第一章「戸惑いの帰り道」4
午前中の授業内容なんてそっちのけで、シズクとリュウトは足早に学食へと向かう。数学の小テストも現代文の読解もなんのその。いや、内容的にはコテンパンにされたのだが、気分的には昼にしかベクトルが向いていないのでノーダメージ。
「コウ、もう待ってるかも?」
「アホか、まだ昼始まって五分も経っとらんわ。あの体格維持するためにどうせアホみたいに食っとるんやろなー」
「コウってそんなに大食いじゃないから。馬鹿にしたみたいな言い方するなよ」
「へー? バイト先の客なだけやのに、えらい詳しいんちゃう? なあ、なんで?」
足こそ止めずに、しかし訝しげにリュウトがこちらを向いて聞いてくる。理由なんて言えるわけない。ここはぐっと我慢して無視だ。幸い足だけはお互い動かしているので、このまま行けば一分も我慢すれば学食に到着する。
「なあ? なんでなん? 仲良くなってるようやし、ただの客ちゃうやん?」
今日のリュウトはいつになくしつこい。普段は誰かの交友関係なんて全然興味もなさそうなのに、何故かシズクとコウのやり取りからそのきっかけに至るまで、事細かに聞き出そうとしてくる。
今だって、教室から出てからずっと続いた『なんでそんなに仲良さそうなのか?』という話題が続行中だ。なんで仲良さそうか、なんて、そんな……仲良さそうなのか。嬉しい。
「コウはバイト先のお客さんだよ。そこで初めて見掛けて、俺も仲良くなりたいって思ってただけ」
なんで仲良くなりたいと思ったかは言わない。リュウトには――というよりも、今までの人生で一度だって、コウ以外の男性を好きになったことなんてないし、そのことを誰かに言ったこともない。この気持ちは本当に秘密だ。いくら親友になれそうなリュウトにだって言えることではない。
何より、男同士でこんな話題は、恋愛感情がなかったとしても絶対にマズいと思うし。
「べつに同じクラスってわけでもないし、わざわざ気に掛けるー? なんか他に理由あるんちゃうのー?」
鋭い指摘が入ったが、その頃にはもう足は学食に到着していて、なんとかその追及からは逃れることが出来た。
この高校の学食は広い。お坊ちゃん校と揶揄されるだけはあり、校内の設備がとても高水準な高校は、もちろん学食にも力を入れている。大教室三つ分はあろうかという広大なスペースに、値段はリーズナブルなのに男子学生も満足のボリュームを提供する店が四つもある。
メニューの違う四つの店をぐるぐる回すだけでも、栄養も飽きも心配ないのだから素晴らしい。母親は頼めばお弁当も作ってくれるが、シズクはこの学食のメニューもけっこう気に入っているので、ここのところは半々といったところだ。
天井の高い学食で食べる昼食は、和気あいあいながらもこじんまりとした教室で食べる昼食とはまた違う良さがあるもので。そのおかげかこの高校の学食利用率はそれなりに高い。
「シズク! こっちだよ!」
先に学食に来て席を取っていたらしいコウに大声で呼ばれ、その方向に二人で顔を向ける。突然の大声に周りの目もコウに集中しているが、本人はどこ吹く風で笑顔で手を振っている。有名人はやはり、貫禄すらも違うのか。周りからの目なんてもう、浴び慣れてしまっている。
「ごめん。待たせちゃって……」
学食のスペースですら中心地に陣取っていたコウの席には、彼以外の姿はなかった。訝しみながら二人で近づくと、彼は立ち上がりシズクの隣で仏頂面をしていたリュウトに向かって頭を下げた。
「いきなりお友達を誘っちゃってごめんなさい。俺の名前は――」
「――コウくんやろ? エエ加減自分が有名人やって自覚した方がエエと思うで? シズクのこと、どうしよう思ってるん?」
