第2話

 サンドラはいったいどうしたらいいのだろうと、馬車に揺られながら何度目かの自問自答をしていた。

 二月前にイーゴルから王宮への招待状が届いた。

 当然のように父や兄達は頭を抱えた。サンドラも曲がりなりにも貴族令嬢である。最低限の礼儀作法ぐらいは身につけている。だがやはり最低限は最低限なのだ。ドレスとて見合い用に三着程度。装飾品もさほど高価なものでもない。

 帝都という上位貴族のひしめく場に出て行くのは到底難しい。

『サンドラはどうしたいの?』

 事の自体にまったくついていけず丁重に断る理由を父と兄達が考えているのを、ぼんやり見ていたサンドラに声をかけたのは義姉のジーナだった。

 どうしたいもなにも、王宮に行くのは自分でも無謀だと思う。だけれども、イーゴルにはもう一度会いたかった。

 もし、次に会えたらと何度も考えている内に、いつの間にか会いたいに変わってしまっていた。

 お礼にと鹿の角で作った櫛が届いた時、苦手な手紙では嬉しさを伝えきれなかったからよけいに会って直接言葉を交わしたくなった。

 王宮に行く、と思うと尻込みしてしまっても、イーゴルに会いに行く、と考えると心が浮き立った。

 王宮で上手く立ち回れる自信はない。でも、イーゴルには会いたい。

 家族にそう、素直に口に出して伝えたものの滅茶苦茶だとサンドラは思った。

 父や兄達も難しい顔をして、イーゴルに恥をかかせるだけではと案じ断ったほうがいいと説得してきた。

 父と兄達の言うことはよくわかる。行かない方がいいのかもとも思う。

『行きたいって気持ちがあるなら、行った方がいいわよ』

 滅多に使わない頭を一生懸命働かせて悩むサンドラに、ジーナがぽんと軽く答を返した。

 後退するか前進するかなら後先考えずに前進してしまうのが自分である。

 それで失敗することもあるけれども、前に進まないのは性に合わない。

 そして行くことを決めた。付き添いに帝都で数年過ごしていた長兄のボグダンも来ることになった。

 悪阻はおさまって他の家族もいるとはいえ、身重のジーナの側に夫であるボグダンが不在というのは不安ではないかと心配ではあった。

 しかしジーナは産まれるのはまだ先のことで、ちょっとの間夫がいないぐらいどうということもないと膨らみ始めたおなかを撫でて笑い送り出してくれた。

 そして出発したものの、イーゴルに会ってそれから自分はどうするつもりなのか、何がしたいのかまったくわからないまま到着が近づきサンドラは少々焦っていた。

「あと、少しだな」

 一緒に馬車に乗っているボグダンの方も緊張気味だった。

 帝都にいたとはいえ、もう十年以上前のことだ。貴族の長男は十歳頃から帝都へ上り軍に入り、十五になれば上位貴族で長子ならば官吏として王宮勤めとなり、階級関係なく望めば軍に残ることもできる。ボグダンは軍自体は嫌ではなかったが故郷の森が恋しいと任期が明けるとすぐに帰ってきた。

「長い長いって思ってたけどあっという間ね」

 帝都までは馬車でのんびり進んでいるので、ひと月近くはかかる。馬だけで行けばもっと早いのだが、まだまだ気持ちの準備が整っていない自分にはこれぐらいがちょうどいいどころか時間が足りないぐらいだ。

 今日の野営地が決まったらしく馬車が止まって、サンドラとボグダンは馬車を降りる。毎回ちょうどよく街にさしかかれないこともあり、ここまで数回野宿している。

 馬車の手配はもちろん、野宿の準備もイーゴルがしてくれていた。護衛も三人ついている。皆、ボグダンが軍にいた頃の知り合いで今も連絡を取り合う仲ということでボグダンも必要以上に緊張することなく過ごしている。

 人見知りしない質であるサンドラも、兄と親しいとあればなおさら打ち解けやすかった。

 帝都のことやこの頃のイーゴルの様子も聞けた。

 こちらからの返事が来るまでそわそわと落ち着きがなく、招きに応じるとわかった後はずいぶんはしゃいでいたらしい。

 イーゴルがとても会いたがってくれていることが嬉しかったと同時に、面はゆさもあってぎこちない愛想笑いしか浮かべられなかった。

「サンドラ、ちょっといいか?」

 そうして、到着の前日の夜、宿で兄が真面目な顔で寝台側の椅子へ座るように促された。

「準備ならちゃんとできてるわよ」

 王宮に上がるための服やジーナに教わった化粧道具の確認はすんだ。緊張や不安でまともに眠れる気はしないが、横になるだけはしておこうと思ったサンドラは首を傾げる。

「それは俺も一緒に確認したからわかってる。こういう話はなあ、苦手なんだが俺、長男だし。うん、それでお前はその皇太子殿下に好意を寄せているということでいいか?」

 気まずそうに聞いてくる兄に、サンドラはきょとんとしながらもすぐに首から耳まで真っ赤になった。

「え、あ、そういうことなのかな。兄さん待って、あたし全然考えてなかった」

 もちろん、イーゴルのことは好きだ。だけれど、それが今まで家族や友人に抱いてきた好意と同じなのかまで考えていなかった。

 改めて問われると、違うとはっきりとわかる。

(あたし、イーゴルのこと、好きだから会いたいんだ)

 はっきり自覚すると意味もなく叫びたくなるぐらいに錯乱しそうだった。

「やっぱり考えてなかったか。ジーナはあんまり先回りしすぎるなとは言ってたんだが、こればっかりはなあ……」

 ボグダンが頭を抱えるのに、サンドラはぼんやりとジーナとの会話を思い出す。

『最低限覚えることはこれぐらいで大丈夫よ。後はいつもどおりのサンドラでいいのよ。なーんにも難しいこと考えなくていいから、会いたいって気持ちだけ大事にして。めんどうなこと考えるのはね、帰ってきてからでいいわよ』

