第一章「戸惑いの帰り道」1


 それから後のことはあまり覚えていないまま、シズクはアルバイトを上がる時間になった。タイムカードを切ってから、店の制服――この店のフロア担当はほとんど若い女性のため、制服がフリルこそ少ないがメイド服のような見た目なのだが、シズクが着ている男性用の制服はそれとウェイターの狭間といった具合だ――から学生服へと着替える。

 脱いだバイトの制服をまじまじと見詰め、この『カワイイ』制服を着てたから声掛けてもらえたし、覚えててももらえたのかなーなんて考えたりした。少しだけにやけながら見ていたようで、同じ時間帯に上がった同僚に訝しげに見られたのだけは腹立たしい。

「カワイイって言われた……コウって呼んでって言われた……」

 嬉しいという感情が大き過ぎて、ついつい言葉に出しながら歩く。只今の時刻は夜の八時。高校の授業が終わってそのままバイト先に向かうので、シズクの勤務は毎日三時間程。その全てに、コウの姿があった。

 初めて彼を見掛けたのは、初めての出勤日。先程と同じくたくさんの友人達に囲まれて楽しそうに笑っている彼の声に、まずシズクの耳が反応し、続けて求めるようにして目を向けた先には、輝くような笑顔があったのだ。

 同い年だとは見た時にわかった。シズクの通う高校では、学年を見ただけで区別出来るようにネクタイの色が違う。シズクの学年は紺色のブレザーの色に合わないと大不評の緑色の代で、コウの首元にもその色があった。だが、彼が付けたその色は、どうにもシズクよりも似合うような気がした。同じ学生服だというのに、どこかダボっとした着方をしているシズクとは違い、コウの着方からは頼もしさすら感じる。

 家からも学校からも近い場所で探しただけのバイト先だったが、その瞬間からは最高の場所になった。給料をもらうという喜びなんてどこかに飛んでいってしまって、コウに会いたいがためだけに毎日休まず出勤した。幸い、人手はいくらあっても足りないくらいの職場だったので、熱心にシフトに入るシズクは重宝されることとなったのだった。

 家と学校の中間地点にあるバイト先からは、いつも歩いて帰っている。ギリギリ徒歩圏内の学区内のため、それ以外の通学は認められていない。合わせて二十分程度の距離なので、バイト先からの帰り道は十分も歩けば家に辿り着く計算になる。

「やっぱ、声……かっこいい」

 シズクはコウの低い声が好きだ。まず一番最初の決め手がそれだった。耳に彼の声が初めて響いた瞬間、比喩ではなくシズクの心臓は、確かに高鳴ったのだ。

 そして次に見た彼の姿。その逞しい身体に抱かれたいと、思春期真っ盛りの淫らな想像をしてしまう。逞しい腕に広い肩幅。人は自分にはないものを恋愛相手に求めるというが、確かにその通りだなと今更ながら思う。

 だが、シズクが本当に大好きな部分は、彼の声でも見た目でもない。シズクが一番大好きな部分は、コウのギャップだった。あんなにガタイが良いのに彼は、可愛らしい洋食メニューが大好きなのだ。

 シズクの働くファミレスに毎日通うくらいだ。さすがに連日同じメニューは食べないが、その頼む内容は基本的には決まっている。オムライスにハンバーグにスパゲティのループ。そこにたまにグラタンやカレー等も混ざり込むのだが、基本的には洋食で、その中でも男子高校生が食べるにしては可愛いサイズのオムライスが一番の好物なのだ。

 少し暇があった時にオムライスを幸せそうに食べている彼をずっと観察していたのだが、そのあまりの食べっぷりに、バイトが終わってからシズクも同じメニューを食べて帰ったくらいだ。確かにバイト先のメニューは美味しいし安めの値段設定をしているが、それでも毎日通う程のものではないかもと従業員ながら思った。

 だから、疑問には思っていた。彼はどうして毎日、夕食をここで食べるのだろうかと。取り巻きの友人達は、さすがに毎日同じ顔触れでもない。よく一緒にいる顔もちらほらいるが、毎日なのはコウだけだった。他にも同じ学校の学生グループもいるし、学生に人気な値段設定なので不自然ではないのだが、彼の頻度は十分に不自然だった。

 でも――

――まさか、俺目当てだったとか? それだったら、嬉しい。どうしよ……そうだったら良いのに。

 夜道を歩きながら熱くなる顔を両手で押さえる。住宅街のど真ん中なので、声に出して発散することは出来ない。ファミレスの周りは大通りで交通量が多いのだが、一本道を逸れて歩き始めたら、途端に住宅街ばかりになる。街灯は多いので、暗闇ではない。だから、赤面なんてしていたら道行く人間にバレてしまう。

 社会人の帰宅時間に重なるらしく、この住宅街にも人影はちらほらとある。皆が皆、目指すべき家に向かって真っ直ぐしっかりした足取りで帰る中、少し浮かれた足取りなのはシズクだけかもしれない。しかし、頭の中はさながら遊園地のジェットコースターのように、浮かれたと思えば急降下してしまう。

――でも俺、男だし? 仲良くってのも、ただの友達ってだけで……もしかしてカワイイ恰好してたから、俺のこと女と間違えて……は、さすがにないか。名乗ったしな……いや、でも俺の名前って女みたいだって皆言うし……いや、まさか……っ。

 今度こそうめき声が出そうになって、喉に片手をやりながら目の前まで迫っていた家の扉をもう片方の手で押し開いた。ガチャっと大きな音を立てるこの扉は、シズクよりも年上なので老朽化の波が押し寄せている。

「お帰りー」

 平屋の間取りの奥から母親の声が聞こえる。靴を脱いで廊下を歩き、リビングに繋がる扉を開けると、声の主である母親が魚料理と格闘していた。この地域でよく捕れる青魚だが、洋食のメニューではほとんど見ないのでバイト先で捌かれたところは見たことがない。

「ただいまー」

「アルバイトに精を出すのはけっこうだけど、まさかその髪の毛を維持するためにお金稼いでるんじゃないわよね?」

 母親が棘のある言葉を漏らすのはいつものことだ。“多少”無理してお坊ちゃん校へと息子を入れるのは、親の世間体であることは理解しているし、今更どうこう言うつもりもない。お望み通りに指定された高校には問題なく学力の面では入れたし、学業以外くらいは好きにさせて欲しい。

「そんなことないよ。これは社会勉強みたいなもんだって」

「それなら良いけど……」

 シズクだってもう十六歳になるのだ。親がどう答えたら納得するかなんて、心得ているつもりだ。

 渋々といった表情だが、母親は黙って夕飯の準備を再開する。まだまだ時間が掛かりそうだったので、父親が帰ってくるまでシズクは自室に引っ込むことにした。

「部屋に行くよ。ご飯出来たら呼んで」

「はいはい」

 こちらも見ずに返事をする母親に、シズクも視線を送ることなく自室へ向かった。

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