「おい、ちょっと、リュウト!」
コウの言葉を遮り敵対心剥き出しのリュウトを、慌ててシズクは止めに入る。
訛りがある彼の口調は、まだ聞き慣れていないシズクからしたら十分恐怖心が煽られる。やや整った顔が、相手を恫喝する時に一番鋭く感じるのはおかしいのだろうが、とにかくやや短気なリュウトは怒らせたら怖いのだ。全然、コウに比べたらヒョロヒョロの体型なのに。どうにもおかしな迫力がある。
「えーっと、リュウトくんって言うのかな? 君はシズクの、『何』なの?」
あくまでも笑顔のまま、コウが静かにそう問う。表情は変わらずの笑顔なのに、そこには確かに凄みがある。立った状態で相対したのは学内が初めてだったが、コウは平均的な身長だ。それに対してリュウトはそれより少しだけ背が高い。しかし、決してリュウトを見上げているとは思えない迫力をその瞳からは感じた。
何、と問われて初めてリュウトの目が泳いだのを、シズクも確かに見た。
「っ……」
拳を握り締めて答えないリュウトに、コウはふっと優しい笑みに戻って言った。
「多分俺が言ってるシズクと『仲良くなりたい』と、君が思ってるシズクと『仲良くなりたい』は一緒だと思うよ。だからさ、俺達も仲良くなれるんじゃないかな? どう?」
「っ……わかったわ……いきなり言い過ぎた。この通り、堪忍や」
おっかないまでの表情をバツの悪そうなものに変えて、今度はリュウトがコウに対して頭を下げた。
いったい何のことを言っているのかはわからなかったが、とりあえず学食なんて目立つところで一触即発の空気は解決したようで一安心だ。
「えっと……コウはお昼は? もう決めたの?」
リュウトがコウの斜め前の席に座ったので、シズクもその隣に座ることにする。四人掛けのテーブルのため、シズクの真正面にコウがくる形になる。真正面のコウは、相も変わらずの笑顔だ。眩しい。
「俺はもう頼んでて、今出来るの待ってる。シズクとリュウトくんはまだでしょ? 席はこのままとっとくから頼んできなよ」
「俺のこと、リュウトって呼び捨てでエエで。その代わり、俺もコウって呼ばしてや。シズクばっか特別なん腹立つし」
「わかったわかった、もちろん良いに決まってるだろ。リュウト、改めてよろしく」
「ほんま笑顔なだけでも腹立つわー。こちらこそー」
口ではそう言いながらも、リュウトは差し出された手を素直に握った。その顔には穏やかな笑みまで湛えていたので、シズクはなんだか心の中がずきりと痛んだ。
これにはコウも驚いたらしく、少しだけ目を丸くしてから握られた手を上下に振り、「リュウトってモテるでしょ?」と言って笑った。「コウには負けるわー」とリュウトもしれっと返しているが、なんだかシズクの心はモヤモヤしたまま。
「さ、メシ注文しに行こか、シズク」
「あ……う、うん」
モヤモヤがどこにも消化されないまま、シズクはリュウトに促されて座ってすぐの席からまた立ち上がることになる。コウはずっとニコニコしたまま。手に持つ整理券の番号的に、もうすぐ料理が出来上がりそうだ。彼の数個前の番号を呼ぶ大声が、丼屋の前から聞こえてくる。うん、彼は丼物も好きそうだ。
さっさと歩き出してしまったリュウトを追ってシズクも歩を進める。昼休みは長めに取られてはいるが、それでも混み合った学食は少々皆の余裕がなくなる空間だ。空腹から来る苛立ちもあるし、そもそも料理が出来るまで待たされるという問題もある。特に今は、昼休みが始まって十分後という一番混み合う時間なのだ。
人を避け、引かれたままの椅子を避け、これまた人を避け、とサクサク進むリュウトの背についていきながら、シズクはどの店の料理にしようかとキョロキョロと見渡す。
