第3話

 イーゴルが嫌いなわけじゃない。一緒にいるのは楽しくて、側にいて落ち着ける。

 だけれど、結婚となると無理なのだ。自分には皇太子妃という大役はあまりにも重すぎた。

 求婚を断り、後で慌ててそう理由を告げてからもう三月近く経つ。

 井戸から水を汲み上げながら、サンドラは白いため息をつく

 帰り着いてすぐに無事についた報告とお礼の手紙を書いた。それでイーゴルとの関わりはもう終わりだ。終わりでないといけないのだろう。

 しかし、そんなにすぐに区切りをつけられるものでもなく、ふとした瞬間に思い出しては言葉にならない想いはため息に変わってこぼれ落ちる。

 次の春が来る頃までには、全部ため息に変えて吐き出してしまえるだろうか。それとももっとかかるのか。早く全部いい思い出になるといい。

 イーゴルの招待を受けたこと自体は、後悔していない。むしろ行ってよかったと思っている。一緒にいる時間は楽しいことばかりだったのだ。今は多少苦しい気持ちが残っても、ずっと先にはきらきらした素敵な記憶になるだろう。

「まあ、時間はいくらでもあるしね」

 皇太子の求婚を断ったことはすぐに知れ渡って、ほとぼりが冷めるまで縁談はこなさそうだと兄達は憂鬱な顔をしていた。

 自分もしばらく結婚のことは考えられないだろうし、嫁ぎ先がないのならそれでもいいと思っているので悲観はしていない。

(ここが好きすぎるんだわ、あたし)

 故郷から離れて自分がなぜ今まで結婚に足踏みしていたのかも、分かった気がする。家族とこの森から離れたくなかったのだ。

 これまでの縁談相手とは上手くやれそうだと感じても、今の生活と天秤にかけると後ずさりしまっていた。

(でも、ずっと家族一緒なわけじゃない)

 冬が終われば、二番目の兄は跡継ぎが急逝した遠縁の家に養子に行くし、三番目の兄も二つ隣の村の猟師頭の家に婿に行く。

 兄弟全員で過ごす時間は半年もない。残る兄達も家を継ぐ長兄以外はみんな婿入り先を見つけるだろう。

 家族が散り散りになることは寂しい。寂しいからなおさら慣れ親しんだ場所から離れる気にもなれないのかもしれない。

 ひとつだけ嬉しいことはもうすぐ長兄夫婦の子供が産まれて、家族が増えることだ。

「あ……」

 汲んだ水を運ぶ途中、頬に冷たいものが触れてサンドラは顔を見上げる。

 べったりと灰色の雲が張り付いてる空からひとつ、ふたつと雪が舞い降りてくる。今年はいつもより初雪が少し早い。

 まだちらつく程度なのか、それともこのまま降り続いて明日には辺り一面真っ白になるのか。

 そんなことを考えながら、サンドラは屋敷の中へ入りきょとんとする。

 義姉のジーナしかいないはずの奥の廚で男の声がするのだ。声の主の正体にうっすら気付きながらも、兄達の誰かが帰ってきているのだろうかと往生際の悪いことを考える。

 こわごわと廚を覗くと、ありえないはずの現実がそこにあって呆然とする。

「なんで……?」

 やっと声を出すと、大きなおなかのジーナの隣で芋の皮を剥いていたイーゴルが少々気まずそうな顔をする。

「……久しぶりだな」

 そして皮どころか実まで削ぎ落としながら、彼はそう言った。


***


 結婚を前提に付き合って欲しい。

 サンドラとの別れ際にイーゴルが用意していた言葉はそれだった。だが、いざとなるとすっかり言葉がいくつも飛んでいってしまっていた。

「お兄様……」

 サンドラから無事帰還したという手紙を受け取ったイーゴルは、これ以上は迷惑になるだろうかと自室で物思いにふけっているとリリアが心配そうな顔で部屋に入ってきた。

「どうした?」

「……サンドラお姉様、もうここにはおいでにならないの?」

 リリアの大きな瞳が今にも涙が零れそうなほどゆらめいていて、イーゴルは妹を抱き上げて膝に乗せる。

「そうだな。時々は遊びに来てもらいたかったが、困らせてしまうからな」

 結婚は無理でも友人にならなれるのではないのかとも考えたけれども、そんな簡単なことではないくらいはわかる。

「やっぱり、わたくしが間違っていたからかしら」

 実のところ別れの前日に、どういう言葉を最後にかけたらいいのか聞いた相手がリリアだった。その時はこういうことを聞けるのはリリアしかいないと思ってしまったのだ。

 リリアは責任を感じて落ち込み、フィグネリアにまで叱られてしまっていた。リリアに悪いことをした申し訳なさと、幼い妹に相談することでないとすぐに気づけないほどに焦っていた自分が情けない気持ちでいっぱいだ。

「リリアのせいではない。俺が言い間違えただけだ。それにな、何を言っても断られることには変わりなかっただろう」

 結局、皇太子妃という重責がサンドラにかかることまで想像できていなかった自分が悪い。

 皇太子としての自覚が足らなすぎると、先日所用でやってきていたアドロフ公家嫡男の伯父にも怒鳴られたばかりだ。誰に相談もなく皇位継承者が、大声で求婚するのは言語道断と怒り心頭だ。

 あげくに血統にこだわりすぎる伯父はサンドラの身分が気に食わなかった。それについては腹が立って言い合いになってしまった。

(父上は怒ることがなかったな)

