第8話 転落したラッシュ

 赤毛の女騎士はグラムもどきをゆっくり鞘に納め、僅かに肩を竦めた。

 彼女が片足を辛くも切り落としたことで、トロールは大転倒した。

 その下敷きになってしまったのが、酒を飲まない男。


「爺の妄言を信じてここまで来たが、どういうことだ?」


 気高い一族の生まれであるアスラウグ。オーディンの血族である王族。

 ただ歴史上、オーディンの血族は多数あるし、実はそれほどの意味はない。

 勿論、ただの人間の血筋とはそれでもかけ離れている。


「あれじゃないっすか。単にこいつではなかっただけ、とか。」

「僕もそう思う。アスラウグ様のお話、具体的な情報はなかったし。」


 彼も彼女も、家系的にはオーディンの一族だ。


「私はもっと高貴な男性を想像していました。ですので、彼ではないのですよ。」


 彼女もそう。王の親戚は基本的にはオーディンの家系だ。

 そして、ブリギットに仕える彼もオーディン系の家系かどうかで言えば、是である。


「畏れながら。王は酒を飲まないと仰られたのでは?飲まないと飲めないは異なります。」

「言葉の綾、というやつか。だが——」

「とにかく、アイツは下敷きのまま。地面が腐ってんのか、トロールが沈み始めている。ヨトゥンの成れの果てと一緒に大地に埋まっちまう。これ、引きあげるの面倒臭そうだな。」


 地面が腐っていたのか、それとも元々穴があったのか。

 天然の落とし穴と化した、落ち葉と泥の沼。底は浅いかもしれないが、深い可能性もある。

 頑張れば、ラッシュの遺体を持ち帰れるかもしれないし、もしかしたらまだ息があるかもしれない。


「僕、嫌だよ。ここに入ると汚れちゃう。」

「私もですわ。アスラウグ様は絶対にお入りになられぬよう。この臭いは洗ってもなかなかとれませんよ。」


 そこまでして引き上げるかどうか。既に8mくらいあるトロールも、その殆どが見えなくなっている。

 彼が高貴な生まれであれば、遺体を持って帰った方が良い。

 そうでなくとも、道義的には持ち帰るべきだが、彼の場合は別なのだ。


「あの者、家族はいないと申しておりました。このままユミルへと還るのが自然ではないでしょうか。」


 オーディンと二人の兄弟は巨人ユミルを殺して、その肉や骨、全てを使って世界を作った。

 神さえもユミルから生まれたのだから、家族はいなくともユミルは全ての父母も同然である。

 だから、このインゲルの言葉が決め手となった。


「……そうだな。引き摺り出す時間もない。一旦拠点に戻って、任務中に酒を飲まない男を探すぞ。」


     ◇


 街に居ても、畑に居ても、冒険に出ても、ずっと漂っている臭い。

 腐った臭いから逃れる術を俺は知らない。

 ついでに言うと、人がいる場所ではそこから更に酒のにおいが加わる。


 ヘルヘイムとどっちが居心地が良いのか分からない、なんて考えていた。

 勿論、ヘルヘイムには死なないといけないけれど。


「でも、ついに来てしまったってことだ。なーんだ。ヘルヘイムもミズガルズも大差ないじゃないか。真っ暗で何も見えないけど。」


 そもそも、俺が臭い。これが死人の臭いかもしれない。

 人間、いつかは死ぬ。それがさっきだったというだけの話だ。


「誤算だったのは、体の痛みが残ってるってとこか。死んだんだから、それはもう良いだろ。ヘルヘイムって言ったら、番犬ガルムと女王ヘル……か。いや、既にその世界も崩壊しているから……」


 遠くをよく見るとぼんやりと明るいところがあった。

 だから、あそこがヘルヘイムの門かと思ったが、そこで俺は足を止めた。

 全身からは肉が弾けるような痛みがあるし、ヘルヘイムの門は血塗れの犬・ガルムが守っていることで有名だった。


 だけど、それも崩壊前の話で、そもそもラグナロクの混乱の中で、ガルムは殺され、その後に悠々と門を通って蘇った神さえいる。


 それに、やっぱりアレ。


「甘い香りが漂っている?あれはヘルヘイムからミズガルズに漏れていたってこと……?」


 そんなガバガバだから、ミズガルズはどこもかしこも腐った臭いがしていたのかもしれない。

 だが、それならば好都合だ。


「ヘルヘイムに甘い水が溢れる魔法具があったってことじゃん。番犬もいないってことは俺が目指すはヘルヘイムだったってことだ。……え?死んだら勝ちだったってこと?なんだよ。必死で生きたのがバカみた……」


 この瞬間、俺は何故か殺気を感じた。死んでいるのに殺気?

