第4話

 帝都へとやってきてひと月半、サンドラは数日に一度はお針子達に囲まれて新しいドレスを着せられていた。

婚約が決まった二月後、イーゴルがお針子達を連れてやってきてサンドラが帝都に来るまでにドレスを仕立てる準備を始めていた。それが次々と出来上がっているのだ。

「これはひとりで着られるし楽だわ」

 そして今日はドレスでなく、軍服を着て身軽さにサンドラはうんとうなずく。

 見た目は華やかなドレスはひとりでの脱ぎ着が難しく、窮屈すぎてなかなか慣れそうにない。

 そんなことを何気なくイーゴルに話したら、行儀作法の講義以外では軍服でもかまわないのではということになった。元より軍服は必要ということであらかじめ仕立てていたのが、今日できあがったのである。

「まあ、サンドラお姉様素敵ですわ。白もお似合いだったでしょうけれど、お兄様と結婚するのだから黒ですわよね」

 サンドラが新しいドレスを着るたびに見に来ているリリアが、今日もやってきて上から下まで眺めて楽しげに微笑む。

 軍服は皇帝が群青、皇家が黒、他が白である。まだ正式に結婚したわけではないが、サンドラはすでに皇家の一員であるとされているのだ。

「といってもまだまだ結婚までは長そうね」

 皇都に来てすぐに結婚というわけにはいかなかった。まずは行儀作法を一から学び直して、その後九公家を始めに諸侯への挨拶回りをするというのだ。この広大な国土を端から端までとなると数年がかりになる見通しだ。

「結婚してからご挨拶に伺ってはいけないのかしら。お兄様とサンドラお姉様の結婚式を早く見たいですわ」

「でもまだ覚えないといけないこといっぱいあるし、これで結婚式まであるのは大変だからちょうどいいくらいだわ。それに楽しみは最後までとっておくっていうのもあるでしょ」

 行儀作法だけでも大雑把にしか覚えておらず、そこに加えて皇太子妃として会話で困らない程度の知識を得るための勉学もあってもう頭の中はいっぱいいっぱいである。

「そうですわね。サンドラお姉様とお勉強するのも行儀作法を教えて差し上げるのは楽しいからそれで我慢しますわ」

「今のあたしの一番の勉強仲間で先生がリリアで嬉しいわ」

 帝都に来て一緒に過ごす時間が長いのはリリアだった。毎日のように机を並べて、共に歴史や地理、上位貴族等について学んでいる。行儀作法はリリアの方が板についていて教わることが多い。

 それもあって元々打ち解けていた関係はますます良好である。。

「お姉様がもうひとり増えるって素敵ですわ。今日はこのまま兵舎へ行かれますの?」

「うん。今日はいつもの弓とそれと森の歩き方を教えるのよ」

 帝都では森の見廻りもなければ家事を必要がなく、何をしたらいいのだろうとなったの所、イーゴルと共に軍でできることをすることになったのだ。

 入隊したばかりの子供相手の弓術指導や行軍訓練が今の主な仕事だ。斧や槍、剣もやってみれば行儀作法よりもよっぽどすんなりと習得しているので、入隊して一、二年ほどの子供世話が主な自分の役割になりそうだった。

「やっぱり、お兄様とはお似合いですわ。そうですわ、フィグお姉様も今日は兵舎に行くって言っていたから一緒にどうかしら。わたくしばかりサンドラお姉様と一緒にいるからフィグお姉様とはあまりお喋りできていないでしょう」

「そうね。あたし難しい話はわからないけど、他にどんな話が楽しいのかしら」

 フィグネリアとは食事の時間以外で一緒になることは少ない。食事の時もリリアが率先して話す一方、フィグネリアが自分から多く話すことはなかった。

 仲良くなりたいと思っても、なかなか糸口が掴めないままだ。

「フィグお姉様はずっとお父様とお勉強ばかりですもの。難しいお話しかされないわ」

 フィグネリアが皇帝と執務室にいる時間は、イーゴルよりも長い。行儀作法や護身術などの時間もあるらしいものの、それ以外はずっと政を学んでいるらしかった。

「じゃあ、また後でね」

 同じ年頃の貴族の令嬢達とお茶会があるというリリアと別れたサンドラは、王宮の外に出る。兵舎までは距離があるので馬を用意してくれていて、そこには二頭いる。片方はフィグネリアのだろう。

 せっかくだから一緒に行こうと待っていると、乗馬着のフィグネリアがやってきた。サンドラの姿を見て、少しばかり緊張した面持ちになる。

「リリアから兵舎に行くってきいたの。あたしも行くから一緒にどうかなって」

「……そう、ですか。軍服、仕上がったのですね」

「うん。ずっと狩装束とか乗馬服とかでやってたけど、これで様にはなるわ。イーゴルに会いに行くの?」

 なんとか会話が続きそうだと安堵しながら、サンドラはフィグネリアと共に馬を進める。

「兄上にご挨拶だけはしますが、今日は体術の訓練です」

「訓練は楽しい?」

「己の身を護ることに必要なことです。そういった風に考えたことはありません」

 言いながら困ったような顔をフィグネリアがする。

「じゃあ、他に興味あることない? ほら、弓とか、槍とかやってみたいなって思うもの」

「間合いが長くて重い得物は私には筋力が足らないので難しいと思います。なので関心というのもあまり……体術と短剣の扱いをまずはしっかり身につけたいと思っています」

「そうね。あれこれやるよりも的を絞ってちゃんとやるのも大事ね」

 こういう話なら続けられそうだと、サンドラは普段の訓練のことを聞いている内に、兵舎へと近づいて来る。

「ねえ、フィグって呼んでいい? かわいい呼び方でいいなってずっと思ってたの。あ、嫌だったら全然いいのよ」

 少しばかり欲を出してみると、フィグネリアはきょとんとした後、こくりとうなずいた。

「それは、お好きになさって下さい」

 フィグネリアの顔に戸惑いはあっても、拒絶はなかった。

 兵舎について馬番に馬を預けてそのまま訓練場へと行くと、槍の稽古をしているイーゴルが見えた。

「おお、サンドラ! ようやく軍服ができたか! よいな、よく似合うぞ」

 そしてこちらに気付いてやってきて、イーゴルはサンドラの斜め後ろへにいるフィグネリアへと視線を向ける。

「ふたりで一緒に来たのか。今日は体術訓練だったな!」

「はい。ちょうど王宮を出るのが一緒になったので。では、私はこれで失礼します」

 フィグネリアがそれだけ言って逃げるように去って行く。

「どうだ、フィグネリアはサンドラに慣れてきたか?」

「ううん、あんまり一緒にいる時間がないからどうかしら。それにしても、礼儀正しすぎるのは歳が離れてるから仕方ないのかしら」

 フィグネリアは礼節がきちんとしすぎているので、やはり距離を感じてしまう。

「礼儀正しいのはよいところではあるが、兄としては寂しくもあるな」

「そうよねえ。もっと色々話したいんだけど、忙しいわよね」

「フィグネリアも朝議に出て書記を始めたからな。この頃はずっと父上と一緒にいる」

 将来的に政を担うフィグネリアは多忙すぎるのだ。まだ九つになったばかりだが、皇帝と大臣達が集う議会にも出席して書記という役目で見学しているという。次期皇帝のイーゴルが十二になってからやっていたことだというので、ずいぶんと早い。

 それだけ能力の高さがあって期待も大きいのだろう。

「まあ、時間はたっぷりあるし、ゆっくり仲良くなるわ」

 自分の気持ちだけで焦ってもどうにもならないものだ。フィグネリアに合わせてのんびりやっていけばいいとサンドラは思うのだった。

 

