作者・千蘭 ポカリスェット賞:『この光景を待ち望んでいた』の感想

この光景を待ち望んでいた

作者 千蘭

https://kakuyomu.jp/works/16817139554898522969


 全中で同い年の影野泉樺に負けた朝霞蓮は、次こそ彼女に勝とうとするも中学最後の陸上大会はコロナにより中止、挫折しかけたが一年後の大会で彼女と再会し競い勝つ話。


 文章の書き方は目をつむる。

 思い出す人も多いだろう。

 新型コロナ対応に振り回され、辛い体験を乗り越えた様子が書かれている。

 自粛制限が解かれた現在、本作を読むと、すごく大変だっただろうなと、思いを強く馳せることができる。

 選ばれたことに意義のある作品だと感じた。


 主人公は朝霞蓮、一人称私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。描写より、主人公が実感した心情を吐露することで、世界観が描かれている。なので、読者は主人公の体験を追体験していく。


 男性神話、もしくは才能ある人物の挫折と成長の物語

 中高一貫校に通う朝霞蓮は中学二年生。陸上部に所属している。

 コーチや中学三年の先輩達、一番仲のいい菊島雅の影響を受けながら、独自の才能を感じさせつつも七月中旬の女子一〇〇メートル競争の自己ベストは12.55秒。八月下旬にある全中(全国大会)参加条件12.53秒以下には及ばず、タイムが伸び悩んでいた。焦る蓮は雅のはげましもあって、立ち直る。

 全中に行くには県大会で自己ベストを更新するしかない。結果は12.19秒と、自己ベストを大きく更新した。

 全中に行く三年生は部長の矢住先輩だけ。他の三年生は引退し、一時的な副部長に菊島雅が選ばれる中、全中(全国大会)当日を迎える。

 結果は12.31秒。県大会で出した自己ベストよりも遅かった。最後の走者で同い年の影野泉樺が12.20秒で走り、蓮は負けてしまう。泉樺に声をかけると、「私の優勝タイムよりあなたの自己ベストの方が速いでしょ。でも私が勝った」「全然、悔しがってるように見えないから」と言われてしまう。

 全力を出し切ったが、悔しくて仕方がない蓮は、影野さんに勝つために考えた練習メニューをこなしていく。そんな矢先、未知のウイルスが蔓延しはじめ、卒業式を迎える三月になると国内でも感染者がではじめ、休校となる。

 登校できるようになったのは五月から。部活動は制限され、中学最後の陸上大会が中止となってしまい、進むべき道を失う。

 高校一年になり、感染者減少から大会が開催されると発表される。

 久しぶりの走りは、予想通りタイムが下ちていた。練習をくり返して挑んだ全国大会で、再び影野泉樺と出会う。

 彼女と同じグループで走る蓮は、ライバルたちと全力で走れる唯一の場所に戻ってきた。

 コーチに止められるスレスレのメニューをこなし、泉樺に勝つために全力を出し切った結果、自己ベストを更新する11.65秒で一位となった。

「今年はあなたが勝ったね」

 影野泉樺に声をかけられながら、彼女をライバルと思い、これからも競い合って走り続けたい願うのだった。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場のはじまりでは、中高一貫校に通う中学二年生の朝霞蓮は、陸上部に所属し、大会前の朝練をしている。

 二場の主人公の目的では、八月下旬にある全国大会への参加は12.53秒以下が条件だが、七月中旬の自己ベストは12.55秒。タイムが伸びず、焦っていた。

 二幕三場の最初の課題では、話を聞いてくれた友人の雅から、考え過ぎ、悩むことないと励ましてくれる。何度救われてきたことかと、感謝しきれずにいる。

 四場の重い課題では、県大会当日に出場。結果は12.19。自己ベストを大きく更新した。

 五場の状況の再整備、転換点では、全中に行く三年生は部長の矢住やずみ先輩だけ。次の大会がない部長以外の三年生は引退するため、一時的な副部長を二年生から決めることになり、蓮の予想どおり菊島雅が選ばれる。

 六場の最大の課題では、全国大会当日。結果は12.31。優勝候補として注目されている同年学の影野泉樺は12・20。悔しさより羨ましさが出て自分自身に嫌気が差す。表彰台に行く途中、「影野さん。優勝おめでとう」声をかけると、「ありがとう。朝霞さんも、準優勝おめでとう」不快な表情を向けられる。自己ベストが速い蓮に自分は勝ったのに蓮自身が悔しがっているようにみえない、と言われてしまう。表彰台の写真は、二人共笑っていなかった。