学食の利用は初めてではないが、正直シズクでは食べきれる量を出す店というのが限られているので、今まではその店一択と決めていたのだが、目の前でコウのウキウキとした表情を見せられるとまた話しは変わってくる。
「シズクはまたいつものうどん屋やろ? 俺は、そうやな……カレーにでもしよかな」
「……俺は、今日は丼にしようかな」
大声を出している店員の前で足を止めるシズクに、リュウトが驚愕の表情で振り返って来た。彼の反応はシズクにもよくわかる。シズクだって自分が彼の立場なら絶対に驚いているし、止めている。
コウが順番待ちをしている丼屋は、運動部員達から特に熱い支持を得ている店で、一番人気のメニューであるかつ丼を筆頭に、ここのメニューはその全てが大ボリュームになっているのだ。特にボリュームも指定せずに注文したとしても、普通の店なら大盛りクラスの量の白米が常というのだから、シズクのような体格の学生はそもそもこの店で食べ物を頼むことはしない。棲み分けというやつだ。多分。
「ほんまに言ってる? 大丈夫かいな? 食べきれん分は俺が食ったろか?」
訝しさと呆れが半々といった目で見てくるリュウトに思わず吹き出しながら、シズクはそれでも「うん。本気。食べきれなかったらお願い」と頷いた。
「うわー、マジかー。じゃ俺はうどんにしとこかな。絶対回ってくるやろし。コウく……コウには渡したくないしなー」
「リュウトが呼び捨てでってわざわざ言うって珍しいね」
うどん屋と丼屋は隣り合っており、今はちょうど並んでいる行列も同じくらい。なので二人でほとんど横並びになった状態で列に並ぶことが出来た。テーブルの群れに突き刺さるようにして列が出来るのも、今の時間帯ぐらいだ。これから五分もすれば嘘のように穏やかになる。
「ん? あー、相手があの……コウやしな。さすがに自信家の俺でも、あいつに勝てるとは思ってへんし、そんな相手に“くん付け”なんてされたら逆に腹立つし」
「なんか凄くコウには突っかかるよね? なんで? リュウトって、こう言っちゃ悪いけど、あんまり他人というか……『男』には干渉しないじゃん?」
「……あー、それ……マジでシズクが聞いちゃうん?」
「なんだよその顔? コウが仲良くなりたいのとリュウトが仲良くなりたいのは一緒だとかどうとかも言ってたし……何? 俺だけ置いてけぼりって、けっこう気分悪いんだけど?」
わかっていて、ちょっと拗ねた風に言ってやった。シズクのこの表情に、何故かリュウトは甘いのだ。教室にいる時に周りの女子達が言ったことがきっかけで発見したのだが、それがわかってからというもの、シズクはここぞと言う時のためにこの“裏技”は隠している。
「っ……その顔、マジで反則やわ。コウの前でやったらあかんで?」
「それはリュウトの返答次第かなー?」
「クソ腹立つやっちゃな。ま、そこがシズクのカワイイとこやけどー?」
ほら、やっぱり。甘くなる。
リュウトが甘い笑顔でシズクの頭を撫でてくる。ぐしゃぐしゃと撫でるその動作に後ろの方で女子の歓声が上がったが、リュウトがとても男前に見えたのは、シズクも今回ばかりは後方の集団に同意してやることにした。
――なんだよ、その顔。か……かっこいいじゃん。
周りにはこんなに人がいて、後方には歓声を上げる女子達、前方には行列に並ぶ人の頭、頭、頭。でもそんな人混みの中で、リュウトはただ一人、シズクに対してだけその笑顔を向けてくれている。
褐色の肌に映える白い歯は、いまにもシズクに愛の言葉を囁きそうで……いつもは軽薄そうな光を宿すその瞳が――逸らされた。
リュウトに釣られるようにして逸らされた視線の先に目を向けると、そこには――笑顔の消えたコウの姿があって。
――やばっ、見られた!
