回るグローブジャングル

青いひつじ

第1話


「この資料さぁ、ホワイトアウトしてもらっていい?」


私の上司は帰国子女で、時々英語混じりの指示を出す。


「ホワイトアウト?」


「あ、この汚れてるところ修正ペンで消しといてくれる?」



以前なら、最初からそう言えよと思っていたが、2年間一緒にいると慣れてしまうので不思議である。



「了解しました」



プリントの黒い汚れを一粒一粒消して、再度コピーにかける。

機械音と共に、美しく生まれ変わった姿で飛び出してきた。

まるで、最初から何も無かったかのような顔をしている。

文明の利器は偉大である。



自分の嫌な部分も、こんな風に白く塗り潰して消すことができたらどれだけいいか。

いや、別に消したいことなんてないか。




「資料、ここに置いておきます」


「センキュー」


「お昼いただきます」


「いってらっしゃーい」



上司はヒラヒラと手を振った。

私は、お弁当と緑茶の入ったボトルをカバンから取り出した。


会社の前には、錆びたブランコと回る地球儀だけの小さな公園がある。

誰にも管理されていない桜の木は、多分枯れてしまっている。

ここのベンチで昼食をとるのが私の日常である。落ち葉を手で払い、腰掛ける。



胸ポケットから携帯を取り出し、今日の上司語録を更新する。

記録している理由は、2回聞くのが失礼というのと、同期との飲み会でネタにして笑うためである。



「新しい単語、ホワイトアウトっと」



ロックした黒い画面に映ったホクロ。

特に大きいわけではないが、鼻の下にあるホクロ。




笑い声が聞こえた。

いつもは誰もいないこの公園で、子供が2人遊んでいる。

世間はもう夏休みである。


1人の子供が、回る地球儀を外から勢いよくグルグル回す。中にいる子供は、キャッキャッと嬉しそうだ。




強いて言えば、このホクロを消したい。

もう数え切れないほど、何度もこのことを思い出している。







私は小学3年生の夏頃、同級生からいじめられていた。

その同級生は佐藤くんといった。佐藤くんは所謂、いじめっ子だった。

気に食わない同級生がいれば、「おい、お前」と声をかけ、突然殴ったり、靴を池に投げたりした。

彼が卑怯だと思ったのは、絶対にその対象が自分よりも弱い人間だったことだ。

今思えば、いじめっ子とは往々にしてそういうものである。

犯行は、人影のないところで誰にも気づかれずに行われ、いじめが公になることはなかった。





その標的が私になった時があった。

彼が落とした消しゴムを、私が踏んでしまったことが原因だった。

佐藤くんは、私の鼻の下の小さなホクロを見つけると「こいつハナクソついてるぞ!」と大きな声で言った。

教室中の視線がこちらに向いて、私は言葉通り顔から火が出るほど恥ずかしかった。


そして最悪なことに、次の日から私のあだ名は「ハナクソ女」になってしまった。

クラスメイト、主に男子は私を見かけるとクスクスと笑うようになった。

それだけでも十分に辛かったが、彼の怒りは収まらなかった。



友達と3人で、回る地球儀に乗って遊んでいた時のことだった。

「おい、どけっ」と怒鳴り声がした。

顔を見なくても誰か分かった。


びっくりした私は、肩をすくめて目を閉じた。

その瞬間、友達の悲鳴と共に、佐藤くんは地球儀をグルグルと凄い勢いで回した。

出遅れた私ともう1人の友達は、振り落とされないように鉄の棒にしがみついた。


「やめて!!やめてよ!!!」

怖くて泣き叫ぶことしかできなかった。

私の膝には赤い血が滲み、友達の腕には、急な衝撃でぶつけてできたアザがあった。



いよいよ腹が立った私は、その日の放課後、彼の帰りを尾行することにした。

私は、彼が何かを企んでいるような、そんな予感がした。

彼をみんなの前で吊し上げようと考えた。



終わりの会の後、私は職員室に寄るふりをして友達と別れ、佐藤くんを観察した。

佐藤くんは下駄箱近くで立ち止まった。

みんなが帰り、誰もいなくなると辺りをキョロキョロと見渡した。

そして隣のクラスの下駄箱へ向かった。

誰かの靴入れの前で立ち止まり、先の青い中履きをひとつ、自分のランドセルに入れ、急いでその場を去った。



その後も私は、足早に帰る佐藤くんを尾行した。

佐藤くんは、踏切近くの田んぼ方へと向かっていった。

そしてまた、周りに誰もいないか確認すると、田んぼの横にある小さな溜池に、中履きを投げ捨てた。

私はキッズケータイで一部始終を写真に残した。 

この時の私には何かが取り憑いていたと思う。





次の日、急遽、学年集会が開かれた。

前には各クラスの担任が腕を組んで立っている。


「昨日、3年4組のある生徒の中履きがなくなった。今日は、犯人探しをするためにお前たちを集めたんじゃない…」


学年で1番怖い2組の担任が話し始めた。

そして、学年全員で"いじめ"について考える授業が始まった。



心底馬鹿馬鹿しいと思った。

私は犯人を知っている。

あくびをしたり、爪のゴミを気にしたり、前の人にちょっかいを出してみたり、みんな他人事である。



先生が話を続ける中、私は静かに手を挙げた。