***


 困ったものだと、鍛錬を終えたフィグネリアはため息をつく。

 サンドラが親しくしてくれようとしているのはわかる。ただそれにどう返せばいいのか何も思いつかなかった。

 当たり障りのない返答しかでてこなくても、サンドラが気にすることもなく声をかけ続けてくれるものの、彼女が望むものではないのだろうということは察せた。

 そしていまだにサンドラが皇太子妃になることに引っかかりがある。黒の軍服を着てすっかり皇族の一員となった彼女の姿に、もやもやとしたものが胸に渦巻いていた。

「フィグネリア皇女殿下」

 廊下を歩いていると、会う約束をしていたタラスから声をかけてきた。フィグネリアは彼に挨拶して近くの小部屋へと入る。

「サンドラ嬢は軍ではいかがでしょうか」

「ずいぶん、馴染んでおられます。弓は以前からお上手でしたが戦斧を扱えるのは驚きました。皇太子殿下が軍務を担うこととなるのでしたら、よい傾向ではありませんか?」

 筋肉至上主義というディシベリア建国期の風潮が、最も色濃く残る軍では強いということは敬服の対象になる。

 最初こそ政に関わらないサンドラの立ち位置と、彼女を妻と決めたイーゴルの立場を心配していたものの収まるところに収まっている。

「兄上が軍を纏めて下さるのはよいのです。ただ、このまま政から離れてしまいすぎないかと思うのです」

「皇帝陛下はなんと仰っているのですか」

「……このまま軍務に集中できるようにする方針だと」

 どこまでタラスに明かすべきか迷いつつも、フィグネリアは正直に答える。

 朝議にイーゴルも出てはいるが、皇帝が彼にその場で意見を求めることもない。九公家派などは味方してもらおうと自分達に都合のいい意見を引き出そうとしているが、イーゴルは分からないことは素直に分からないと言うので目論見は上手く行っていない。

 朝議が終わった後も、皇帝はイーゴルからの質問には答えても何かを訊くことはなかった。

 この頃は兵舎にイーゴルがいる時間がじわじわと長くなっている。表面上、まだ慣れないサンドラに軍務を教えるためともとれる範囲ではあるが、いずれ皇帝から政務を教わることはほとんどなくなってしまうだろう。

「タラス殿、兄上があまり政務に時間を割いていないことについての意見は諸侯方より出ていますか?」

「……九公家派はこのままではフィグネリア皇女殿下が政の実質の権限を持ってしまうと危ぶんでいるようですが、皇太子殿下に政務をしてほしいと望んでいるわけではないので軍務に集中することには肯定的です」

 予想通りの返答にフィグネリアはため息をつく。

 誰もイーゴルに皇帝としての役割を期待していない現状は気が重い。当のイーゴルさえ政に向いていないと自覚しているのだ。

 そうしてイーゴルが政務からさらに遠ざかるようになるために都合のいい皇太子妃がサンドラだ。

 ふたりともそんなことはまったく気にかけることなく、幸せそうでいるのを見ると後ろめたい気分になる。

 サンドラに覚えるひっかかりは罪悪感なのだろうか。

 おおよそ子供らしくない悩みばかり抱えるフィグネリアは、再び重苦しいため息を吐き出した。


***


 行儀作法に勉強に軍務にと慌ただしく過ごすうちに短い夏がやってきた。

 そしてついに九公家の筆頭であるアドロフ公家へとサンドラとイーゴルはやってきていた。

「大きいわ……」

 丘の上にあるどっしりとした赤茶色の石造りの城が見えてきて、サンドラは感嘆する。要塞都市の中枢とあって見るからに頑健な城だ。

 一度馬車が止まり、門扉が開かれて一行は城内へ通される。建家の入り口までの道の両脇には白く細い柱が林立していて、冬に咲くという珍しい薔薇の蔦が絡みついている。

 あまりきょろきょろしないように気をつけながら要塞の中に入ると、エントランスで大勢の使用人達がかしずいていてサンドラは気圧される。

 王宮とはまた違った緊張感がある。

 そうして地響き似た足音に隣にいたイーゴルが、一歩前に出る。

「イーゴル!! お前は一体何を考えている!」

 耳の奥が痛むほどの声が轟いて、この城を思わせるがっちりとした体格の大柄な男が肩を怒らせてやってくる。年の頃は皇帝より少し上に見える銀髪の男がどうやらアドロフ公家嫡男のマラット、つまるところイーゴルの伯父らしい。

(似てるわー)

 リリアや皇后からイーゴルの外見はアドロフ公家の血が濃いとは聞いていたが、皇帝とよりもマラットとの並びの方が親子らしさがあるぐらいだ。

「どこぞの片田舎から連れてきたというのはその娘か! 勝手なことをしおって!」

 不意に視線が向けられて、サンドラは慌てて挨拶をする。

 見た目こそマラットとイーゴルは似ているが、雰囲気はまるで正反対である。

「伯父上! 客人に挨拶もしないとは無礼ではありませんか!」

「俺はそこの娘をお前の結婚を認めておらん! 迎える気はないぞ!」

「伯父上に結婚の許諾を頂きに来たわけではありません!! 俺はサンドラをお爺様に紹介にきたのです!」

 大音声の怒鳴り合いが始まったのを、サンドラはなすすべもなく見ているしかなかった。

(ううん。想像以上にすごい)

 リリアと皇后はふたりが喧嘩になるかもしてないと心配はしていた。出立前に皇后が先に喧嘩はやめてほしいと書簡を出してくれたそうだが、効果はなかったようだ。

「お前達、いい加減にせんか!!」

 そして後からやってきたアドロフ公に一喝されてぴたりと怒鳴り合いはおさまった。

「不肖の息子が申し訳ない。私が当主のパーヴェルだ。我がアドロフ家は皇太子殿下とニキフォロフ令嬢を歓迎する」

 まだ何か言いたげだったマラットだったが、アドロフ公の鋭い眼光に押し黙る。老齢であるもの背筋は伸び、体格こそマラットよりも一回りは小さくとも威厳は格段に上だった。

「旦那様、御館様より先に行かれるならそれらしい態度でお客様を迎えて下さいね。初めまして、マラットの妻のダリヤと申します。主人が失礼いたしました」

 サンドラがアドロフ公に挨拶を返すと、ふんわりとした雰囲気のダリヤが謝罪してサンドラはいえいえと恐縮する。

 父親と妻に窘められてマラットは静かになったが、不機嫌なのはあからさまである。

「サンドラ、大丈夫か?」

 応接室へと案内されている途中、口数の少ないサンドラをイーゴルが気づかう。

「うん、大丈夫」

 そうは答えたもののサンドラの声は固かった。

 王宮での暮らしはリリアやイーゴルと過ごす時間が長く、三月ほど経っているので慣れてきた。だがやはりはるかに実家よりも家格が上の貴族の城となると雰囲気にのまれてしまって緊張する。

「サンドラ様は御領地で森番をなさっていたのでしょう。たまたま狩にやってこられた皇太子殿下が一目惚れなさったなんて、すてきですわ」

「……熊を狩りに行って熊のような娘を見つけてきたと聞いたが、背丈があるだけで話ほどのものではないではないか」

 マラットはこの婚姻になにもかも不満らしく、さすがにサンドラもどうしたらいいのか困ってしまう。

「伯父上! サンドラは帝都にに来てから剣も槍も斧も使いこなせるように鍛錬に勤しんでいるのです。弓術は指南役できるほどの腕前なのですよ。見目で侮るのは失礼というもの!」

