第7話 中型トロール戦

 そも神話を准えれば、ラグナロクで全ての神は死んでいない。

 オーディンの息子たち、ヴィダールとヴァリ、バルドルとその盲目の弟。

 雷神トールの息子モグニとマグニ、更にオーディンの友ヘーニルは生き残る。

 人間もわずか二名だが、生き残った。

 しかも、ユグドラシルの根元で死体を漁っている、死の竜ニーズホッグも生きているという話だ。


「でも、たったそれだけしか生き残っていない。広大な野原が広がっているという話しか伝わっていない。本当にあるのかねー」

「真面目に前を歩いてくれる?あと、僕の方を見たら殺すから。」


 僕っ娘は復活したらしい。しかも昨日と変わらず、四人とも俺を睨んでいる。

 いや、昨日よりも機嫌が悪そうに見える。


「あの。お酒を飲んでみたらどうですか?ほら、俺の前の仲間も……」

「ラッシュ殿。我々が酒の力がないから臆していると?」

「いや。そういう意味じゃなくて……」

「あら。それならどういう意味ですの?私たちがアルコール中毒者に見えるとでも?」


 はい!そうなんじゃないかと思います。

 なんて、言えるわけがない。

 今朝、ドワーフの皆様に水と食料とレザーシリーズ一式を借り受けたとはいえ、彼らの装備とは雲泥の差。

 逆らってはいけない相手だし、やはり彼女を見ると震えそうになるのだ。


「お、俺頑張りますから‼えっと、今日は打って変わって東向きに行軍。ビフレストの残骸か何かを見つけるのが目的。あとは……」


 事実を知らない俺は、勇敢さを示さなければクビになると思っている。

 それに彼らの目的も、他の冒険者と変わらずアースガルドの発見だと考えている。

 確かに神が生き残っているのだから、アースガルドは健在かもしれない。


「大破はしているんだろうけど。ミズガルズが大草原になったとして、アースガルドがどうなったか、なんて俺は知らないぞ。……でも、ギャランホルン吹きのヘイムダールは巨人でもあり神でもあるロキと相打ちになった」

「ごちゃごちゃ言ってねぇで、どんどん進めっての‼俺達はビバーク装備は持ってねぇんだからな」

「分かってますって‼だったら、ちゃんと俺のカバーしてくださいよ‼」


 俺なんかが考える必要はない。それくらいは常識で、だからこそアースガルドの遺産を探しているのだ。

 だけど、俺の目の前には巨大な拳がある。

 咄嗟にレザーシールドで受け止めようとはしたけれど、人間の力では頑丈なソレはあっさりと砕けて、余剰すぎる力が俺を後ろに弾き飛ばした。


「あの程度で吹き飛ばされるって、本当に冒険者ですの?」

「ビルギット!」

「分かっております。アスラウグ様……」


【戦乙女の祈り】


 桃色髪の少女の手から発せられた光が、血塗れになった俺を包み込んだ。

 成程、彼女は魔法使い。というより、やはりワルキューレか?

 上手く、力を逃がしたつもりだったが、吹き飛ばされた後のことは考えてなかった。


「すみません。……でも」

「でも、も何もありません。ほら、貴方が先頭に行かなくてはならないのでしょう?」


 一先ずの傷が塞がっていく。

 でも、ではない?そんな馬鹿な。

 どうしてアースガルドを探しているのに、昨日より巨大なトロールがいる?

