第1話


 翌朝、サンドラは深々と頭を下げて屋敷を訪れてきたイーゴルを出迎えた。

「本当に昨日は申し訳ありませんでした……」

 昨夜は長兄を含め五人の兄達と父に散々叱られてしまった。そもそも一昨日に皇太子が隣の領地を治める伯爵家へ来訪したという話は聞いていたのだ。

 そのことをすっかり失念した上に、名前まで忘れてまったく繋がらなかった。羽織の下に着ていた皇家の者である証の黒の軍服は見えづらかったとはいえ、少し考えたらわかるだろうと兄達と父は深々とため息をついたのだ。

「いや、かまわん。昨日も言った通り、俺が勝手に森に入り込んだのが悪いのだ。親切にしてくれて助かった」

 イーゴルが困り顔で後ろ頭をかいて、肩を落とすサンドラを見下ろす。

「うむ、そうだな。今日も案内を頼んでいいか? 森のことは詳しいのだろう。御領主、娘御を借りてもかまわんか?」

 そして彼はサンドラの父のニキフォロフ男爵そう告げた。

「それは、ええ、もちろん。サンドラ、失礼のないようにな」

 とてつもなく不安そうな父と顔を合せて、サンドラ自身も戸惑っていた。狩りの案内なら何度もしたことがあるとはいえ、相手は皇太子である。

 こんな名ばかり貴族で皇都の礼儀作法などまったく知らない自分に果たしてできるだろうか。

「はい。えっと、よろしくお願いします」

 見合いの時ぐらいしかしないしおらしい自分の態度にむず痒くなりながら、サンドラはイーゴルに改めて頭を下げる。

「頼んだ。お前達はついてこなくてもかまわんのだが……それが役目だからなあ。仕方ない、少し離れてついてこい」

 そしてイーゴルは三人いる近衛に命じて、五人で鹿狩りにでかけることになった。

 今朝になって神殿から明日まで熊狩りは禁止で鹿の角を奉納して欲しいとの達しがあったので、鹿狩りになったのだ。

「皇女様達へのお土産なんですか」

 イーゴルから狩りをする理由を聞いたサンドラは、それならば熊よりも鹿の方がいいだろうと思う。

「そうだ。ふた月近く留守にしてかまってやれなかったから、何か大きいものをと思ったんだがなあ」

「皇女様達、いくつでしたっけ?」

 ずいぶん前に皇帝が側室を迎えて皇女がひとり産まれたのはぼんやり覚えている。確かそれと近い時期に正妃も皇女を産んだはずだがどっちが先だっただろうか。

 とにかく十歳にはなっていないということぐらいしかわからない。

「どっちも今、やっつだな。上のフィグネリアはとても賢く、下のリリアは物怖じせず明るい。どちらもこの上なく可愛いぞ」

 妹ふたりのことを語るイーゴルが胸を張って生き生きしていて、溺愛ぶりが溢れ出している。

「やっつか。兄さんのことが大好きって頃だったなあ」

「歳を重ねると大好きでない時が来るのか?」

 サンドラの大きすぎるひとりごとにイーゴルがしょぼくれた顔をする。

「あ、そういうわけじゃないのよ。あたしも今でも兄さん達が大好きだもの。でも、やっつぐらいの時ってなんていうのかな。兄さん達の全部がすごくて大好きだったのがそれぐらいの時で、それからだんだん駄目なところもあってもそれもひっくるめて大好きなのが今、っていうかんじ。って、わからない、か」

 どうにも説明しづらいと、サンドラは頭を捻ってみるもののいい説明がみつからなかった。

「いや、なんとなくはわかるぞ。駄目な所も好きというのは、きっとそれ以上にサンドラの兄上達に良いところが多いからだろうな」

 イーゴルが大きく頷いて感心するのに、サンドラは口元を綻ばす。

 自分の足らない言葉が通じたことも、兄達が褒められたのもとても嬉しかった。

「うん。みんないっぱいいいところある、の……あ、ごめんなさい」

 そしてふとつい敬語でなくなっていることに気付いて、しまったと慌てて謝る。

「ん、なにがだ?」

 一方イーゴルはよくわかっていないらしく、つぶらな目をまん丸にしていた。

「え、えっと、言葉遣いです。皇太子殿下へ失礼のないようにって今朝も何回も言われたのに、本当にもうしわけありません」

 寛大なお方だけれど、それに甘えて軽んじるような態度を取らないと父と兄に昨夜も今朝もこんこんと言い聞かさせられた。それでも一番最初にごくごく気安く話してしまうと、態度を変えるというのはサンドラには難しかった。

