マリアの願い


「まだ見ぬ私の子よ、私はあなたを愛しているわ」


 妻が亡くなった。最愛の妻だった。

 彼女は産後すぐ、産まれた息子を抱かせてもらって、そして満面の笑みを浮かべて、この世を去った。

 俺は妻の突然の死を受け入れられなくて、美しいままの彼女が今にも起き出してくるのではないかと期待して、彼女のそばを離れられなかった。

 息子のことも気にかかったが、侍女に任せきりにしていた。

 何も手につかず、ただ彼女のそばに座って呆然としていた。

 遠くで泣いている息子があやされる音が聞こえる。

 俺と彼女のいる部屋だけが静かなままで、彼女に置いていかれたという気持ちだけが強く渦巻いた。

 いつの間にか彼女の専属医が立っていた。

 彼女を救わなかった医者に怒りを抱く。身勝手なそれを御そうと拳を握りしめた俺に、医者は赤い表紙の本を差し出してきた。

 不意を突かれて、思わず手に取る。

 よく見れば、それは日記だった。

「なんだ?これは」

 俺が尋ねても、医者は首を振るばかり。

 仕方なく受け取って、中を覗いた。

 他人の日記を見るのは申し訳なかったが、俺には他に手が思いつかなかった。

 そして、冒頭の一文である。

 さらにはこう続いていた。


「私はきっとあなたが大人になったところを見ることはできないのでしょうけれど、それでも愛しているわ。まだお腹に宿ってもいないあなたを」


「この日記にはあなたが産まれるまでの私の思いを綴っておきます。あなたが大人になったら見てください。私がどれだけあなたを愛していたのかを。どれだけあなたを待ち望んでいたのかを」


 見覚えのある字だった。

 自分が知る中で最も美しく品のある字。最愛の彼女の字だ。

 彼女が好んで使っていた百合の香が鼻をくすぐった。

 途端に涙が溢れてくる。

 もう全部流したものと思っていたけれど、視界がまた滲んでいく。

 彼女の日記に零れたらいけないと思って、慌てて顔を逸らした。

 ああ、彼女は亡くなったのだ。急激に実感が湧いた。



 ***


「話があるんだ。」

 彼、アレン・マクアージがそう声をかけてきたのは放課後の食堂。マリアがひとりでまったりお茶をしていた時だった。食堂には同じようにティータイムを楽しむ生徒たちがそれなりにいた。

 アレンが食堂に入って来て私にまっすぐ向かってきた時、騒がしかった彼らはしんと黙り込み、一瞬後には白々しい騒がしさを取り戻した。近頃噂の本人達が2人も揃っているのだ。気持ちはわかる。

 アレンは私の婚約者だった。生まれる前に仲の良い親同士が約束して、そうなった。物心ついた時には既に私の隣にはアレンがいた。だからなのか、婚約に不満はなかった。

 それは私だけだったみたいだけれど。

 自分をぼんやりと見上げる私をどう思っているのか、アレンは険しい顔のまま、こちらを見下ろしていた。緊張して顔がこわばっているのだ。もともと彼は私より背が高いけれど、今は私が座っているから、余計に距離がある。アレンが難しい顔をしているから威圧的にも見えた。

 思わずこちらも身構えてしまうのをなんとか堪えて、笑みを貼り付ける。目は笑えているだろうか。

「まあ、なんの御用かしら?お話なら何も隠すことなどないでしょう。ここでどうぞ。」

 なんの話で、彼がわざわざ出向いてきて、久しぶりに話しかけてきたのか、察しはついている。だから、そういったのはわざとだった。意地悪ではない。そうする必要があったから。私は聞かせたかったのだ。できるだけ多くの人に。彼は焦った顔をする。彼らの思惑から外れたことを私が言ったから。

「大事な話なんだ。」

 もちろんこんなところで、聞き耳をたてられている中、する話ではないこと、私は十分知っていた。思い知っていた。

 けれども、だからこそ促す。

「ですから、どうぞ話してください。ここでお聞きします。」

「君の、いや僕らの未来に関わる話だ。」

 ここでは話せないのだと言外に語る彼が、何を心配しているのかも、分かっている。私のためだ。

 何より私が傷つくのが最小限であるように彼らは考えたのだろう。優しいのだ、彼らは。根っからの善人であるのは、いちばん彼らの近くにいた私が知っている。

 だからこそ人目があるところで言ってほしい。

 決してそれは彼らが大事な話を公でする非常識な人であるかのように見せたいのではなかった。もちろん私自身を傷つけるためでもない。

「構いません。」

 あえて貼り付けた笑みを剥がして、真剣な顔をしてみせる。私が本気なのだと、覚悟をしているのだと分かってくれただろう。

 アレンは困った様子で黙り込み、そして口を開いた。

「マリア、君との婚約を解消して欲しい。」

 食堂が再び静まり返った。

 その事に気づいていないように、彼は続ける。

「好きな人が、出来てしまったんだ。もちろん君との婚約を解消しても、その人と結ばれるのが難しいことは分かっている。

 それでも、本当に好きな人が出来てしまった今、君のことを愛することはできない。君のことは大事だ。そういう好きではなかったけれど、幸せになって欲しい。

 だから、俺との婚約を、マリア、君から解消してくれないか。どうか君を愛せなかった俺を捨ててほしい。」

 ああ、やっぱりその話か。

 どこまでも真摯に語る彼に、胸が重たくなる。わかっていたはずなのに、私は少なからず傷ついていた。言葉を重ね、それでいて相手のことを明かさない姿は、私への優しさと相手への愛で出来ているのだろう。