 三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、凍てつきそうな寒空の下、影野さんに勝つために考えた練習メニューをこなしていると、新型コロナウイスルが蔓延。自粛制限から急行の処置が取られ、中学最後の陸上大会は未知の感染症によって中止となってしまう。何もやる気に慣れず、雅に心配されるほど落ち込んでしまう。

 高校一年となり、コーチから感染症が落ち着いてきたため、状況が維持されれば大会は開催されると発表される。影野と勝負できるかもしれないと思うと、ひさしぶりに胸が高鳴る。今までできなかった分の練習に励んだ。 

 八場のエピローグでは、全国大会に出場し、影野と同じグループで走る。一位は朝霞蓮11.65。二位は影野泉樺11.74。蓮は泣き、駆け寄てきた雅におめでとうと言われながら大丈夫か心配される。これは汗だからと強がってみせる。

「朝霞さん、おめでとう。今年はあなたが勝ったね」と影野にいわれる。蓮は彼女を好敵手、ずっと競い合っていたい最高の相手だと思う。大学に行ってからも、大人になってからも、何度でも走り続けていたいと願う。


 新型コロナウイスルにより、休校や部活動の制限、活動の自粛に伴い大会中止となった現実を実体験している高校生が、作品を描いているところに、現実味をも強く感じ取れるところが作品をより良くしている点だろう。


 起承転結の四つに分けるなら、「陸上部に所属する主人公の日常、県大会で自己ベストを出す話」「全中に出場し、自己ベストではなかったものの、同年代の子に負けたことで、来年こそはと練習する話」「新型コロナウイルスが蔓延し、休校や部活動の制限、大会中止となる話」「一年後、大会が開催されライバルたちと再び競い合って自己ベストを出して一位となる話」となる。


 書き出しが良い。

 書き出しは小説の玄関といわれ、数行を読んだだけで、読者は読むかどうかを決めるという。

 本作は、主人公の心情からはじまっている。

 練習メニューを思い出して「うげぇと顔を顰め」るのが面白い。

 しかめる表現だけで、大会前だからきついメニューなのが想像できるし、やりたくない主人公の気持ちまでみえてくる。

 気持ちが沈むから「さっきより重くなった足」になり、かといって逃げ帰ろうともせずに「必死に動かしながら、いつのまにか目線の先に現れた学校を目指し」て学校へ急いでいく。

 主人公は、弱気になるけど真面目でがんばり屋として書かれているのがわかる。


 主人公が所属する陸上部には朝練があり、活動場所は「朝の冷たい空気がただようグランド」と説明している。

 加えて、「朝早くに起きて学校に来ただけでも褒められるべきことなのに……。夏と呼ばれる季節になったとはいえ、朝はまだ冷える。そんな中で走らないといけないなんて」と感想が添えられている。

 おかげで「夏なのに朝は冷えるんだ」と、体験したものでないとわからないことが読者にもわかりやすく伝わる。

 しかも、作品の季節が夏という情報もさり気なく伝えている。

 七月中旬で朝が冷えるのは、標高が高いところか北海道など地域が限られる気がする。


 現代ドラマで中学生の日常だから、平凡に書くと退屈になってしまい面白くなくなるのでスパイス、工夫がいる。

 それが、雅の存在だろう。

 他の登場人物と比較すればよくわかる。澪音の外見描写はよくわからない。部長やコーチも人物描写はとくにない。

 たしかに菊島雅の外見描写はないが、主人公より背が低くて「小動物みたいに小さくて可愛い」と比喩で表現されている。

 小柄で、じっとしていることが少なくてチョロチョロと動く、幼い子供に似たところがあるのかもしれない。

 別の言い方をすれば、愛すべきキャラクターとして書かれている。

 テレビ業界では、視聴率が欲しければ動物か子供を出せばいいと言われる。小さな子供たちや動物の、笑いあり涙ありの純粋な行動に心を動かされるから。

 ディズニー映画をはじめ人気アニメには、かわいい動物キャラクターが登場しているし、ドラえもんもそうだし、ポケモンもプリキュアもそう。

 主人公にとって友達の雅は、動物キャラクターと同じように、励ましてくれたり心配してくれたり、ときに相談にも乗ってくれる無くてはならない存在として書かれているところに読み手側も、頑張る主人公を応援したくなる気持ちが働いてくる。


