の体は、力強い腕に抱き止められた。が、その腕の持ち主もさすがにバランスを崩したらしく、榛菜ごとよろけて倒れ込んだ。おしりに軽い衝撃があった。今起こったことが理解できずに呆気に取られる。
「あのな、階段で遊ぶなって小学生の時に言われなかったか?」
この声、聞き覚えがある。ちょっと小馬鹿にしたような軽口。
「え、うそ」驚いて振り返った。
「黒川くん!」
黒川凛太郎が、榛菜の下敷きになっていた。
「なんでここにいるの!?」
「……とりあえずどいてくれ」
「あ」やっと自分がどんな態勢なのか理解した。「ごめん!」
あわてて凛太郎から降りた。体に力が入らないので、そのままへたり込む。
目の前にいるのは紛れもない、塾で顔を合わせる凛太郎だ。薄く脱色した髪、大人びた風貌、比較的大きめの身長、すらりとした体格。何よりちょっと小馬鹿にしたような笑顔。今日は制服を着ていて三王丸中学校の生徒のように見えるが、薄暗い学校の階段で非常灯とわずかな月明かりで見える顔は、本当ならいるはずがない凛太郎である。
「どうだ、ヒーローっぽかったろ」
まだ座り込んでいる榛菜に手を差し伸べる。榛菜も素直に手を取り立ち上がった。
「なんで……ここにいるの?」
「女の子を助けに来たんだよ。わるいか」
すごいセリフだ。どうやったらこんな言葉を真面目に言えるのか。榛菜は思わず顔が赤くなるのを感じた。
「あー、期待してたらごめんだけど」凛太郎は榛菜のうしろを見ている。
「榛菜ちゃんだけじゃないんだ。もう一人も助けに来た」
「えっ」
振り返った。榛菜のうしろ。階段の上。階段の踊り場で、呆然としている女の子。まるで迷子にでもなったような、誰かに裏切られたような、不安でたまらないような様子で、肩を震わせている女の子。
「まったく、榛菜ちゃんさぁ、スマホくらいちゃんと持ち歩いてくれよ。そしたらこんなに面倒なことにならなかったのにさ」
凛太郎は階段の下に立った。
「お陰で俺、君のパパに目をつけられちゃったぜ」
振り返ってポケットから出したスマホをさも面白そうに榛菜に見せた。凛太郎の一連の呼びかけメッセージの後に、ぶっきらぼうに「お前はだれだ」と返ってきている。スマホのパスワードは父親も知っている。『普段は絶対に見ないが、必要なら見る』と彼女の父親は宣言していた。あんまり頻繁に鳴るものだから確認したのだろう。
「こんな時間までスマホを家に置きっぱなしで、もしかしたらと思って飛んできたら、案の定だ。俺は命の恩人だな。もう『白崎さん』は卒業だろ。な、榛菜ちゃん」
「え……うん……」
あまりの急展開に言葉が出ない。
「さぁ、もうひとりの女の子。いや、『となりに立つ少女』か。お待たせ」
凛太郎は階段上に向き直った。
「家斉先生は犯人じゃない。下で待ってるから、さ。話を聞きに行こう」
今までになく優しげに声をかけた。
階段の上に立っていた少女が息を飲むのがわかった。
「辛かったろ。もう一人で戦わなくていい。いまから、一緒に花田さんを助けるんだ」
階段の上に立っていた少女は、凛太郎の言葉を聞き、頷いた。ゆっくり時間をかけて階段を降り始める。一段一段、踏み締めるように。榛菜にも彼女の様子が見えた。彼女は小さな肩を震わせながら、まるで階段を降りるたびに小さくなる魔法をかけられたかの様に、萎縮し、両腕を抱き締め、顔を俯かせ、それでも一歩一歩降りてきた。
涙で濡らしながら。
榛菜にもやっとわかった。彼女は、最初から泣いていたのだ。
あの暗い踊り場で、一人で何かに耐えながら。
俯き、震え、限界まで
榛菜は両腕を広げた。両腕を広げたまま、階段の下で彼女を待った。
小さくなった女の子は、榛菜の腕の中に入ってきた。
「大丈夫」榛菜は優しく少女を包んだ。
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
腕の中でさくらが頷くのがわかった。いつも左右で二つに結んでいる髪をほどいている。優しく櫛を通す様に、彼女の黒くまっすぐな髪を撫でる。
「さくらちゃんは、10年前に亡くなったお姉さんに化けてたんだ」
凛太郎は二人から少し離れ、言った。そのまま二人に気づかれないように、階段の端を横目で調べる。小さな無線スピーカーを見つけた。晶が言った通りだ。
————暗闇に慣れるには時間がかかるが、明るさにはすぐ目が慣れる。逆光を活用するためにもなるべく距離を保っておきたいはずだから、その『ささやき』は彼女なりの工夫だと思う。根本さんの件は、相手とうまく距離を保てるか、実験の意味もあるんだろうな。
なるほど。すぐ
「家斉先生はお姉さんの同級生で、亡くなった現場にいた。色々あって、お姉さんが亡くなったのが事故か事件かまだはっきりしていないんだ。家斉先生はその詳細を知ってるが何も話してくれない。だからさくらちゃんはここに先生を呼び出して……」
「もういいよ」榛菜は、さくらを抱き締めたまま言った。
「もういいよ。もうわかった」
さくらの涙が胸を濡らす。本当は、榛菜を驚かせるつもりなどなかったのだ。榛菜はただ偶然来てしまった。
「……そこの、2階と3階を繋ぐ踊り場は、彼女が亡くなった場所だそうだ。……さくらちゃんのお姉さんの」
この場所で、先生と話をしたかったのだ。
榛菜はさくらに優しく、勇気づける様に囁いた。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」そして、イタズラっぽく笑った。
「だって私たちには、名探偵と名刑事がいるでしょ」
答えるように、さくらは両手を榛菜の腰に手を回した。遠慮がちで優しい手だった。
「それに、良い友達もいるしな」
凛太郎が付け加えた。
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