 重苦しい思いのままに私はため息をつく。彼は默して私の応えを待っていた。彼だけではない。食堂中が私に注目しているのがわかる。

 何を期待しているだろう。彼らは私に取り乱してでも欲しいのだろうか。他人の揉め事はそんなに興味深いものだろうか。

 私がこの話を今知ったとでも思っているのだろうか。そこら中で噂され、心無い人や友人が教えてくれたりもしたというのに。

 私は彼の恋の相手を知っている。

 両想いであることや、すごく仲がいいことも、心を通わせていて、それでも一線を超えていないことも。

 アレンの恋の相手はリリア・シャルメリア。私の妹だ。彼女はシャルメリアの次女で、約束のために嫁ぐ私の代わりに、リリアの夫になる人がシャルメリアの家を継ぐことになっていた。

 末の娘で病弱だからか、私とは違って愛らしいからか、妹は両親や使用人たちに一際愛されて育った。だからなのか、彼女は甘え上手で優しい子だ。姉の婚約者に惚れてしまったのは想定外だっただろうし、葛藤もあっただろう。

 本当に優しくていい子で、彼女は私を慕ってくれていたから。

 けれども、私は妹が好きではなかった。

「・・・。」

「・・・。」

 沈黙が続く。アレンは体の横に下ろした手を強く握りしめていた。目にも強い光を宿し、覚悟を決めた様子で、じっと待っている。

 私は真顔で彼を見つめ、考えにふけっていたらしい。

 周囲はそろそろさわさわと声がし始めた。

「私、あなたが何をおっしゃっているのか、分かりませんわ。」

 眉根を下げて、私はおもむろに口を開いた。困っているように見えるだろうか。

「そもそも勘違いをしていらっしゃるようですけれど、」

「シャルメリアとマクアージの家の婚約は、私と貴方の、ではありませんわよ?」

「は?」

 ぽかん。アレンは驚いて、口をパッカリ開き、目も見開いた。途端に騒がしくなった食堂に私の声が響く。できる限りの多くの人に聞かせなければならないから、そういう風に声を出した。

「私たちシャルメリアの娘と貴方の婚約なのです。ですから、貴方があの子と結婚したいなら構いません。私が家付き娘になるだけですもの。」

 平然と述べる私に、私以外は困惑した。家に慌てて連絡を取るものも出始めた。彼、アレンは混乱し、そして固まった。私が相手を言ったことにすら気づいていないらしい。

「父には伝えておきますわ。では、お話は終わりかしら?」

 問うと、彼は辛うじて頷く。

「お先に失礼致しますわ。ごきげんよう。」

 ティータイムの片付けを食堂の使用人に任せて、席を立つ。引き止める者はいなかった。


 帰りの車に揺られながら、考えにふける。

 アレン・マクアージは確かに私の婚約者だった。今はもうそうではないが、つい最近までそれは事実だった。その事実自体ないものとして根回しをしたのは私だ。

 父上にお願いをして、そういうことにしてもらった。覚えている限り初めてのわがままを、父上は戸惑いながら許してくれた。深々と頭を下げた私をどう思ったのかは分からないけれど、どうやら私は父上にちゃんと愛されていたらしい。その愛は妹には劣るものかもしれないけれど。

 許しをもらった私は婚約について聞かれた時のみ、まるでさも初めからそうであったかのように語った。父上も母上もそうして下さったらしい。わざとらしく触れ回らなくても話は広がるし、第一余程の純粋なものでなければ、冷静になれば真実に気づくのだ。気づいても、上辺上はそうなったと理解して話を合わせる。その程度が出来なくて、社交界ではやっていけない。そういうことになった。それが大事だから、裏でどんな噂をされようと、表面上何かを言ってくるものは程なくいなくなるだろう。

 私は妹が好きではない。

 けれども私は姉だから、あの子の幸せを願わなくてはいけないのだ。

 いっそのこと妹が嫌な子であれば、私はせめて妹を憎むことが出来たのに。自分を嫌いになることはなかったかもしれないのに。

 知らず、涙が1粒こぼれ落ちた。


 *


 リリアとアレン、二人の仲を自分の目で初めて見たのは、およそ一年前。

 その日も私は図書管理棟に詰めていて、その帰りだった。

 裏庭に面した渡り廊下を歩いていれば、窓の向こう、眼下の木陰に人影が見えた。

 その時足を止めて注視したのは、たまたまだった。偶然そんな気になったから。いや、もしくは、嫌な予感がしたのかもしれない。無意識に気づいていたのかもしれなかった。

 木陰のベンチに座っていたのは、妹のリリアと私の婚約者のアレンだった。

 隣り合って幸せそうに微笑んでいて、すぐそこの私にはちらりとも気づかない。お互いしか見えていない。手を繋いでいるのもはっきりと見えた。アレンが何か手振り付きで話して、リリアが楽しそうに笑う。仲睦まじい恋人のようにしか見えなかった。私などより、余程。二人の姿は幸せに完成されていて、まるで一枚の絵画のようで。

 バサバサバサッ

 派手な音を立てて、手の中の本や資料が床に落ちる。

 その音で私は我に返り、自分が自失して呆然と二人を眺めていたことを遅れて自覚した。

 溜息を堪えて、落ちた本を拾おうと膝を折った。

『治癒術のすすめ 〜応用編〜』

『現代治癒術基本用語集』

『症例の少ない難病・奇病辞典』

『病気と出産』

 瞬間、資料のタイトルがそれぞれ目について、頭の中を駆け巡る。

 幸せな二人に比べて、私のなんてみじめなことだろう。

 陽光の中ベンチで穏やかに日向ぼっこしてる二人に対して、私は薄暗い書庫で必死に資料を探している。埃の匂いにまみれて、なんとか自分の不出来を治そうとする私の、なんて。