本能的にそう確信して、しかしほどなくしてなんでヤバいんだと頭が混乱する。コウにはシズクは恋愛感情があるが、コウからシズクにはそんな気持ちなんてないはずだし、リュウトに対してなんて本当にただの友情だ。リュウトからのシズクへの気持ちも絶対に友情に違いないのだから、何を焦る必要があるのか。結局はただのシズクの叶わぬ片想いなのだから、ここは堂々としていても何も問題はないはずだ。なのに――
――なんなんだよ、その顔っ!!
こちらを見る――いや、これはもう睨み付けているに近いだろう。そんな鋭い瞳でこちらを見るコウの顔からは表情というものが無くなっている。いつも笑顔な印象が強いコウだけに、その表情一つでかなりの迫力だ。よくよく考えたら体格の良いそんな顔に迫力がないはずがないのだけど。
「どしたー? カワイイシズクくん?」
リュウトの口元にいつもの嘲笑が浮かんだ。これは物事を面白がっている時の彼の癖だ。その証拠に彼の目はこちらを――見ていなかった。
女子から人気の流し目で、その瞳でコウを見返していた。依然突き刺さる冷たい怒気に真っ向から挑みかかるように、その瞳は負けず劣らず冷たく、そして挑発的だった。
「よせよ! もう! かわいくなんてねえし」
前半の否定は本気だが、後半の否定は嘘だ。シズクは自分がカワイイ系であることは自覚しているし、そのように日常でも振舞っている。それになんの苦もないし、それこそそう振舞うことが自身の中でも普通だと思っている。普段から今のような絡みはよく教室でもしているので、実は一部の女子達がキャーキャー言いながら邪な目線で自分達を見てくることにも気付いている。気分悪いけど、そこは我慢だ。
「そういうとこがカワイイー。お、もう順番やんけ」
じゃれ合っているうちに自分達の前の人間まで順番が回ってきていた。背筋の凍りそうな瞳には敢えて気付かなかったふりをして、シズクはその視線の主に背を向けて、順番が回ってきたので店員に注文を通した。とりあえず、見た目一番ボリューム感が少なそうで、それでいてまだ油が少なそうな親子丼をチョイスした。同じ肉でも鶏肉なら少しはマシだろう。
「シズクのん、美味そうやん。俺、かなり余裕持ってうどんだけにしといたから、これならシズクが半分残しても食えるでー」
「リュウトって細いのに人並には食べるよね。ちゃんと腕出したら筋肉質だし、俺もリュウトぐらい食べたらそんな腕になるかな?」
褐色の肌が余計にそう見せる、ということもあるのだろうが、リュウトの身体は細身のくせに筋肉質で、シズクから見ても女子ウケの良い身体つきだと思う。皆が同じものを着ているはずの制服の着こなしも抜群のそのスタイルは、何度か見たことのある私服でも健在だった。シンプルな黒のシャツにボトムを合わせただけだったが、それがとてつもなく似合うのだ。
「シズクは今のままが一番やと思うでー。下手な女よりよっぽどカワイイしー、でも力とかは男やねんなー。ほんま謎ー」
「俺、男だから当たり前だろ。謎、じゃねえよ」
トレイに乗せた昼食を持ちながら、二人で揃ってコウの待つ席に戻る。コウは何事もなかったかのように「お帰りー」と笑顔で迎えてくれて、シズクとリュウトのトレイの上を交互に見てから「えー意外。二人共、頼む量反対だと思ってた」ときょとんとした。