 イーゴルが反論してくれるのは嬉しいのだけれど、マラットが気に食わないのはそこではないような気はする。

「そこまで言うなら実力を見せて貰うぞ!」

「サンドラ、よいか」

「うん、軍服は持ってきてるからやるわ」

 断る術も理由もないサンドラがうなずくと、ダリヤが困った顔でこちらに視線を向けてくる。

「旦那様も皇太子殿下も、サンドラ様に無理を仰らないで。お断りしてもかまいませんよ」

「あ、無理じゃないので大丈夫です。ずっと馬車だったので、体を思いっきり動かせたら嬉しいです」

 正直なところ、応接室で会話をするよりもそちらの方が気が楽ではあるのだ。

 ダリヤが本当に大丈夫かと心配するのにサンドラは平気だと笑顔で答えて、さっそく軍服に着替えることになったのだった。


***


「そうですのよ。私ったら余計な心配をしてしまいましたわ」

 夜、イーゴルの従兄達も集まって晩餐会となって、ダリヤがそう微笑んで、サンドラは縮こまる。

 昼間マラットに言われるまま斧と槍を振り回してアドロフ家の私兵達と互角とは難しくとも戦い、長弓を引ききり遠眼鏡でやっと確認できる的の中央に当てた。

 最初はとても心配げに見ていたダリヤも、弓を引く頃にはしきりに感心して夕餉の席でこのことを話題に上げたのだ。

「その細腕でよく斧を持ち上げられたものだな」

「武勇に優れたよい方を迎えられたのだな」

 イーゴルの従兄達がさらに褒めそやして、サンドラは面はゆくなりまだまだですと小さく答える。

 私兵団の練兵場に行ってからどこぞの田舎娘から、武勇の見込みがある皇太子妃という評価に変わってマラットの態度は幾分か軟化した。ダリヤがことさらにそれを褒めてくれるので、従兄達もしきりに感心するばかりだった。

 とはいえ、屈強な男達と渡り合えるにはまだほど遠い腕前でこんなに褒められるのはかえって身の置き所がない。

(……細腕)

 丸太のような男達に比べれば細腕なのだが、皇都に来る前に寸法を測って仕立てたドレスの肩と上腕がきつくなってしまって侍女達の顔を青ざめさせてしまっている。

 力がつくのは嬉しいのだけれど、大急ぎでドレスを直すことになってしまったことへの申し訳なさを思い出してサンドラはうなだれる。

「いいか。気を抜かずに鍛錬にはげむのだぞ。武勇に優れてこそのディシベリアの皇帝だ。皇帝皇后共に屈強ならばことさらよい。フィグネリアにはけして隙を見せるな。いつ帝位を狙ってくるやもわからんからな」

 マラットにそんなことを言われて、サンドラは九つの子供に対してそんなことを言われて返答に困ってしまう。

「フィグネリアが帝位を欲しいというなら、俺は父上ときちんと話し合うつもりです! 伯父上はいらぬ心配ばかりせず、フィグネリアをもうっと可愛がっていただけませんか!」

「そうやって、お前が甘やかすからあの娘が図に乗るのだ! だいたい皇帝も皇帝だ。側室のまだ九つの子供を朝議の場に置いているなど正気の沙汰とは思えん」

「フィグネリアは賢い子です。それを父上をお認めになっているからこそ朝議の場にいるのです。伯父上の仰ることは皇帝陛下への侮辱というもの!」

「お前はもう少し自分の立場というのをもっと深く考えろ! そこにいるべきは皇太子であるお前でなくてはならんのだ」

 ともすればイーゴルとマラットの諍いが再び始まるのだが、おろおろするのはサンドラばかりで他は慣れた様子でスグリのパイをつまみながら酒を呑んでいる。

「私はもう下がる。ニキフォロフ令嬢、少々騒がしいがごゆるりとお過ごしになるといい」

 そして当主のアドロフ公がふたりを諫めることもなく退出していくのに、サンドラは慌てて立ち上がって食事の礼を述べる。

 酒が入っているせいか城主が下がってもイーゴルとマラットの勢いは止まらない。

「さあ、ここは騒がしいから別のお部屋でお話ししましょうか」

「え、ダリヤ様、ほっといていいんですか!?」

「ええ。息子達に任せてわたくしたちは美味しいお酒でもいただきましょう。いつものことだから気になさらないで」

 そうは言われても気になってしまうが、確かにこれは好きなだけ怒鳴らせておかなければおさまりそうになかった。

 サンドラは仕方なくダリヤについて行き、夜風が心地いいテラスへと案内される。そこにある机の上にはすでに燭台と酒杯に幾種類かのチーズが置かれていた。

「いつものことだからですのよ」

 サンドラが準備が早いことに驚いているのを見て、ダリヤが苦笑する。

「イーゴルとマラット様、あまり仲がよくないんですか?」

「見たとおり似たもの同士、あれでも主人はイーゴル殿下を可愛がってはいるのですけれどね、フィグネリア様のこととなるとどうしてもあんな調子で」

 確かにマラットの言動はイーゴルの立場を重んじる発言ではある。

(フィグは自分のせいで喧嘩になるのわかってたんだろうな)

 出立前にフィグネリアの不安そうというより申し訳なさそうな顔を思い出して、サンドラは顔を曇らせる。

「まだ子供なのに」

 そしてサンドラが幼いながら思慮深いフィグネリアを思い、こぼした言葉にダリヤが子供、と反芻する。

「フィグネリア様がただの子供というには、賢すぎるから夫もことさら気にするのでしょうね。そもそもイーゴル殿下という後継がいるにもかかわらず、皇帝陛下が側室を迎えられたのは、アドロフ公家に対しても、皇后陛下に対しても無礼だと怒り心頭でしたもの。マラットにとって、皇后陛下はとても可愛い妹でしょう」

「すごく、複雑なんですね。でも、イーゴルとフィグは仲はいいし、二人で上手くやっていけそうなのに」

 マラットの心情も分からないでもないが、兄妹仲はいいのだ。なにもそこに水を差すことはないのではと思ってしまう。

「サンドラ様は万が一、フィグネリア様がイーゴル殿下の代わりに跡を継いでもかまわないと思ってらっしゃる?」

「え、あたしは難しいことは全然分からないんですけど、家族みんな仲良くできるならいいかなって思ってます」

 イーゴルが次期皇帝だから結婚するわけでもないし、義妹達は可愛い。みんなで力を合わせて幸せな家族でいられるなら、フィグネリアが次の皇帝でもかまわないのだ。

「……イーゴル殿下があなたを選んだ理由がよくわかりましたわ。ただ、アドロフ公家としてはそうはいかなものですわ。だから、フィグネリア様の事に関しては御館様は静観してらっしゃるの」

「ううん、難しい、です」

 やはり政治的な話というのは、頭で理解するのは難しく心で受け止めるのはなおさら無理である。

「ごめんなさい。少し、堅苦しいお話でしたわね。フィグネリア様とは仲良くしておいでなの?」

「それもちょっと、上手くいってないんです。歳も離れてるし、フィグの方が近づいてくれないっていうか、遠慮があるっていうか.。」

「年に一度は皇后陛下がフィグネリア様も一緒にこちらにつれてくるのですけれど、そうですわね。いつもあの方はかしこまっておいでだわ。皇后陛下がイーゴル殿下やリリア様と同じように可愛がって欲しいとは仰っても、夫があの調子でしょう。あの方はことさら自分を下に置くばかりですのよね。サンドラ様が皇太子妃となる以上、フィグネリア様も親しく接するのは難しいのでしょうね」