 二人の裏切りに不思議と怒りは湧いてこなかった。

 ただ、ただ悲しかった。

 あっという間に目頭が熱くなって涙が溢れた。

 ぼやけた視界でさえ見ないように目を覆って、マリアは泣きじゃくった。嗚咽が喉から流れ出る。半ば叫ぶようにして、マリアは崩折れた。

 こんな薄暗い廊下で独り泣いていることさえ、みじめで悲しくて涙は止まらなかった。


 自分の病弱さに気づいたのはいつだったろう。

 幼い頃、妹のリリアは体が弱くて、よく熱を出していた。私は外で遊ぶこともままならないリリアが可哀想でならなくて、よく外で遊んだ帰りに花を持って行ったものだ。

 リリアはそれを喜んでくれたけれど、大人たちには「なんて酷いことを」と怒られたものだった。

 リリアはよく愛されていた。私と違って母様によく似て美しく可愛らしかったし、純粋で素直でいい子だったから。リリアは天使か妖精のようだと言われ、誰にでも愛された。私も可愛いリリアが大好きだった。

 反対に、あの時私の側にいたのはアレンだけだった。

 両親も使用人たちもリリアにつきっきりで、私と遊ぶ暇なんてなかったのだ。

 生まれる前からの婚約者であるアレンだけが私とよく遊んでくれた。それは外を駆け回り、木に登り、馬に乗り、木刀を振り回す、とても女の子らしい遊びではなかったけれど、私は嬉しかった。本当はしたいことは違ったけれど、それでも良かった。楽しかった。

 親が決めた婚約に私が不満を持たなかったのは当然の成り行きだった。私はアレンに恋をしてはいなかったけれど、幼馴染として情を持っていたし、アレンは私にとって初めての友達だった。きっと夫婦になっても、愛を育んでいけると思っていた。

 アレンだって婚約を嫌がっていた訳ではなかった。むしろ私のことを大切にしてくれた。

 けれど、彼は私を裏切った。妹のリリアに恋をして。

 ああ、そうだ。彼と外で遊んでいた時だ。

 その時に突然足から力が抜けて転んだのだった。

 それが始まりだった。

 幸いその時はすぐに治って、私自身も違和感は感じつつもこけただけだと思っていた。でも後から思い返してみれば、やはり妙な感じだった。

 それからだった。頭痛、めまい、腹痛、耳鳴り、目の違和感、それ以外にも色々と。不調は立て続けにやってきて、あの日以来健康な日などなかった。

 もちろん、自分がおかしいことには幼いながらすぐに気がついたから、大人には訴えた。しかし、返ってきたのは冷たい言葉だった。

「マリア、嘘は良くないよ。」

「リリア様は大変なんですから、それを羨ましいと思ってはいけませんよ。」

「マリア、今は忙しいの。」

「いい加減にしなさい!マリア!」

 誰も私の言葉など信じてはくれなかった。良くて諭され、悪くて怒鳴られた。

 ねえ、私の言葉はそんなに信じられない?

 かまってほしい故の仮病だと誰が言ったの?

 医者に診せてもくれないの?

 絶望した。裏切られたと思った。悔しかった。何度も泣いて、もはや誰も信じまいと心に決めた。

 皆大好きだけれど、大切だけれど、それは一方通行な想いなのだ。私は誰からも愛されていない、少なくともリリアほどには。そう痛感して、私は心を閉ざした。

 しまいには熱を出した。視界がぐらぐらと揺れるような高熱だった。私は部屋に閉じこもって、使用人すら入れず、なんとか自然治癒した。

 食事は部屋の前に差し入れてあったけれど、ろくに食べられずに何度も吐いた。自分で処理するのはひどく惨めだった。それでも食べなければ治らないから、少しずつでも栄養をとった。

 その時は薬なんて用意できなくて、水で濡らしたタオルを自分で絞って額に当てた。

 扉の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえるたび心細くて独りで泣いた。

 死なずに済んだのは奇跡だっただろう。

 私は馬鹿だ。馬鹿なことをしている。そんなことよくよく知っている。それでももう誰かに自分の弱みを見せる気にはなれなかった。熱に気づかれたら、私の言うことを信じなかった人に「早く言いなさい。」なんて叱られたら、心が折れてしまいそうで、大好きな人たちを憎んでしまいそうで。

 アレンに言い出すことができなかったのも同じ理由だ。

 私は精一杯強がっていたかった。

 まして、やっとの思いで治して、部屋から出た時、

「もう気はすみましたか?旦那様も奥様もお忙しいのに心配をかけてはいけませんよ。」なんて言われては。

「マリアお嬢様にも困ったこと。リリアお嬢様に嫉妬して仮病のあげく、拗ねて閉じこもりなんて。」なんて影で噂しているのを聞いてしまっては。

 はっきり言って憎たらしかった。

 呑気に私が拗ねているなんて思っている家族も使用人も。

 人の気も知らないで!

 愛しているけれど大好きだけれど、黒い感情が湧き出して、いっそ叫び出してしまいたかった。

 そこからはもう意地だった。

 不調は続いたし、度々高熱を出したけれども、優秀たれと全てを隠して微笑んできた。裏でどれだけ泣いても吐いても、自分を管理し制御し、私はやり遂げた!

 独りで立つために知識をつけて、薬も自分で手に入れて。精一杯強がって見せた!

 思惑通りに周囲は私を勘違いしてくれて、でも時々寂しさと虚しさで泣いた。

 アレンと結婚して、幸せな家庭をつくることだけが希望だった。

 自分の子供は私のような目には遭わせないと誓った。


 だから、ただ悲しい。

 アレンのことは好きだったわけではない。結局恋になることはなかった。

 けれど、裏切られたと。愛ある家庭を彼と築けると思っていたのに、裏切られた。そう思う。

 しかも、よりによって妹のリリアとだなんて。

 妹のことはもう昔のように好きだと断言できなくなっていた。

 嫌いではない。でも嫌いになれたならよかった。

 そしたらこんなに苦しむことはなかったかもしれないのに。

 リリアは私よりずっと愛されている。好きにはなれない。

 リリアは純粋で優しくて可愛くて、すごくいい子だ。嫌いになれなかった。こんなにもいい子を憎む姉なんて、それはなんて醜いことだろう。

 私は、私だけは、私を好きでいたかった。

 いっそのこと妹が嫌な子であったなら。何度思ったか知れない。

 友人から、心ない人から、2人の噂を聞かされる度、心が軋んだ。どうして。

 どうして2人だったの?どうして私では駄目だったの?

