2020年
ショートストーリー部門
作者・朔(ついたち) 大賞:『たんぽぽ娘』の感想
たんぽぽ娘
作者 朔(ついたち)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054921648523
四年一組の仲間たちが十年後、二分の一成人式で埋めたタイムカプセルを掘り返す中、亡き友・白木蓮を想う蒲公英の話。
誤字等は気にしない。
ちょっとしたミステリーを含んだ恋愛もの。
恋愛とも呼べないかもしれないけれども、あのとき感じていた気持ちに気づけた嬉しさは、すぐ物悲しさと混ざりあって、なんともいえない優しさと寂しさに包まれる。
主人公は、二十歳の蒲公英(カバキミエ)。一人称、あたしで書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。
現在→過去→未来の順番で書かれている。
恋愛要素があるので「出会い→深め合い→不安→トラブル→ライバル→別れ→結末」の流れに準じている。
女性神話の中心軌道に沿って書かれている。
真田町に暮らす主人公の蒲キミエは、真田小の四年一組に所属していた。みんなから「カバちゃん」と呼ばれていたが、白木蓮だけは「キミエちゃん」と呼んでいる。
白木家は町一番のお金持ちで、田畑はぜんぶ白木の祖父のものであり、真田小学校の土地もかつてはそうだった。また、真田町の町長もしていたため、白木家には誰も逆らえなかった。
そんな白木蓮は小学三年生の問にお別れ会でショパンの『別れの曲』が弾き、勉強もでき、漢字は得意だった。が、病気になり学校を休んでいた。
担任の五十嵐先生に頼まれて「お便り」と「宿題」のプリントを届けに今日も尋ねる。お手伝いさんが用意してくれた栗羊羹を食べる姿に、元気があるなら学校に来なよと唇を尖らせる。彼は目を細めてふふっと笑う。
来る途中でクラスで一番美人の愛子と会ったことを話すも彼との会話は弾まない。花に喩えるなら水仙だという彼。クラスの前田えみりはどうかと尋ねると、スズランと返事。玄関先まで見送ってくれたとき、だったら自分はと聞けば「キミエはキミエちゃんだよ」といわれる。蓮はハスの花なのか聞くと、庭木の白い花をつけた木蓮の木を見て、名前通りでいいんじゃないかと答える。「飛べない鳥の羽ばたきみたいに見えるでしょう?」
帰り道、蓮の弾く『別れの曲』が遠く細く聞こえた。
数日後、ないとし十一月に行われている「二分の一成人式」の日程が早まり、急遽五月に開催されることとなる。噂では老い先短い蓮の祖父から出たワガママらしい。合唱や合奏、劇や研究発表などの式典準備や教室に展示する「名前の由来」の作文や「十年後の自分」に宛てた手紙を書いたり、タイムカプセルに入れる宝物を選んだり忙しく日々が過ぎた。
十年後。タイムカプセルを掘り返すため、今は既に廃校となった真田小学校に元担任の五十嵐先生はじめ、懐かしい四年一組の仲間たちが続々と集まる。
先生の地図を頼りに、真田町を一望に見渡せる斜面の中腹にある白井蓮の墓標の近くに埋められたタイムカプゼルを掘り起こす。みんなが自分の宝物を見つけていく中、キミエは小さなステンレスの茶筒を見つける。『僕の好きなもの、白木蓮』と書かれてあり、開けるとたんぽぽの白い綿毛がひしめき合っていた。
一陣の風が吹き、綿毛たちが舞い上がる。その光景に亡き人の面影が立ち上がり、あの頃抱いていたもどかしい気持ちの正体に気づく。五十嵐先生に蒲公英さんと声をかけられて、記念撮影の輪に加わる。キミエの耳の中では、蓮の奏でるショパンの音色が、甘く優しく鳴り響くのだった。
三幕八場の構成で書かれている。
一幕一場は、主人公たち五十嵐先生と四年一組たちが、十年前の二分の一成人式に埋めたタイムカプセルを掘り返すため、廃校となった母校を訪れる。
二場の主人公の目的では、小学生当時を回想する主人公。みんなから「カバちゃん」と呼ばれるも、白木蓮だけが「キミエちゃん」と呼ぶ。そんな彼が病気で学校を休んでいるため、担任の先生に今日も頼まれて、「お便り」と「宿題」を持っていく。
二幕三場の最初の課題では、白いとろんとした生地のパジャマに水色のカーデガンを羽織る白木蓮は、お手伝いさんが用意してくれた栗羊羹パクパク食べる姿に「元気があるならずる休みしないで学校に来なよ」と唇を尖らせると、彼は仏様みたいに目を細めてふふっと笑う。その顔を見るともやっとする。