「……仲良くしようとすると、かえって困らせてしまうんでしょうか」

 フィグネリアと話していて一番よく見る表情は、戸惑いだ。

「仲良く、というのはリリア様とみたいにかしら。あの方はとても可愛らしくて人懐こいわ」

 言われてみれば確かに、リリアのように懐いて欲しいとは思っている。

「そう、ですね。それに兄弟が多くて賑やかだったから、フィグともそういう風に何でも話せるようになれたらなあって」

「私は、仲良くなるということとたくさんお話しができることは同じではないと思っていますわ。お喋りが好きな方もそうでない方もいるでしょう」

「はい。そっかあ、そうですよねえ」

 自分にとって兄弟というのは遠慮なく何でも言い合いながら、森番という一家の仕事を一緒にやっていくものだった。

 リリアはそんな自分の兄弟と似たものがあって、だからこそフィグネリアとも同じようになれるはずだと思い込みで行動していたのだ。

 サンドラは自分の行動を振り返って情けなくなる。

 のんびりと距離を縮めようと思っていたが、根本からずれていた。

「あら。そんなに落ち込まないで。あなたはちゃんとフィグネリア様を気にかけているでしょう。たくさんお話しすることよりも、相手が困っているときや落ち込んでいるときを見逃さないことを大事になさって、何かできることがあるか声をかけてあげて。断られるかもしれないし、出来ることはなくても気持ちは伝わるものだと思いますわ」

 ダリヤの言葉に、サンドラは顔を上げる。

「はい。それはもちろんです。家族は助け合うものですから。……頼ってもらえたらいいな」

 いつも難しいことを考えていそうなフィグネリアの困りごとに上手く対応できる自信はないけれど、少しでも力になれることがあればいい。

「サンドラ様、お酒はお好き?」

 唐突にいたずっらぽい顔で、ダリヤにそう言われてサンドラはきょとんとする。

「えっと……人並み以上には飲みます」

 実のところ父も兄達も含め大酒飲みの一家である。

「だったらたくさんお付き合いしていただけそうですわね」

 そしてその夜は女二人で酒宴と相成ったのだった。

 

***


「サンドラ! すまなかった!!」

 翌朝、顔を合せるなりイーゴルが平身低頭で謝罪してサンドラはきょとんとする。

「え、なんかあったっけ?」

「……伯父上と諍いになって晩餐でひとりにしてしまっただろう」

「あ、それは気にしないで大丈夫よ。ひとりじゃなくてダリヤ様と呑んでたから。そっか。イーゴルにおやすみも言ってなかったわ」

 昨夜あれからダリヤと遅くまで酒宴をして、そのまま来賓のための別館へと戻ってきたら着替えてすぐに寝てしまった。まだ婚約中ともあってイーゴルとは別々の離れた部屋に宿泊しているので、昨夜から一度も顔を合せていなかった。

「本当はすぐにサンドラに詫びるつもりだったが、もう休んでいると聞いてな。慣れない場所でひとりで心許なくなっていないだろうかと思ったが、伯母上がいてくださってよかった。しかし、やはり俺は側におらねばならなかったな」

 大きな体を縮ませていつになくイーゴルは落ち込んでいて、サンドラは苦笑する。

「喧嘩の原因はフィグのことだったでしょう。あたしはね、イーゴルのそういう優しいところが好きだから気にしてないわ。あたしは困ってばかりでなんにも言い返せなかったし」

 正直、マラットのフィグネリアへの言い様はあんまりだとも思ったのだが、イーゴルが先に爆発してしまってうろたえるばかりだった。

「俺は本当に素晴らしい人を妻にするのだな」

 つぶらな瞳をうるませたイーゴルがサンドラを抱きしめて感極まる。

「やだ、もう。おおげさよ。ダリヤ様とお話しできてよかったわ。あたしも、今度からはあたふたしないようにするから」

「うむ。しかし伯父上も祖先の血を誇りに思うのはよいが、それを理由に他者を貶めるのはいかんしたがたいものだな。俺はすぐに頭に血が昇ってしまうからサンドラは、伯父上を相手にするよりも俺を落ち着かせてくれた方がよいな」

「それもそうね。いつか、マラット様とも仲良くなれたらいいんだけどな」

 家族は仲良く平和が一番なのだが、こればかりはなかなか上手く行きそうにない。

「あの、朝食をお出ししてもよろしいでしょうか」

 そこへ、おずおずと侍女が声を掛けてきて、抱き合ったままだったサンドラとイーゴルは慌てて離れる。

 ここは食堂室の入り口で、さっきから侍女達も困っていたようだった。

 サンドラとイーゴルはふたりとも顔を赤らめて、お願いしますと返すしかなかった。


***


 一方その頃、ダリヤは朝食前にパーヴェルの執務室を訪れていた。

「それで、あの娘はどうだ」

「毒にも薬にもならないとても素敵なお方でした。あれでは私が皇太子妃候補に挙げていた方々などとても太刀打ち出来ませんわ」

 サンドラには政治的な才覚が一切なければ、生家に他の貴族との人脈などもなかった。加えて本人に皇太子妃という地位への執着や欲は一切ない。性格は素直で穏やか。

 アドロフ公家が探していた貴族令嬢とはまったくの真逆である。

「やはり使えそうにないか。しかし、よくあんな都合のいい娘がいたものだな」

 苦々しく言うパーヴェルに、ダリヤもまったくだとうなずく。

 皇太子妃として相応しい要素はないが、皇太子に政を任せる気がなさそうな皇帝にとっては理想の相手である。

 酒の席でサンドラからそれとなく聞き出したこの頃の皇帝とフィグネリアの様子からすると、大きな問題がひとつ片付いて順調に政の中心からイーゴルを遠ざけているようである。

「少しばかり、フィグネリア様の教育に打ち込みすぎではとも思いますが。十にもならない子供に期待しすぎではと」

「イーゴルがあれでは政を仕込めるのはあれしかおらん。重圧に潰れるならそれまでの器だ」

 フィグネリアが皇帝の期待通りに育たない方が都合はいいというのに、パーヴェルはどこかつまらなさそうだった。

「フィグネリア様が今のまま皇太子殿下の後ろで影のように付き従っていればよいのですけれど、皇帝陛下の才覚を受け継いで野心を持たれると困りますわね。旦那様でお相手できるかどうか」

 マラットは何事においても冷静さに欠ける。今でこそパーヴェルがそれを押さえているものの、歳と共に落ち着くということももうないだろう。

「そのためにお前がいるのだ。……皇帝ならば難しいが、フィグネリアを多少は手こずらせることはできるだろう」

「あら。御館様は私にそれができるとお考えですか?」

「それぐらいしてもらわねば、お前をマラットの妻に迎えた意味がない。イーゴルにも、よい相手を見つけねばならなかったがな」

「フィグネリア様に野心を抱かせないためには、サンドラ様のような方がよいかもしれませんわ。下手に賢いよりも、フィグネリア様を懐柔しやすいのでは」

 はたしてそれが『薬』と呼べるほどの効果があるか未知数である。

「……そうだとよいのだがな」

 答えるパーヴェルは不服そうである。

 皇帝はまだ若い。パーヴェルが先に身罷り跡を継いだ夫は、皇帝とフィグネリア二代続けて対峙せねばならないだろう。なかなかに骨が折れる仕事ではあるが、その分やりがいがありそうだ、

 朝食の時間を知らせが扉の奥から聞こえ、ダリヤはそのまま話を切り上げた。


***


 サンドラが帝都で暮らし始めて二度目の冬がやってきていた。

 九公家への挨拶回りが終わると、今度は皇帝の決めた順に帝国中の貴族への挨拶回りが始まって春から夏にかけてはどたばたとしていた。雪の季節になって巡行は少し落ち着いてきている。

「どっちにしろ忙しいけど、これがいいわ」

 その代わり本格的に降り始めてきた雪の対応に軍は追われているものの、馬車に揺られて長距離移動を繰り返しているよりはよほどいい。

 今日は朝方まで降った雪は止んで、薄青の空が見えている。ここ数日べったりと重い雪雲に覆われていたので、久々の晴天だ。痛いほど風は冷たいが明るいだけでも気分も晴れるというものだ。