「私は2人を信じていますから。」

 シャルメリアの娘らしく穏やかに微笑んで、内心気が狂いそうだった。

 信じてなんかいない。確かめなかったのは、夢を諦められなかったからだ。

 命の刻限は少しずつ減っている。治癒術師ではないから正確な余命はわからないけれど、

 限界が近いことだけはわかっていた。このところ微熱が続いている、以前までは発熱が継続することはなかったのに。たとえアレンと順調にいったところで、無事に子を産めるのかさえ怪しくなってきた。

 なのに、

 今更相手を変えろと言うの?

 そんな時間あるかもわからないのに?

 自分の子を産むことだけが支えだったのに、不安で仕方なくて確かめられなかった。

 でも、今もう見てしまった。

 完成された幸せの中にいる2人を。

 妹のリリアが幸せそうに笑っているのを。

 なら私は、私のすることは決まっている。

 祝福してやらなければ。応援してあげなければ。

 私はお姉ちゃんだから。2人のことが大切だから。嫌いではないのなら。

 マリアは顔を上げた。

 止まらない涙は袖口で乱暴に拭った。鼻を啜る。しゃくりあげていた喉を止めようとして、えずいてしまった。

 無理矢理口角を上げる。

 ほら、大丈夫。私は笑えてる。

 散らばった資料を手早く拾い上げて、マリアは立ち上がった。窓の向こうの2人をもう一度目に焼き付けて、床をしっかり踏みしめて、歩き出した。

 やることは決まっていた。まずは父様と話をしなければ。


 そうして婚約変更に向けて、マリアが動き出したのがちょうど一年前のことだった。


 *


 屋敷に帰り着くと、執事が出迎えてくれた。

「おかえりなさいませ、お嬢様。」

「ただいま戻りました。リリアはまだ学園に。父上は帰っていらっしゃる?」

「はい、ただいまは執務室におられます。」

「例の件で報告があるので、後ほど参りますとお伝えして。着替えてきます。」

「かしこまりました。」

 丁寧に腰を折る執事を置いて階段を上がる。自室へと向かっていれば、私が帰ったことを聞いた侍女がやってきて、深く頭を垂れる。

「おかえりなさいませ、マリア様。」

「ただいま戻りました。荷物はいいから、お茶を用意してくださる?お父様とお話しする前に、ちょっと整理をつけたくて。」

 荷物を預かろうとした彼女にそう告げると、彼女は了承して下がった。

 自室に入って、深く息を吐く。

 やっと、ようやく終わった。終わってしまった。

 夢への最短の道のりを自分の手で潰した。

 でも、これで良かったのだ。きっと。

 あの幸せの中にいる2人を無理に壊しても、幸せな家庭などできないだろう。

 アレンが妹に恋をしてから、アレンとの道は私にとっての最善ではなくなったのだ。

 そういうことだ。

 どうして私では駄目だったのかと責めたい気持ちもあるけれど、きっと恋とはそういうものなのだろう。

 もう一度深く息を吐いて、涙を堪えると、制服を脱いでドレスに着替える。

 泣き言なんんか言っていられない。これからなのだ。私は希望を諦めない。

 まだ見ぬ私の子、あなたが誰との子になろうとも私はあなたを愛してみせる。


 ドレスに着替えた後、侍女の淹れてくれたお茶を飲んで、父の執務室に向かった。

 リリアが帰る前に報告をしておきたい。リリアは帰ってきたら父母と私を問い詰めるだろうから。

 深呼吸をして、ドアをノックする。

「父上、マリアです。入ってもよろしいでしょうか?」

「構わん。」

「失礼いたします。」

 執務室には父上が一人で机に向かっていた。その前まで進みでる。

「報告いたします。先ほどアレン様に滞りなく伝えました、婚約は私とアレン様ではなく当家の娘とアレン様のものであると。多くの者に広めるためとはいえ、少し意地悪もしてしまいましたけれど。」

 婚約はシャルメリアの娘とアレンとのものだ。そういうことになった。

 つまり、私との婚約を破棄しようとしたアレン様はとんだ勘違いのお騒がせ者になってしまう。

 浮気者より断然マシだろうが、2人を冷やかすものも出てくるだろう。

「そうか。多少の困難はあれらも覚悟の上だろう。」

 そうだろうか…?婚約破棄して妹に乗り換えたという醜聞よりはいいとはいえ、2人はこれから多くの冷たい目を向けられるだろう。幸せになれると良いのだけれど。

 私は同意することなく黙り込む。沈黙が執務室におりた。

「お父様、一年前私が言ったことを覚えておいででしょうか?」

 一年前もこうして父上と向かい合った。そして、願い出たのだ。

『お父様、私を少しでも愛してくださっているのなら、お願いがございます。』

『マリア?』

『どうかリリアとアレン様を、2人が結ばれるよう手を回してください。そして、どうか私に婚約者を選ばせてください。』

「お父様はあの時、考えるとおっしゃいましたね。改めてお願いいたします。どうか少しでも私を可愛がってくださっているのなら、どうか。」

 父上はしばし黙り込み、おもむろに口を開いた。

「あの時お前は相手に当てはないと言ったな。身分を問わず探すとも。」

「ええ、それ故に考えるとおっしゃったことも分かっています。」

「相手は見つかったのか?」

「はい。」

 この一年それとなく相手を探した。

 身分などのどうでもいいことに囚われる気は初めからさらさらなかった。大事なのは私の子をちゃんと愛してくれるかだ。

 もちろんそんなこと実際に結婚してみなければわからないことだけれど。

 それでも評判というのは少なからず参考になった。

「騎士団のカイト・リューゼル様がよいと考えています。」

「リューゼル…伯爵家か。カイトの名は聞いたことがないな。嫡男ではないのだろう。騎士団ということは、成人しているんだな?」

 平民はその限りではないが、貴族が騎士団に入隊する場合、だいたいにおいて学園の卒業後だ。学園は15歳になった貴族の子女と優秀な平民の子に門戸を開いている。3年制で、卒業は18歳。この国の成人は18だから、卒業式は成人の儀も兼ねていて、盛大なパーティーが開かれる。