「俺は気にせんのだがなあ。しかしそれではいかんのだと、お爺様や伯父上によく怒られる。だが、ここには俺のお爺様と伯父上はいないし、サンドラの父上と兄上もおらん。ばれなければかまわんだろう。俺はやはり、そのままのサンドラと話していたい」

 確かに後ろの近衛にさえ黙っていてもらえれば、問題はない。

(いいのかなあ)

 若干後ろめたくありつつも、サンドラ自身も慣れない頭を使って言葉を選ぶよりも最初と同じようにイーゴルとありのままに言葉を交わしたかった。

「じゃあ、ここだけってことにして、ね」

 どうせこれっきりのことだ。もやもやとしたままでいるよりも、心のままの方がきっと後にも後悔がないと、サンドラは面倒な事を考えるのをやめにした。

「……しかし、見あたらんな」

 栗鼠が木の上を走り鳥が果実を啄み、野兎が茂みの中を駆ける姿はちらほら見えても大型の動物がいる気配はなく、イーゴルが首を伸ばして木々の隙間の奥を覗き込む。

「このあたりはまだ小さい動物ばっかりよ。もっと奥に入らないと鹿はいないわ」

「この辺りは木が詰まっているな。これでは鹿は通りづらいか。……俺にも狭いな」

 密集して木々が立ち並んでいるので上背も横幅もあるイーゴルは少々窮屈そうだった。

「こっちなら他よりも広いからとおりやすいんじゃないかしら」

「やはり森番というのは森を知り尽くしているものだな」

 サンドラが進行方向を左手側へとずらして誘うと、イーゴルが感嘆する。

「もう覚えてないぐらい子供の時から父さんや兄さんにあちこち連れ回されてたから」

 母をふたつになる前に病で亡くした後は、父と兄達が自分の子守をしていたのだ。父と兄達と森のどこにでも行って、森の管理者の一族として必要なことは体で覚えた。

「森で産まれて生きるというのは羨ましいとも思うな」

 しみじみとつぶやくイーゴルにサンドラは首を捻る。

「他の暮らしがどうか知らないから、羨ましいっていうのはよくわからないけれど少なくともあたしはこの暮らしが好き」

「俺も今の暮らしが嫌というわけではないのだがなあ、なにかと難しいことが多すぎる」

「そりゃ、皇太子殿下だものね。あたしはもうちょっと難しいこともおぼえなきゃならなかったんだけど、勉強は苦手……」

 話している内に開けた場所に出てサンドラは足を止め息を潜める。イーゴルも同じく巨体をできるだけかがめて気配を消す。

 草を踏み、枝を揺らす音が微かに聞こえる。

 ここから奥には湧き水が溜った小さな池がある。動物たちは水を求めてそこに集まるのだ。

 木々の隙間からゆったりと大きな牡鹿が現れる。木漏れ日に艶めく毛並みと大降りの枝のような美しく整った角。

 何度見ても、美しさに息を呑んでしまう。

「なんと、立派な」

 イーゴルが思わずといった体で零す。

「あれはこの森の鹿の王様。神霊様に選ばれてるんだから、誰も手を出しちゃいけないの」

 この国には地母神ギリルアを頂点に彼女の子供である数多の神霊が祀られている。神々は気まぐれに多くの恵みと災厄をもたらす。たとえ恵みを与えてくれる神霊であっても、機嫌を損ねれば多くを失うのだ。

