第一章「戸惑いの帰り道」3
イマイチ落ち着かない頭のまま、シズクは夕食と風呂を終えて自室に戻った。
考えても考えても、結局堂々巡りを繰り返す。仕方なく「とにかくまずは、仲良くなることだけを考えよう」と無理矢理考えを振り切って、漸くベッドにダイブすることが出来た。
授業中もバイト中も、もちろん家にいる時だって、シズクの頭はコウのことばかり考えている。
「あー……」
シズクは今年十六歳の思春期真っ盛りの男子高校生だ。自室に一人ベッドの上にいる状態で、片想いの相手のことを考えていたら、後はすることはきまっている。
「……っ」
肌触りの良い寝間着の隙間から手を滑らせて昂りを慰める。思い浮かべるのはコウの笑顔。耳をくすぐる低い声。それに、鍛えられた逞しい身体……
――コウ……っ……好きだ! 触れたい! もっと……俺だけに笑って……
「っ! ……はぁ……」
行き場のない欲望と共に望み薄な恋心を垂れ流し、途端に襲い来る虚脱感に身体を丸める。ベトベトに汚れた掌だけは拭き取って、証拠隠滅のためにゴミ箱に投入。これはまた後でトイレに流す予定。
今はまず、ゆっくり寝たい。少しだけ落ち着いた頭に訪れた睡魔に従い、シズクは目を閉じた。
欲望のままに寝てしまったせいで、翌日の朝の準備は慌ただしいものになってしまった。
寝坊した朝のあの、なんとも言えない違和感の正体は何なのだろうか? いつもと違う朝の日差し? カーテン越しの外の気配? とにかくなんだかいつもと違うと、第六感が告げて飛び起きる。
妙に汗ばんだ手で時計に触れて、それを追うように視線を投げて、慌てて掛けていた制服に着替えるのだ。
「なんで起こしてくれないんだよ?」
着替え終わったそのままの勢いでリビングに向かい、扉を開けながらぶつけるようにそう言い放つ。
「何度も起こしたわよ。あなたが絶対自分の部屋に入ってくるなって言うから、扉の前で声掛けるしか出来ないじゃない。それで起きないあなたが悪いのよ」
「くそー」
しかし正論過ぎる母親からの返しには、シズクも反論することが出来ずにただただ捨て台詞を吐いて退散……もとい出発するしかない。
朝ご飯は食べ損なったがそのおかげで学校には間に合う時間に出ることが出来た。
朝の通学の時間はいつも一人で登校しているシズクだが、校門が近付いてきたところで「シズク!」と声を掛けられた。
振り返るとそこにはこの高校で一番の友人であるリュウトが立っていた。家の方向が真逆なために校内でしか一緒にいないが、彼はシズクにとって一番の友人である。
「おはよーリュウト」
「おはよー」
シズクが手を振りながら近寄ると、リュウトも笑顔で挨拶を返してきた。
同じ制服姿なのに、リュウトの立ち姿は絵になる。雰囲気イケメンというやつなのか、細身な身体は必要以上に手足を長く見せるし、褐色の肌にキレイに染められた白に近い金髪がこれまた必要以上に鮮やかに馴染む。男が好きだと自覚しているシズクから言わせても、彼は決して純粋なるイケメンではないのに。
「なにー? めっちゃ見られると照れるー」
ニヤっと笑うリュウトを見つけたクラスメートの女子達が、その笑顔に小さな歓声を上げている。確かに……確かに薄目で見たら白い歯が褐色の肌に映える……かもしれない。でも絶対、イケメンじゃないし。
リュウトと二人で並ぶと自分の身長が男子高校生にしては低いことが露呈しているようで不快だ。でも、コウもそこまで背が高いわけではないので、並んだら違和感ないのかな? むしろカワイイって思ってもらえるかな? なんてことも考えてしまう。
「べつに。何ニヤニヤしてんだよ? 教室行こう」
「はーい。シズクはせっかちやなー」
口を尖らせるのはただのパフォーマンス。交友関係の広い社交的な性格のリュウトは、お調子者で口が軽く、そして――見た目以上に軽薄な男だ。絶対陰で……いや、表立ってでも女を泣かしているに違いない。イケメンじゃないけど。なんでだよ、イケメンじゃないのに。