 学園は未来の国を担う子供たちの交流の場でもあるから、余程のことがなければ、貴族は皆通うことになっているのだ。

「はい、彼は25歳。リューゼル伯爵家の二番目のご子息でいらっしゃいます。嫡男のキリト様は健康で病にかかったこともなく、それ故に彼は騎士団に入られたと伺っています。」

「そうか。」

 父上は顔の前で手を組み、口元に当てた。考え込んでいる様子だ。そして、独り言のように呟いた。

「…婿に迎えるにあたっては問題ないのだな。」

 父上が顔を上げた。

「その、カイト殿とはもう話をつけたのか?」

「いえ。時間が取れませんでしたもので、お恥ずかしながらまだお話ししたこともなく。お父様には婚約の打診の許可を頂きたいのです。」

 父上は組んだ手を下ろし、不思議そうな顔をした。

 それはそうだろう。まだ話をつけていないどころか、話したことすらないとは思っていなかったに違いない。身分を問わずに婚約相手を選ばせてくれなんて言われたら、普通は恋愛結婚を想像するだろうから。

「不思議に思われるかもしれませんが、政略結婚を考えています。私は彼を好ましいとは思っていますが好いてはいませんし、彼は私のことを知りすらしないでしょう。彼の身分は当家に比べて低く、容姿で選んだわけでもなく、実績があるわけでもありません。才能もはっきり言って目を惹くものではありません。それでも彼がいいのです。私が求めるものに彼ならば応えてくれるだろうと、そう思います。彼が私のことを気に入ってくださるかはわかりませんが、その打診の許可を頂きたく。」

「そうか…。」

 父上はまた深く考え込まれた末に、こう返した。

「少し考えさせてくれ。」

 いっそ弱々しいと言った方がいいような様子で考え込まれている父上に、すぐに頷いて貰うのは難しそうだと判断して、私は退出の許可を頂いた。



 その日の夕食時、父は変わらず思案に耽っており、母もまた父上から話を聞いたのか物憂げな眼差しで口数が少なかった。私は期待と不安とで自分のことで精一杯で、リリアばかりが妙に落ち着かなそうに浮ついていた。

 夕食の時間は静かに過ぎていった。

 リリアがとうとう口を開いたのが食後のティータイムの時。

「あの、婚約のことなんですけれど、」

 お茶を一口。気を落ち着かせようとしたところ、リリアがそう切り出した。そうだった。もう終わったこととして意識の隅に追いやっていたけれど、リリアにとっては今最も気がかりなことだろう。それにしてもあまり嬉しそうではない。思いあった相手と結ばれようとしているのに、リリアは酷く困った顔で眉根を下げている。

「ああ、貴女達とアレン様の婚約ね。それがどうかしたの?」

 流石の母上で、さも当たり前の顔をして応えた。

「アレン殿との婚約の話ならマリアから聞いた。リリア、彼と思いあっているらしいな。喜ばしいことだ。婚約は正式に2人のものとして取り決めておく。」

 何食わぬ顔で父上が続ける。

 リリアはますます泣きそうな顔になって訴えた。

「違うわ!どういうこと!?あれは、あの婚約は姉様とアレン様のもので、」

「リリア、」

 感情的に立ち上がって叫ぶリリアに私は一言呼びかけた。リリアが勢いよくこちらを振り向く。

「リリア、シャルメリアの娘がそう感情的になるものではないわ。」

「姉様は!…姉様はそれでいいの?」

「何のことかしら?婚約のことなら、そもそもお爺様たちの約束から始まったことだもの。私と貴女とどちらでも良かったのだもの。思いあっているのなら素晴らしいことだわ。」

「あんなに仲が良かったのに姉様は何も思わないの?私は姉様の相手を奪ったのよ?」

「リリア、滅多なことを言うものではないわ。当家とマクアージ家の婚約は当家の娘とアレン様のもの、」

「だから、それが」

「そういうことになったの。だから最初からそうだったのよ。」

 リリアはついに目元を覆って、力尽きたように椅子に腰掛けた。

「……手を回したのは姉様なのね。…姉様はそれで本当にいいの?」

 聞こえるかどうかの小さな声で呟くリリアに頷いて返す。私が根回しをしたことにこの短い間で気づくとは、勘のいい子。

「ええ。」

 私を見ていなくとも声は聞いていたらしい。リリアは小さく小さく何度も頷いて、鼻を鳴らした。よく見れば肩も細かく震えている。泣いているのかもしれない。

 どうやらリリアにとって婚約の変更は一概に嬉しいだけのものではなかったらしい。

 顔を上げたリリアは涙は浮かべてはいなかったけれど、目元が仄かに赤かった。

「…わかったわ。私、先に部屋に帰ります。おやすみなさい。……ねえさま、ありがとう。」

 リリアが最後に呟いた一言はちゃんと私の耳に届いていた。

「「「おやすみなさい、リリア。」」」

 ねえリリア、私ちゃんとお姉ちゃんができた?