「サンドラ! 俺の方はは異常なしだ!!」

 皇都の主要街道の北側を兵を引き連れ見廻っていたイーゴルが、東側のサンドラとの合流地点にやってくる。

「あたしのほうも異常なしよ……あ、フィグだ」

 そこへちょうど前と後ろに衛兵が二騎ずつついた一頭立ての箱馬車が、南側から西へと抜けるのが見えた。

「今日は領地の視察だったな」

「そうね。フィグもまた忙しくなったわね」

 フィグネリアは十歳になると、イーゴルがかつてそうであったように皇帝直轄領の管理を任されることになってただでさえ顔を合わす機会が減っている。

「休めていればよいのだがな」

 この頃は食事の席ですら一緒になることが減り、夜遅くまで皇帝の政務に付き合っているフィグネリアの多忙さをイーゴルは案じている。

 サンドラもフィグネリアと会えたときは、顔色や動作を注視しているがやはり眠たげだったり表情が暗いことが時々ある。

 大丈夫かと聞いても問題はないと答えるのはわかりきっているので、それとなく一緒にお茶をしたりしないかだとか、夜に星見でもしないかと訊くものの勉強があるのでと断られてしまう。

 皇帝にちょっとだけフィグネリアを遊びに連れて行ってもいいかと、イーゴルから声を掛けても今は一番大事な時期だからと聞き入れてもらえない。

 その度に自分がもう少し賢ければと、さすがにイーゴルも落ち込んでいる。

「あたし達にできることって何かしらね」

 自分も同じく難しいことはさっぱりなので、フィグネリアにゆっくり休息を取らせることすらできないとなるとやることがない。

「父上にもっと強くフィグネリアに休養をとお願いせねば。なにもこんなに急がずともフィグネリアなら、人よりも早く必要なことを身につけられるだろうに」

 イーゴルの言う通り、もうすでにフィグネリアは皇帝の政務を理解できているのだ。それだけではいけないのだろうか。

「難しすぎるわ」

 サンドラとイーゴルは同時にため息をついて、ひとまず見廻りの仕事へと気持ちを切り替える。

 今度は皇都の外回りへとふたり一緒に十騎の兵を連れて馬で向かった。西側の林道にさしかかると故郷を思い出すので、サンドラはここが持ち場になる日が楽しみだった。

 ちょうどフィグネリアが通ってすぐで、まだ轍がくっきり残っている。

「どうしたのかしら」

 それを追うように進んでいると、二騎の兵が息せき切ってやってくるのが見えた。

 あれはフィグネリアの護衛の兵ではないだろうか。

 ただごとではない雰囲気にサンドラはイーゴルと、硬い表情で顔を見合わせる。

「皇太子殿下! フィグネリア皇女殿下の馬車が、転落しました!!」

 そして告げられた言葉にサンドラは青ざめる。

 この先の道は谷沿いで、片側は急斜面で深い。場所によっては落ちたらひとたまりもない断崖絶壁の所もある。

「一体何があったというのだ!! 落ちるような場所ではないだろう!」

 イーゴルが問い正すように、道自体は狭いことはなく木柵もあるのでこんな明るい日中に転落などあるものではない。

 護衛によれば、突然馬車を引いていた馬が暴れ出したとのことだった。残りの護衛は崖下へと向かっているということだった。

「あたし達も行こう」

 一騎だけ王宮への救援に残して、サンドラ達は転落したという場所へと急ぐ。

「どうして、こんな……」

 近づけば壊れた柵と馬が暴れ踏み荒らされた跡が鮮明に見えた。これだけの酷い有様になるのに一体何があったというのだろう。

「フィグネリア……」

 イーゴルが真っ先に断崖へと向かい、呆然と妹の名をつぶやいて、サンドラもその隣に駆け寄って下を覗き込む。

 他の所に比べれば下までの距離は短い。斜面も最初こそ急だが、三分の二は緩やかになっていって下まで馬車が滑り落ちた痕跡がある。

「御者も馬ごと落ちたのよね……」

 生身で馬と一緒に落ちた御者は絶望的でも、馬車の中にいたフィグネリアはまだ望みがあるかもしれないと、サンドラは下へ目をこらす。

 こんもりとした雪の塊のようなものの中に、わずかに車輪らしきものが見えた。

「イーゴル、あたしはここから降りるわ」

 とにかく雪に埋もれたままでは、危険だろう。回り道をして崖下まで行くにも時間がかかりすぎる。

「いや、それなら俺も行く」

「無理よ。イーゴルは馬であそこまで向かって。あたしはこういうの慣れてるから」

 並の男よりも一回りは大きいイーゴルはこの急斜面を降りるには危険すぎる。

 周りの兵達はサンドラでも危険では止めるものの、行くと決めたら行くのだ。

「……頼んだぞ。だが無理はしないでくれ」

 イーゴルもひとりで行かせるのに不安げな顔をするものの、サンドラの意志の固さに引き止めることはしなかった。

「フィグネリア!! 今から助けに向かうからな!!」

 そうして崖下へとイーゴルが声を掛けて、馬を走らせる。

 サンドラも残っている兵ひとりに見守りを頼んでそろりと下へと降り始めた。


***

 

「リリアを連れて来なくてよかったな」

 真っ暗な馬車の中、フィグネリアはぽつりとつぶやく。

 領地の視察にリリアが一緒に行くとごねていたのを、遊びに行くわけではないと宥めて置いてきたのはよかった。

 突然馬車が大きく揺れてすさまじい衝撃が襲ってきた原因はよくわからないが、通っていた道を思えば崖から落ちたのは間違いない。座っていた椅子の部分らしき出っ張りが真横にあるので、馬車は横転しているのだろう。

 右腕が酷く痛むが他はそれほど痛いところはない。温石と毛布は持っていたので寒さはしのげる。

 ただ、雪に埋もれてしまっているなら息が出来なくなるか、雪の重みで馬車が潰れる危険はある。

 雪崩に巻き込まれたのでなければ護衛が救援を呼んでいるはずだ。そうでなくとも柵が壊れていれば誰かが気付くだろう。

 フィグネリアは頭の中で落下した道とその崖下までの迂回路を思い描いて、時間がかかるなと眉をひそめる。

 状況は最悪ではないが、それに近い。

(御者は……)

 馬車が落ちたなら馬もろともだろう。御者は逃げられたのか、一緒に落ちたのか。

 フィグネリアは一緒だろうなと、暗い気持ちごと毛布にくるまり重くなってくる瞼を持ち上げる。

 眠気があるのは連日の寝不足のせいだろうが、今は寝ない方がいい。右腕の痛みで意識を引き戻されるのは不幸中の幸いだ。

 着々とイーゴルとサンドラの結婚の準備が整っていく一方で、父の政務を横で学ぶ時間も与えられる課題も増えている。体術と馬術も合間でこなさないといけないので、時間がいくらあっても足りない。

 サンドラやリリアから出掛けることやお茶に誘われても、首を横に振るばかりだ。

 サンドラは星見に誘ってくれたとき、眠気が顔に出てしまっていたせいか退屈なら寝てしまってもいいからとつけ加えていた。だが課題が残っていて断ってしまった。

(あの人は優しい)

 去年、アドロフ家に挨拶に行ってから話しかけられることは減って、マラットかアドロフ公から何か忠告でもあったのだろうと思っていた。だけれど、体術や馬術の訓練の時に、一緒にやろうと誘われることも多くなった。