「シズクがコウに感化されてもて『俺も丼食う』てうるさいから、食べきれへん分は俺が食うって約束でこうなった」
「ふーん、なるほど……約束、ねぇ」
席に着きながらそう言ったリュウトに、コウがにやりと笑いながら返した。そんな表情はなんだかコウじゃないみたいで不安になる。そういういかにも『悪いことを考えてます』という表情は、コウよりよっぽどリュウトの方が似合っていて。
「そう、約束やから。俺とシズクの」
「シズク、たくさん食べなよ」
シズクがリュウトに少し遅れて席に着いた時には、そんな風にして二人から意味ありげな視線を投げ掛けられていた。なんだかいたたまれない。全然、理由が見えないし。いったい二人は何の話をしているんだろう。
「うん。俺のご飯だから当たり前だけど……コウはかつ丼なんだね」
「シズクは知ってると思うけど、俺が好きな洋食メニューはシズクのバイト先が一番美味しいからさ。洋食は出来るだけ夜にとっとくって決めてるんだ。だから昼はけっこう丼が多めになってるかも」
「俺もバイト先のメニュー美味しいと思って働いてるし、自分の働いてる店をそう言ってくれるのは素直に嬉しい」
丼の上で割りばしをパキッと割りながら微笑むコウに、シズクも照れながら微笑み返す。毎日来てくれるくらいなのだから当たり前だろうが、彼の口からちゃんと美味しいと言われると嬉しいものだ。例えその料理が厨房のオッサンが作ってるものだとしても、シズクとしては嬉しさの方が勝る。
――あ、そうだ。俺もあの味を教えてもらったら、コウに手料理振舞えるんじゃないかな。
「お二人共仲がよろしいこって」
我ながら素晴らしい計画を思いついたシズクに、リュウトが茶々を入れてくる。文句と一緒にずるっとうどんを啜ったせいで、彼の頼んだ暖かい天ぷらうどんの汁がシズクに向かって飛んできた。
「ちょっとリュウト! 汁飛んでるから!」
「おいおい、シズクにかかるだろ。落ち着いて食べろよ」
「うるせー」
さすがに自分が悪いという自覚はあったのだろう。小さく文句を言いながらも、それからはリュウトも大人しく――もとい、“いつも通り”に昼食の時間を楽しむことが出来た。
リュウトの“いつも通り”はかなり社交的だ。今日初めて喋るコウに対しても、気さくな様子で話している。その内容も世間話のようなものではなく、けっこう突っ込んだ内容に後半にはなっていた。
「へー、じゃあコウってあんなにモテるのに彼女作ってへんの?」
「リュウトこそ、色男って噂は俺も聞いたことあるよ。クラスの女子達が『凄いかっこいい人がいるー』って騒いでたから。今度彼女達と遊園地行くんだって?」
「うわー、あの子らそんなに口軽いん? 面倒くさー。友達なだけやのに、大袈裟やわー。俺は“彼女一人”に絞るつもりないんやけどなー」
「むしろ清々しいぐらいの色男っぷりだな」
「おいおいコウったら、あんまりリュウトのこと持ち上げるなよな。こいつ、すぐ調子に乗るんだから」
最初の頃の態度はどこにいったのか、シズクの指摘通りリュウトは得意げな顔をコウに向けていた。その自信家らしい強い笑顔が何故だか今は、今だけは真っ直ぐ見ることが出来なかった。笑顔を投げ掛けるリュウトもそうだし、その笑顔を受けているであろうコウもだ。
見れない、二人共。見たくない。そんな笑顔を交わし合う二人の姿なんて。