 求婚を断られたことを知った父は、呆れた顔の後に苦笑して急ぎすぎだと言っただけだった。

「サンドラお姉様は、お兄様のこと嫌いになってしまったわけではないのでしょう」

「……好き嫌いという話ではないのだ。立場というのは難しいものだなあ」

 自分の意志とは無関係にくっついてくる身分だとか階級だとかそういう類のものは、時々窮屈でとても難解だ。

 イーゴルはリリアと話した後も最後になるかもしれないサンドラの手紙を机に置いたままにして、返事を書くかどうか考えあぐねていた。

 会えなくても手紙のやりとりくらいはしたい。しかしそれもまたサンドラの負担になってしまわないか。

 繋がりは絶ちたくなくとも、自分の行動全てがサンドラを困らせると思うとどうしたらいいかわからない。

 そうしている内に時間ばかりがすぎていく。

 悩みなど一晩経てばすぐに踏ん切りがつくのが自分だというのに、サンドラのことになるといつまでも吹っ切れない。

 軍務も講義もやるべきことにすら気が入っていなさすぎると、自分でもよくわかるぐらいに気が散っている日々を過ごす中、ついに父から話があるから執務室へと呼び出された。

 こういう何かをやらかした後、執務室の扉の前にくると身構えてしまう。

 父が声を荒げて怒ったことは一度もない。そのかわり、沢山の問いかけを投げてくる。これが怖いのだ。

「失礼します!!」

 イーゴルは勢い込んで扉を開ける。室内では声が反響するが執務室のエドゥアルトは慣れた様子でうんと、うなずいて息子を見やった。

「イーゴル、数日中にハドロワ街道の工事区間の視察に出てもらいたい。そろそろ雪が降り始めるからな、帰りは遅くなっても仕方ないだろう」

 すっかり身構えていたイーゴルは、突然の視察命令にきょとんとする。そして行き先の途中にサンドラの家がある事に気付いて、今度は父の考えがわからず困惑した。

「多少の寄り道はかまわんということだ。諦めは、ついていないんだろう」

 エドゥアルトが穏やかな微笑みで問うのにイーゴルはそれは、と口ごもる。

「俺が諦められないと言っても、サンドラが困ると思うのです」

 だから何も動けないでただ考えあぐねているばかりなのだ。

「では、お前は諦めがつくまでいつまでも腑抜けているのか」

 なかなかに辛辣な父の言葉にイーゴルは言葉を失う。確かに吹っ切れるまで自分は勉学も軍務もおろそかになる。それはよくない。

「会えば、諦めがつくでしょうか」

 もう一回サンドラが首を横に振るのを見れば、気落ちはしても諦められる気はしないでもない。

「案外向こうが折れてくれるかもしれんぞ。どっちにしてもここで会わずに退くのは気が早過ぎると俺は思っている」

 あまりにも気安く言われてイーゴルは酸っぱいような苦いようななんともいえない複雑な顔になる。

「……父上は、サンドラと結婚を反対されないのですか?」

 皇太子の結婚とというのは簡単なものでないと伯父にどやされたばかりだ。他にも身分が違いすぎたのだと諭す言葉もあった。賢い皇帝である父ならば、難しいことをたくさん考えてもいるだろう。

「お前が気に入っていればいい。それに、皇帝としての立場から言わせてもらえばサンドラ嬢は理想の皇太子妃だ」

 今まで周囲から言われてきたことと真逆の言葉に頭がこんがらがる。

「お前が皇太子妃として必要なものはなんだと思う?」

 言葉すら出せずにいると問い返される。

「……賢く位階の高い家の出自であることでしょうか」

 答えてからイーゴルはこれは人に言われたことをなぞっただけだということと、自分自身の求めるものと相反するものであることに渋い顔をする。

「そうだな。政に明るいことはいい。位階が高いということは多く従う者がいるということだ。人材と知恵を補い合うことは重要だな。だが、政を担うのはお前ではなくフィグネリアだ」

「ということはフィグネリアと知恵と人材を分かち合える皇太子妃が必要ということですか」

 父の言葉の意味を一生懸命咀嚼して出た答えを口にしながら、それではやはりサンドラは当てはまらないのではとイーゴルは首を傾げる。

「そうではない。いいか。もし、フィグネリアと妻の意見が対立した時お前はどうする?」

 究極の質問を突きつけられてイーゴルは固まる。

 政において正しい正しくないの判断を自分でできるという気はまったくしない。そうして妹と妻どちらの味方でもいたいし、どちらの敵にもなりたくない。

 考えているうちにエドゥアルトがためいきをこぼす。

「そう。お前はすぐに答を出せない。その間に問題は大きく膨れあがる。フィグネリアに味方する者、妻に味方する者で対立が生まれるがこの時妻が高位貴族であれば圧倒的にフィグネリアが不利になる。なぜかわかるか」

「…………うう、妻側が位階が高いので味方が多い、でしょうか。いや、貴族より皇家の方が上、ああ、婚姻をしたのなら皇家の者ともなる?」

 必死に父の言わんとするところを探りつつイーゴルは答にたどりつく。

「そういうことだ。お前が皇帝になればお前の妻の立ち位置は国で二番手になる。たとえ妻が政に疎くとも位階が高ければその背後にいる貴族達が入れ知恵をするだろう。こうなれば皇家の立場は弱まる。先帝の頃のように国が乱れる。後ろ盾がなく政にも疎い者がお前の妻として理想的だ」

「だからサンドラが適任なのですか……」

 父の意図は全部汲み取れている気はしないものの、ぼんやりとサンドラが自分の妻に相応しいというのは分かった気がする。それともうひとつ疑問がぽんと浮かんできた。

「父上、フィグネリアが皇帝となったらどうなるのでしょう。フィグネリアが一番偉くなれば争いはもっと少なくなるのでは?」

 思ったままのことを口にしてみれば、父が見た事もないほど驚いた顔をしていた。

「イーゴル、お前はそれでいいのか? 嫡子である自分が帝位につけなくともいいと思っているのか?」

 問い返されてイーゴルは目を瞬かせる。

 フィグネリアが帝位につくなら自分は当然皇帝にはなれない。それをまったく嫌だとは思わない。

 帝位につくべきとして生きてきたが、なりたいと思ったことが微塵もないことに今さらながら気付いた。

「それがフィグネリアのためとなるなら、ひいては国のためというのなら俺は帝位を辞してもよいのではと思います」

 もし、それが最良というならそうしたらいいいと思った。

「……そうか。だが、それはできん。お前が納得してもアドロフ公家がけして許さない。お前が帝位についてフィグネリアをしっかりと護れ」

 エドゥアルトが硬い表情で一度目を伏せてから、真っ直ぐにイーゴルを見上げる。

「はい。承知しました」

 確かに祖父はもちろん伯父など戦でも始めそうなほど怒るだろうと想像して、イーゴルは背を正す。

「……イーゴル、皇帝としての俺の意志はそんなところだ。後はだな、父親としてはお前自身にとっての幸せを手に入れて欲しい。だから、会いに行ってこい。良い返事をもらえることを願ってる」