 人々は神殿から神々の意志を伝え聞き、けして神霊に逆らわずにいなければならない。

 鹿の王がサンドラとイーゴルのいる方へと首を向けた後に、木立の奥へと消える。

 その後に四頭の牡鹿が姿を見せる。どれも王ほどではないにしろ、大振りで立派な角がある。

「あの中から一頭か二頭、狩るようにってことね」

 神殿からの達しがある時は決まって王が最初に姿を見せ、その後に贄に選ばれたものたちが現れる。

 イーゴルが矢をつがえてかまえる。

 こちらにはまだ気付いていない鹿達はそのあたりをうろうろとしている。

 そうして矢が放たれる。

 立ち並んだ木々の隙間から正確に矢は鹿の首元へと飛んでいき、一瞬で巨体が地面に倒れ伏す。

 その様子に残りの鹿達は一斉にそれぞれの方向へと走り出し、矢を構えていたサンドラはその中で逃げる方向を見誤って足をもつれさせた一頭の喉元を射貫いた。

「お見事」

 イーゴルが称賛の声を上げた。

「ありがとう。唯一の特技がこれなの」

 弓の腕だけは兄達にも負けない自信があった。

「その細腕でこの弓を引けるだけでも見事だというのに、狙いも正確で威力もあるというのはなかなかによい特技だ」

 イーゴルが比較的腕力のいる長弓とサンドラの腕を見比べて感心する。

「うーん、イーゴルに比べたら細くても、細腕って言うのはどうかしら」

 同年代の少女達と並べられたらお世辞にも、細いという言葉は出ないだろう。

「いや、すまない。立派に鍛え上げているというのに軽んじるようなことを」

 なぜか妙な方向にイーゴルが謝りだして、サンドラは思わず吹き出す。

「全然大丈夫。褒めてもらってすごく嬉しい」

「そうか。うん。おお、いかん。早く血抜きをせねばな」

 できるだけ早く獲物は血を抜き解体せねば肉が不味くなる。イーゴルとサンドラはさくさくと後処理をすます。

「本当に猟師みたいね」

 狩からその後までのイーゴルの手際のよさにサンドラは感心する。狩というのはこの国の男の重要な仕事のひとつではあるが、皇太子ともなればある程度はお付きに任せているものだと思っていた。

「俺も勉学は苦手だが、狩と武術は得意だ」

 獲物を担ぐイーゴルが楽しげで、サンドラもやわらかな心地になって微笑んだ。


***


 ニキフォロフ男爵家は森の中にぽつんと建っている。領民が集まり祭事に使われる広場を設けているので、広さこそはあれど木組の屋敷自体は母屋が一棟にこじんまりとした小屋のような離れがふたつと大きなものではない。

「ただいまー!! 獲物あるから裏に来て!」

 サンドラは扉を開けてそう声をかけ、返事も待たずにイーゴル達を獲物を解体する作業場のある屋敷の真裏へと案内する。

 屋敷の裏は作業場の他にも、厩舎や小さな畑もある。少し離れた場所にある厩舎から二番目の兄がやってきて畑からは三番目の兄、家の裏口からは父が出てくる。もうひとり長兄の妻もいるはずだが、妊娠中で昨日から悪阻が酷くまだ動けなさそうだ。

「……使用人などはいないのですか?」

 イーゴルの近衛のひとりが男爵家の人間だけが出てきて、他に誰かがやってくる様子もないことに首を傾げる。

「申し訳ありません。当家はこの通りでして、使用人を雇うほどでもないので家の人間だけでございます。そういうことなので、解体は我々のみで行いますので、中でお休み下さい」

 答えたのは父のニキフォロフ男爵だった。父の視線がちらりとサンドラに向いて、少々呆れている様子だった。

「あ、そうよね。イーゴル……皇太子殿下には先に家に入ってもらわないといけなかったですね。ごめんなさい」

 家についてすぐに獲物はひとまず玄関先に置いておいて、イーゴル達には屋敷の応接室に案内すべきだったのだ。

 特に何も考えずにいつも通りに動いてしまった自分にサンドラはうなだれる。

「元から自分で狩った獲物は最後まで自分で片付けるつもりだ。よし、お前達も少し手伝え」

 あいかわらずイーゴルは何ひとつ気に掛ける様子もなく、近衛達に命じる。

 そうしてあっという間に獲物は綺麗に解体されていく。肉も皮も骨もあますことなく利用する。角のひと組は神殿に奉納し、肉は今日中に食す分以外は干して保存食する。骨や毛皮は売物だ。