 私は心中でリリアに問いかけた。当然応えはない。

 窓の外を眺めても、夜の闇はますます濃くなっていくばかりだった。


 *


「お前のしたいようにするといい。」

 数日悩まれた結果、父上は許可してくださった。こんな政略結婚とは名ばかりの、あまり家のためにはならない結婚をよく許してくれたものだ。

 やはり、父上は私を愛してくださっているのだろう。

 幼い頃の思い出が思い起こされる。それは妹への愛には劣るけれど。

 そうと決まれば、早速手紙を書こう。縁談の申し込みと話し合いの席を用意しなければ。

 マリアは羽ペンを手に取ると、悩み悩み文字を綴り、丁寧に封筒に入れて、家紋の封蝋を押した。



「あー、つっかれたー!」

「今日も地獄だったな…。」

「このあと飲み行かないか?いい店見つけたんだよ!」

 騒がしい訓練後の更衣室で、カイトは1人静かに着替えていた。騎士団に入って7年、同期の中で出世頭というわけでも目を引いて劣っているわけでもなく、カイトは手堅い戦績を上げてきた。2年前に王国騎士団第四部隊第1小隊の隊長を任じられ、部下に上司にとそれなりに揉まれている。まあそれなりにうまくいっていた。

「隊長!この後飲み行きませんか?可愛い子がいるんですよ!」

「ばっか!やめとけ!隊長はそういう浮ついたこと苦手だっての!」

「えー!?たいちょー顔いいのにもったいねえー!」

「馬鹿野郎!その真面目さが隊長のよさだろうが!」

「うげ!セストそっち系?暑苦しい。」

「このやろ!」

 部下の2人が話しかけてきたが、何故か目の前で2人で揉め出した。取っ組み合いを始めた2人を無視して、淡々と着替えを続ける。こういう小競り合いは騎士団では珍しくない。どんなにお綺麗に取り繕ったところで、荒事に慣れた男の集まりなんて、こんなものだ。

「カイト、お前もたまには飲み行かないか?可愛い子はともかく飯はそれなりに美味いぞ。」

 床に転がって寝技を掛け合っている部下を軽くまたいで、友人のハイネが誘ってくる。確かにたまには仲間たちと騒がしい夕食をとるのもありかもしれない。そう思うが、あいにく日が悪かった。

「すまない。今日は必ずすぐ帰るように朝言われてな。」

「そうなのか。家関係か?確かカイトはお貴族出身だったよな?」

 騎士団は貴族出身と平民出身がいる。貴族出身は大体が近衛騎士団の方に配属されるので、王国騎士団に配属されたカイトは稀な例だ。配属は基本的に希望制なので、問題になったことはあまりない。カイトも実力主義の王国騎士団を希望して入隊した。ちなみに両団の仲はあまり良くない。

「まあ。大して金も力もないが、一応伯爵家だ。なんの用事かは聞いてないな。」

「へえー。そんなら、緊急かどうかもわからんな。まあ、また誘うさ。」

「ああ、頼む。」

 軽く肩を叩いてくるハイネに、笑みを返す。

「ええー!たいちょー来ないんすか!?」

 ハイネの後ろからじゃれあっていた部下たちが寄ってきた。

「家の用事があってな。今回は遠慮する。」

「ま、いーっすよ!今度は来てくださいね!」

「隊長、お疲れ様でした!」

 拳を胸に当てて送り出してくれる部下に敬礼を返して、更衣室を出た。訓練場を横目に城壁沿いに歩き、馬車付き場を目指す。わざわざ馬車で帰らねばならないのは面倒だが、姉たちが煩いので仕方ない。一応貴族であるから外面も気にしなくてはならないことだし。

 リューゼル伯爵家の家紋が入った馬車に乗り込む。御者と俺しか乗れない小さな馬車だが、通勤に不便したことはない。

「お疲れ様でした、カイト様。」

「ああ。家まで頼む。」

「かしこまりました。」

 御者が手綱を手繰ると、馬車は軽快に走り出した。馬車からの眺めは、仕事で乗る馬上の眺めとはまた違って面白い。春のさわやかな風が頰を撫でる。

 城を出て、街中を走り抜け、郊外まで来ると馬車は速度を落とす。リューゼル伯爵家の街屋敷は、郊外の森の中にひっそりと建っている。平民の家よりは流石に大きいが、貴族の屋敷、それも伯爵家としては小さいそれ。先祖があまり社交に乗り気でなく、人通りの少ない土地にあえて小さく建てたのだそうだ。国から頂いている領地には、ふた回りは大きなものがちゃんと建っている。

 馬車をおりて、御者に礼を言うと、屋敷に入る。

「やあっと帰ってきたのね!」

「待ちくたびれたわよ!弟よ!」

 玄関を開けてすぐに高い批難の声が降ってくる。見上げれば、姉2人が雁首そろえて、2階から見下ろしてきていた。姉2人はすでに嫁いだ筈だが、戻ってきたらしい。

「ただいま戻りました。お久しぶりです。」

 カイトが真面目に敬礼で返すと、下の姉クラリスがつかつかと階段をおりてきて、早く来いと腕を引っ張る。

「挨拶なんかいいから、早くこっち!」

 上の姉、ミラも横をのんびり歩き、先導する。

「弟よ、君に大変な手紙が来てるのよ。」

「手紙、ですか?」

「そ!見て驚きなさい!」

 姉2人に急かされて連れられていったのは、父の執務室だった。父が難しい顔をして、執務机の上を眺めている。そこには白い封筒があった。母と兄は、ソファに座り複雑そうな顔をしていた。姉2人が俺を解放し、ソファの空いているところに座れば、俺が腰をおろせる場所はなかった。これも末の子の定めか。

 仕方なく父の前に進みでる。

「それで、手紙とは何のことでしょう?朝おっしゃった用事とはそのことですか?」

 父は黙って手紙を差し出した。母や兄姉を振り返るが、黙って成り行きを見守っている。手紙を見る。流麗な字で宛名が書かれていた。カイト・リューゼル様。俺宛に違いない。

 ひょいと裏返して、言葉を失った。

 手紙は開封されておらず、封蝋が綺麗に残されている。その押されている印が、なんとシャルメリア公爵家のものだったのだ!縁もゆかりも心当たりもない。身分が違いすぎる相手だ。家族の反応にも納得がいった。

「父上、これは…?」

「心当たりがあるわけではないのだな?私にもわからないのだ。」

「開けてもいいですか?」

「好きにしなさい。お前への手紙だ。」

 震える手で封を剥がし、中身を引っ張り出す。

 さて、どんなことが書いてあるだろうか。抗議じゃなければいいんだが。

 ひとつ息を吐いて覚悟を決め、恐る恐る開く。文からは香でもしたためてあるのか花のいい香りがした。宛名と同じ流麗な字が綴ってある。


 カイト・リューゼル様

 春の麗らかな日差しが嬉しい今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?