 できるだけ休息時間を長く取ったり、甘い菓子を用意していてくれたりと少しでも体を休めるようにと気づかってくれていた。

 それでも次の予定があるからと、早々に切り上げて自分から王宮に戻ってしまっては申し訳なく思ってしまう。

 優しさが嫌なわけではないのだ。受け取り方がわからない。受け取っていいのかも分からない。

「痛い……」

 右腕の痛みがじわじわと強くなってきて、フィグネリアはうめく。

 これは折れているのかもしれない。

 痛い、暗い、寒い、怖い。

 心の内が苦しいものばかりになってきて、落ち着かなければと自分を宥める。

 ゆっくりと呼吸を整えながら、大丈夫だと自分に言い聞かせるものの不安ばかりが強くなる。

「……兄上?」

 そんなとき、ふとどこからともなく兄の声が聞こえた気がしてフィグネリアは頭上を仰ぐ。救援には早過ぎるだろう。

 だが、きっと兄なら心配して声をかけてくれるはずだ。

「兄上が来て下さる」

 幻聴ではないと確信して、フィグネリアは歯を食いしばるのだった。


***


 サンドラは足や手をかけられそうな崖の岩や張り出した木を見つけては、器用に急斜面を降りて行く。下に行くにつれて眼下にある馬車が原形を留めている雪の盛り上がり具合に、切迫感は薄らぐ。

 後は上に比べれば緩やかな斜面で雪がほとんど落ちてしまっているので、雪と一緒に滑り落ちる心配もない。気を抜かず慎重に下へ降りていくだけだ。

「よかった。馬車は大丈夫」

 定員二名の小さな箱馬車は一旦滑り落ちた後に上から斜面に残っていた雪が落ちてきたようだが、造りが丈夫で横転していても潰れてはいない。

「御者は……」

 そのすぐ横に半分ほど雪に埋もれた馬と、さら下に人の手が見える。サンドラは駆け寄って、様子を窺い口を引き結んで馬車へと目を向ける。

 そして様子を見に来た兵に箱馬車から離れた所へ落としてもらっていた手斧と雪かきのスコップを取りに行って戻ってくる。

 ひとまず上から雪を左右におろしてさらに自分の正面にある雪もどかし、あらわになった底面をこぶしで叩く。

「フィグ、大丈夫?」

 こんこんと音が返ってきて、安堵のあまりその場にへたり込みそうになる。

 しかしまだ姿を確認するまでは安心しきれないと、サンドラは下ろした雪を固めて足がかりにし、上になっている馬車の扉を確認する。

 雪の重みでたわんだせいか、試しに取っ手を引っ張っても開かない。

「フィグ! 頭の上の扉、押せる!?」

 声をかけると扉が軋んだ音を立てるが、開く気配がない。

「……片腕が折れているかもしれない状態なので、これ以上は難しいです」

 思った以上に落ちついた声が返ってきて、怪我はしていても立って喋れるぐらいには無事だと胸を撫で下ろす。

「息苦しくはない? 他に痛いところは? 血が沢山でてる所もない?」

 突発的な状況で負傷してた時、痛みを感じにくいことはよくあることだ。まだ他に本人が気付いていない怪我があるかもしれないと、サンドラはフィグネリアに確認する。

「ありません。……護衛達と御者は無事でしょうか」

「兵達は無事よ。御者は一緒に落ちてしまったから……」

 少し答えるのを迷ったが、すぐに分かることだとサンドラは正直に答えた。

「そう、ですか。サンドラ様はなぜおひとりでここへ?」

「ああ、あたしは上から先に降りてきたから早かったのよ。イーゴル達ももう少ししたら来るわ」

「上から……? 崖から降りたのですか!?」

 落ち着きはらっていたフィグネリアが、初めて動揺をみせた。

「崖って言うほど崖でもないわよ。ほら、馬車が大丈夫なぐらいだったんだから。あ、そうだ」

 サンドラは崖上の見張りに向かってフィグネリアは無事だと声を張り上げる。

「もう馬車が潰れるぐらいの雪も落ちてこなさそうだし、そこの中の方が暖かいからもうちょっとだけ我慢してて」

 それからまたフィグネリアへと声をかけた。

「毛布も、温石もあるので私は寒くないのですが、サンドラ様は大丈夫ですか? ここまで来るのに怪我はしていませんか?」

「それは大丈夫よ。あたし、子供の頃から森の中走り回ってたのよ。高い木に上ったり崖下の沢に降りたりね」

 さすがにこの高さから降りたのは初めてなのだが、それは言わないでおく。

「……兄上と最初に会ったときは木の上にいらしたのでしたよね」

「そうだったわね。あの時はまさかこんな事になるなんて思ってなかったわ。でも、最初に会ったときから家族になるならこういう人がいいなっていうのは感じてたのかも。あ、こういう話はつまらない、かな」

 顔が見えないせいか、ついつい喋りすぎてサンドラは後ろ頭をかく。

 身内の馴れ初め話は人によってはあまり楽しくない話である。リリアは積極的に聞きたがったが、フィグネリアはどうだろう。自分も一度興味本位で義姉に長兄でよかったのかと聞いたぐらいで、それほど深く聞こうとは思わなかった。

「いえ……兄上も同じだったのでしょうね。最初からお心は決まっておられたから、王宮にサンドラ様を呼ばれた」

「あたしは、会いたいからってだけで来ちゃって、先の事なんて全然考えてなかったからいっぱいびっくりしたわ」

 今思い出しても、さすがにもうちょっと色々考えることはあっただろうにと反省しかない。

「ここでの暮らしは、慣れましたか?」

「慣れないこともまだ多いけど、挨拶回りでいろんな所に行って王宮に戻ってくると家に帰って来たって安心するぐらいにはなってるわね……っと」

 目まぐるしい日々を思い出していたサンドラは雪を踏む微かな音を拾って息を呑む。

「サンドラ様?」

「……フィグ、音を立てないでじっとしてて。中にいれば大丈夫だから」

 目と前にある凍った小川の対岸すぐ側の森の中から狼の群が出てきていた。

 六頭はいる。血の臭いを嗅ぎつけてきたのだろう。

 サンドラは馬車の影に隠れて様子を窺う。

(手斧じゃちょっと無理かしらねえ)

 狼六頭に手斧一本ではさすがに厳しいものがある。

 狼たちが凍った小川を迷いなく渡ってきて、サンドラは視界に入らないように体を小さくして息を潜める。馬一頭で満足してくれればいいのだが。

 しかし、待てども狼たちが馬を咀嚼する音が聞こえてこない。サンドラは物音を立てないようにそろりと動いて、まだ狼たちがどうしているか確認する。

(警戒してる……?)

 一頭が馬の口元に鼻先を当てて匂いを嗅いで何かを確認していた。他の狼が堪えきれず首元に牙を立てようとすると、その狼は低く唸り止めた。どうやら群の長らしい。

 長はもう一度馬の匂いを嗅いで首を森の方へ向け、そのまま他の狼たちを引き連れてもどって行く。

(まずい)

 このまま帰ってくれそうだと思った瞬間、長がこちらを振り向いて目が合ってしまった。だがすぐに興味なさげに首を戻して、森へ帰っていった。

「……助かった」

 安堵のため息をつくと、控えめに馬車が叩かれる。

「サンドラ様、どうされたのですか?」

「うん。もう大丈夫。……狼がいたんだけど、こっちには来なかったから」

「……そう、ですか。兄上達は大丈夫でしょうか?」

 少しの間絶句した後、フィグネリアが不安げに言う。

「人数も多いし、森番と一緒に来るはずだわ」

 迂回してここまで来るには森を通らねばならない。森の中には神殿に定められた禁足があるかもしれず、その上急ぎならば森番に案内を頼む以外の選択肢はない。

「そう、ですよね。失念して、いました」

 いささかフィグネリアの声が辛そうに聞こえた。

「フィグ、腕が痛む? それとも他に苦しいところがある?」

「……痛みが強くなってきただけですので。お気になさらず」

 だんだん鈍っていた感覚が戻ってきたのか、それとも耐えていたのかわからないがとにかく子供なら泣き出しすぐらいには痛いはずだ。

 なのに、フィグネリアはあまりにも冷静でなおさら心配になる。

「フィグ、上、開けるからちょっと隅に寄って」

 サンドラはいてもたってもおられず、箱馬車の天井になってしまっている扉を、手斧で慎重に開ける。

 中ではフィグネリアが隅で毛布にくるまり小さく丸まっていた。見たところ大きな出血があるようには見えず、他に怪我は確かになさそうだ。しかし眩しげにこちらを見やる目は憔悴している。