 化粧の仕方やドレスの着方、装飾品の合わせ方を教えてくれたあとにジーナが言った言葉を、そのまま素直に鵜呑みにして何も考えていなかった。

 だがその方が自分にとってはよかった。これ以上考えることが増えたら、もうどうしていいかわからない。

「あたし、今、これ考えるの無理っ! 無理だから!!」

 よりによって前日になって言うことはないではないかと、サンドラは頭をぶんぶん横に振ってボグダンの話を拒否する。

「……いや、そうだな。無理だな。あー、今じゃなかったか」

 サンドラの勢いに呑まれてボグダンがとたんに大人しくなって引き下がる。

 それから翌朝まで兄妹で気まずい雰囲気になってしまった。

(ボグダン兄さん、本当にこういうとこだめなんだから)

 心配しすぎて先走りしてしまうボグダンをやんわりと止めてくれるのはいつもジーナだった。やはり事前に忠告されていても、彼女が側にいないことにはどうしようもないらしい。

 サンドラはむくれた顔で鏡台の前で薄化粧を施す。

 もっとそばかすを薄く見せたり、唇や頬の色をよく見せたりもできる。だけれど、イーゴルに最初に会った時、化粧などまったくしていなかったのであまり素顔を隠す気にはなれなかった。

(いつものあたし……)

 鏡に映るのはいつもよりちょっとだけ化粧気のある自分。髪は緩く編むだけにした。薄緑から明るい緑の色味の少しずつ違う薄い布地を重ねたドレスは、森の空を覆い木漏れ日を透かす木々の葉のようである。

 いつもしない格好だけれど、ところどころに普段の自分の姿が見え隠れする。

 後はどんな顔をしてイーゴルに会えばいいのだろう。

「サンドラ」

 ボグダンに部屋の外から呼ばれてサンドラは答が出ないまま外に出る。

 馬車に乗り兄とは一言も会話もなく馬車の窓から外を眺めながらずっと考え続ける。

 針葉樹の林の中を抜けると、やがて大きな赤煉瓦の街並みが見えてくる。その中でふたつの白い建物が特に際立って立派で大きく目立つ。

「すごい……あれが、王宮と大神殿?」

 思わず声を上げると、兄が苦笑する。

「七つの尖塔のあの王冠みたいな形のが、地母神様をお祀りしている大神殿。で、もう一個のたくさん建物が固まってるのが王宮だ。もう、帳は下ろしておいて後で見たらいい」

 サンドラは初めて見る帝都の景色に驚きながらも言われた通り窓の帳を下ろす。何も見えない中でも、馬車が止まって外で何やら確認するような会話で帝都の入り口についたことがわかった。

 そしてもう一度走り出した馬車の車輪から伝わる振動が固い石畳のものへと変わった。

 あと、もう少しでイーゴルに会えるのだ。

 挨拶の言葉はしっかり教え込まれている。問題はその後だ。いったいどんな風にイーゴルと過ごせばいいのだろう。

 馬車は止まることなく進んでいく。

 緊張と焦りでどんどん頭の中は真っ白になってくる。

「ついちゃった……?」

 馬車が止まって、サンドラは何も決められないままであることに血の気が引いてきて、そのあとにばくばくと盛大に心臓が鳴り出した。

「大丈夫か?」

 先に馬車を降りたボグダンが心配そうに手を伸べてくる。

 サンドラは無言で頷いて震える足を奮い立たせて馬車から降りる。目の前にはどれだけ大きいのかすらよくわからい白亜の建物がそびえ立っている。

「はあ、おっきい……」

 サンドラは、口をぽかんと開けて王宮を見上げる。

 そんな間抜けな顔をしていた時だった。

「サンドラ!」

 背後から馬の蹄の音と、自分を呼ぶ大きすぎる声。

 振り返ると心の準備を整える間もなくイーゴルの姿が目に飛び込んでくる。

 彼の満面の笑顔にサンドラはどうするべきかわからいけれど、来たことだけは間違いじゃなかったと思った。

 

***


 サンドラはイーゴルとともに王宮の裏手、皇族と使用人しか立ち入れないという園庭をゆるゆると歩いていた。

 イーゴルが迎えに来たかと思うと、すぐに護衛の兵等は心配そうなボグダンを連れて行きふたりきりにされてしまったサンドラは少々戸惑っていた。

 こんなにすぐにふたりだけになるとは思わなかった。

「すまん。サンドラ達が一休みしてから会いに行こうと思ったのだが、待ちきれなくてな」

「ううん。びっくりしたけど、会えてよかった。あ、櫛、ありがとう! あたし、手紙苦手ですっごく嬉しかったのに、ちゃんと伝えられなくてだから直接お礼が言いたかったの。ああ、でも、これじゃ手紙とあんまり変わんない……」