 大勢でやったので作業はすぐに終わり、サンドラは片付けに使う井戸へ水を汲みに行く。

「……だめだなあ」

 汲んだ水を手桶に入れながらサンドラはため息をつく。

 自分が貴族令嬢というにはあまりにも足りていないのは自覚はしているし、それ以前に何かと後先考えなすぎるのもよくわかっている。それでもここで森番と家の雑事をしてという日常に差し障りはあまりなかった。

(イーゴルがああじゃなかったら、とんでもないことになってるわ)

 おおよそ自分の行動が皇太子へのものとしてはあまりにも相応しくなく、本来なら父が厳しく咎められてもおかしくないのだ。

 このままでは他所の家に嫁いでなどとは考えられない。

「でも、ずっとここにいちゃいけないってわけでもないのよね……」

 結婚せずにずっと森番としてここにいることはできるけれど、今その選択をするのも諦めや逃げに思えてすっきりしない。

 サンドラはもう一回ため息をついて、水がたっぷり入った手桶をふたつ持ち上げる。

「手伝うぞ」

 くるりと振り返るとイーゴルがひとりで立っていて、サンドラは一瞬手桶を落としそうになった。

「ひとりでも持てるから大丈夫……です」

 言葉遣いぐらいは改めた方がいいだろうと、サンドラは語尾を付け足す。手桶はいつも持っているので重くはないので本当に大丈夫だった。

「……誰もいないからそう遠慮せずともいい。元気がないが、疲れたか?」

 イーゴルが手桶をひとつ取って心配そうにする。

「疲れてるわけじゃないんです。うん、やっぱりこういうのはちゃんとしておいたほうがあいいのかなって思った、んです。普通に喋るのってやっぱり失礼なことだし、本当はやっちゃいけないことやっちゃってるのは直した方がいいと思うんです。見られてるときと見られてないときの切り替えなんてことも、できないですから」

 イーゴルはふたりきりならばかまわないとは言ってくれたのだけど、改めるべき時にきちんと改められないのなら最初からいつ人目についても恥ずかしくない態度でいたほうがいい。

「俺が気にせずとも、周りが許さぬというもままならんなあ。時には立場や身分など難しいことは言わずに気楽にすごすこともよいだろうに」

 ぼやくイーゴルの表情は本当に寂しげで、自分が悪いことをしているような気にさせられてしまう。

「……難しい、ですね」

 こういう時にどう返していいかもわからず、サンドラはただうなずくことしかできなかった。

「ありがとうございます」

 作業場に戻るとサンドラはイーゴルに礼をして残りの片付けを続ける。大方は水を汲みに行っている間にすまされていて、ひとまず奉納する角と神官達に分ける鹿肉を持ってイーゴルと近衛、それから父が神殿へと行った。

 片付けが終われば料理だ。新鮮な鹿肉を焼き、畑で取れた香草や貯蔵庫に保管している芋や玉葱と一緒に内臓も煮込む。その間に森の見廻りをしていた長兄のボグダンが帰ってくる。

「なんだ、もうほとんど終わってるな。ジーナの具合、どうだ?」

「姉さん、具合はよくなってきたけど眠くてしょうがないって言ってたから寝てると思うわ」

 調理に取りかかる前に義姉の様子を見に行ったときはずいぶん顔色はよくなっていた。しかしずいぶん眠たげにしていた。

「そうか。殿下もいいとは仰っていたが、できるならご挨拶ぐらいとは思ったんだがなあ」

 義姉が体調が優れず挨拶もできないことは、昨日から父と兄がイーゴルに話した。心配そうな顔をしながらも大事でもないと聞くとほっとした顔で嬉しそうに、言祝ぎをくれた。

「皇太子殿下ってすごくいい人よね。いつか皇帝陛下になるのが楽しみ」

 温和で寛容で逞しい皇太子。非の付け所のないぐらいに跡継ぎだ。

 しかし、サンドラの言葉にボグダンは複雑そうにそれがと言葉を濁す。

「そこが問題なんだよ、確かに皇太子殿下のお人柄は素晴らしい。だがなあ、政の才能がさっぱりだそうだ。そもそも皇帝陛下が御側室を迎えられた理由がな、皇太子殿下があまりにもその勉学に向いてなくて、不安だからもうひとりは補佐になる子供が欲しいっていうことだったんだ」