「そういやシズクって、もう部活何入るか決めたん? 俺全然まだ決めてないんやけど、どうせなら女の子がいっぱいいる部活にしたいなーって」
教室への道すがら、リュウトはいかにもチャラそうな男子高校生というセリフを吐く。彼の親は違う地方出身のようで、彼自身の生まれはここなのだが言葉遣いはしっかり訛ってしまっている。家の中での“言語”が訛っていれば、どうしても訛る、というか混ざってしまうと言っていた。さすがに何を言っているかわからない、とまではいかないが、イントネーションの違いが気になる時はたまにある。
「俺もまだ決めてないよ。バイトもあるから、まだ考えたいかな」
部活を決めていないのは本当だが、その理由はバイトだけということはない。運動部なんてものに入ろうなんてシズクはこれまで考えたこともなかったが、想い人であるコウはあの体格だ。きっとどれか運動系の部活に入るだろう。彼がどの部活に入るか突き止めてから、その部活に入るなりマネージャー等になるなりすれば良いと考えていた。
本来ならば入部申し込み期日までになんとか調べ上げて入らなければと内心焦っていたのだが、昨日のあの様子を見るに、シズクが聞けばコウも普通に部活程度なら教えてくれそうな空気があった。
――今日のバイトで聞けば良いよな。今日もまた、話せたら嬉しいし。
まだ朝一の授業が始まってすらいないのに、もう放課後のことを考えてしまう。これが恋ってやつの力なのかと、ついニヤニヤしてしまい、その顔を目敏くリュウトが横から指摘してくる。
「おいおい、なんやねんその締まらへん顔はー。今日数学の小テストあるん忘れとる顔やん」
「知ってるよ。リュウトじゃないから」
「いやいや今回は俺も覚えてたって」
馬鹿らしいやり取りに本心を隠しながら教室の扉を開ける。普段通りにクラスメート達に迎えられて、二人並んだ席に着いて、しばらくして――開けっ放しだった扉から、コウの顔が覗いた。
「シズク!」
「えっ、コウ!?」
大声で愛しい人に名前を呼ばれて、恥ずかしさよりも驚きが勝った。周囲のクラスメート達はいったい何事だ? という顔でシズクを見てくる。さすがに違うクラスの教室に入るのは気が引けるのか、コウは扉に手を掛けてシズクが来るのを待つつもりのようだ。
今まで受けたことのない注目を浴びながら、シズクは立ち上がってコウに向かって歩き出す。背後でリュウトが「なんや? あいつ……」と小さく呟いたが、今は無視だ。コソコソと女子達が「ガタイいいー」とか「爽やか系だね」だとか言っているのが聞こえるし、男子達は男子達で「あいつ野球で有名な奴じゃね?」とか「そうそう、コウくんだろ?」と彼のおそらく中学時代について話している。
「反対側のクラスだったんだな。学校内で会わないはずだよー。それでさ……実は、昼飯の予約したくて誘いに来たんだ。もし予定がないなら昼飯一緒にどう? 俺っていつもシズクの店の料理は食べてるけど、一緒には食べたことないからさ。もし友達と予定があるなら、その友達も一緒にでも良いし」
クラスメートの女子達も認める爽やかな笑顔でそう言ったコウに、シズクは自分の顔に熱が集まっていることを自覚しながら、それでもしどろもどろにならないように気を付けながら精一杯普通を装って話す。平常心、平常心。
「廊下挟んでたんだね。学校でもコウと話せるなんて思わなかったから、びっくりして……あ、お昼っ! いつもは友達と食べてるけど、どうだろ……聞いてみる」
「なら友達も大丈夫そうなら、昼に学食で。無理なら無理で、また放課後に話そ。じゃ、また後で」
「うん。わざわざありがとう」
去り際にとびきりの笑顔を向けられて、自分の心臓が高鳴るのがうるさく感じた。完璧な笑みを、まさか自分のためだけに送ってくれるなんて。背後で女子の黄色い悲鳴が聞こえたが、それのせいか何故か背筋が冷たく感じる。これは、視線?