 櫛が届いた時に胸いっぱいに広がった気持ちは、どんな言葉を使ったら伝えられるのだろう。

「いや、まったく違うぞ。手紙でも、十分伝わったが、直接声を聞かせてもらえるといいな。うん、俺も喜んでもらって嬉しい」

 いつも声の大きいイーゴルが照れくさそうに小声で言うのに、サンドラも妙に気恥ずかしくなってしまう。

「そう。それならよかった。それにしてもすごく広いわね」

 兄にはあまりきょろきょろするなとは言われていても、視線のやり場に困ってしまってつい庭と言うより草原のような周囲にばかり目が行ってしまう。

「ここは馬術の練習もできる。妹達が今頃練習しているかもしれんな……おお、いたいた。おーい!!」

 遠くに成馬が二頭と子馬二頭のいずれも大人と子供を乗せた四頭の馬が見えて、イーゴルが大声を上げる。

 その内の一頭の子馬が真っ先に駆けだして、残りが慌てて追う。

 まだ幼い騎手はもう練習など必要ないと思うほど颯爽と馬を乗りこなすものの、成馬にはあっさり追いつかれて速度を落とす。

「リリアはサンドラに会えるのを楽しみにしていたからな」

 その様子をイーゴルが目を細めて見つめる。

「皇女殿下があたしに?」

「ああ。王宮に招く提案をしたのもリリアでな……その、なんだ。俺がサンドラに会いたがっているのを察してくれてな」

「そ、そう、なんだ……」

 イーゴル本人の口から直接会いたかったと言われてサンドラは言葉に詰まる。

 幸い沈黙が続く前に、女官と思しき騎手が乗る成馬に付き添われてリリアがすぐ目の前にやってきた。

「ようこそいっらしゃいませ! お目にかかれるのをとても楽しみにしてましたわ」

 馬から下りるなりすぐに目の前にまで飛んで来て、リリアが大きな瞳をきらきら輝かせて微笑みかけてくる。

「あ、お初にお目に掛かります。ニキフォロフ男爵家のサンドラと申します。このたびはお招きいただき、ありがとうございます、リリア皇女殿下」

 その愛らしさに思わず息を呑んでしまっていたサンドラは、慌てて挨拶をかえす。

「サンドラお姉様、わたくしのことはリリアでかまいませんわよ。お兄様のことだってお名前で呼んでいらっしゃるのでしょう」

 そんなことまでイーゴルは話していたのかとサンドラはイーゴルの横顔をちらりと見つつ、いいんだろうかと困ってしまう。

「リリア、ニキフォロフ男爵令嬢がお困りだろう」

 そこへ追いついてきたフィグネリアが妹を窘めながらその隣に立つ。

「ただ名前で呼んでっていっているだけよ。お姉様こそ早くごあいさつなさったら。失礼ですわよ」

「まったく、リリアはどうしていつもそう……ご挨拶が後になり申し訳ありません。フィグネリアと申します。このたびは遠いところからおこしいただき、ありがとうございます。お目にかかれて嬉しく思います」

 妹に文句を言いながらも、八歳とは思えないほど堅苦しい挨拶にサンドラは恐縮しながら、リリアにしたのと同じ挨拶をする。

(それにしても、かわいい……お揃いの人形みたい)

 サンドラは姉妹の並んだ姿に感心する。

 まるであつらえたかのように真逆の要素がある姉妹である。どちらも真っ直ぐな銀の髪に薄水色の瞳ではあるが、フィグネリアは凛とした面立ち、リリアは柔らかな面立ち。

 着ている乗馬服がまったく同じであるから、ふたりの違いがはっきりわかる。それでいながら髪と瞳の色以外にもひとめで姉妹とわかる雰囲気があるのだ。

「背が高いのですわね。お兄様のお顔をみるときうんと、首をあげなくていいし、並んだ時にすごくちょうどよくてすてきだと思いましたわ。そう。ドレスもすごくお似合いですわ。ねえ、お兄様」

 リリアが好奇心の強そうな瞳でサンドラを見つめながらそう言って、突然イーゴルに話題をふる。

「そ、そうだな。俺はドレスのことはよくわからんのだが、その、美しいから似合っているのだろうな」

 イーゴルの返答が気になってちらっと表情を見た時、しっかり目が合ってしまってサンドラは自分ではっきりとわかるぐらい頬が熱を持つのを感じる。

「……ありがとう」

 視線をそらす瞬間に、イーゴルの顔も赤くなっているのが見えた。

「ふふ。やっぱりお似合いですわね。フィグお姉様もそう思うでしょう」

「ああ。あのあたりだとカフラッドの織物だろうか。仕立てもいい。色味も髪と目に映えてとてもお似合いだ」

「まあ。ほんとフィグお姉様ってお勉強しかできないんだから」

 ふたりきりでは間がもちそうにないのだが、リリアとフィグネリアが前で賑やかにしてくれるのはありがたい。

「皇女様達、話にきいてたよりずっと可愛いわね」

 話題をそらすのと本心半々でイーゴルに語りかける。

「妹達の愛らしさは俺の拙い言葉だけでは伝えきれんほどでな。ひとめ会ってもらえればすぐにわかってもらえるはずだと思っていた」

 本当に嬉しそうな顔で妹ふたりを眺めるイーゴルに、サンドラは自然と微笑む。

「サンドラお姉様! これから昼食はご一緒できるのでしょう」

 不意にリリアが振り向いて、サンドラはそういうことになっていた気もするとイーゴルに訊ねる。

「うむ。もうすぐ昼食だ。父上と母上もサンドラに会えるのを楽しみにしている。ボグダンも一緒だ」

「……皇帝陛下と皇后陛下も」

 あらためて考えるとそういうことで、サンドラは緊張して固くなる。

「そう大仰なことではない。俺の家族と食事をする。それだけだ」

「そうですわ。お父様もお母様も、とっても優しいのですのよ。だから、緊張なさらなくてもよろしいのですわ」

 イーゴルとリリアがそう言うものの、一生ないと思っていた皇帝と皇后への拝謁がこの後すぐなのだ。

 きっと食事の味などまともにしないのだろうと、サンドラは緊張がほぐれないまま昼食会に臨むのだった。


***


(うーん、美味しい)