 影野泉樺の描写は他の登場人物とは違っていて、「綺麗なフォーム。軽やかに動く足。私には無いものばかり」と、彼女の走る姿が描かれている。

 本作では、ライバルの影野泉樺と新型コロナウイルスによる大会中止と一年後の大会っでの決着なので、影野泉樺はライバルキャラとして描かれているのも特徴。


「私の優勝タイムよりあなたの自己ベストの方が速いでしょ。でも私が勝った」と影野泉樺が主人公に言ったのは、ライバル視してることを宣言していると同じだろう。

 彼女としては、主人公の自己ベストを上回って、はじめて勝ったといえるのだ。

 そのためにも「全力で走ってよね」と怒ってるのかもしれない。

 主人公としては、全力で走ったのにと思っている。

 だけど、自己ベストはもっと速いから、主人公は過去の自分と競わなくてはならない。


 読んでいると、中学生だったときに同級生から「全力を出し切って勝たないと嬉しくない」といわれたことがあるのを思い出す。

 ただ勝てばいいわけではない。自分が全力を出すのはもちろんだけど、相手も全力を出してもらわなくては納得いかないそうだ。

 互いが全力を出し合って優劣を決めるからこそ、競うことに意味がある。そんなことを言われたことが頭に浮かんできた。


 余談だが、二〇一九年の全日本中学陸上で女子一〇〇メートル走決勝のタイムは松戸第五中三年のハッサン ナワールさんの11.94秒。ちなみに二位は江差中三年の佐藤志保里さんの12.19秒。

 中学二年の影野泉樺が12.20秒で走ったのは、二年生としては速く、それだけ実力があるのがわかる。

 二〇二一年の全国高校総体陸上女子一〇〇メートル走決勝のタイムは佐賀北高校三年の永石小雪さんが11.65秒。二位が倉吉東高校三年の角良子さんの11.73秒。

 主人公たちは、一年生で似たタイムを出しているので、実力があってすごいなと思う。


「中学時代の一年って大きいと思う」

 おっしゃるとおり、大きいのだ。

 小学時代も高校時代も、いつだって大きい。大きいけれども、小学生は六年間と長いので、なんとなく過ぎてしまう。だけど中学になると、半分の三年間しかない。しかも勉強は増えるし受験もある。

 あっという間に過ぎていく感覚をはじめておぼえるので、より、一年は重要に感じる。

 そもそも、楽しい若い時間は、一生に一度しかない。

 子供のときの一年は、どんな金銀財宝よりも遥かに貴重である。


 新型コロナウイルスにより自粛や中止になった話が書かれている。

 話題になったからだけでなく、陸上部に所属する主人公が自己ベストを出せずに同い年の影野泉樺に負け、次こそ彼女に勝つと励む中でコロナが広まり、中学最後の大会が中止となって挫折したことを描くためだ。

 大人は言う。

「次こそ頑張れ」と。

 でも中学最後の大会は一度しかない。

 十代ですら人生において一度きり。やり直しは効かない。人生に次がない。あるのは同じ時間の流れの中で、くり返される行事や競技だけ。しかも本人の責任とは関係ないところで中止にさせられることがあることを、本作では描かれている。

 時間や回数が決められている試合なら、気持ちを切り替えるために「次」と口にできる。が、一瞬一瞬を無駄にせず全力で挑み続けている者にとって、「次頑張れば」なんて考えはない。

 競技者は、自分の失態が即、結果に現れることを体感して知っているから、言い訳せずに努力する。

 でもウイルス蔓延による休校や中止に追い込まれた責任は、十代には決してないのだ。


「実際、私が泣くところを見たお母さんは、『まだ次があるから』としか言わなかった。次? あるわけないでしょ。中高合わせて五回しかない大舞台なの。その一回一回に全てをかけてるの。こんなこと慰めてくれているお母さんに言えるわけがなくって、全部、全部飲みこんだ」この辺りに現実味を感じる。

 大人になると、代わり映えしない毎日だから、軽々しく「次」なんて思ってしまうかもしれない。しれないけど、娘の成長を見ていたら、もう一度中学三年生を過ごすなんて思わないはず。