 突然のお手紙、さぞ驚かれたことと思います。

 まずはご挨拶を。

 はじめまして。マリア・シャルメリアと申します。シャルメリア公爵家の嫡子として生を受け、今年で18になりました。問題なくこの夏学園を卒業できそうです。趣味は読書で、お恥ずかしながら日がな一日学園の図書棟に籠る毎日です。

 カイト様は騎士団のお仕事励まれているとお聞きします。辛いことはありませんか?何か悩みがあれば、微力ながらお手伝いできればと考えています。

 さて、今回こうしてペンをとらせていただいたのは、カイト様にひとつご提案があるからです。

 この度妹の婚約が正式に決まり、私もようやく安心して婚約者を探せるようになりました。

 そこで、カイト様のお噂を耳にし、この人ならば私の望みを叶えてくれるに違いないと思い、当家の当主に提案したところ許可を頂きました。

 私、マリア・シャルメリアはカイト・リューゼル様との婚姻を望みます。

 貴方様さえよろしければ、婚約していただけないでしょうか?

 お話ししたこともない私からの突然の申し出で驚かれたことと思いますが、是非一度お話しする機会を頂きたいと思い、こうしてペンをとった次第です。

 時間はいつでも構いません。お忙しい貴方様のご都合に合わせて、席をご用意させていただきます。

 色よい返事をお待ちしております。

 マリア・シャルメリア


 それは、婚約の誘いの手紙だった。

 カイトは思わず呆然として手紙を何度も読み返した。しかし書いてあることは勝手に書き換わったりしない。それにしても美しい字だ。これが本物のご令嬢の字というやつか。姉たちの字と比べて、現実逃避に感嘆する。姉たちだって別に字が汚いというわけじゃないけれど、この字は癖というものがまるでないお手本のような字だった。

「カイト?どうしたんだい?」

 兄であるキリトが不思議そうに問いかけてくる。その横の姉たちは期待に満ち溢れた目をしていた。

「婚約の申し出でした。」

 手紙を指しながらそう言うと、姉たちが黄色い声を上げた。きゃらきゃらと高い声で騒いでいる。

「シャルメリアから?」

 母が顎に手を当てて、首を傾げた。

「どちらの令嬢からなの?」

「マリア嬢からです。」

「あら?マリア様は婚約者様がいらっしゃらなかったかしら?」

「いや、その方は妹様の婚約者に正式に決まったらしい。そういうことになったそうだ。」

 母の疑問を父が答え、父母は揃って渋い顔をした。

 騎士団でも噂になっていた。もともとあった婚約を実は違うとすることなんて滅多にあることではない。しかも男が姉から妹に乗り換えるなんて。羨ましいなんて下卑た噂もあれば、よほど姉に魅力がなかったのかなんて邪推する噂もあった。

 そういう噂を苦手としている俺にまで聞こえてくる勢いだ。市井にはともかく、噂好きの貴族にはもう広まっているだろう。

 マリア・シャルメリア。どんな女性だろうか。

 カイトは手紙の送り主に思いを馳せた。

 婚約者を妹に奪われたばかりの女性。だというのに、彼女はこうして自分に婚約の申し出をしてきている。

 前向きなのか。切り替えが早いのか。未練はないのか?もともと好きではなかったのか。

 どんな状況で婚約の変更を受け入れ、どんなつもりで俺なんかと婚約したいと思っているのか。彼女の考えが知りたい。どんなひとなのか知りたい。

 会いたい。まずは会ってみよう。話がしたい。

 心はもう決まっていた。

「会ってみようと思う。」

 気づけば独り言のように俺は呟いていた。

「あら?乗り気なのね?」

 クラリスが不思議そうに言う。下の姉だけでなく全員が驚いた顔で俺を見ていた。今まで縁談を遠ざけてきた自分だから物珍しいのだろう。顔目当てだと前面で押し出してくる令嬢が続けば、それは縁談が嫌にもなるだろう。

 この人ならば私の望みを叶えてくれる、そう綴られた手紙をなぞる。叶えたい望みとはなんだろうか?聞けば教えてくれるだろうか。

「ええ、会いに行ってみます。ちょうど向こうもそれを望んでいるようですから。」

 改めて言葉に出して決意する。

 手紙にもう一度目を通した。思えば女性にこんなに興味を抱いたのは初めてかもしれなかった。


 ***


 カイト・リューゼルがマリアと結婚したのは彼女が学園を卒業した年の冬のことだった。

 彼女と出会ったのがその年の春のことだったので、交際期間はそう長くはなかった。

 彼女の生家は醜聞となった妹の結婚を急いでいたから、姉である彼女も早く結婚して、婿を迎えなくてはならなかったし、その時は彼女が妙に急いているのは、妹のためだと思っていた。

 交際期間が短いのは問題にならなかった。互いの生家も、彼女ですらも、これは彼女の望みを叶えるための政略結婚兼周りからの罪滅ぼしであったし、俺の生家からすれば俺が乗り気であることもあり、断る理由もなかった。

 もちろん世間からすれば、彼女は軽薄な人間で、俺は人身御供の可哀想な人というお節介な噂はあったが、急いている彼女は気づいた様子はなかったし、彼女の生家や俺自身が怒りを露わにしたので、噂はすぐにたち消えた。