 どれだけ緊張しいても美味しいものは美味しいのだなと、サンドラは鴨の香草焼きを味わっていた。

 昼食会は円卓で行われていて左手側に兄のボグダン、右手側にイーゴルがいる。イーゴルの隣に皇帝、その隣に皇后、さらにリリア、フィグネリアと続く。

「サンドラお姉様、髪もお化粧も全部ご自分でなさったの?」

 今日の格好についての話題になって、リリアが目を丸くする。

「化粧は義姉さんに教えてもらったけど、まだ慣れなくて。髪はほとんど結んだだけです」

 やっぱりなにかおかしいだろうかと、隣の兄に目配せするもののすでに疲労困憊でやや目が虚ろな彼は気付いてくれない。

「素敵ですわ。わたくしも、大きくなったら自分で身支度できるようになりたいですわ。その時は色々教えて下さいませ」

「は、はい。教えられるぐらいには勉強しておきます」

「絶対ですわよ」

 やたら念押ししてくるリリアを不思議に思いつつも、何かがおかしいわけではないことに安堵しながらサンドラはなんとか声を返す。

 気軽にお喋りという雰囲気にはとてもなれないものの、リリアが率先して喋ることに返すことでなんとか間がもっていた。

「本当になんでもお出来になるのね」

 そうしてリリアに他に身の周りのどんなことができるか聞かれて答えていると、ちょうど正面に座る皇后のオリガが感心した声をあげる。

「当家は人を召し抱えるほど立派なものでもありませんので、自分達でできることはなんでもやるようにしているのです。本当にこの場にお招きいただけるような身の上ではなく、お恥ずかしい」

 ボグダンが喋りすぎだとでも言わんばかりに、卓の下でサンドラの足を軽くつついて恐縮する。

「当家が皇家となる前よりも古くより神霊様に認められ森を治めてきた立派な御家だ。そう卑下することはない。それに、この場は息子の友人達と過ごすためのものだ。身分も気にしなくていい」

「そうだ。細かいことは気にせず楽しんでくれ」

 口数少なく穏やかな表情でいた皇帝のエドゥアルトがそう言ってイーゴルも追随すると、ボグダンがお言葉感謝しますと消え入りそうな声で応えた。

「フィグお姉様はサンドラお姉様に聞きたいこと、ありませんの?」

 リリアがあまり率先して喋らないフィグネリアに話題を振る。

 フィグネリアは少し困った様子で瞳を伏せ、ではと口を開く。

「サンドラ様は現在行われているハドロワ街道の整備についてどのようにお考えでしょうか」

 一瞬何を言われたかわからず、サンドラはぽかんとしてしまう。

 ハドロワ街道といえば領地から近い大きな街道で、帝都にくるまでにも通ったはずだ。帝都とは反対方向の辺りで道幅を広げ、凹凸の多い路面をならす大規模な工事が行われいることは知っている。

 知っているのだが、フィグネリアの求める答がわからない。

「…………道が広くなって平らになったら通りやすくて便利、だと思います」

 答を絞り出したと同時に兄の顔色を伺うと大失敗であったことは明らかだった。

「道が狭くて悪いと危ないですものね。エドゥアルト様のお仕事で助かるひとがたくさんできるのは素敵ですわ」

 なんとも言いがたい顔でいるフィグネリアと、サンドラの間の沈黙を破ったのはオリガの無邪気な言葉だった。

 そこに気遣いなどはまるで感じられず、ただただ純真に喜んでいる。

「ハドロワ街道……おお、サンドラの生家からここまでの道か」

 そこでやっと頭の中の地図から話題の場所が見つかったイーゴルが声を上げる。

「フィグお姉様、そのお話、つまらないですわ。もっと楽しいお話、ありませんの?」

「つまらないことはないだろう。道路事業は父上が今、お力をいれているところで、我が国にとっても道路の整備は、とても重要だ。それに、経済、軍事に関しても道というものは……」

「お勉強の時間でもないのにそんなのつまらないですわよ。ねえ、サンドラお姉様」

 リリアから同意を求められて、サンドラはうなだれる。

「ごめんなさい。難しい話が苦手で……」

 なんとなく、フィグネリアが求めているのはもっと複雑なことだろうとはわかったものの応じるだけの知識がなかった。

「確かに、食事の席では少々堅苦しいな。俺としては利用する者達が便利だと喜んでくれれば嬉しい。フィグネリア、その話は後でゆっくり俺とするか。今度進める新規事業についてもお前の意見もききたい」

 気分を害したでもなく呆れるでもなく優しく言葉を紡ぐエドゥアルトに、サンドラはイーゴルの寛大さは父親譲りなんだろうと思う。

(本当にフィグネリア皇女殿下、頭の良い子なのね)

 それと同時にフィグネリアの賢さにも感心する。八歳で皇帝と政について話せるのはよっぽどで、次期皇帝として噂されるのもよくわかる。

 そうして食事会はすっかりリリアが中心になってとりとめない会話をしながら終わった。

「ついたばかりでゆっくり休む間なくすまんな。旅の疲れをとってゆっくりやすんでくれ。俺はこれから勉学の時間なのでそれが終わった後でまた、話相手をしてくれたらありがたいのだが……」

 滞在先の小宮へ繋がる柱廊でイーゴルが別れ際そう言って、サンドラはうんとうなずく。

「待ってる。食事、美味しかったし、ご家族達も優しかったしお目にかかれてよかった」

 楽しめる余裕はなく緊張もすれば失敗もしたけれど、誰もが優しい雰囲気で終わってしまえば来てよかったという気持ちが残った。

「それならばよかった。ではな」

 またすぐに会えるのに、名残惜しそうにするイーゴルにちょっとだけどきどきしながらサンドラは手を振って別れる。

 そうして少し先で案内の使用人と共にいるボグダンの顔を見て、一気に冷静になる。

 ゆっくり休む前にこれからふたりで長い反省会となりそうだ。

***

 