四場の重い課題では、来る途中でクラスの愛子ちゃんを見かけた話をするも、友達の家に遊びに来たのではと答える蓮。このあたりには連とキミエの家くらいしかない。
五場の状況の再整備、転換点では、美人の愛子ちゃんを喩えるなら水仙、前田えみりはスズランと答える蓮をみて、もやっとする。
六場の最大の課題では、帰るときに玄関先まで見送ってくれた蓮に花に喩えたら自分はなにか恥ずかしいのを我慢して尋ねると「キミエちゃんはキミエちゃんだよ。何かに例える必要なんてない」と答える。だったら蓮は何かと聞くと、庭木を眠そうな目で見上げ、名前通りでいいんじゃないかと答える。「飛べない鳥の羽ばたきみたいに見えるでしょう?」こういうところがもやっとポイントだと思う。帰り道、彼の弾く『別れの曲』が聞こえる。数日後、11月に行われる
三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、五十嵐先生の持っていた正確な地図のお陰で、タイムカプセルを掘り起こされる。せんべいの缶の蓋が開かれ、自分の宝物をみるみんな。小さなステンレスの茶筒をみつけると、『僕の好きなもの、白木蓮』とかかれていて、主人公は蓮の墓標をみてから開けるとタンポポの綿毛が入っていた。風が吹いて、彼がみることが出来なかった空へと舞い上がる。
八場のエピローグはその光景を見ながら、もどかしさの奥にあったあの頃の気持に気づけたかもしれない主人公。先生に「蒲公英さん?」と名前を呼ばれ、みんなと一緒に記念撮影の輪に加わる。耳の中では、蓮が奏でるショパンの『別れの曲』が優しく鳴り響きながら。
短編なので、外見描写は読み安く短い。人物描写はあまりみられないが、回想での白木蓮の描写はされている。
真田小学校になにしに着たのかという謎と、主人公の蒲キミエに起こったさまざまな出来事が結びつき、謎が明かされるとともに思いに気づく展開が良かった。とくに胸の奥に潜んでいた残滓のくすぶりを感じるところは、主人公が感じたであろう気持ちを読後に感じられる。子供のときに感じたもやもやした気持ちに気づくのは、いつだって過ぎ去ったあとなのだ。
作品に感情移入できるのは、読み手が想像できるよう、具体的な場面を描きながら、主人公の心の声や感情の言葉を入れて書かれているからだろう。
いいところは、書き出しである。
遠景の、懐かしい真田小に到着したところからはじまり、門扉は開いたままで、一緒にタクシーにのってきたマナカに尋ねてから、懐かしい四年一組の仲間たちが集まってくる近景を描いたのに、十年目に埋めたタイムカプセルを掘り返すために廃校を訪れたと、主人公の胸の内が語られる。
読み手は、なるほどそうなんだと思いながら、裏山を昇るみんなとともに読み進めていける。
その後も同じで、「真田の町を一望に見渡せる」遠景を書いてから、つぎに近景の「斜面の中腹」に目を向ける。そこには白木蓮の墓標があり、主人公は小さく手を振る。シジュウカラのさえずりを聞いて、あの頃の思いが一気に蘇ると胸の内が語られる書き方をしている。
近景の表現を経て心情を描くことで、深みが増していくし、読者も主人公の思い出の中へスムーズに入っていける。
冒頭の、無駄のない書き方がされているから、読み手は無理なく読み進めていけるのだ。このあたりは上手い。
回想は、主人公が小学生のときの話。
文章から、小学三、四年生くらいの印象が感じられる書き方をしているところが良い。難しい言葉や言い回しを使わず、読みやすい書き方がされている。
回想してるのが読んでいてわかるし、作品世界のその時代へと誘ってくれてもいる。だから、共感や感情移入できるのだろう。
回想のはじめで、ようやく主人公の名前が紹介される。
たしかに本名だけど、カバちゃんと呼ぶのはどうかしらんと、首を傾げてしまう。悪意があるのではと勘ぐりたくなる。同じようにその点を気にしたのは白木蓮だった。
彼に共感できるおかげで、作品にも感情移入できる。
白木蓮は主人公に好意を持っていたから、みんなと同じような呼び方ではなく、名前で呼びたかったのだと思う。
キミエちゃんと呼ばれることに「変に気を使われると余計に気になってくるじゃんか」と思い、もやっとさせられるとある。