「そうなんだ……でも、皇后陛下がいらっしゃるのに?」

「そうできるならそうしていたんだろうが、なかなかご懐妊なさらずやむなくということだ。皮肉なことに御側室が懐妊された後に、皇后陛下にも御子ができた」

「なんだか、複雑ね……」

 難しいことが多いとぼやいていたイーゴルを思い出し、サンドラは顔を曇らせる。

「まあ、末の皇女殿下もそれほど政向きというわけでもないらしいからな。それで上の皇女殿下はとても優秀らしくて皇帝陛下は跡継ぎを第一皇女殿下にと考えてるんじゃないかって噂もある」

「すごいわね。まだ八歳でしょ」

 イーゴルも賢いとは言っていたけれど、兄の欲目も多少は入っていると思っていた。

「まあ、あくまで噂だ。そもそも、皇后陛下の御父上は九公家のアドロフ公だぞ。よっぽどのことがない限り長子の皇太子殿下を差し置いて、第二子で平民出の御側室の子である第一皇女殿下が跡目にっていうのはないだろ」

 ディシベリアは十の部族が集まって出来た国である。初代皇帝は部族長のひとりで、武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げ帝国を築いた。残りの部族長の末裔は九公と呼ばれ、今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。アドロフ家は九公の中核的存在にあたる。

「うーん、難しいわね。にしてもボグダン兄さんはよく知ってるわね」

 皇家の事情などまったく知らないサンドラは感心する。

「俺、一応この家の跡継ぎだぞ。これぐらいは知るだけ知っとかないとな。でも、お前は物を知らなすぎだ」

 呆れる兄に、この場にいる二番目と三番目の兄がうなずく。

「まあ、それはそうなんだけどね……」

 どこかでそんな噂を聞いていてもあまり日常に関係ないので、するっと忘れてしまっていることもおおいにありえる。

 そんなことを話しながら食卓を整えていると、父とイーゴル達が帰ってきた。

 実に幸せそうに料理を頬張り美味いと喜ぶイーゴルにサンドラは嬉しくなりがらも、帰りまでふたりだけで話をすることはなく少し残念だった。

「どうしたらよかったのかな……」

 見送りを済ませた後、胸に引っかかるのはイーゴルの寂しげな顔だった。

 もしももう一度会えたら、やっぱり彼が何者か知らなかった時と同じように接した方が喜ぶだろうか。

 そんな機会が巡ってくることがないとわかっていても、いつまでたってもサンドラはそのことばかりを考えてしまっていた。


***


 イーゴルは真白い紙前で両腕を組み、考え込んでいた。

 傍らには書物が一冊ある。過去の国内の紛争とその結果についてまとめてあるものである。これを読んで紛争を幾つか分類してさらに対応についての自分の意見を纏めよというのが、皇帝である父から与えられた課題だった。

 読んだ内容は他の紙に忘れないように纏めようとしたのだが、上手く整理できずにぐちゃぐちゃでどう手をつけていいか分からない状態だ。

「兄上」

 悩んでいると、長机の隅で同じ課題をこなしている上の妹のフィグネリアが数枚の紙を持ってそっと差し出してくる。

 紙には書物の内容を時系列ごとに纏めているものだった。

「おお、フィグネリア。いや、これは助かるのだが、いかんぞ。俺がひとりでやらねばならんのだ」

 差し出された紙を断ると、フィグネリアが澄んだ水色の瞳を曇らせてしゅんとする。

「さしでがましい真似をして、申し訳ありません」

「なにも謝ることはない。これがないとお前も困るだろう」

 イーゴルは綺麗に編み込まれた銀の髪を崩さないように妹の頭を撫でる。

「いえ。あの、私は覚えているので」

「この本の内容を全部か?」

「あ、要点だけです。そこの紙に書いたことぐらいです」

 それでも相当な量である。

「お前は本当に賢いな」

 まだ八つとは思えない妹の聡明さには日々感心するばかりだ。フィグネリアは五つの頃には帝国の地理を覚えたかと思うと、あっというまに自分と並んで学習するようになっていた。