 滞在から三日目に、サンドラはイーゴルに案内されて兵舎にいた。

「うわ……」

 まだ入り口に立っただけだというのに地響きと雄叫び声がこだまして全身が揺すぶられる感覚に、サンドラは唖然とする。

 まだ姿はみえないものの大勢の巨漢達が槍や斧、あるいは大剣を持って鍛錬に勤しんでいるのだ。昔ここにいた兄のボグダンにも話は聞いていたとはいえ、実際に直面すると驚いてしまう。

「俺が一番よくいる場所がここだ。騒々しいのは苦手、か」

 呆気にとられているサンドラに、イーゴルが少々不安そうに眉根を寄せる。

「ううん。話に聞いてたよりすごそうでびっくりしただけ。ここもやっぱり、すごく広いのよね」

 初日こそ緊張していたものの、イーゴルと共に短い時間でも一緒にいて話しているうちにすっかり入りすぎていた力は抜けて気楽に過ごせるようになっていた。

「ああ。多くの兵達がここで鍛錬している。口で説明するより見た方が早いな」

 そうしてイーゴルに促されるまま赤煉瓦の兵舎の中へと入る。途中長い階段があり、見張り台へと繋がるらしかった。

「あそこの森も練兵場なの? ……子供よね」

 やっと登り切って鎧戸から外を見渡すと、いくつかの建物に囲われた広場で何百という兵が揃いの白い軍服で鍛錬している他に、建物の奥の森の中にちらちらと小指の爪の先ほどの大きさの白い人影が見える。

「そうだ。あそこもだ。ここから子供とわかるか」

「うーん、速さと樹の大きさとの差でなんとなくそうかなって」

「兄妹だな。ボグダンもここにいたときは一番目がよかった」

「初めて聞いたわ。だから兄さんのこと覚えてたの?」

 イーゴルがボグダンのことを覚えていることは少し不思議だったのだ。長兄が軍にいたのは十一年も前だ。その頃、イーゴルはななつである。これといって特徴のない兄はこの大勢の兵達に埋もれてしまっていただろう。

「覚えやすかったのはそうだな。それに、俺は全部とはいかなくともできるだけ一言でも言葉を交わしたことがある兵の名前は覚えるようにしている。ここにいる全員としたいところが、いかんせん俺は物覚えがわるくてな」

「それでも何百人でしょ、すごいわ」

 貴族の男子の他にも志願兵も多く滞在していて、それこそ数え切れない人数が入れ替わり立ち替わりしているのだ。イーゴルのことだろうから、身分など気にせず多くの兵と言葉を交わしているだろう。

「ううむ。数にするとそんなに多いか? 任期を終えて故郷に戻った者達と会う機会も少くないのでな、ちゃんと覚えていられるか自信はない」

「でも、ボグダン兄さんのこと覚えてられたんなら他の人も覚えてるわよ」

 何百人といる中で目がよかったぐらいしか目立ったところのない兄を覚えていたのだ。他にも大勢覚えているはずだろう。

「フィグネリアのように家名まで覚えるということまでとはいかんが、名前ぐらいはわかるといいな」

「第一皇女殿下、ほんとうにすっごく頭がいいのよね。せっかくお話ししてくれるのに、あたしじゃ全然話相手にならなくて……」

 フィグネリアとリリアは初日の昼食後も連れだって顔を見せてはくれるものの、フィグネリアの話題はいつも難しくて答に窮してしまいまるで会話が成り立たない。

「大丈夫だ。俺もさっぱりわからんことの方が多い。やはり、政の話の相手をできる友人がもっといたほうがよいのだがな」

 イーゴルが見張り台からまた下へと移動しながらぼやく。

「できれば同い年ぐらいの方がいんだろうけど、フィグネリア皇女殿下と同い年ぐらいで同じぐらい頭の良い子って難しいわね」

「いや、あれよりふたつ年上でなかなかに聡明な子はいることはいるのだ。一緒にいる所を何度か見かけたのだが、本人に友達かと聞くと、友人と言うほど親しくないという返事でな。フィグネリアも人見知りなところがあるから、まだ馴染んでいないだけやもしれんが」

「何回も会ってるなら、きっとその子と友達になりたいのよ。相手の子の方は?」

「フィグネリアとよく似て真面目で賢い少年だ。ラピナ公のご子息でな。いかんせん真面目すぎて、遠慮が過ぎる所があるのでなあ。身分とは時にわずらわしいものだな」

 確かに真面目で思慮深い子供なら、ことさら上下関係にも気を使ってしまうだろう。

「むずかしいわねえ」

「むずかしい。おお、噂をすればだな。タラス!」

 下へ降りるとちょうど黒髪の少年が歩いていて、イーゴルが呼び止める。少年、タラスはすぐさま跪いて深く頭を下げた。

 サンドラはその様子を少し離れて見ていたのだが、イーゴルに呼ばれて前に出る。

(ラピナ公の御嫡男……。ええっと、九公家の跡継ぎ、よね)