学年全員の視線がこちらに集中したが、あの時の私とは違った。


私は立ち上がり、挙げた手をそのまま下ろして、佐藤くんを指差した。



「私、昨日、佐藤くんが岡田くんの靴を取って池に捨てるのを見ました」



ガヤガヤと騒がしくなる体育館。



「おい!!お前!何言ってんだ!!」



「写真だってある!昨日踏切近くの池に捨ててるとこ!」



私は携帯を突き出した。



「なんだよお前うるっせー黙れクソ女」



佐藤くんは立ち上がり、私の方に向かってきた。

そして、私の髪を掴んで、顔を引っ叩いた。

女子たちの悲鳴と、先生たちの怒鳴り声が響き渡る。



「黙るのはあんたでしょうが消えろゴミ」



私は握った拳を思いっきり前に突き出した。


小さな拳は、ギリギリ彼の目の前で止まった。


佐藤くんは尻もちをついた。



「あんたは人をいじめて、傷つけて、最低の人間だ!!こうなって当然なんだよ!!!お前が消えろクソ人間!!!!」



自分でも、自分がこんなことを言うなんて思わなかった。

走り出した言葉は、止めることができなかった。

鉄の味としょっぱい味が、口の中で混ざっている。

佐藤くんは黙ってしまった。


どれくらいの沈黙が流れただろう。

2組の先生が、私の肩を掴んだ。



「ちょっと落ち着いて!!今は犯人探しをしているんじゃない。とりあえず後で職員室に来なさい。先生、彼女、血が出てるから保健室に連れてってください」



50分の学年集会後、保健室で休んでいた私は先生たちに呼び出された。

昨日の状況、写真、そしてこれまでの私に対する嫌がらせを報告した。





佐藤くんは、次の日から学校に来なくなった。





朝、いつものように教室に入ると、彼の机には数々の酷い言葉が書かれていた。

教科書は粉々に引きちぎられ、靴入れにはゴミがパンパンに敷き詰められていた。

彼が学校に置いているもの全て、泥か絵の具か鉛筆で汚されていた。


私は、彼がこんなふうになったのは当然の報いだと、自分に言い聞かせた。




それからもずっと、卒業式の日も、佐藤くんが学校に来ることはなかった。



彼がやってきたことは、許されることではないと思う。

その考えは変わらないが、あの時の私は、こんな未来がくるなんて少しも想像していなかった。


もし、佐藤くんに会えたら、「やりすぎました。ごめんなさい」と伝えたかったが、私の望む未来はこなかった。




卒業式の日は例年とは打って変わって、大雨で寒くなった。





私たちの住んでいる地域はとても田舎で、中学、高校の数は少なく、ほとんどみんな同じ学校へ進む。



私も4月から、友達と同じ中学校に通っている。

帰り道、坂道を自転車で下っていると、向かいから見覚えのある人が登ってきた。


すれ違いざまに目が合った。

劈くような目をしていた。




「佐藤くん、、、」



私は自転車を止め、思わず呼び止めてしまった。



「、、、、、」



彼は振り向いて、そのまま私を睨んでいた。



「あの、、いや、、、ごめんなさい。そうかなって思って声かけてしまって」



「お前、どのツラ下げて俺に話しかけてんの?」



「いや、、、そうだよね、、あの」



「消えろ」



「、、、あの時は、ごめ」



「自業自得ってやつ?でも、あの日から俺の人生変わった。、、、返せ」



佐藤くんがじりじりと近づいてくる。



「返せよ!!!!!!」




私は急いで自転車に跨り、彼から逃げるように坂を下っていった。



「ハァハァハァハァ、、、、、」  



私は自転車に乗ったまま河川敷を下った。

そのまま草の上に倒れこみ、しばらく起き上がることができなかった。

心臓が激しく動いているのが分かった。

空が滲んで、よく見えなかった。






あの日、「返せよ」と言った佐藤くんの顔は、13年経った今でも鮮明に思い出せる。

まるで、昨日のことのように。




私が本当に消したいのは、彼を追い詰めた過去。



罪を告発した、あの時の私は、彼に銃口を向けていた。

震えながらも、その指はしっかりとトリガーに掛かっていただろう。

そして、同時に、それはきっと自分にも向けられていたと思う。


人を傷つけるというのは、そういうことである。


時として、言葉はどんな武器よりも強くなる。  



もう少し違うやり方もできたかもしれない。

何も、彼の人生を変えてしまうほどやり返さなくてもよかっただろう。


今更そんなことを考えても遅いのだ。



こうして人を傷つけて、自分も同じくらいの傷を背負って、

こんなやり方でしか優しくなれないのかと思うけれど。



似たような後悔を繰り返し、胸に刻んで、それでも生きていくしかないのだ。



現実にハッピーエンドはなくて、ただ日々が続いていくだけなのだから。




ひとりでにクルクルと回る地球儀。

乗っていた子供達はどこかにいってしまった。





「午後も頑張るか」




最後のブロッコリーをゴリっと噛み、弁当箱の蓋を閉めた。













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