 恋に落ちたのだ。

 彼女と初めて会った見合いの日、彼女は薔薇の刺繍が裾に施された淡い青のドレスだった。髪はハーフアップにし、同じく薔薇を生けていた。青い薔薇はないからか、青ではなく白だったが、それがまた似合っていた。

 彼女にはどんな衣装も、どんな装飾だって似合うし、何も飾っていなくたって美しいが、あの日の姿は特に鮮明に覚えている。

 彼女は凛とした声音で自己紹介をして、席をすすめてくれた。

 突然公爵家なんて格上も格上に招かれて、その上一眼で高価で貴重だとわかる家具や茶器、広い応接室に戸惑って固まっていた俺は、言われるままに座って、落ち着かずモゾモゾしていた。

 思えばあの時ちゃんと名乗るのを忘れていた気がする。

 彼女を前になんと格好の悪いことをしたのだろう。

「カイト様、突然のお呼び立て申し訳ございません。お応えいただけて嬉しいですわ。話したこともない女からの手紙なんて驚かれたことでしょう?それも婚約のお誘いなんて!

 率直に申し上げると、私貴方と政略結婚がしたいのです。こう申しますと貴方を傷つけてしまうかもしれませんが、正直に申します。私、貴方に惚れてはおりません。それでも貴方と添いたいと思うのは家のためではなく、私の個人的な願いのためです。子供の頃からの。相手が噂になるほどの実直な貴方ならば叶えられると思って、この申し出をしております

 私を愛してくれとは言いません。私と、そして貴方の子を愛してほしい。それだけで私の願いは叶うのです。

 もちろん強制ではありません。この縁談をお断りいただいても、貴方にも貴方の家族にも害が及ばないようにいたしますわ」

「どうかしら?受けていただける?」

 彼女はそのようなことを言って、小首を傾げる。

 俺はただぼんやりと彼女の側の茶器を見つめて、耳に心地よい彼女の声を聞いていた。

 まるで現実感がない。俺は夢でも見ているのだろうか。そんなことさえ思った気がする。

 そのぐらい彼女は何もかも美しく、現実離れした少女だった。噂では美しい妹君とばかり聞いていたがとんでもない!

 字も、容姿も、声も美しい女なんて彼女の他にいるのだろうか。いやきっといないだろう。

 部屋の隅に控えていた侍女の咳払いで我に返る。

 俺は彼女を随分と待たせたが、彼女は背筋を伸ばして、穏やかに俺を見ていた。

 振られたばかりの女にはとても見えなかったが、軽薄そうにも、気が狂ったようにも見えない。確かに普通と外れた突拍子もない理由と経緯の婚約の誘いだが、彼女は理性的な様子だった。

 俺はいつしか夢見心地のまま頷いたようだった。

 彼女は喜び勇んで立ち上がり、それに倣った俺に頭を下げた。両の手でスカートを広げ、たおやかに微笑む。

「カイト様、これからよろしくお願いいたしますわ」

 凛と背を伸ばし、優雅に腰を折る姿はまさに令嬢の鏡で、やはり心を痛め気が狂っているようには見えなかった。

 ともすれば、以前より強い目をしていたのではないだろうかと想像する。

 俺はそんな彼女に恋をした。

 交際は順調にいった。

 彼女は身分の高さゆえに世間知らずの御令嬢で、そうであるのに市井に偏見がなく、どこへ連れていっても楽しそうに笑っていた。

 ただ唯一、ふとした時に見せる寂しげな微笑みだけが気掛かりだった。

 驚いたのが、彼女が騎士団の訓練場にまで現れたことだ。

 王国騎士団の訓練場は当然近衞騎士たちのそれより、血と汗と泥の匂いがして、たとえ夫や彼氏が騎士団に所属していても、見学や差し入れに来る女性など滅多にいない。来ても一度だけで、血を見て倒れてしまったりする。

 ところが彼女は、平気な顔で何度かやってきては差し入れをしてくれた。

 聞けば懐かしいというものだから、こちらはますます首を傾げてしまう。そのぐらい彼女と剣が結びつかなかったのだ。

 雪が降り出す頃、十二月にあげた式は、公爵家だけあって盛大なものだった。俺の生家や彼女の家族はもちろん、そのまた家族や友人。結局国のほとんどの貴族が集まったのではないだろうか。

 彼女は月の女神のように美しく麗しかった。

 俺の同僚だからと招かれた団の皆は、俺にはもったいないと言って囃し立てた。それに憤慨したり消沈する俺を彼女が慰めて微笑んでいて・・・。

 幸せだった。

 しかし幸せな日々は瞬く間に過ぎるものだ。

 幸せだった新婚生活も。穏やかにすぎた十月十日も。

 あっという間だった。あっという間だったのだ。

 彼女はあまりにも早く死んでしまった。そのことが悔やまれてならない。


 懐古の思いに耽っていたカイトの耳に赤ん坊の鳴き声が聞こえる。

 彼女の日記を読んだからか、不思議と気持ちはすっきりしていた。苦悩と悲しみ、息子と俺への愛に溢れた日記だった。

 彼女の葬儀の手配をし、名残惜しいが彼女の元をようやく離れる。

 思えば息子の顔もちゃんと見ていない。

 日記を見るまでは彼女の命を引き換えにした存在のように思えて愛せるか不安だった。しかし、違ったのだ。彼女は息子を守り切って亡くなった。

 侍女に息子のところまで案内を頼むと、侍女は破顔した。皆待っていてくれたらしい。

 息子は用意していた子供部屋で乳母に抱えられていた。

 恐々と抱かせてもらう。首の座っていない乳児はあまりにも心もとなくて・・・しかし可愛らしくて愛おしいものだった。

「旦那様、お名前はお決めに?」

 子供の名前は妻と散々話し合った。

「ああ。この子の名前は———」

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