 エドゥアルトが少し淋しげな笑みを口元に浮かべる。

 それは初めて見る顔だった。いつも穏やかながら鋼に包まれているかのような頑なさがなく、父の心の奥底に触れた気がした。

「はい! 行ってまいります!」

 言葉にしがたい熱いものがこみあげてきて、イーゴルは力強くうなずいたのだった。


***


「どうしてももう一度会っておきたかった」

 気まずい夕餉の下ごしらえがすんで、イーゴルと一緒に廚から暖炉のある別室に移ったサンドラは彼からそう告げられて戸惑うばかりだった。

 まだ整理し切れていない気持ちがまたぐちゃぐちゃにかき回され、散らかされどうやって片付けていいか途方にくれる。

「……すまんな。困らせるだろうとはわかっていたのだ」

 何も答えられずにいるとイーゴルが力なくつぶやく。

「え、あ、うん。びっくりしたし、どうしようって思ってるんだけど、でもね、嫌じゃないから」

 自分の心の隅に会えて嬉しいという気持ちを見つけてしまって、サンドラは戸惑いながらとにかく座ろうと毛織物を敷いた長椅子へイーゴルを促す。

 間を空けて座ったふたりはまた黙りこんでしまう。

「いかんな。考えるのは性分に合わんと何も考えずに来たが……間違いだったな」

 イーゴルが大きな体を縮めてしょんぼりするのを見て、サンドラは少し気が緩む。

「あたし、家に戻ってからいっぱい考えたわ。それでイーゴルと一緒にいた時間は忘れないで、大事にしておこうって決めたんだけどね、それも違うなって今思ってる」

 再会してみるとそれでいいのだろうかと疑問がもたげてきた。

「俺も最初は会わない方がいいだろうと思った。しかし自分で自分の考えに納得がいかなかった。だからとにかくサンドラに会わねばと思ったのだが、うむ」

 そしてイーゴルは来てみたはいいいものの、ここからどうするか全く考えていなかったと最初に戻ってうなだれる。

「イーゴル、いつまでこっちにいられるの」

「父上からは自分が納得いく結論が出るまでいてもかまわないと言われている」

「いつまでもってわけにはいかなくても、時間が限られてないなら考えるの後にしない? ここで座ってたってどうしたらいいかなんてちっとも決められないわ」

 これが最後に一緒に過ごす時間になるのか、それとももっと先まで一緒にいることにするのかできるのか。

 考えたところで結論は簡単に出せない。

「そうだな。よし、今日は俺は野営地に戻る。明日はサンドラの仕事を手伝わせてくれ」

 イーゴルが少々前向きになったところで、サンドラは彼の宿泊地に目を丸くする。

「野営してるの?」

 てっきり近くの領主の屋敷にでも滞在しているものだと思っていた。

「ああ。名目は視察だがこれは俺個人の問題だ。余計な世話をかけさせるわけにもいくまい。訓練も兼ねて近衛達と野営をすることにした」

「雪が降り始めてるからよかったら家に泊らない? 狭いけど客間ぐらいはあるから」

 まだちらつく程度ならばいいのだが、このまま積もることになれば野営するにも難儀である。

「いや、申し出はありがたいが悪天候下の野営訓練でもある。状況から野営続行が危険と判断したら厄介になるやもしれん」

「そっか。じゃあせめて夕飯だけでも持っていって。近衛の人達何人? 出来るまでちょっと待っててね」

 サンドラが廚へ向かうためそいそと立ち上がると、イーゴルもすぐに立ち上がる。

「いや、せっかくの申し出だがそこまでしてもらうのは申し訳ない」

「気にしないでよ。来てくれたのになんにもしないのはあたしが困る」

「うむ。ではせめて手伝おう。姉君も身重で大変だろう」

「もうすぐ一番下の兄さんが帰ってくるけど、そうね。どうせなら一緒に作ろうか」

 再会してすぐの気まずさはいつの間にか消え去って、二人の表情には自然と笑みが浮かんでいたのだった。


 ***


 父は一体何を考えているのだろう。

 フィグネリアは視察という名目でイーゴルをサンドラの元に送り出した、エドゥアルトの決断に悩んでいた。

 父がここまでするということは、サンドラを皇太子妃にしたいという意志が固いということは分かる。だが彼女が皇太子妃に相応しい理由が見当たらない。ただそこから導き出される答はあるものの、やはり納得はいかない。

「父上、私には分かりません。なぜサンドラ嬢なのですか」

 まずは自分で考えることを常日頃説かれていて、ここ数日ずっと考えていたのだが父の本心を知りたくて問うた。

「なぜサンドラ嬢ではいけないんだ?」

 そうすると執務の手を止めないままのエドゥアルトに逆に問い返されて、彼の正面に座るフィグネリアは一瞬言葉に詰まったものの、すぐに答を返す。

 まず政治的な繋がりをどの貴族とも持っていない。加えてサンドラ自身が政に明るくない。何一つ益となる面がなさすぎる。

「フィグネリアにとっては益がないことが益だろう」

 やはり父の狙いはそこなのかと、あまり嬉しくない解答にフィグネリアはサンドラが軍舎に来ていた時にタラスが同じようなことを話していたのを思い出す。

「……タラス殿も同じ事を仰っていましたが。あ、申し訳ありません」

 タラスは父と対立する九公家の嫡子である。あまり彼に多くは話すべきではないだろう。

「かまわんよ。手駒は必要だ。彼の先進的な考えは悪くない。それにいずれラピナ公になる者を今の内に引き込んでおくことはいい。そうやってお前は自分自身で後ろ盾を築いていかねばならない。九公家と拮抗するほどにな」