 恭しい挨拶を聞きながら、家格ははるか上の幼い少年との距離感に戸惑ってしまう。

 普段子供に接するように、とはいかないのは皇女ふたりの時もだがやはり身分や立場というものがくっついてくるとあたふたしてしまう。

「サンドラ様は軍事に関心がおありなのですか?」

 挨拶をすませたあと、タラスにそう問われてサンドラは首を横に振る。

「そいうわけじゃないんだけれど、あ、ないんですけど、考えたこともなくて……」

 何も考えずにイーゴルについてきただけなので、他に答えようがない。

「俺がいつもいる場所を見て欲しくて連れてきたのだが、そうか、俺もサンドラが興味があるかまで考えていなかったな……」

「あ、つまらないわけじゃないの。ボグダン兄さんがいた所だし、知らないものを見るのは嫌じゃないもの」

 目にするものなにもかも目新しく退屈なことはない。なによりイーゴルと一緒にいる。それだけで楽しいのだ。

「そう聞いて安心した。これから行くところは弓の練習場でな、それならばサンドラも見ていて面白いと思うのだが、どうだ?」

「うん。見てみたい。……あ、ごめんなさい。えっと……」

 サンドラはタラスがじっとしていることに気付いて、イーゴルに視線を送る。どこかへ向かう途中の足止めしてしまったのではと思うのだが、ここはイーゴルが何か言わなければ彼も動けないだろう。

「タラス、呼び止めてすまなかったな。フィグネリアの友人の話になって、いずれはお前が良き友になってくれるだろうと話をしていたところだったのだ。これからもフィグネリアと仲良くしてやってくれ」

「……私がフィグネリア皇女殿下の友とは、恐れ多いことでございます。友と呼んでいただけるほどご信頼をいただけるよう、これからも誠心誠意お仕えさせていただきます」

 十歳児にしては堅苦しすぎる返答にサンドラは目を丸くしながら、タラスが慇懃に礼をしてその場から去るのを見送る。

「もう少し気楽にかまえてもよいのだがなあ」

 イーゴルが後ろ頭をかきながら零す言葉にサンドラは苦笑する。

「でも、フィグネリア皇女殿下とはすごく気が合いそうだわ」

 ほとんどふたりを知らないものの、受けた印象はよく似ている。

「似たもの同士。上手くいくといい」

 そんな話をしながら、サンドラはイーゴルに案内され延々と続く廊下を歩き外に出る。それと同時にしなる木の音と風を切り裂く音が複数重なり合った音が響いた。

「すごい……」

 大きなイーゴルの背中に阻まれて見えなかった景色が見えると、思わず感嘆の声が漏れる。

 縦に長い演習場では二十人近くが横に並び一斉に矢を放っていた。一組が終わると、またもう一組と一糸乱れぬ連携である。

「全隊、停止!!」

 指揮官と思しき兵がイーゴルの姿を見つけると素早く兵達の行動を止める。

 百以上はいるだろう兵達の視線が一斉に向けられ、サンドラもびっくりして首をすくめる。

「えっと、よろしくお願いします!」

 イーゴルから大声で兵達に紹介され、サンドラもつられて大きな声で返す。

 まるでこれから入隊でもするかのような威勢の良さに、今度は兵達が目を丸くしながらも少々緊張した雰囲気が和やかになる。

「訓練中、手を止めさせてすまんな。サンドラに弓を見せたいのだがよいか?」

 イーゴルがそう言うと、すぐさま兵のひとりが弓を持って来る。

「これはちょっと引けないわねえ」

 弓の長さは自分の背丈ほどもあり両手で持ってもずっしりと重みがあって、長身で筋骨隆々とした屈強な男にしか引けなさそうな代物だった。

「サンドラ、弓を引いてみたいか?」

「え。そっか。あたし、自分で引くつもりで来ちゃった」

 弓の練習場ならば当然自分も弓を引くものだろうと思っていたサンドラは、イーゴルがそう思っていなかったことにきょとんとした後、照れ笑いを浮かべる。

「サンドラが引ける弓か……。ここで一番弱い弓を試してみるか」

 どうやらもう少し軽い弓もあるらしく、イーゴルが持って来させる。

「皇太子殿下、女性の力ではこれも難しいと思われますが……」

 そして持って来られた弓は、最初の物よりは短く軽いとはいえ自分の顎ぐらいまでと長い。

「やるだけやってみてもいい?」

 今まで使ったことのある弓は自分の胸の高さよりも少し上ぐらいまでだが、引けないこともなさそうである。

 サンドラは不安げな兵達に見守られながら、的の前に立つ。的は遙か遠く親指の先ぐらいの大きさである。

(ドレスが動きやすいのでよかったわ)

 今日は袖も裾も広がりの少ないドレスで邪魔にはならない。

(やっぱり重いわね)