「わかったわかった。シズクがそこまで言うなら、もう言わないよ。リュウト、残念だったな」
「べっつにー? 俺はコウからどんだけ褒められても嬉しないし? ほら、シズク……そんな泣きそうな顔すんなや」
隣に座るリュウトから頭をガシガシと撫でられて、伏せてしまっていた視線をようやく上げることが出来た。真正面からコウの優しくも強い視線に捕まってしまって、彼から目を逸らすことが出来なくなる。
「やっぱシズクはカワイイな」
「うっわ、俺が言いたいこと先に言われた。コウってばけっこう手が早いやつ?」
「そんなことないよ。俺が早いのは手じゃなくて食べること」
そう言いながら笑ったコウの丼は、既に空になっていた。米粒一つ残さず綺麗に平らげられた皿は、バイト先と一緒だ。こういう小さなところからも、彼の育ちの良さみたいなものが感じられる。ちなみにシズクはまだ食べ終わっていない。隣のリュウトはと視線を向けると、ニヤニヤした彼の手元は既に終わりに近づいていた。
「二人共はやっ! ちょっと待ってよ」
頭に乗っていたリュウトの手を振り払い、慌てて手を動かしだしたシズクを見て二人は目を細めて笑った。同時に視界に収まる男前の笑顔が二つ。後ろの方で女子の歓声が上がっていた。あ、でも確か、リュウトの手が頭に伸びた時には既に上がっていた歓声だったか。
「そんな急がんでも昼休みまだ終わらんって」
「俺が早食い気味なの、シズクは絶対知ってただろ? 俺が早いだけだから、気にしないで」
「やだー。コウってば早漏なんー?」
ふざけたリュウトの言葉に、シズクは掻っ込んでいた親子丼を盛大に咽てしまう。こんな不意打ち、反則だ。昨夜のことを、思い出してしまう。
それなりにモテているリュウトは、年相応にそういった冗談も好んでいる。決して女子の前では下品な印象は努めて与えないようにしているし、こういった砕けたやり取りをするのは決まって同性の前だけだが。シズクはあまりそういった類には興味がない、ということにしている――性的対象がリュウトと仲良くなる頃にはコウ(男性)だった為、異性との行為の話を振られると困ると思ったからだ――ので二人の時には振られないのだが、今日はコウがいるから言ったのだろう。
本当はシズクだって、年相応には興味もあるし、性欲だって旺盛なつもりだ。現に昨日は想い人のことを考えながら夢の行為に耽っている。
しかしそれは、シズクの“夢の行為”である。シズクが思い描いた理想のコウが、理想の言葉を落としながらシズクの欲望に手を添えて、それで――
その“理想のコウ”は、決して早漏なんかではない。常に優しい笑みをシズクにくれて、自身の欲望のカタチはまだ見せてはくれない――当たり前だ。シズクは彼のソレを見たことなんてないのだから。
そもそも他人の全裸を子供の時以来見ていない。水泳の授業の時の着替えの時間も、シズクは大人しい性格だったのであまり周囲とじゃれ合うこともしていなかったのだ。
だから、コウの性的な部分は、とても、とーっても、興味がある。
咳き込みながら散らかった米粒を掃除して、しかし耳はしっかりコウの返答に集中する。幸いコウはリュウトのおふざけの対応のために――顔を少し赤らめて言った。
「そ、そんな訳ないだろ!? ほら、馬鹿なこと言うからシズクが咽ちゃってる」
――なんだかその反応、図星みたいじゃん?