 急にまだ八歳の子供には難しすぎる課題を告げられて、フィグネリアは怖じ気づく。

 はたしてそれだけのことを自分は成せるのか、まったく自信がない。

 その様子にエドゥアルトが書類から顔を上げて苦笑する。

「時間はいくらでもある。俺が玉座を譲るのはまだまだ先の話だからな。今の内は、跡目を継ぐ者をよく知ることだな。名誉、地位、財、家、何を重んじ何を欲しているのか。誰と繋がっているのか、誰を敵視しているか。あらゆることを知っておくことが大事だ」

「……あまり、私はそのようなことは得意ではありません」

 同年代でもさほど親しい間柄の者がいない。皇位継承順位第二位でありながらも生母は平民という宙ぶらりんな立ち位置という要因の他に、自分の性格が大いに影響している自覚はある。

 まず他者と親しくなるというのは難しい。

「何も自ら近づいていく必要もない」

 そんなフィグネリアの心情を見透かしたようにエドゥアルトはそう言って席を立つ。

 そして彼女の前に屈んで視線を合わせる。

「これから、様々な思惑を持ってお前に色々な人間が近寄ってくる。取り入り操ろうとする者、陥れようとする者、あるいは忠誠心を持つ者。敵味方を見分け己の手駒を増やしていくんだ」

 どこか楽しげな様子とは裏腹に父の瞳からは何の思惑も読み取れず、フィグネリアは身を硬くして拳を握りしめる。

 若干二十歳で先帝を玉座から引きずり落とした父親の腹の内など、幼いフィグネリアには底なしの暗がりを覗き込むことと同じだった。

「フィグネリア、一番大事なことは相手を信頼しないことだ。信頼は己の目を曇らせ判断を鈍らせる。……サンドラ嬢ならばいらない詮索もいらないだろう」

 話が戻ってフィグネリアはゆるゆるとうなずく。

「確かにあの方はとてもよい人です……。ですが兄上のお立場を考えると、もっと大きい家のご令嬢の方がよろしいのではと私は思うのです」

 仮にもイーゴルはいずれ皇帝となる身だ。だというのにこれでは政の中心から遠ざかってしまう気がする。

「家が大きければしがらみは増える。お前が政の要となるためには、イーゴルにまつわるしがらみは出来るだけない方がいい」

 それでは兄の座る玉座にいったいなんの意味があるのだろうか。

 フィグネリアがエドゥアルトから目線を外してうつむくと、不意に抱き上げられる。

「お前には少しばかり野心が足りないな」

「野心、というのはなければいけないのですか?」

 エドゥアルトの方に顎を置く格好になったフィグネリアは、首を傾げる。

「過ぎたるは及ばざるがごとしだが、まったくないよりはいい。俺がお前ぐらいの頃には九公家の言いなりにならない皇帝になる野心があった。今でも野心はあるぞ」

 この大帝国の頂に座してなお、父にはまだ成し遂げたいことがあるらしい。

「父上はどんな野心を抱いておられるのですか?」

「お前がもっと大きくなるまで秘密だ。他にも話したいことがたくさんあるな。ただ今はまだ早い。……フィグネリアが大人になるのが待ち遠しいよ」

 きゅっと抱きしめる父の力の強さは何かにすがりついているようにも思えて、不安と寂しさが一緒にやってくる。

 父の顔も見えずどうしたらいいかわからなくて、戸惑っていると父の椅子の上に降ろされた。

「さて、今はこれについて教えようか」

 広げられた書類の数々に目を落としてから恐る恐る父を見上げると、いつもと変わらない様子にほっとする。

(……兄上の結婚はもう決まったも同じなのだろうな)

 ただ、結局イーゴルの結婚については呑み込みきれずにもやもやとするばかりだった。



***


 鼻先や耳が凍みる空気が充満し、しんと静まりかえった仄暗い朝。

 ついに長く険しい冬がやってきたのだ。

 扉を開けると膝下まで雪が積もっていた。外はまだ夜が奥でわだかまり、分厚い雪雲の隙間かから注ぐ朝日は弱々しい。

 今日の朝食当番のサンドラは外の様子を確認した後、廚へ行って竈に火を入れる。

(イーゴル達大丈夫かしら)