 いざ矢をつがえて引くとなかなかに力がいる。それでもサンドラは引ききって、矢を放つ。

 的は外したものの、そのすぐ側までは届いた。

 息を詰めて見守っていた兵達もざわざわし始める。あの細腕でよく引けたものだと、耳に入ってきてサンドラも少々申し訳なくなる。

 丸太のような腕の男達から見れば自分の腕は細く見えるだろうが、ドレスの上腕部分で平均的な女性よりも筋肉質で太い腕をわかりづらくしているだけである。

「さすががだな」

「外したのは悔しい。ねえ、あと三本だけいい? 的に当てたいの」

 しかしそれよりも、真っ直ぐ飛ばせただけという結果には不服でサンドラはイーゴルに頼む。

「もちろん。負けん気が強いのはよいことだ」

 イーゴルが楽しげに答えてさらに矢を用意してくれ、サンドラは深呼吸をひとつして再び矢をつがえる。

 感覚は掴んだので最初よりはすんなりとひけた。

 風を割く音と、的に矢尻が当たる鈍い音がほとんど同時に響く。

「端っこかー」

 的には確かに当たったが、端も端である。

 サンドラのつぶやきに、遠眼鏡を持った兵が的の左斜め上を確認して周りからおおという歓声が上がる。

「真ん中でなければ納得いかんようだな」

 わくわくとした顔でイーゴルが言うとおり、サンドラは中央に当てるとやる気を漲らせていた。

 矢は残り二本。

 サンドラは熱くなりながらも周りの物音が聞こえないほど集中する。

 兵舎の他の訓練で地面は震動しているし、風向きも少し変わった。

 的には確実に当てられる自信はあるのだが。

 三本目の矢を放つ。

「ああ、下すぎた!」

 今度は先程の対角線上の右端だった。

 後もう一回だけ。

 ここ一番の緊張にその場の全員が固唾を飲んで矢が放たれるのを待つ。

 そうして、最後の一矢が指先から離れる。

「……いった? あ、ちょっとずれてる?」

 サンドラは目を細めて遠くの的を肉眼で確認するものの、中央あたりに刺さった矢で見極めがつかない。

「少々ずれておりますが、たったこれだけの矢数でこれほど正確に当てられることはありませんよ。お見事です!!」

 遠眼鏡で確認した兵が称賛を贈ると同時に、周囲で一際大きな喝采が起きてサンドラは真ん中は外したのにいいのだろうかと思いつつ、その場の雰囲気が楽しくて笑顔になる。

「訓練の邪魔しちゃってごめんなさい。でも、楽しかったです。ありがとうございます!!」

 そして歓声に負けじと声を張り上げる。

 盛り上がる中、イーゴルの側に戻ると彼も満面の笑みで迎えてくれてふわふわとした気分になる。

「楽しんでくれたか」

「うん。すっごく。ありがとう」

 そうしてふたりは微笑み会いながら、その場を後にして来た時よりも少しだけ近い距離で並んでゆるりとまた兵舎内を巡ることにしたのだった。

  

***


 その頃フィグネリアは兵舎の一角にひっそりといた。

 ひっそりと言っても忍び込んだわけでもなく、兄達の邪魔になりたくないのでと兵達に口止めしているだけである。

「サンドラ嬢をいかが思われました?」

 こぢんまりとした部屋の中で、フィグネリアはタラスにそう訊ねる。

「ほとんどお話は出来なかったのですが、皇太子殿下と雰囲気がにておられるかと。軍事にはご興味ないようでした」

「政も経済も史学も算術も同じようでした……」

 何かひとつぐらい関心があるものはと話題にしてみたものの、どうにも話が続くことはなかった。

(別に、無礼をしているわけではないのだ)

 リリアは難しい話ばかりして失礼だと後でふたりになった時に怒っていた。

 礼を欠いているつもりはないのだけれど、関心もなければ知識もない話題に一生懸命に耳を傾け答を返そうとするサンドラを思い出すと、胸がちくりと痛む。

「皇帝陛下は、サンドラ嬢を皇太子妃候補にお考えなのですか?」

 タラスの問にフィグネリアは、考えながらうなずく。

 彼は父と対立している九公家のひとつであるラピナ家の嫡男である。ただ、彼自身は父の功績に敬意を払い今後にも期待している。

 敵ではない。だが味方とも言い切れない。だからあまり九公家に知られたくないことまで話していいのか迷うのだが、イーゴル当人から招かれたサンドラを有力な皇太子妃候補と見るのは誰でもそうだろう。

「反対なされなかった以上は、そういうことだと思われます。ですが、あの方には皇太子妃としての公務をこなすのは難しいでしょう。政務でも兄上の補助ができるほうがいい」

「それが一番の理由ではないのですか? いずれフィグネリア皇女殿下が政務を補佐することになるのであれば、補佐は必要ありませんしむしろできない方が余計な荒波は立たないでしょう」

 タラスの言うことは、自分も考えなかったわけではない。ないのだが、そうなると帝位につく兄の立場とはどうなるのだろうというもやもやした気持ちになるのだ。

「ボグダン殿についてはどうですか? 野心や他の有力貴族との繋がりは」

 サンドラ自身が人畜無害なのはわかる。心配なのはニキフォロ男爵家の交友関係である。特に跡継ぎである嫡男のボグダンのことは重要だ。

 兵舎に来たのも、タラスにボグダンの身辺調査を頼んでいたからだ。

「野心、というのはなさそうです。親しくしている間柄の者の中に、面倒な立場の者はいません。誰かに弱みを握られているなどという話はありませんでした。益とはならなくとも、害になる方ではありません。もっと詳しい事でしたら皇帝陛下がお調べになるのでは?」