「私は、たくさん兄上のお役に立ちたいのです……。父上も兄上のお手伝いをしろと仰っていたので、よいのではないのでしょうか」

「それはまだ先のことで今はやはりいかんと思うぞ」

 日々、父は将来政はフィグネリアの手を借りるようにとは言っているものの、これとそれは別だろう。

「……今日は軍で兵達に稽古をつけるのを楽しみにされていたのに」

 確かに課題が終われば軍に行って兵達と鍛錬に勤しむつもりではあった。しかしやるべきことを妹に手伝わせて、自分がしたいことをするのはよくない。

 イーゴルはフィグネリアを抱き上げて膝に乗せ、目線を合わせる。

「お前は優しいな。よし、まずお前は自分の分をすませろ。それから、俺が間違っているところがあれば教えてくれ」

 そうやって手伝ってもらえれば少なくとも今日中には終わるだろう。

 フィグネリアは分かりましたとうなずき、自分の席へ戻ると黙々と課題に取り組み始めた。

 時々様子をちらりと見ると、要点を纏めた紙には目もくれずにペンを進めている。

(賢すぎるからか)

 歳を経るごとにフィグネリアは遠慮がちになっていく。母親違いでも妹ふたりは同じだけ可愛く分け隔てることはないのに、フィグネリアは自ら立場をわきまえようとする。

 九公家の長である祖父やその嫡子である伯父がうるさく上と下の妹の扱いを同列にするなとフィグネリアのいる前でも口にするのもよくない。

 そればかりは納得がいかないのでその場でどちらも可愛い妹だと言い返しても、一向にやめてくれない。

 祖父と伯父が血統を重んじすぎるところは困りものだ。

(フィグネリアより賢い娘もそうそうにいないだろうに)

 フィグネリアが政の補佐を担うことになることにも祖父達は気に入らないらしい。去年辺りから祖父達が見合い話を持って来ることが増えた。

 政の補佐ができる賢い娘をと勧めてくる。皇帝である父は祖父達の勧める相手はやめておけと諭しながらも、義理立てに断る前提で受けろと言われている。

 それで視察の名目の元でこの頃はあちこち出掛けることが多くなった。

 祖父達が勧める令嬢は皆、利発でよい娘達ばかりだがどことなく一緒にいて窮屈さを感じてしまう。

 見合いを断るつもりでいるからなのもあるだろう。しかしこの先ずっと一緒にいられるかと考えた時、さらにぎゅっと窮屈な気持ちにもなる。

(サンドラは今日も森で過ごしているのだろうな)

 三月前、祖父の勧めで訪れた伯爵家からの帰還途中で知り合ったサンドラの事をイーゴルは思う。

 こちらの素性に気付かなかった彼女の自然なふるまいはほっとした。それから自分の身分を明かして、彼女は戸惑ったものの望み通りにありのままに接してくれた。

 とても短い時間だった。それでも彼女と過ごした時間が今でも鮮明に思い出しては、胸が苦しくなる。

 獲物の処理が大方終わったところで、サンドラがひとりきりで水を汲みにいったのに気付いて追い駆けたのはもう少しだけ何も気負わずに話がしたかったからだ。だが、それは叶わなかった。

(俺がいいというのに、なぜ許されんのだろうな)

 フィグネリアのことも、サンドラのことも、ままならない。

(また、あちらへ行っても立ち寄らない方がよいのだろうか)

 サンドラにはもう一度会いたいと思うのだけれども、また困らせてしまうかと思うと気が引ける。

(……手紙だけではわからんなあ)