 たいして積もってはいないとはいえ、雪の中の野営は大変だ。訓練ではあるので多少の雪はかまわないだろうが。

 昨夜の残りの麦入りのスープを暖めて戸棚から硬い黒パンを取り出し用意しているうちにぞろぞろと父と兄達が集まってくる。

 雪の様子と仕事の割り振りを淡々と確認していく中、父が気難しい顔でサンドラに視線を向ける。

「それで、皇太子殿下は今日も来るのか」

「あたしの仕事を手伝ってくれるって……父さんも兄さん達もそんな顔しないでよ。来ちゃったのはしょうがないじゃない」

 昨日イーゴルが厨で炊事しているのに出くわした父と兄達は、ずっと表情が重い。

 これ以上皇家と直接関わることはないはずだと思っていた彼等は、どうやってイーゴルに帝都にすぐ帰ってもらうか頭を悩ませていた。

「サンドラ、とにかく失礼のないように丁重に今後の関係をお断りしてから今日の内にお帰りいただくんだぞ」

 そして昨夜と同じく長兄のボグダンが強く念押ししてくる。

「それは、イーゴルが帰る気にならなきゃ無理だって言ってるじゃない」

 まだ眠っているジーナ以外の家族はすぐにでもイーゴルに帝都へ戻ってもらい、一連の求婚騒動を終わらせたがっている。

 父と兄達が自分のことを心配しているのはよくわかっている。分かっているものの考えたところで仕方ないのだ。

 堂々巡りになる会話を打ち切って重たい空気のまま朝食が終わる頃、イーゴルがやってきてどたばたと父と長兄が出迎えに行く。

 どうやら一緒にいる近衛達も仕事を手伝ってくれるらしく、ひたすらふたりが恐縮するやりとりが聞こえる。

「雪、大丈夫だった?」

 不安そうな家族の視線は気にしないことにして、サンドラはイーゴルに声をかける。

「ああ。この程度の雪で困るようなことはない……うむ。やはり父君達をこまらせてしまっているか」

 イーゴルがそう答えた後、父達と離れてから肩を落とす。

「気にしなくてもいいわよ。なるようにしかならないんだから」

 悩みすぎて嫌になったサンドラはすっかり開き直っていた。

 元より考えることは苦手だ。この森を出たくなかった理由と、イーゴルへの気持ちがはっきりしているなら後はもう考えずに流れに乗るしかない。

 ここで本当にさよならになっても今度こそ後悔はないという理由もない確信もあった。

「うむ。それもそうだな。考えてしかたないことに時間を費やすのも無駄だ。よし、そうとなれば仕事だ!」

「まずは道の確保と安全確認ね。あたしたちは西側よ」

 サンドラはイーゴルと共に厩舎でがっしりとした体躯の馬にソリをつけ、砂袋や雪かきの道具を乗せる。

「サンドラはやはり力があるな」

 幼児程度の重さの砂袋を軽々ふたつ持ち上げているサンドラを、同じくふたつ抱えるイーゴルが褒める。

「これぐらい持てないと狩の獲物を持ち帰るのに苦労するわよ」

「おお。それもそうだな。そういえば軍舎でのサンドラの弓は見事なものだったな」

 帝都の軍舎でのことを思い出し、サンドラは笑顔になる。

「引きがいがあって楽しかったわ。さ、行こう」

 そしてふたりは馬を引いて西側の雪の降り積もる林道を重たいソリでならしていく。

 そのついでに木々に積もった雪や枝のしなり具合を確認しながら、危険がなさそうか確認する。

「あそこに寄って、困りごとがないか訊くの」

 そして途中、炭焼き小屋が見えてきてサンドラがそこを指し示す。

「おお。裏に家もあるな。領民の家々を回るのか」

「そう。領地の家って全部で六軒しかないけど、散らばってるから様子は一通り見ることにしているの」

 領地の森自体は広大だが領民は二十人もいない。ずっと遠い昔に神殿から人の住んでいい場所が定められているので、どこか広い土地にまとまってというのもままならない。

「おはよう!」

 炭焼き小屋の裏に回れば壮年の夫婦がちょうど屋外に出てきたところだった。

「あら、お嬢様おはようございます……。森替えにはまだ早いですよね」

 サンドラの後ろにいるイーゴルへ妻の方が移住者だろうかと首を傾げる。

 時々跡継ぎのない家へと他の森、あるいは跡継ぎの長子の伴侶として他所の森から移住してくる者がやってくるがそれはいつも春頃の話だ。

「うむ。ここに住むのもよい話ではあるな。俺はサンドラの友のイーゴルだ。訪ねてきたついでに仕事を手伝っている」

「お嬢様のお友達ですかい。いやあ立派だねえ」

 大柄なイーゴルに夫の方が感嘆する。どうやら名前を聞いても皇太子だとは気付いてないらしい。最初にこの森を訪れたのもこことは正反対の場所なので姿も見た事がないはずだ。

 しかしすんなり友人と言われてしまうと、少し複雑な心境ではある。

「あ、ミラナ! 調子はどう?」

 サンドラが夫婦とイーゴルが話しているのを見ていると、家からサンドラよりひとつ年下長女が出てくる。そのおなかは大きい。ジーナと同じく近いうちに子供が産まれる。

「変わりなくです。おなかが重いのには慣れたとはいえ、もうそろそろ出てきて欲しいですけど。うーん、でも旦那がまだ帰って来られなさそうねえ」

 彼女の夫は近くの街へと一昨日炭を売りに出たところで、早めの雪に帰りは遅くなりそうだということだ。

 そして、ミラナがイーゴルを目に留め、サンドラから名前を聞いて目を瞬かせる。

「父さん、母さん! そちら、皇太子殿下なのわかってる!?」

 そしてイーゴルと気安く談笑している自分の両親に血相を変えて声を上げる。

 そしてようやく気付いた夫婦がびっくりした顔でイーゴルを見上げる。

「かまわん、かまわん。俺は仰々しいのは苦手だ。母子共に健やかでな」

 皇太子相手にどう接して良いか混乱している一家にイーゴルがおだやかに微笑む。サンドラは食料など足りないものや、困りごとがないか改めて確認して家を離れる。

 そうしてもう一軒さらに奥まった所の家も訪ねて、遠回りをしながら再び森の様子を窺いながら屋敷に戻ることにした。

「領民全てに目が届くというのよいことだな」

 途中、ソリの上で一休みしながらイーゴルがそう零す。

「この国は大きい。民も多い。その全てをあますことなく知ることを皇帝にはできん。だがその代わりに領主が代わりにいる。しかしその領主全てと常に意見をかわすこともかなわん。それでも国をとりまとめねばならんのは難しい。難しすぎる」

 そして一気に吐き出す彼の表情は珍しく重苦しい。

「イーゴルは、その、皇帝になりたくないの?」

「うむ。なりたくないともなりたいとも思ったこともない。俺は長子だから跡を継ぐべきものとしか考えていなかった。この国で誰よりも武術に優れる者が皇帝となるなら俺は目指しただろうな。父上も国一の強者ではない。ただ、フィグネリアのためには俺が皇帝になったほうがよいというのだ」