咽たせいで少し涙目になりながら、疑惑の視線をコウに向ける。彼の顔はまだ赤い。その変わり様にリュウトは大笑いしている。
「……俺は、大丈夫だけど……」
「その反応やと早漏確定やろ! うっは、腹痛ぇー! 早いけどその代わり、何回もイケますってかー?」
まだ笑いが引かないリュウトがそう追撃するので、コウは少し迷惑そうな顔になってしまっている。でもまだ顔の赤みは引いていない。本当に図星なんだろうか。でも、それだと……
――やっぱ、経験があるって、ことだよな……
そもそも経験がなければ自身のことはわからないはずだ。きっとモテるコウのことだ。何人かの女性とそういった経験があるに違いない。嫌、だけど……
ちなみにリュウトが経験済みであることにはなんの不思議もない。リュウトは中学時代で既にモテていたようで、複数の彼女がいたと周囲が言っていた。本人に聞いても「付き合ってただけで本気ちゃうからなー」とはぐらかしていたが、なんと酷い男だろうか。
「違うからなシズク。断じて! リュウトも馬鹿なこと言ってないで、食べ終わったなら食器戻しに行きなよ」
「あーおもろー……ふぅ、今日一番の笑いやったな。ならお言葉に甘えてお先に。すぐ戻って来るけど、シズクは焦らんと食べや」
流石にコウに睨まれたらリュウトも引くしかないようで、まだニヤニヤしながらもそう言って空にした食器を店の横の返却口へと持って行くために立ち上がる。そんなリュウトから離されたコウの目は、シズクに向いた途端優しい光を宿す。
「あーあ、そんなに口元汚して。ハンカチ、使いなよ」
少し困ったように見えてその割には嬉しそうな笑顔のコウが、そう言いながら学生服のポケットからハンカチを取り出す。濃い青色の清潔そうなハンカチは、男子学生が持ち歩いているにしては小綺麗で、その布の端には有名ブランドのロゴが縫い込まれていた。
こんな小物にまで生活レベルが違うことを意識させてくる。これは貧乏人視点からの勝手な僻みだろうが。
「こんなの後で水道で洗えば済むから。そんな高価なハンカチ、汚せないし……」
「それこそ後でハンカチを水道で洗えば済む話だから。そもそもハンカチって、そういうものだからさ。気にしないで。さ、じっとしてて」
そう言ってコウの身体が前のめりになって近付いてくる。机を乗り越えるようにして腕を伸ばし、その手に持ったハンカチがシズクの口元を拭う。手の甲がすっと頬に触れて、思わずシズクの口から「ん……」と小さな声が漏れた。
自身から零れたその声があまりに官能的に聞こえて、シズクは最初、それが自分の口から出ていたと信じることが出来なかった。甘く押し殺したような声が、妙な湿り気を帯びてシズクとコウの周りを包むように漂うようだった。
コウの強い視線がシズクに突き刺さる。この目は――知ってる。この目でいつも、コウはシズクを見ていたのだから。
ごくりと喉が鳴る。淫らにすら聞こえる水気を孕んだその音に、コウはハンカチを取り落とす。落したまま、解放されたその手がシズクの頬に掛かる。ざわりと頬から全身に痺れのような感覚が広がり、途端に熱くなる頬以外の感覚が奪われてしまう。
「こ、コウ……っ」
「やっぱ、カワイイ」
コウの視線に熱がこもる。その瞬間、その瞳にいやらしい雄の気配を感じ取ってしまう。熱を帯びたその瞳は、シズクを求めて燃え上がる炎のように揺らいで、その下の口元が微笑む。しかしその笑みに、いつものような余裕は感じられない。
求めるものに手を伸ばすように、その大きな手が首筋に降りる。どくどくと波打つ動脈そのものを掴まれたようだ。一挙手一投足なんてものではなく、シズクの呼吸も命でさえも、まるでコウに握られてしまったかのような熱意だった。
――コウって、やっぱり俺のこと……好き……なのか?
戸惑いを隠せないまま視線だけをコウに向けると、その笑みに普段の暖かみが戻ってきた。シズクの頭の中は完全にパニック状態ではあるが、その笑みの種類を見間違えるなんてことは絶対にない。それだけは断言出来る。
だってずっと、見ていたのだから。
彼を。コウだけを。
コウにだって、シズクだけを見ていて欲しい。そして今。この瞬間は、シズクのその夢が叶っているのだ。しかし――
コウの視線がシズクから外れて、上に逸れていく。彼の視線を追ってシズクが頭上を見上げると、そこには食器を戻し終わったリュウトの姿があった。
「なーに? 俺はお邪魔やったかなー? ほんまに……こんなとこで何しとんねん。さっさと食えやシズク」
行って帰って来ただけなのに何故かリュウトの意見が真逆になっていることに首を傾げながら、それでも彼の気迫とも言うべきものに押されて丼の残りを掻っ込むシズクに、コウはいつも通りに戻った笑みを向けてくれていた。
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