 持ち帰った鹿角は職人に櫛に加工してもらい、ふたりの妹に贈り、そしてサンドラにも狩を手伝ってくれた礼として贈った。その礼状が十日前に届いたのだ。

 もてなしが十分にできなかったことを詫びる言葉と、櫛への礼の言葉だけだったが少しでもサンドラの気持ちが知りたくて、何度も読み返してしまっている。

 だが読んだところで書いてある言葉以上のものも見つかるはずがなかった。

「兄上、やはりお手伝いしましょうか」

 知らず内に長いため息を吐いてしまっていたイーゴルは、フィグネリアの心配そうな声にはっと我に返る。

 この頃はいつもこうだ。気がついたらサンドラのことを考えては、物憂げなため息などこぼしてしまっている。

「いや、大丈夫だ。自分でやる」

 イーゴルはフィグネリアに慌てて告げて、もう一度本を読み直すべくページを広げる。 そして苦手な大量の文字にまたこぼれそうなため息を飲み込み、課題に取り組むのだった。

 


***


 この頃兄の様子がおかしい。

 フィグネリアはイーゴルの様子が心配だった。

 兄はとにかく悩むことのないひとである。自分がいつも考えすぎるという自覚があるので、そんな兄の前向きさがとても好きだった。

 だが、この頃はふと物思いにふけっていたり、ため息をついていることが多く元気がない。そんな兄を見ていると自分まで悲しくなる。

 それでもすぐに元気になってくれるだろうと静観していたのだが、日に日に悪化していっている。

 直接兄に聞くのも気が引けて、かといって父に話すのにもいささか大げさすぎる気もしてフィグネリアはお茶の時間に妹と義母に話してみることにした。

「まあ、お姉様気付いてらっしゃらなかったの?」

 丸い大きな瞳をさらに大きく見開いて半年年下の異母妹のリリアが驚く。

「様子がおかしいと気付いてたなら、リリアはなぜもっと兄上の心配をしないんだ」

 これまでリリアが兄の様子を気に掛ける素振りは一切なかった。むしろ兄が思い悩むにつれて明るくなっていったとすら思う。

「だって、あれはお兄様、絶対に、恋、してらっしゃるのだもの」

「恋?」

 にんまりとリリアが笑うのに、フィグネリアはぽかんとしてそれだけ返す。

「やっぱり、リリアもそう思う? そうじゃないかしらと思ったのだけれど、男の子の恋の相談なんて母親ができるものかしていいのかわからなくて。あまり騒ぐのもいけないでしょう。もしかたらエドゥアルト様がこっそり相談にのっているのかもしれないわ。母親には相談しにくいことも父親ならということもあるし」

 ぱっと顔を輝かせる義母のオリガは、三十半ばにさしかかっても少女めいた雰囲気であるがいっそう幼く見える。

 黙ってイーゴルの恋を見守っていたふたりがはしゃいでいるのを、フィグネリアはぽかんとみつめるしかない。

 一体、自分の今日までのこの心配はなんだったのだろうか。

「……いや、しかし仮にそうだとしても一体誰に」

 イーゴルに見合い話が様々な所からひっきりなしに入ってきている。もし父の意向に沿わない相手だとしたら、困りものだ。

「この間お兄様が鹿の櫛を贈ってらしたでしょう」

 そういえば三月ほど前にそんなこともあった。帰ってきたときは見合い相手のことよりも、森で領主の娘と狩をしたことばかり話していた。

(ニキフォロフ男爵……)

 領主の名前と領地は頭に浮かんでも、他にとりたてて記憶にひっかるものはなかった。あのあたりはほとんど森で主要街道の外れにあり、隣接する領地の主達との縁戚関係などもないだろう。

 自分が知っているかぎりでは皇太子の婚約者となるにはあまりにも、不釣り合いである。

「お姉様、またむずかしいことを考えてるでしょう」

 リリアがつまらなそうに唇を尖らせる。

「むずかしいことじゃない。大事なことだ」

 兄はいずれ皇帝となるのだ。伴侶選びというのは色々なことを考えないといけない。

「お姉様のおっしゃる大事なことはぜーんぶむずかしいですわ」

「リリアはもう少し、勉学に身をいれたほうがいい」

 勉強嫌いのリリアにフィグネリアは小言をもらす。

 リリアはみっつぐらいまでは虚弱で無事に育つか心配されていたせいもあって、勉学を始めるのが遅かったのでまだ色々分からないのはしょうがない、ただ、やる気がないというのはよくはない。