 そしてイーゴルがまごつきながらも皇帝に言われたことをサンドラに説明する。

「うーん。その話の時点で難しいわ。とりあえずそれで丸くおさまるならいいわよね」

 九公家との関係やら、フィグネリアの立ち位置やら複雑でいまひとつ理解しきれないものの皇帝がそうした方がいいというならそうなのだろう。

「ねえ、イーゴルは皇太子じゃなかったらどうしたかった?」

「そうだな。軍人か、猟師か。とはいえ、俺は今の家族が好きだからな。やはり、皇太子以外にないな」

「そっか。そうね。あたしも今の家族が好き。この森で、あの家で産まれなかったらなんて考えたこともなかったな」

 だけれどどんな好きでも変わっていくものは変わっていく。

 自分もいつまでも変わらないわけにはいかない。

「イーゴル、あたしひとつだけ気になることがあるの。イーゴルにとってあたしって友達?」

 さっきのこの一言だけはなんとなくひっかかっていた。

「……友人、ではないな」

 目を丸くしていたイーゴルが神妙な顔つきになる。

「そうだ! 俺はサンドラと家族になりたいのだ!」

 そして突然の天啓を受けた顔でそう答えたのだ。

「家族。うん。それだわ」

 ぽかんとしながらも、サンドラも一番納得する自分の答を見つけた気がする。

 ずっと結婚するしない、立場だとか身分だとか、面倒くさいことをたくさん考えたけれどもイーゴルとどうなりたいかといえばいちばんしっくりするのがそれだった。

 お互いが大事な人で、そうしてお互いがそれぞれの大好きな人も場所も大切にできる家族になりたい。

 身分や立場やイーゴルにはたくさん大きなものがあるけれど、それも彼にとって大事なものだ。

 難しいことはちっともわからなくてもそれだけはわかる。

「あたし、イーゴルと家族になりたい。いつか誰かと新しい家族になるならイーゴルがいいの」

「よいのか。この森から、遠く離れることになる」

「うん。それは寂しいけどね、イーゴルがあたしにとってこの場所がすごく大事ってわかってくれるなら大丈夫って思うの。……時々は、帰って来られる、わよね?」

「無論だ! 俺も一緒にここへ来る。俺にとってもここがもうひとつの故郷で、家となるならそれほど喜ばしいことはない」

 何よりも望んでいて、嬉しい言葉だった。

「あたし、かわいい妹がふたりもできるのね」

「そうだな。リリアはきっと大喜びするな。フィグネリアもすぐに気に入る。父上と母上も最初から歓迎している……サンドラの父上と兄上達はどうであろうか」

 ふと、不安そうな顔でイーゴルが首を傾げてサンドラも苦笑する。

「心配はすると思うわ。でも、うちの家族だってイーゴルが嫌いで反対するんじゃないもの。一緒に頑張ろう」

「うむ。よし、そうなれば俺は精一杯サンドラの家族を安心させねばな」

 これから大変なこともありそうだが、ふたりでなら絶対に乗り越えられる。

 イーゴルとサンドラはお互いしっかりと目を合わせて、笑顔でうなずきあい晴れ晴れとした気持ちで再び歩き出した。


***


 そうして見廻りを終え、他の家族も屋敷に戻った所でサンドラは大人数が床で座れる広間でイーゴルと共に結婚の報告をしたのだが、当然のように父や兄達は重苦しい表情で困り果てていた。

「皇帝陛下がご納得なさっていて、皇太子殿下がどうしても仰り、娘がお話を受けたというならばこちらからお断りするなどできることではありません」

 そう言う父の顔にはできるならお断りしたいとありありと書いてあった。

「父さん、今思ってること正直に全部、言って。イーゴルだって怒らないから、ねえ」

「御父上、不安があるなら全部申してくれ。大事な娘御を預かるのだ。きちんとご納得いくまで話し合いたい」

 イーゴルが頑なに言うのに、ますます父は困った顔になり兄達も不安げだ。

「……十分にお分かりいただいていると思うのですが、当家は貴族とは名ばかり。娘には一通りの行儀作法は習わせましたが、とても皇太子妃として公の場に出られるものではありません」

「それはそれで新たに習えば良い。講師となる者なら大勢いる。サンドラ、少々窮屈やもしれんが、かまわないか」

 行儀作法の最低限だけでもかなり苦労したのだが、それでも帝都で暮らしていくのに必要ならば頑張れるはずである。

「大丈夫、そこはちゃんとするわ。まだあるのね」

 こくりと父がうなずく。

「娘はその、必要最低限の勉学はさせたのですがあいにくどれも不向きでして、皇帝陛下がお認めなっているということは政務に関わることは期待されていないとは思うのですが、本当にそれでかまわないのかと」

 少し難しい話になってサンドラはイーゴルをちらりと見る。

「政務は主にフィグネリアが先々することになっているからなあ。父上も俺の伴侶は政務に関わらなくても大丈夫だと仰っていた」

 それなら安心だと政治方面だはどう頑張っても人並みほども難しいサンドラは、ほっと胸を撫で下ろす。

 しかしながらますます父と兄達は渋い顔になる。

「それと、最後にひとつ。当家の立ち位置です。当家の役目はあくまで祖先が神霊様よりお預かりしたこの森の管理です。とはいえ、皇家の外戚となってしまうと何かと政治的な問題が降りかかってこないか心配でもあります」

 さらにこみいった政治の話になってサンドラとイーゴルは身構える。

 ややこしい話なのはわかるが、具体的に何がどうとまではわからない。イーゴルはどうだろうと見やったが、考え込んでいた。

「……それに、ついては、父上とよく相談して、迷惑がかからないようにする」

 父と兄達はしばし目配せしてこくりとうなずく。

「申し訳ありません、少し、息子達と話をさせていただきます」

 そして父と兄達が部屋を出ていったが、床に座るのが難しいので部屋の隅の長椅子に座っている義姉のジーナは残っている。部屋を出るさい、ボグダンが彼女を一緒に来るか訊ねたものの、あまり動きたくないと首を横に振った。