「サンドラ、様……。兄上達が?」

「まだよ。よし、怪我見せてね」

 サンドラは中へそろりと降りて、フィグネリアの毛布をめくり腕を見る。外套とドレスに覆われて怪我の具合はわからないが、少なくとも骨が突き出したりはしていない。

 そして毛布を元に戻して、フィグネリアの頭をゆっくり撫でる。

「痛いところない?」

 手に触れてはっきりわかる瘤は見当たらなければ、出血もなさそうだ。フィグネリアも頭は大丈夫だと弱々しく答える。

 ただ、指先が触れた頬や額が少し熱い。

「上、開けたから寒いわね」

 サンドラは怪我をした腕に触らないように気をつけながらフィグネリアの頭を胸に抱き寄せて背中をさする。

 それからいくらか時間が経って、イーゴルが呼ぶ声が聞こえてくる。

「兄上……」

 ぼんやりとしていたフィグネリアが、その声に反応する。

「そう。もう大丈夫よ。よく頑張ったわ」

 サンドラはフィグネリアに微笑みかけて、大声で彼女の無事をイーゴル達に伝える。

「フィグネリア!!」

 馬車が揺れるほど力強く大地を踏みしめながらイーゴルがやってきて、馬車の中を覗き込む。

「フィグ、少し我慢してね。右腕が折れてるかもしれないから気をつけて」

 サンドラはフィグネリアを毛布を脱がせ、両脇の下を掴んで高く持ち上げてイーゴルに渡す。それから毛布を外に出してから、自分も外へと出る。

 真っ先にイーゴルが駆けつけたらしく、後から数人の兵と道案内の猟師に神官もやってきているのが見えた。

「フィグネリア、よく無事でいてくれた」

「兄上……」

 何かを言おうとしていたフィグネリアの言葉が止まり、そのかわり涙が溢れ出していた。

 イーゴルにすがりついて嗚咽する姿は幼い子供でしかなく、やっと安心できたらしかった。

「大丈夫だ。神官様も来ているからな。何も怖いことはないぞ」

 やと後続が辿り着いて、イーゴルが神官にフィグネリアを診せる。この帝国において医術者でもある神官が背負っている背嚢から用具を取り出して、怪我の手当をする。それから暖かい薬湯を少し飲むと、フィグネリアは眠ってしまった。

「なるほど、お疲れがあっての発熱でしょうな。念のため一晩神殿でお預かりします」

 サンドラとイーゴルが神官に問われて、ここ十日ほどのフィグネリアの寝食を訊ねられ答えるとそう診断が下った。

「イーゴル、後のことはあたし達でしておくから、フィグについててあげて」

 サンドラはそりに横たえられたフィグネリアに毛布をかけて、馬車や馬に視線をやる。

「おお、御者はやはり助からなかったか。まずは馬の下から出してやらねばな。……神官様、お願いします」

 イーゴルが兵達と共に馬を持ち上げて移動し、神官に弔いの祈りを乞う。

「あ、狼が食べなかったから、馬は動物が食べないように処理した方がいいわ」

 馬は解体して森に供物として差し出すかと話題が出たとき、サンドラがそう言うと神官以外がぎょっとした顔で彼女を見た。

「サンドラも、よく無事でいてくれた。戦ったのか?」

 イーゴルが神妙な顔で言うのに、サンドラは首を横に振って自分には興味を示さずに狼の群が去って行ったことを告げる。

「ここの狼の頭はこの森の王です。禁足地に入りこまないかぎりは人を襲いません。しかし、この状態の馬に口をつけなかったということは何らかの穢れがあったからでしょう。できればここでこれ以上血を流さずにお持ち帰りいただきたい」

 解体せずにこのまま馬をここから運んでほしいという神官の言葉に、異議を唱える者はいなかった。

「イーゴル早いところフィグを暖かい神殿に連れて行ってあげて」

「いや、サンドラも一緒だ。一度休んだ方がいい。……あそこから降りて、フィグネリアについていてくれたのだからな」

 イーゴルが崖の上を見上げると、兵達も大きくうなずいて休んでくれと言うのでサンドラはこの場は任せることにしたのだった。


***

 

 皇帝、エドゥアルトはフィグネリアの無事の報告を受けて、安堵の息をもらす。

「……御者は死んだか」

 フィグネリアの護衛についていた兵の話では突然馬が暴れ出した時、御者は手綱を離すことなく馬を制御しようとしていたということだ。職務を全うしようとしていたのか、崖下に誘導したのかはこのまま不明だろう。

 その後も側近から逐次報告が上がってきて、ただの事故ではないだろうとエドゥアルトは結論づける。

「どうされます?」

「……表向きには事故ですます。背後関係は徹底的に調べ上げろ」

 フィグネリア自らにも調査を手伝わせることも考えたものの、年齢を考えればまだ早い。似たようなことが続けば、対処を学ばさねばならないが様子見だ。

 側近が執務室を去りひとりになったエドゥアルトは、全身の血が凍り付く感覚に囚われて唇を噛む。

 もう十年だ。フィグネリアの成長を見ながら、時間の流れを確かに感じているというのにふとした瞬間にフィグネリアが産まれた日へと記憶が引き戻される。

 難産の末にフィグネリアの母親は娘の産声を聞いて間もなく息を引き取った。

 娘の誕生の喜びどころか、突然の喪失の哀しみさえ感じられないほどに呆然と立ち尽くした瞬間がついさっきのことにすら思えて目眩がする。

 フィグネリアまで失ったら、何を支えにしてこの治世を続ければいいいのだろうか。

 エドゥアルトは深く息を吸って、自分自身を落ち着かせる。

 過ぎたことだ。今、大事なのはフィグネリアの先だ。

 難題だったイーゴルの結婚は最善の形で片付いた。イーゴル自身に帝位に執着がないならば、少なくとも兄妹で揉めることはない。

「もう少し、フィグネリアには欲を持ってもらわねばな」

 ただ、フィグネリアもまた玉座に興味がないのは、兄妹仲が良好でありすぎるせいでもある。

 アドロフ公の生きている内は、あまり野心を見せるわけにもいかないので難しいところだ。

「……警護の見直しからか」

 課題は山積みであるものの、まずはフィグネリアの身を護ることが第一だ。

 今回の件は失敗した以上、大きな動きはないだろう。そもそも今の時点でフィグネリアに刺客を向けるのは気が早すぎる。手柄を焦った者の仕業だろう。

 とはいえ政でのフィグネリアの表立った動きが増えれば、やがては排斥しようとする者も増えていく。

 いくらか釘は打たねばなるまい。

 それからフィグネリアの転落は、馬が毒草をあやまって口にした不運な事故として処理された。御者の家族には見舞金を皇帝自らが渡し、二月後には九公家に与する下級貴族の当主が落馬によって大怪我を負ったが、よくある事故として人々の話題にのぼることすらなかった。


***


 転落事故から二十日余り。

 フィグネリアは右腕が使えない不便さにも慣れてきていた。

 神官から睡眠と食事はしっかりとることが怪我の治りを早めると言われため、勉学の時間は減っている。その分、父以外の家族と過ごす時間が増えた。

 体術や馬術ができない分、体力を衰えさせないために散歩をするときはリリアやイーゴル、サンドラが一緒のことが多い。

(リリアも母上にも心配させてしまったな)