「まだ次があるから」の言葉は、慰めなのだ。

 泣いてぐずっている子供に、「今度買ってあげるから」みたいな言い回しで泣き止ませようとする方法の一つと変わらない。

 本音をいえば、「諦めろ」といっている。

 覆水盆に返らず、起こったことはやり直せない。

 中学三年生の大会はなくなって残念だけれども、文句を言っても戻ってこないから高校生の大会を頑張ろうと、主人公の母親はいいたかったのかもしれない。

 ひと言でいいくるめてしまおうとせず、子供の気持ちを聞いてあげたら良かっただろう。

 親も人なので、子供の知らないところで親なりに苦労していることもいっぱいあって余裕がなかったのだと思う。親もコロナ禍を生きているのだから、次がないのは同じなのだ。


 主人公は、母親の慰めを聞いて、飲み込んでしまっている。

 高校一年とはいえ、まだ子供が通用する年齢。

「次なんてないんだ」とみっともなく、エゴむき出して泣きじゃくってわがままを言っても良かった。

 そうすれば、その悔しさをバネにして一年のブランクを払拭するほどの練習を打ち込んだから、大会で自己ベストを出して一になった理由付けにもできたはず。

 でも、作者はそう書いていない。

 初めからラストまで、主人公は弱気になるけど真面目でがんばり屋な性格を貫き通して描いている。

 主人公が変わらずに書かれたものを少女小説という。

 変わらない主人公を描くことで、世の中が変わったことを伝えたいから、この書き方をしたのかもしれない。


 主人公が一度目の全国大会で優勝できなかったのは、目標設定に問題があったからだ。

 全国大会に出場するために自己ベスト更新に励んで練習してきたため、念願かなって出場した瞬間、目標が達成されてしまった。だから決勝で一位の影野泉樺に対して、悔しいより羨ましく思ってしまう。なぜなら、一位になる目標を持っていなかったから。

 二度目の大会は、はじめからライバルの彼女に勝つために練習していている。全国大会に出るのは目標ではなく通過点になっていた。

 コロナ禍の状況は物語の舞台設定に過ぎず、大事なのはどこに目標設定して励むか、その姿を描くことにあった。

 特別な環境での話ではなく、誰にでも起こりうる普遍的な内容を描いている点が、選ばれた理由かもしれない。

 人生はやり直しが効く、といわれることがある。

 半分は正しく、半分は嘘である。

 過ぎては戻らない今を生き、今日と同じ日は一日としてない。

 でも、若いうちの失敗は、どこに誤りがあり、どうすれば改善できるのか、トライアンドエラーができる。本作のように、挽回のチャンスが残されていればやり直しが効く。

 だからといって、何度も用意されているわけではない。

 そのためにも、どこに目標設定を置くのかが重要になってくる。

 かなわないような、だいそれた目標を人生の命題に設定し、そこへ至る大目標、中目標、小目標を作って、一つ一つクリアして突き進んでいけば、上手く言っても行かなくても、達成感と自身を積み重ねることができ、自分が決めた大きな目標にむかって突き進んでいけるだろう。


 コロナ禍の自粛で、何のために頑張ってきたのかと塞ぎ込む姿がもっと描写されていたら、大会開催を迎えた時のよろこびや待ち望んでいた光景をみたときの帰ってきた感が出せたのではと、考える。


「こうやって一位、二位争いが出来るのは楽しい。ずっとずっと競い合っていたいって願える、最高の相手だ。あと一回? 大学に行ってからも? もしかしたら大人になってからも? 何度でも何度でも、私は、走り続けていたい」ラストの主人公の言葉は、実に現実味がある。

 スポーツにかぎらず競っていると、大会で必ず同年代の子と再会する。あの子さえいなければ楽に自分が優勝できるのに、と目の上のたんこぶのような好敵手は、やめない限り必ず顔を合わす。

 競技が終わっても、たとえば結婚したり、子供が生まれたり、子供同士で競ったりするかもしれない。競い続けるのはともかく、互いに高め合っていける仲間のような存在に出会えることは、生きがいになるだろう。

 そんな出会いの場も、自粛や中止をされると断たれてしまう。


 読後にタイトルを見て、コロナ禍にあって、待ち望んでいた光景がそれぞれの人にあっただろうと思いを馳せると感慨深くなる。

 全国大会に出ることだけでもすごいことで、自分も自己ベストを出して選ばれなくてはいけないし、相手もそう。しかも、望む形で優勝した。優勝した人にしかみえない景色もあっただろう。

 いろんな思いが層になってみえた景色に違いない。

 コロナにしろ戦争にしろ、本人たちとは関係ない力によって出会いや繋がりを断たれたりしない世界であることを、強く切に願う。

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