 ヨトゥンヘイムはミズガルズを取り囲むように存在している。

 確かに、どの方向に行っても巨人と出会う可能性はあるのだけれど。


「報酬は新鮮な水がある生活だ。そんな場所、何年掛けても手にできない。」


 自分に言い聞かせる。だが、実際そうなのだ。

 雨を溜めればよい?それくらいのことは既にやった。雨さえも汚染されていて、盛大に腹を壊したんだから、駄目なのだ。


 ラグナロク後の世界。神の目線の穏やかな草原は、酒がなければ生きていけない世界だったらしい。

 つまり、俺にとっては穏やかでも何でもない世界だ。


「アスラウグ様、約束果たしてもらいますよ。」

「君、後ろを見るなって僕、言ったよね?」


 彼女の家来が何かを言っているがそれは無視、アスラウグは静かに頷いたから俺は俺の為に命を賭ける。

 何mあるか分からない巨人に向かって、投石をした後に突っ走る。

 人語を解さない巨人が本当にヨトゥンヘイムの生き物かは知らない。

 だが、突っ走る。


「俺には何もないからな。家も家族も。今日くらい命賭け……、いやいつもいつも命は賭けてんだよ‼」


 ハイリスク・ローリターンの毎日。奴隷制度がないだけマシと思えといつも言われる。

 そして、酒が飲めなければ金がかかり、上司との酒を酌み交わさなければ、出世なんて一生できない世界。


 戦い方はもう分かっている。トロールを一刀両断するアスラウグの真似は出来なくとも、あの男二人の真似くらいは出来る。

 要は、巨人の体を駆け上がって、柔らかそうな部分を一突きすれば良い。


「こいつ、さっきの投石で顔を守ってやがるな。ま、それが狙いだったんだけど……」


 腿から生えた剛毛を掴み、そこから頭に向かって登っていく。

 剛毛のお蔭で登りやすいが、逆に言えばそこは剛毛で守られているということ。

 とにかく、上へ。目を突くのが理想。首筋辺りで脈動を感じたら、そこを突いてみるのもアリだろう。

 振り払われないように、巨人の腕に注意をして。

 素早く登れば、俺にだって……


 だが、ここで俺の体は動きを止めてしまった。しかも、トロールや他の誰かに止められた訳ではなく、俺が俺の動きを止めたんだ。


「あれ……、この匂い。前よりも更に増して……」

「馬鹿野郎!止まってんじゃねぇよ‼」


 そう。あの甘い香りがトロールからした気がしたんだ。

 だから俺はつい意識を持っていかれてしまった。


「何してんのよ!早くそいつから離れて‼」

「ラッシュ‼」


 聞こえている。でも、動けない。

 自分が置かれた状況を忘れてしまう香り。考える力を失わせると言った方が良いか。


「オアアアアアアアアアアア‼」


 突然の咆哮と共にトロールの全身が揺れる。俺はその体毛にしがみ付くことしかできなかった。

 そして直後、臓腑が飛び出そうになるほどの圧迫が全身に襲い掛かった。


「か……は……」


 息をすることも封じられて、仲間かはさておき、同行者に救いの手を差し出すことも出来ないまま。

 俺の視界が360度、いやそれ以上に目まぐるしく変わっていく。

 走馬灯と呼ぶには速すぎるほどの勢いで、木々が視界を通り過ぎる。

 そして遠心力のせいかは分からないが、視界がだんだん暗くなっていく。


 気の緩み。目の前にぶら下げられた清らかな水があふれる生活。

 いや、そんなことよりも。

 なんて芳しい……。死んでもいいと思えるほどの甘い香りは一体……


「小僧‼意識を保て‼今すぐ——」


 彼女がシグルスとブリュンヒルデの子孫というのは、おそらく正しい。

 何故かは分からないけれど、最初から俺には分かっていた、……気がする。

 アスラウグの声と共に、視界の移動はほぼ収まった。潰されそうな圧迫は続いているけれど。


隻眼神の切龍剣グラム・ブレード


 高速の斬撃、グラムの模造刀とは思えない程の威力。

 だがその瞬間、俺の視界は空を映し出していた。


「グガァァァァァァァァァァ‼」


 化け物はその瞬間、違う種類の咆哮を上げた。

 だが、トロールの手は緩んではいない。


「どうでもいいけど。早くそこから逃げなさい。そのまま潰されるますわよ」


 正直な話、助けようとしてくれているアスラウグ隊の声を理解できるほど、俺自身は助かっていなかった。

 あぁ、死んだな。としか考えていない。走馬灯を見るほど思い出もないな、と考えるほどに達観していた。

 元々、俺には向いていない世界だった。だったら、英雄様のパーティで戦死した方が。


「……いや、駄目だ。なんとか——」


 突然、我に返った俺は、どうにか生きようと頑張ろうした。

 無意識にトロールの手を掻い潜り……、いや違うか。

 化け物が受け身を取ろうとして、手を開いただけで、俺自身の状況は1mmも変わっていなかった。


「こいつ!俺のことを忘れて、俺ごと両手を地面に……」


 圧迫が解け、どうにか手繰り寄せた思考はどうにか現状を理解させた。

 怪物の全体重の半分が俺にのしかかるという絶望的な現状だったけれど。


「助け……」


 一瞬だけ見えた。

 もう、五人は俺を助けようとはしていなかった。

 間違いなく、俺が逆の立場ならそうする。昨日会ったばかりのどこの馬の骨かも分からない男が、彼自身の勇み足で死のうとしている。

 そんなの放っておいて、確実に大型トロールを倒すことに専念するべきだ。


 俺があっち側にいたなら……

 何を言っている。俺は人生で一度だってあっち側に立ったことないのに。


 そして俺はトロールごと、地面に叩きつけられた。


 あぁ、分かっている。全てが潰されて即死で終わり。苦しさなんて1mmも。


 だけど、最後に俺が考えていたことは、俺の死とは全く関係ないことだった。


 ——このトロールからはあの匂いがしない

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