「父上はもうとっくにお調べでしょう…」

 イーゴルがサンドラを招くと決めた時にはきっと、ニキフォロ男爵家についても探っているはずだ。

「フィグネリア皇女殿下は、皇帝陛下と意見の相違があるのですか?」

 タラスの言葉にフィグネリアは押し黙る。

 父がいいと決めたことに間違いはないはずだ。なのに自分はなぜだか納得がいかない。

「……相違はありません。納得していないだけです」

 言葉にしてみると矛盾していて、タラスも解釈に困った顔をしていた。

 それからサンドラのことはひとまずおいて、自国の技術発展が近隣の大国から遅れをとっている問題についての話に変えた。

 意見交換に夢中になっている内に、正午を告げる鐘が鳴ってふたりはまだ話したりないながらも切り上げる。

 タラスは訓練があり、自分も午後の講義がある。

 フィグネリアはタラスに調査の礼を言って別れたあと、イーゴル達とかちあわないように兵舎を出ることにする。

 廊下の向こうからイーゴルとサンドラの声が聞こえて、フィグネリアは足を止める。

 兄達はたぶんこちらに来ずに手前の曲がり角を行くはずだ。こうなったら顔を合せてしまってもしょうがないのだが、後ろめたさがあった。

 フィグネリアは廊下を引き返して、角を曲がり兄達の声が行きすぎるのを待つ。

 聞こえてくるイーゴルの声はとても楽しげだ。サンドラが来てから今までに見たことがないぐらいに幸せそうで、だから罪悪感を覚えるのかもしれない。

 それでも、サンドラを皇太子妃候補とすることはまだ飲み込めそうになかった。


***


 帰郷を翌朝に控え実質最後の滞在日となる日、サンドラはイーゴルと王宮の裏手に広がる森へと猪狩りに出ていた。

 短い夏の終わりにさしかかり緑が色褪せ始めた森の空気が心地よい。慣れないドレスから狩装束を纏って、緑と土の匂いを吸い込むと故郷が懐かしくなる。

「みんな、どうしてるかな」

 家族を思い出してサンドラはぽつりとこぼすと、一歩前にいたイーゴルが振り返った。

「どうした?」

「んん。家族のみんな、今頃なにやってるんだろうなって思ったの」

「里恋しくなったか……。ここはサンドラの故郷から遠いからな。家族と長く離れるのはこれが初めてだったな」

 広い帝国の国のあちこちを回ってきただろうイーゴルの問に、サンドラはうなずく。

「領地から出たこともそんなにないわ。イーゴルと一緒にいるのは楽しいし、ボグダン兄さんもいるから、ひとりぼっちでもないんだけどやっぱり家族はみんな揃ってないと寂しいわね」

 見合いの時に領地を出ることがあっても、せいぜい三日だった。しかし帝都は片道ひと月以上かかる。もう翌日には帰郷とはいえ、家族に会えるのはもっと先になる。

 考えれば考えるほど寂しさが増してしまう。

「そうなら、次に招くときは全員呼ばねばならんな。いや、今度は俺が行った方がいいのか?」

「そうしたらイーゴルが今度は家族と離ればなれになっちゃうわ」

「ん? そうだな。では俺の家族全員でいけば解決だ」

「そんな、うちで皇族ご一家をお招きするなんて無茶よ。帝都に皇族方がいないっていうのも変だわ」

 皇帝一家が広大な王宮を留守にして、実家のこぢんまりした屋敷にやってくるのを想像すると妙におかしくてサンドラはつい笑ってしまう。

 笑っていると寂しさは胸の片隅にしまっておけるぐらいに縮まっていく。

 イーゴルと一緒に過ごす時間は、本当に楽しい。

 生まれ育った場所から遠く離れた初めて訪れる地に、少しだけあった不安や気後れはとっくに消えている。

 イーゴルの大事な人達で、大切な場所だからなにもこわいものはなくて素敵なものばかりに思えるのだ。

「サンドラ」

「うん」

 ふたり同時に獲物が近くにいることに気付いて、息を潜める。

 丸々と太った猪は今夜のご馳走だ。

 ふたりでかかればどんな大物も手強いものでもない。

 獲物の処理を黙々と進め、この森の決まりに則って定められた場所へ抜いたはらわたをおさめに行く。

 開けた場所にある血の染み込んだ巨石の上へと置いた後、場所を離れた途端に幾つもの羽の音がすぐさま聞こえてくる。茂みをかき分ける獣の足音も続く。ここでの動物たちの食事を見るのは禁忌で、振り返ることはしてはならないそうだ。

 森と言っても樹木の様相も違えば決まりも故郷とは全く違うものである。

 サンドラは巨大な猪を抱えるイーゴルの背中を見ながら、最初に出会った頃を思い出す。

 あの時はまさかこんな遠いところまで来ることになるなんて思わなかった。

(また、会えるのかしら)

 以前と違って、イーゴルは当たり前のように次の話をするのだけれど、何もなかった前回よりもこれが最後という気持ちが強い。

 家族には会いたい。だけれどイーゴルと離れるのも寂しい。

 帰りたいけど帰りたくない。

 そんな気持ちを抱えたままついに帰郷の時になってしまった。

 出発前の夜にあらかたの準備はすませて、朝から兄のボグダンと一緒に使用人達に世話になった礼をして、最後に皇帝一家に謁見する。

「あっというまでしたわね。雪解けの頃にはまた遊びにおいでになって」

「サンドラお姉様、今度はもーっと長く滞在なさってね」

 皇后のオリガが優しく言えば、リリアも名残惜しそうに歩み寄ってくる。滞在中あまり打ち解けられなかったフィグネリアも丁寧に挨拶をしてくれて、皇帝も恐縮しすぎて固まってしまっているボグダンに苦笑して、気安くまたおいでと声をかけてくれた。

 イーゴルは馬車まで見送ってくれるということだ。

「色々ありがとう。すごく、楽しかったわ」

 馬車の前で本当に最後となる会話をイーゴルと交わすサンドラは、『また』と続けかけた言葉を止める。

 前夜にボグダンから言われた。先に会うことは次からはこちら側からとにかく理由をつけて断ると。

 

『ここは、俺達の住んでる場所とは全然違うだろ。ちょっとの間ならいいけど、ずっといられる所じゃない』


 サンドラはイーゴルから目を逸らし、彼の背後にそびえる広大な王宮に視線をやる。

(言われなくてもわかってるもの)

 わかっているから、次の約束なんてできない。

「サンドラ……」

 並々ならぬ緊張を湛えた声でイーゴルに呼ばれ、視線を彼に戻す。

 続く言葉はなかなか出て来ず、どうしたのだろうとサンドラが首をかしげるとイーゴルは一度大きく息を吸った。

「お、俺と、結婚してくれっ!!」

 鼓膜が裂けるかと思うくらいの大音声だった。

 声が大きすぎて何を言われたのかすぐにわからなかったものの、分かったら分かったで頭の中が真っ白になってしまう。

「ごめんっ、無理!!」

 だからといって皇太子の求婚にたいしてこれはないのではないか。

 反射的に大声で返してしまってからそう思ったものの、時すでに遅しであった――。

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