家族からは、どう呼ばれていたのかしらん。キミちゃんやキミエちゃん、あるいはキミエと呼びすてだったかもしれない。
それはともかく、異性から下の名前で呼ばれると、ちょっとひっかかるところはあるだろう。
真田町は上田市に吸収されたとある。
西暦二〇〇六年(平成十八年)三月六日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の一市二町一村が合併し、新しい「上田市」が発足している。
合併する前なら、平成十八年以前の話だろう。
そんな長野県上田市を、本作では舞台にしていると思われる。
長野では金持ちのことを、だいじんこ、と呼ぶという。
大尽子について考えてみる。
お大尽は、金持ちや身分の高い人の意味。たくさんの田畑や山林を所有している家を指すこともある。
方言でいろいろな呼び方が残っているものの、意味はどこも同じなので、方言ではないと思われる。
呼び方が、お大尽やお大尽さま、だいじんこ、でえじんこなど。
北部伊豆諸島の一つ、神津島の神津弁では大切な人や物のことを「だいじんこ」、北信州では「でーじんこ」「でえじんこ」と呼ばれている。「こ」は「庫」か「戸」、あるいは「家」なのかよくわからない。
『日本国語大辞典』によれば、だいじん-こお【大尽─】〖名〗[方言]は、
(一)財産家。金持ち。
熊本では「だいじんどこる(大尽所)」「じゃあじんどころ」「じゃあじんどこる」
茨城では「でえじんど」
(二)性根のない人。おひとよし。
徳島では「じゃあじん」
(三)地主。
熊本では「じゃあじん」
これらのことから、「だいじんどころ」が訛って「だいじんこ」と呼ばれたものが広まったのでは、と考える。
主人公は「〇〇じゃんか」「〇〇じゃんね」と、語尾にじゃんをつけている。関東かしらん。
「じゃん」は現在では全国的な使用が確認されているが、神奈川県出身者が使う傾向が強い。が、じゃんねは山梨から広まり、静岡や愛知での表現であり、静岡から神奈川へと広まったと考えられる。
山梨と長野では、高年層がよく使う。
親が使っていれば、子供もおぼえて使うのは自然だろう。
実在の場所を物語の舞台にしていることで、本当にあったことではないかと現実味を感じられる。作者は土地勘があるのか、下調べをされて書かれたのかもしれない。
小学三年生のお別れ会でショパンの『別れの曲』をピアノで弾いた話が書かれているので、三年生のときに同じクラスになって「キミエちゃん」と呼ばれ、四年生ではクラス替えもなく持ち上がりだったと想像する。
例年十一月に行う二分の一成人式を五月に前倒しすることになったのが、お便りと宿題を持って言って数日後のことだったとあるので、白木蓮の家を訪ねたのとき主人公は四年生だったと思うから。
先生に頼まれて舌打ちするところに、当時の主人公の性格が伺える。子供らしい。
「あたしにだって、友達と遊んだり、月刊ASUKAの最新号を読んだり、アニメの再放送を観たりする都合があるのにさ」
具体的に心の声が書かれてあるのが実にいい。
どういう子なのか、読み手はあれこれ想像できる。
訪ねるとお手伝いさんが現れるところが、お金持ちな感じがする。
「いつものように小学生のあたしをわざわざお庭の見えるお座敷に通してくれる」から、子供としてではなく、一人の大事なお客様として扱われているのがわかる。
「白いとろんとした生地のパジャマに水色のカーデガンを羽織った蓮は、相変わらず眠そうな目であたしを見る」と描写説明から、生地がいいパジャマだと想像できる。
相変わらず眠そうな目をみて、「まぁまぁ元気そうじゃんね」と言っている。
「元気があるならずる休みしないで学校に来なよ」といえば、彼は「あたしの抗議に目を細めて、仏様みたいにふふっと笑う」とある。
元気ではなかったと思われる。
少なくとも、主人公が来るまでは寝ていたと想像する。訪ねてきたのが蒲キミエだと聞いて、起きてきたのだろう。
来る途中でクラスメイトの愛子を見かけた話がある。
白木の家と蒲の家くらいしかないところで愛子の姿を見たということは、どんな用事があったのかはわからないけれども、白木家を訪ねてきたのではと考えてみる。だとすると、見舞いに来たのかもしれない。
でも来る途中で彼女に会ったということは、蓮には会えなかったのだろう。寝ているからと追い返したのかもしれない。