 神殿に一晩泊まった翌日、昼頃には熱もひくとイーゴルとリリアばかりかオリガまで迎えに来た。

 リリアは折れた右腕を見て泣き出し、オリガも瞳に涙を滲ませて今にも卒倒しそうだった。どうやら父の判断でふたりには無事救出されたと分かるまで事故を伏せていたようだ。

 父の判断はいつも正しい。だけれども、引っかかりを覚えることもある。

 今日もいくつかの直轄領の中からどれか好きな所の管理をするように言われた。候補になくとも興味を引かれる場所があるならそれでもいいと。

 どこもそれぞれに厄介な難題や大規模事業を抱えているところだ。荷が重い上に、明らかに兄の抱えている領地よりも重要度が高い。

 イーゴルの管理する領地は幾つかあるが、どれも大きな問題もなく月に一回、有能な代官の報告に目を通すぐらいですむ。皇太子自らが失態を冒すことはない。裏を返せば成果を期待されることもないということだ。

(確かに兄上ご自身、政務は不得手と自覚されているが……)

 果たしてこれでよいのだろうかと思うことは、ここ最近増えるばかりだ。

「フィグ!」

 物思いにふけりながら自室へ続く長い廊下を歩いていると、部屋の前にいたサンドラが声をかけられる。

「あ、申し訳ありません。お待たせしました」

 フィグネリアはサンドラの元へ駆け足で向かう。

 サンドラはさっき来たばかりだと笑ってくれて、フィグネリアは彼女を自室に招き入れる。

 部屋は書斎と寝室が二間続きになっていて、入り口である書斎には普段使っている机よりも一回り大きな机と椅子がふたつ並べて置いてある。

「イーゴル達が戻ってくるまであとちょっとね」

「そうですね。予定通りなら明後日の日暮れ前にはお戻りになりますね」

 今、イーゴルとリリア、それからオリガはアドロフ公家にいる。年に一度アドルフ公領の冬薔薇が咲く頃にオリガは帰省していた。ただ今年はフィグネリアが長旅は難しいから中止にすると、オリガ自身が言い出した。

 帰省の時に子供全員を連れて行くということは、普段あまり強い主張をしないオリガの唯一のこだわりでもあった。アドロフ公家にフィグネリアのことをイーゴルやリリアと分け隔てなく接してほしいと願っている。

 しかし、毎年上手く行かずに義母が落胆するのを見てはフィグネリア胸が痛んだ。

 あまり頻繁に長旅をできるほど丈夫でないオリガは、いつ年に一度の帰省ができなくなるかもわからない。

 最終的に一緒に行くはずだったサンドラがフィグネリアがゆっくり休めるよう、そして寂しくないように王宮に残ることと、日程を短くすることでやっと納得したオリガはイーゴルとリリアだけ連れて帰省した。

 正直なところ自分だけ行かない理由が出来てほっとしている。声が大きいだけで感情は全て表に出すマラットは怖くないが、心の底が見えないアドロフ公は視線を向けられるだけで身が竦む。そうしてオリガの困った顔を見るのが一番辛い。

「あたしの代筆仕事もそれまでね」

「リリアが飽きてしまえば、引き続きサンドラ様にお願いするかと」

 フィグネリアは利き腕が使えないので、領地の代官とのやりとりの書面を代筆してもらっている。父からは信頼できそうな者を選ぶ課題は、どうしても手伝いたいというリリアの懇願に負けてしまった。

 父はそれもひとつの手だと面白がっていたものの、勉強嫌いのリリアはすぐに飽きてしまうだろうとフィグネリアはふんでいた。だがその予想は外れた。

「ここまでやったら最後までやるんじゃないかしら。文章の意味はさっぱりわからなくても、役に立ってるのが嬉しいもの」

「そういうものですか」

「そうよ。あたしも内容は難しくてよくわからないんだけど、フィグのためにやれることがあるのはいいことよ」

 リリアもあともう少しすれば領地を任せられるし、サンドラは皇太子妃として内容を多少でも理解してもらればよいのだが。

 そんな考えもちらつきながらも、フィグネリアはゆっくりと代筆の内容をサンドラに伝える。

 サンドラの字は柔らかくて素直だ。

 彼女自身の気質そのもので、やはりそういうところもイーゴルと似ている。それに、リリアにも。

「フィグ、あたし、何か間違っちゃった……?」

 書き終わってからも、フィグネリアが何も言わないのでサンドラが不安そうにする。

「いえ、サンドラ様の字は、よいなと思って」

 とっさに口をついた言葉にフィグネリアは動揺する。

 字ではなく、サンドラ自身に対してそう思っていた。兄や妹に似た所を好ましく思うと同時に、羨ましくもあった。

「え、そう? ええ。字、褒められたの初めてだわ」

 照れくさそうにしながらも、嬉しそうに口元を緩めるサンドラに、フィグネリアも釣られて笑顔になる。

 皇太子であるイーゴルの立場の形骸化に不安はあるが、兄が兄らしく幸せでいられる伴侶はサンドラ以外にいないのはとっくにわかっている。

 ただ、自分の居場所がなくなってしまうのでは少し怖くもあったのだ。

 サンドラはあっという間に家族の一員になって、イーゴルとリリアと一緒にいる時間も自分よりずっと長い。自分がいたはずの場所に、自分よりも兄と妹に似たサンドラがいる気がした。

 だけれどそんなことはなくちゃんと居場所はあって、そこに上手く入れないのは自分自身の問題なのだ。

 その問題解決はとても難しいが、幸せそうな兄達を見ていることに不安や畏れよりも安堵の方がこの頃は大きい。

(私には私の役目がある)

 今の自分にできるのは、兄達が幸せであれる環境をつくるために政を学ぶことだ。

 そのためにももっと勉強をしなければとフィグネリアは決意を固めるのであった。


***


 予定通りイーゴル達が戻ってきた報せを受けたサンドラは、フィグネリアと一緒に迎えに出た。

 皇后は長旅で疲れきっていてすぐに自室で休養することになり、気を利かせたリリアがフィグネリアを引っ張って皇帝の元へと行ったのですぐにイーゴルとふたりきりとなった。

「フィグネリアは元気そうだな。変わったことはなかったか?」

 イーゴルがフィグネリアの顔色のよさに微笑む。

「うん。しっかり休んでちゃんと食べてるわ。怪我もあと五日後に様子を見て大丈夫そうなら固定具を外していいって。あ、この頃笑ってくれること、増えたかな」

 以前は自分とふたりきりでいると困ったりかしこまったりしている表情が多かったフィグネリアも、最近は穏やかな雰囲気で時々笑顔も浮かべるようになった。

「そうか。やはり休養は必要だな。……サンドラ、すまないがしばらく母上の手伝いを頼めないだろうか。やはり、以前より体力が落ちてしまってな、向こうでもあまり外にお出にならなかったのだ」

「すごくお疲れだったものね。ゆっくり休んでいただかないと」

 オリガが今にも倒れそうでイーゴルに支えられていたのを思い返し、去年はここまでではなかったのにと少し不安になる。

「フィグネリアのこともあったからご心労もあるやもしれん。フィグネリアがあのとおり元気であるなら、母上もじきにお元気になられるだろう。少しの間だが少々大変かもしれんが、頼む」

 奥向きのことはそれほど急いで覚えなくてもいいと皇帝からは言われてはいるが、奥向きの細々とした采配はいずれやらねばならない。オリガの大きな仕事であるアドロフ公家と繋がりの深い貴族達との交流は無理だとしても、自分がやれることを増やせるなら増やしたい。

「家族だもの。お互い助け合っていかないとよね」

「そうだな。皆で力をあわせればなんということもない」

 森での暮らしとは全然違うけれど家族一緒に力を合わせることには変わりない。

 サンドラはずっとこの先もこうやってイーゴルと共にに歩んでいけることを、幸せに思うのだった。

 

 

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