 そんなことを考える間もなく、軋む体を前方へと転がした。

 そして直後に轟音が響き渡った。前方は少しだけ見えるが、周囲は漆黒。

 だから、何かは分からない。とにかく前へ、前へ。


「なんでだよ‼なんで、死んでるのに俺が……?……まさかぁ?」


 ユグドラシルの根元で死者を貪るドラゴン、ニードホッグ。

 あれはまだ生きていると神話が語る。

 終わった。死んだのに死んだ。


 ズゥゥゥゥン‼


 背後から大きな音がして大地が揺れる。

 死んだ後に食べられたら、どうなってしまうのか。そんなの神話では語られない。

 ヘルヘイムに落ちる時点で、神様から要らない子扱いをされているのだ。


「つまり俺は消える?も、もしかして永遠に食べられ続ける……とか?い、嫌だぁぁぁ‼」


 とにかく逃げるしかない。

 幸い、筋骨は軋むが体は動く。その状況も理解できないまま、死を超えた恐怖に背を向けて必死に走る。


「あぁ。逃げてやるよ―。結局、俺はエインヘリアルには成れなかったんだろ?でも、要らない子にだって生きる権利はあるんだよー‼言っている意味は分からんけど‼」


 そして何故か、逃げられる。

 一定のリズムで地響きはしているのに、未だの追い付かれていない。

 でも、知っている。

 こういうのは絶対に振り返っては駄目だ。

 ニードホッグがどんな見た目か知らないけど、死体を食うドラゴンなんて恐ろしいに決まっている。

 今で意識が飛びそうなのに、直接見たら絶対に気絶してしまう‼……死んでるけど‼


「絶対に嫌だ。絶対に……、は?どんどん速くなってきてない⁉」


 ドン……ドン……だった音が、ドンドンドンドンに変わっていた。

 ついに本気を出したか、ニーズホッグ。死体に新鮮とかあるか知らないが、きっとそうに違いない。


「駄目だ……。追いつかれ——」


 だが。


「……は⁉」


 俺を追いかけていた何かが、俺を追い越していった。

 しかも死の竜でもなんでもなく、さっき俺を突き落とした——


「トロールが何で⁉そうか、お前も死んだのか。ヨトゥン産もヘルヘイムに行くんだな……。ってか、あいつ。俺を追いかけてたんじゃなかったのか?」


 いつの間にかぼんやりとした光が大きくなっていて、片足を失ったトロールと俺を照らしていた。

 追われていなかったという安心感に茫然と立ち尽くす俺。だが、そこでついに日頃からあまり使っていない脳が動き始めた。


「そうか。こいつも死んだから、この甘い香りが漂っていたんだ……」


 つまりイノシシが山菜を背負ってヘルヘイムに来た、ということだ。

 いや、それは魔法具に失礼すぎる。イノシシの肉や山菜なんてものじゃあない。


「待て‼その魔法具を俺に寄越せ‼」


 どうしてトロールが魔法具を隠し持っていると思ったのか、正直分からない。

 どう見ても何も持たずに匍匐前進をしている大鬼だが、こいつのせいで俺は死んだのだ。

 だから俺は残った足によじ登って、背中の毛を掻き分けた。


「ヘルヘイムで死んだらどうなるか知らないけど、俺を殺したお前が悪い。大人しく、ソレをこっちに寄越せ‼」


 今までだったら躊躇したかもしれない。

 だけど、この時の俺は違っていた。何の躊躇いもなく、大鬼の首を後ろから掻き切った。

 いや、そんなスマートなもんじゃない。

 何故、武器を持っているかも考えずにトロールを刺しまくった。頭を何度も蹴りつけた。

 殺されたんだから、これくらいしてもいいだろう。だから、殺してこいつからアレを——


「くそ……、出てこない。もう……、喉がカラカラ……なのに……」


 そして、全てが無意味と知った俺は、そのまま意識を失ったんだ。

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