「これは、ご納得いただけなかったか」

 イーゴルが一回りぐらい小さくなって、サンドラはその肩をぽんと叩く。

「納得いってないっていうのは違う気がするのよねえ」

 ジーナの方に目を向けると、彼女も同意見らい。

「納得いっちゃったから困ってるかんじじゃないかしら?」

「うん。そんなかんじ」

 姉妹のやりとりにイーゴルがきょとんとする。

「何やら難しいな」

 そしてそうつぶやいて不安そうに父と兄達が扉の向こうを見つめるのだった。


***


 一方、ニキフォロフ男爵家の男達は広間から離れた廊下で、額を突き合わせてため息をついていた。

「父上、皇帝陛下は帝位をフィグネリア皇女殿下に継がせるおつもりなのでしょうか」

 長男のボグダンの問に、男爵が首を横に振る。

「いや、長子相続はよほどのことがないかぎり覆すことが難しい。それもアドロフ公の孫だ。皇帝陛下といえどそんな無茶はなさらないはずだ」

「でも、なあ。まだフィグネリア皇女殿下、八つか九つぐらいだろう。今は優秀でも大人になったら平凡になることだってあるんじゃないか」

「しかしながら、皇太子殿下はもう十八だ」

 次男がさらに声を潜めて、全員黙り込む。

 十八になってもあの様子ならば、政の才覚が突然発揮されることもないだろう。そうなるとやはりまだ幼い第一皇女に期待をかけるしかない。

「皇帝陛下だってまだまだお若いし、跡継ぎ問題って先だろう。四十にはなられてなかったよな」

「三十九だったと思う。確かに先の話だが、第一皇女殿下が成長なさってかつ有能となれば跡目争いに発展するかもしれない」

「そうなった時にサンドラまったく役に立たないよな。だから皇帝陛下には都合がいい?」

「兄妹仲は今の所良さそうだったぞ。皇太子殿下も妹君を溺愛しておられるし」

「とはいえ、皇太子殿下の後ろ盾はアドロフ公だぞ。周りが黙っちゃいないんじゃないか。そんな所にサンドラを嫁に行かせて本当に大丈夫か?」

 再び沈黙が降りたあと、誰となくまたため息を零す。

「皇太子じゃなくて猟師だったら喜んで嫁に送り出せるのになあ。いい人なのには間違いないし」

「そうなんだよ。いい人なんだよ。サンドラを大事にしてくれそうだしさ、似合いの夫婦だよ」

 あれだけ結婚を決められずにいたサンドラが、これまでと生活が一変しても嫁ぎたいという相手を見つけたのだ。

 しかし相手が相手だけに軽い気持ちで幸せになれよと送り出すこともできない。

 かといって断れる立場にもない。

 これはもう嘘でもおめでとうと言うしかないかと諦めを全員が覚えた時。

「父さん! 兄さん達! 産婆さん呼んできて! 産まれそう!」

 サンドラが呼ぶ声に一旦全てのことが吹き飛んで、あとはてんやわんやの大騒ぎになったのだった。


***


 夜が白み始める頃、ニキフォロフ男爵家に産声が上がる。

 産屋として使われる屋敷の一室でずっとジーナの手を握って付き添っていたサンドラは、小さな体でめいっぱいの声を上げる赤子に目を潤ませる。

「姉さん、お疲れ。元気な女の子よ。やだ、ほんとかわいい。」

 放心状態で息も絶え絶えだったジーナも、産湯に浸かっておくるみに包まれた我が子にやっと表情を緩める。

「やっと出てきてくれた……。ほらー、母さんよー。さっきまでこの子がおなかにいたなんて不思議ね」

 よろよろと産婆から赤子を腕に抱きとったジーナが幸せそうに微笑む。

 それからサンドラは産婆に後を任せて一度産屋を出る。ここから一番離れた広間に父と兄達が待っている。ついでにイーゴルと彼の近衛達もいる。

 ジーナが産気づいたのが日暮れ前だ。それから産婆がやってきたのは真夜中だった。

 三番目と四番目の兄が産婆の家へ訪ねたとき、家には産婆の夫と、息子しかいなかった。

 サンドラとイーゴルが炭焼き小屋を訪れた後、ミラナが産気づいたのだ。ちょうど産婆と息子の妻が彼女の様子を見に来ていたところで、結局その出産を終えるのを待っていたらそんな時間になった。