お便りと宿題を持ってきただけなら、お手伝いさんが受け取ればすむはず。にも関わらず、座敷に招いて栗羊羹を出している。
蓮しか食べている様子は書かれていないが、自分だけ食べて客人にお茶の一杯も出さないとは考えられない。
主人公も栗羊羹を出され、食べたはず。
栗羊羹は値段も高い。
いいものを主人公に出しているところにも、気を使っている感じがする。
愛子を水仙の花に喩えている。
彼は「ピアノが弾けて――三年の時のお別れ会でショパンの『別れの曲』を弾けちゃうくらい上手くて、勉強ができて、中でも漢字はすごく得意」とあるので、ひょっとすると花言葉の知識をもっているかもしれない。
水仙の花言葉は「うぬぼれ」「自己愛」である。
愛子の性格には、花言葉にあるような一面があるのを知っていて、水仙に喩えたのではと邪推したくなる。
ちなみに前田えみりは、すずらんに喩えられている。
花言葉は「純粋」「純潔」「謙虚」。男子から人気があり、ちっちゃくて、くりっとした目がリスみたいな容姿だけど、性格は純粋で謙虚なところがあるのだろう。
喩える前に「葡萄みたいにふっくりとした唇に、人差し指を軽くあてて考え」ているので、それぞれの性格に相応しい花を選んでいたのではと考えたい。
葡萄を比喩に使っているのは、花に喩えている話をしているので、植物つながりだろう。
ところで、主人公の蒲キミエは「キミエちゃんはキミエちゃんだよ。何かに例える必要なんてない」と答えている。
喩える必要はないとはいっているけれど、他の花に喩える必要がないという意味だと考えられる。
たんぽぽの花言葉は「愛の神託」「幸せ」「神託」「真心の愛」である。白木蓮には、彼女が花言葉通りの人だったと見えていたのだと思う。
きっと、白木蓮が困っているとき、蒲キミエが助けてくれたことがあるのだろう。そのときに好きになったのかもしれない。
そういうことがあったから、「キミエちゃんはキミエちゃん」と答えたのだと考える。
白木蓮の開花時期は三月上旬から中旬。東北地方や日本海側、標高の高いところでは開花は遅く四月ごろ。北海道だと五月にみごろとなる。
本作は、東日本で日本海側か東北、標高の高い地域が舞台なのかしらん。
おまけとして、白木蓮(ハクモクレン)の花言葉は「気高さ」「崇高」。
蓮の「飛べない鳥の羽ばたきみたいに見えるでしょう?」が素敵だと思う。けど、主人公は「蓮のこういう詩人なとこも、もやっとポイントなんだよな」と、鼻についたような、気に入らなかった様子。
実際、彼は病気で早くに亡くなっている。
自分が長くないことを知っていたのだろう。取り乱すでもなく、好き勝手に無茶することもなく、治らずとも治療を受けては大人しく過ごしただろう。
小学生ながら、あるがままを受け入れていた姿からも、花言葉にもある「気高さ」「崇高」を伺える。
このあたり、上手く考えて書かれているのがよく分かる。
主人公が帰る道で、「たんぽぽの花があたしみたいにしぼんでいる」とある。心理描写をしたいのなら、「あたしみたいに」とは書かないはず。
描写している自分を描写しているみたい。ひょっとすると、感情的になっていることを強調したのかもしれない。
英語で、一つの英文の中で否定を表す表現が二つ、または二回使われる二重否定文は、「否定」の意味が打ち消されることにより、結果として「肯定」の意味を表すみたいに。
この後、「落ち込んでいるあたしを追いかけるみたいに」蓮のピアノが聞こえてきたと続く。他の子は水仙やスズランだとキレイな花に喩えられたけど、自分はたんぽぽだなんて……と落ち込んでしまったのだろう。
蓮が弾く『別れの曲』の本来の名前は、練習曲作品10-3。
『別れの曲』の由来は、ショパンを描いた一九三〇年代のドイツ映画『別れの曲』でこの曲が使われたからことに由来する。
しかも邦題限定。
海外のCDなどでは『 Tristesse(悲しみ)』か、単に『練習曲作品10-3』と表記されている。
『別れの曲』が作曲されたのは一八三二年、ショパンが二十二歳の時。当時は故郷ポーランドを離れ、パリへと拠点を移している。
パリでの成功を夢見る気持ちと、田舎を懐かしむ気持ちが重なっていたショパンの様子を思い浮かべて聞くと、これまでとは違った曲に聞こえるかもしれない。
それはともかく、
『別れの曲』は練習曲(エチュード)として作曲されている。音楽観賞専用の曲ではないものの、ショパンの練習曲はプロ演奏家のための練習曲でもある。