「お勉強はお姉様ができるからいいの。それよりお兄様よ。このままずっと恋煩いなんておかわいそうでしょう」

 可哀相と口にしつつリリアは実に楽しげだった。

「そうねえ。このままだとイーゴルもずっと悩んでるばかりになってしまうわね」

「だから、その方をお招きしましょう」

 なんとなく嫌な予感がしていたフィグネリアは、リリアの提案に首を横に振る。

「そんな、ご迷惑だろう。ひと月はかかるんだぞ」

「ちゃんと旅支度もわたくしたちですればいいでしょう。お姉様は会いたくない? お兄様が好きな人」

 気にならないわけではない。だが、時間が経てばまたイーゴルも恋煩いは解消して元気になるのではないだろうか。

 フィグネリアはリリアを諫めてくれないだろうかと、ちらりとオリガを見る。

「会ってみたいわ。イーゴルに聞いて、エドゥアルト様にもご相談してみましょう」

 だがオリガの方もすっかりその気でフィグネリアはこっそりため息をつく。

 かといって最後には父が上手くおさめてくれるだろうと、さほど心配もしていなかった。


***


「かまわん。俺も、お前がそれほど気に入っているというのなら会ってみたい」

 そしてその日の晩餐の時、フィグネリアの期待は見事に裏切られた。

 父のエドゥアルトはイーゴルがサンドラを皇宮へ招きたいという話を切り出すと、すぐにそう答えた。

「いや、き、気に入っているというのはそのいささか言い過ぎではありますが」

 兄の方は顔を赤くしながらもとても嬉しそうで、もやもやした気分になる。

(父上は一体何をお考えなのだろう)

 フィグネリアは読めない父の表情を伺う。

 エドゥアルトはディシベリアの男達の平均と比べれば小柄で、筋骨隆々というわけでもない優男だ。だが若干二十歳で九公家をまとめきれずに国を傾けていた先帝を退けて帝位についた。

 武力が何よりも崇拝されるこの国で、知恵だけで玉座まで登りつめた父になんの謀略もないということはありえない。

 時々こっそりと自分の考えを教えてくれることもあれば、自分で考えてみなさいと課題をあたえられることもある。

 エドゥアルトの涼やかな目がフィグネリアに向く。

 これは自分で考えろと言う時の視線だった。

 いままでにたくさん難題を与えられたことがあったが、これはまたとびきり難しそうだった。

「お兄様、お手紙には押し花をそえられたらどうかしら。わたくしたくさんもっていますから差し上げますわ」

「まあ。それは素敵ね。他に何を用意したらいいかしら」

 リリアとオリガはあいかわらず楽しげで、フィグネリアはひとり黙々と食事を進める。

 今日は兄が獲ってきた猪肉の煮込み料理で好きなはずなのに、あまり味がしない。

「フィグネリア、どうした? 口に合わないか?」

 そんな思いが表情に出てしまっていたのか、イーゴルに心配されてしまう。

「いえ。とても美味しいです。あの、ニキフォロ男爵のご令嬢をお招きにする準備をどうすればいいか考えていて」

「おお、そうか。いや、これも俺もよくわからなくてな。道中と滞在する間、できるだけ不便のないようにしたい」

 イーゴルはフィグネリアのとっさの嘘を疑うことなく、早く会いたいとそわそわしている。

 その姿を見ていると余計に胸のもやもやが増していく。

「イーゴル、もてなしというのは度を過ぎるとかえって迷惑ということになる。内務官によく相談してきめなさい」

 エドゥアルトがやりすぎないようにと釘を刺すと、イーゴルは真剣な顔でうなずく。

「母上とリリアとフィグネリアにも相談させてもらうので、お願いします」

 生真面目に頭を下げるイーゴルにオリガとリリアはもちろんととても楽しそうだが、フィグネリアは愛想笑いしか返せなかった。

 この頃ずっと沈みがちだったイーゴルがやっと元気を取り戻せたのに、なぜかあまり嬉しくない自分が一番嫌だった。

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