 初産だから時間がかかるとは事前に聞いていたとはいえ、付き添っていたサンドラは自分が取り上げなければいかないかもしれないと肝を冷やされた。

「さ、サンドラ! 産まれたか? ジーナも赤ん坊も元気か!?」

 部屋に入って真っ先にボグダンが駆け寄ってきて、サンドラはジーナも赤子も問題ないと告げると広間の緊迫した雰囲気が解けた。

 十人ほどの大男達は何もできることがなく、かといって眠れもせずにずっと気を張り詰めていた。

 特に三番目の兄は、産婆を連れて来なければいけないのでミラナの出産にも立ち合って疲労困憊の様子だった。

 無事産まれたとなると、イーゴルや近衛達がめでたいと言祝ぎ、父や兄達がよかったと胸を撫で下ろす。

「……眠いわ」

 緊張が解けてほっとすれば、途端に眠気が襲ってきてサンドラはそうつぶやく。とはいえ産婆を休ませねばと産屋に戻る。

 そこでは穏やかな顔で寝息をたてるジーナがいた。

「あ、姉さん。寝ちゃったんだ。おばさんもお疲れ、ありがとう。隣の部屋で休んでて」

 今日は朝からふたりも取り上げた産婆がやれやれと腰を上げて隣の客室へと向かう。

 サンドラがまだ目の開ききっていない姪の顔を覗き込んでいると、控えめに扉を叩く音がする。

「いいか?」

 やってきたのはボグダンだった。

「姉さん、寝てるから静かにね」

「あ、ああ。……赤ん坊、だなあ」

 緊張した面持ちでゆりかごを覗き込んだボグダンがとぼけたつぶやきをもらす。

「そりゃそうよ。ねえ、他人事みたいなこと言っちゃってひどい父さんね」

「父さん、か。俺の娘なんだよなあ。かわいいなあ。こんなに赤ん坊ってちっちゃかったか? お前の時もっと大きかった気がする」

「あたしが産まれた時兄さんも小さかったじゃない」

「そうだったな。俺はお前がふたつの時には帝都で軍に入隊してたからあんまり小さいうちは一緒にいてやれなかったな」

 赤子の顔を眺めながらしんみりとボグダンが言う。年に一度しか帰って来ないボグダンをやっと兄だと認識できたのは六つぐらいだっただろうか。

「父さんがいて、他の兄さん達もいて、それに姉さんもいたし、そもそもボグダン兄さんのこと覚えてなかったから寂しいも何もなかったわよ」

「そういえば、俺がこっち帰ってきたとき、ずっと家にいるの不思議そうにしてたか。……こんなだったお前が皇太子妃なんてなあ」

 娘の顔を見ながらボグダンが苦笑する。

「あたしがイーゴルと結婚するの、納得した?」

「正直最初苦労するぞとは思ったんだが、うん、たぶん、お前そんなに苦労しないな。あー、馴染むのは大変かもしれないけどな、それぐらいだ。あとはフィグネリア皇女殿下とは上手くやるんだぞ」

「そりゃ仲良くするわよ。暮らしが変わっても、イーゴルとなら今までみたいに家族みんなで一緒に頑張るができると思うの」

「皇家に嫁ぐって言われると不安も心配も山ほどあるんだよ。でもな、皇太子殿下が優しい方だからいい人と会えてよかったと思う。ここはやっぱり、皇太子殿下のお人柄を喜ぶべきだな……サンドラ、ずっとジーナに付き添ってくれてありがとうな。俺がいるから、お前も休んでろ」

 長兄に久しぶりに頭を撫でられて、嬉しさもあり寂しさもあった。

 この家を離れる実感がやけに鮮明に胸に迫ってきて、サンドラはこぼれかけた涙をぬぐい部屋を離れた。


***


 一刻ほどの睡眠の後、いつも通りの日常がやってくる。

 イーゴルとその近衛達も家の仕事を手伝ってくれるというので、三交代で森の見廻り出た。一組が見廻りに出る間、一組が家事をし、一組は休息をとる。

 そうやって日暮れ前には仕事を終え、その夜は祝宴となった。

 大男達がゆりかごに眠る赤子の顔を代わる代わる覗き込んでは、目尻を下げて健やかであれと祈りの言葉をかけていく。

 母娘が退室して、ボグダンも酒を一杯飲んでその後を追い親子三人が姿を消すと、祝宴は賑やかさを増して、サンドラとイーゴルの婚約祝いの様相となった。

「サンドラが帝都に来るのは雪解けの頃がよいだろうな」

 イーゴルが言うのに、父がそのほうが助かると答え粛々と話は進んでいく。

 なるようになるのだろうと父は今日言っていた。諦めた風でもなく、かといって投げやりでもなくやはり長兄と同じくイーゴルの人柄のよさに全てを託そうという話であった。

 ずいぶん酒を呑んだせいなのか、それとも色々なことがいっぺんにありすぎたせいか妙にふわふわとした感覚でサンドラはイーゴルと父のやりとりに耳を傾ける。

「サンドラ、疲れているのではないか?」

 ぼんやりしていると、イーゴルが心配そうに問うてきてサンドラはうんとうなずく。

「そうかも。あとちょっと飲み過ぎちゃった」

 そう言うと兄弟や近衛達も昨日から溜っていた疲労をずっしりと感じて、そのままお開きとなった。

「サンドラの家族が受け入れてくれてよかった」

 それぞれ客間や自室に向かう中、サンドラとイーゴルはいつの間にかふたりきりになっていた。

「みんな、イゴールのことはいい人だって思ってるもの。それで十分だったのよ」

「信頼していただいたということか。うむ、雪解けまでまちきれないやもしれないな。冬の間に会いたくなったらきてもよいか?」

 深刻な顔をしてそんなことを言うイーゴルに、サンドラは吹き出す。

「いつでも歓迎するわ。会いに来てくれたら嬉しい」

 この森で過ごす最後の冬は故郷を離れる一抹の寂しさと、イーゴルと共に過ごしていく日々を待ち遠しく思う気持ちできっと毎日そわそわしているはずだ。

「じゃあ、おやすみ」

 サンドラは背伸びをして、イーゴルの無精髭が少しちくちくする顎に軽く口づける。

「お。おう。ゆっくり、体を休めてくれ」

 動揺をしながらも、イーゴルがサンドラの額へ不器用に口づけを返した。


***


 短いようで長い冬が終わり、サンドラはひとり森の小さな泉にいた。

 木々や葉のそこかしらに雪の名残はあるが、水面は陽射しを受けて春めいた光をたゆたわせている。

 この森を出て行く時はこうして誰もがひとり、ここに立つのだ。

 特に何をするわけでもない。ただじっと立って、森の王の訪れを待つのだ。

 王が現れなければまだ出て行く時ではないということだ。それを振り切り森を出た者はまもなく不幸に出会い、命を落とすこともあるという。

 やがて反対側の木々の奥から大鹿が現れるのを見て、サンドラはほっと胸を撫で下ろす。

 王はサンドラを見やってから水を飲んで、再び彼女に視線を戻す。

 これは王からの献盃だ。ひとつの盃を回すごとくサンドラも泉の水を手ですくって飲む。

 それを見てから王は再び森の奥へと戻って行った。

 泉から家に戻るとみんなそわそわした様子でどうだったと訊ねてきて、泉の水を飲んだことを告げると幸先がいいと喜んだ。

 都から迎えが来たのはそれから二日後だった。

 いざその時になると不思議と寂しさはなかった。離れても家族は家族だ。今生の別れでもない。

「行ってきます」

 だから、涙のひとつも零さず笑顔で家族に手を振ってサンドラは家を出たのだった。

 

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