なぜ彼女は立っているのか

なぜ彼女は立っているのか①

 夜の七時すぎ、暗くなった校舎を部活帰りの吹奏楽部員が一人で歩いていた。


 実習棟と教室棟を結ぶ渡り廊下。


「もうだいぶ暗くなったね」


「ね。そろそろ暖かくなってるのにね」


 さっきまでそんな話をしていたのだが、一緒に残っていた子が先生に呼ばれてしまって別々に帰ることになった。


 野球部が練習終わりの号令をしていたがもう聞こえない。どこか遠くで教室の引き戸が開く音が聞こえた気がする。


 正直、暗い校舎はかなり不気味に思えた。部活生のために渡り廊下の電気はまばらについているが、教室前の廊下は当然電気などついていないし、廊下の曲がり角に限って光が届いていない。渡り廊下に設置されている生徒用のトイレも真っ暗だ。四階の窓の外からわずかに見える校庭にも人影はない。まるで自分だけが取り残されたような気分になってくる。


 彼女は早足で教室棟へ渡った。こちらは教職員が残っているし、まだ安心できる。例の『となりに立つ少女』が出ても大声を出せば職員室まで届くだろう。もっとも、実際にそんな幽霊がとなりに立っていたら声を出すこともできないのかもしれないが。


 無事に教室棟へ着いた。渡り廊下に負けず劣らず不気味だ。そのうえ明かりが少ない。さっき聞こえた開閉音はきっとこの棟のどこかからしていたのだろうが、人気ひとけはまったく感じない。あとは階段を降りるだけだが、ここがまた更に明かりが少なくて補助灯しか点いてない。しかもところどころに光が届かない部分もある。足元に何かが落ちてても気が付かず踏んづけてしまいそうだ。


 階段には手すりがあるぶん歩きやすいからまだよかった。しかし4階から2階までゆっくり慎重に降りたとき、彼女ははたと気付いた。一階まで降りきったそばには、例の職員用トイレがある!


 いま吹奏楽部の女生徒たちの間で『となりに立つ少女』は喫緊きっきんの問題であった。体験入部の期間が終わり夏の大会へ向けて練習が本格化した吹奏楽部は、5月から19時までの練習が許可されたのだが、例の幽霊のせいでみんな残りたがらないのだ。


 とは言え、そんなことにお構いなく夏のコンクールはやってくる。練習はしなければならない。そこで、女子たちはまるでそれが不文律であるかのように二人1組で帰るようになった。


 二人いれば流石に幽霊も現れないだろうという予想、というより期待、むしろ願望であるが、幸い先週初めに先生を昏倒こんとうさせた『となりの少女』はまだ彼女たちの前には出てきていない。一応の成果はあるようだ。


 しかしまさに今、例の幽霊が出現した場所のそばに一人でいるのだ。不幸。不運。なぜ戸締まり当番のタイミングでこんなことに。


 いっそのこと迂回うかいして別の階段を使おうかと考えたが、それはそれで人気のない教室の前の、暗くて長い廊下を歩かなくてはならない。


 それにくらべればこちらの階段は降りて右に曲がってしまえば職員室だ。すぐにでも人がいるところへ行きたいならこちらが断然早い。


 彼女は意を決して階段を降りた。どういうわけか、ただでさえ暗い踊り場から先の電気が消えている。ここが一番怖いところなのに! まさかとは思うが、人が良さそうなあの用務員のおじさんの嫌がらせだろうか。今度会ったら文句の一つでも言わなければ。


 月明かりだけが頼りの踊り場を、手すりに掴まりながら曲がる。一階へ続く階段の下の方は、職員室前の廊下の明かりが十分に入っていて明るかった。何なら眩しいくらいだ。ここまでくれば大丈夫。あとは右へ曲がって、職員室の前を通って……。


 ……す……て


「えっ」


 た……け……て


「う、うそ」


 たす……けて……


 後ろから声が聞こえる。さっき通り過ぎた踊り場から?いや違う、耳元からも聞こえる。まるで重なっているような、震えているような声だ。気付いてしまった。すぐそばにいる。となり?うしろ?わ、私に話しかけてる。このまま大声を出して……逃げ……


 ねもとさん


「え、えええ」


 名前を呼ばれ、思わず振り向いた。


 見えた。


 階段踊り場を見上げると、窓を背景にして、人影。


 月明かりで窓のかたちだけが薄明るく浮いている。


 その大きな四角の中、髪を肩まで切りそろえた、女の子の影。


 顔は見えない。


 揺れて見えるのは、自分の震えのせいか。


 あの子は、少し首を右にかしげて……まるで覗き込むような……訴えかけるような……。


「わっ……わぁー!」


 思わず鞄を放り出し、大声で叫んだ。女の子に背を向けて、一目散に職員室へ駆け込んだ。先生がいた。飛び込んできた生徒を驚いた表情で見ている。先生にしがみつきながら、必死に訴えた。


「せ、せんせい!」


「どうしたの?」


「で、でた! あの子、あの女の子!」


「え、女の子?」


「そう! あの子、例の……」息が切れる、すぐそばの職員室なのに、こんなに息が切れるのか、何かの呪い?、はやく先生に言わないと!「『となりに立つ少女』! 花田さん!」


 根本こころはそこまで言って、やっと先生の顔を見た。


 彼女の担任、家斉響子は、目を大きく開け口をきつく結んだまま、動かなかった。

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