また、ショパンは手が小さかったという。
手の小さい子供の白木蓮でも、弾けたと考える。
彼はどんな思いで、弾いていたのか考えてみる。
練習曲作品10-3ではなく、『別れの曲』として弾いていただろう。なぜなら小学三年生のときのお別れ会で弾いているから。
別れのときにふさわしいと、彼は思って選んだに違いない。
ということは、主人公が帰っていったあとで弾いたのは、別れを意識していたことになる。
彼は自分がもう長くないと思っていたに違いない。
ひょっとしたら、今日が彼女との最後になるのではと思ったのではないか。
そう考えると、別れ際に交わした言葉は、彼の精一杯の告白と思えてくる。好きだといって振られたら、ショックでそのまま死んでしまうかもしれない。仮に両思いになれたとしても、この先付き合えるわけでもない。
それでも、自分の想いを蒲キミエに届けたい。そんな気高い心をもつ彼なりの気持ちのこもった、ピアノ演奏だったと思えてくる。
毎年十一月にやる「二分の一成人式」の日程が早まり、急遽五月に行うことが担ったのは、「老い先短い蓮のおじいちゃんのワガママ」という噂が流れている。
実際は、孫である蓮を参加させてやりたい気持ちが働いたからだろう。つまり、十一月までは生きられないことがわかっていたのだ。
タイムカプセルには、せんべい缶が使われ、ガムテープでぐるぐる巻きにされている。
「ほっぺちゃんのマスコット入れたの? 溶けてベタベタじゃん!」とあり、気密性が保たれていないことが伺える。
気密性保持にビニール袋やガムテープできっちりとめても、ほとんど効果がない。
温度変化により内部気体は収縮と膨張をくり返す。その際、外部から湿った空気や水分を取り入れる状態が埋設十年続くの。
三年くらいなら無事な可能性は高いかもしれない。が、十年だと中に入っていたものは劣化してしまう。
白木蓮の容器に入っていた蒲公英の綿毛が飛んでいけたのは、気密性の高い容器に窒素を充填し、乾燥剤(シリカゲルや消石灰)を入れて湿気を防いでいたためと考える。
十年後にはタイムカプセルは開けられるとわかっていたのだから、十年は保てるように、彼なら供えたはず。
たんぽぽの綿毛は、主人公の彼女が見舞いに来てくれたときに摘んだものかもしれない。
「僕の好きなもの、白木蓮」と書かれた茶筒の中に、たんぽぽの綿毛がはいっていた。主人公の名前を漢字で書くと、蒲公英であることが、先生に呼ばれて明かされる。
情報の開示によるタイミングは良い。
これまでにも、連想させる描写はあったけれど、はっきり明かされると読者は、そうなんだと驚きとともに受け止められる。
たんぽぽの綿毛が飛んでいく印象的な場面は、「飛べない鳥の羽ばたきみたいに見える」ハクモクレンとは対照的で、蓮は主人公に恋を抱いていたのは憧れのようなものだったのかもしれないと思えてくる。自分も彼女のようにどこまでも飛んで行きたかった、と。
もう一つは、「わたしはようやく、あの頃の気持ちの正体に――もどかしさの奥にあったものに――気づいたかもしれない」という彼への想いが、あの世にいる彼へと届くように舞い上がっていく様子にもみえてくる。
みんなに混ざって記念撮影をするとき、あの日蓮が弾いていた『別れの曲』が耳の中で聞こえているのは、どうしてか。
寂しいような嬉しいような悲しいような、そんな気持ちが混ざってきたからかもしれない。
彼を想うと、彼の弾いていた曲が思い出されてくるのだろう。
ショパンが作曲したときも、パリでの成功を夢見る気持ちと、田舎を懐かしむ気持ちが重なっていたであろう頃の作品。
嬉しさと寂しさが混ざった心情と、蒲キミエの心情とが重なってくる。きっと、同じ気持ちを白木蓮も感じていたに違いない。
耳の中で聞こえた主人公は、蓮の気持ちと重なっていることの現れなのだろう。
読後、タイトルを見てなるほどと納得する。読む前は、なにがたんぽぽ娘なのかわからなかったけれど、読み終えるとわかる。
主人公のことであり、白木蓮が好きなものだった。
『別れの曲』が、白木蓮と蒲公英の気持ちを重ね、読者も読後、追体験できる。そういう書き方がされている。
実に良い作品だ。
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