渡り廊下を挟んで反対側の教室へと向かい、その背中が角を曲がるまでコウのことを見送ったシズクは、まだ視線を浴びたまま自分の席へと戻る。戻る最中にも「あの人と友達なの?」とか「あいつ、一年の中じゃ有名人だぞ?」とか「めちゃくちゃかっこいい人だね」といろいろ声を掛けられた。
そのどれもがコウへの憧れのようだったので、シズクもなんだか鼻が高かった。皆が彼のことを褒めてくれるのは、ただの友達だとしても嬉しい。
「ただいま」
自分の席に座って、待たせる形になってしまったリュウトにそう言って詫びる。普段の彼なら気楽でいい加減な返答が返ってくるのだが、今日は違った。
「……あいつ、なんなん? 俺、知らんねんけど」
「あー、違うクラスだけど同じ学年のコウだよ。昨日友達になった」
「昨日? 昨日は俺とずっと一緒やったやん? 俺、知らんねんけど」
「放課後だよ。アルバイト先で。毎日食べに来ててさ」
「は? 毎日? あのコウくんが?」
「なんだよ? 知らないって言いながら知ってるんじゃん」
「コウくんのことは知ってるわ。中学時代から野球で有名やし。俺が言ってるんは、その有名人とシズクが仲良くしてるんは知らんって話」
クラスメート達の反応から予想は出来ていたが、どうやら彼は相当な有名人らしい。野球で、とのことなので部活動での名声だろう。確かにあの体格はなかなか見掛けない。格闘技でもやっているのかと思うくらいに鍛えられた身体は、なんだか骨格からシズクとは別の生き物に思える。
――そんなところが、好きなんだけどさ。
昔からカワイイカワイイと言われるシズクは、その反動からかコウの男性的な魅力に強く惹かれていた。決して女扱いして欲しいわけではないが、彼の逞しい腕に抱き締められたいと、わりと本気で考えている。もちろん夜、一人のベッドの上で考える妄想も、そのシチュエーションから始まることが多い。
「俺だって話せたのは昨日が初めてだよ。そんなに言うんだったら、リュウトもお昼、一緒に来れば良いじゃん。今誘われたし」
「は? 昼飯まで一緒に食べるん? コウくん友達いっぱいおるやろ。なんでシズク誘うねん?」
信じられないという大袈裟なリュウトの反応よりも、シズクの心がチクリとしたのは彼が言ったコウの友達という言葉だった。
確かにコウは友達がとても多そうだ。そんな彼からお昼を誘われたわけだが、リュウトに指摘されるまで二人きりだと勝手に勘違いしてしまっていた。
――コウくんだっていつも食べてる友達がいるだろうし、なに勝手に二人っきりだって勘違いしてたんだろ。恥ずかしいなぁ、もう。
「それは……仲良くなりたいって、言ってくれて……」
「マジ!? いったい何が目的やねん……」
リュウトが考え込んだその時、教室の扉から先生が入ってくる。授業開始一分前だが、一限目の先生はいつも早めに教室に来るのだった。
授業開始の鐘の音はまだだが、先生の姿があればおのずと授業の空気になる。有名校とはそういうもので、ここには頭髪は派手でも所謂不良と呼ばれる者達は存在していなかった。
しんと静まり返った教室に、先生の挨拶が響く。
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