【命題】その未来は幸福であふれている

 ざーん、ざざーん、と規則正しく響き続ける音。いつまでも聞こえるそれを目覚まし代わりに、私はふわりと目蓋を上げる。

 そこは白い世界。砂浜と海と空が見えるが、全てが白いせいで、まるで空と地面が一体になったようだ。


「…いや、それよりも…」


 私はあの時、確かに死んだはずだ。ならばどうしてここにいる?ここは何処だ?まさか、ここが死後の世界だったりするのだろうか?


 そのとき、不意に声が聞こえた。


「おや、お客さんかな。歓迎しよう。その選択に、悔いが残らないようにね」


 そこには、アクアマリンのような爽やかな色の眼を持つ、少女とも少年ともいえないような子供がいた。


 * * *


 それから、私はこの子から、色々と話しを聞いたのでした。


 ここが自殺した人間の来る場所だということ。それがもしも悔いあるものであれば、自殺した前に戻れるということ。

 だけど、私には悔いなんて無い。そりゃあ勿論、できることなら生きていたいですけども、それをしてしまうと、彼は私を諦められなくなってしまう。

 だから、私は私の選択に、何の後悔も無かった。…無かったけれども、でも。一つだけ、後悔というか、心配なことがあった。


「ねえ教えて。あの後、彼は…ゆーくんは、生きることを選べている?」


 返答は、悪い予感の通りであった。


「いいや。ここに来る次のお客さんはおそらく彼だろう。ふふ。どうやら、彼はキミに相当参っちゃっているようだね?」

「そんなこと、言われなくても分かっています」


 それよりも、と己は思考を巡らせる。


「お願い。彼を救ってほしいの」

「救う?それは、彼を生かし続けるということかい?それを彼に押し付ける権利が、キミにはあるのかな?」


 にやりと、真意を押し計るように迫ってくる。


「ボクはどちらも強制しない。死もまた救いだ。生きることが苦しみである彼にとって、それは最上の救済となるだろう。それでもキミは、彼に生きろと。苦しみ続けろと言うのかい?」


 その言葉は、私の心に深く突き刺さった。それはきっと、どれも正しいことなのだろう。私の“生きてほしい”という思いは、所詮は自分勝手な願いに過ぎない。


 たとえ、彼の生存が、私の死によって存在しているのだとしても。だから、私の分まで苦しくても生き続けろと命令するのならば、それは救済ではなく呪いになってしまう。

 人の善意というものは、押し付けられた者のことを考えない。彼は、それを望まないかもしれない。


 …ならば私は、この思いを、止めるべきなのか…?


「…………だけど」


 否。


「…私は、彼に苦しんで欲しいわけじゃない」


 そんなわけ無いだろう。


「私は、彼の人生が幸福で溢れたものであってほしい」


 逃げるだけじゃあ、駄目だろう。最悪から逃げるのではなく、それを塗り潰すほどの幸せで人生を彩るのだ。


「だから私は、ゆーくんに、生きてほしいよ」


 生き死にを奪うようで悪いが、それだけは譲れない。

 それに、と心の中で思う。

 自分の死を無駄にしない為だけではない。彼の人生と善性に、その価値が有るからということでもない。もっともっと、シンプルで単純な理由。


 私が、彼を愛しているから。


 生きてほしい理由なんて、それで十分だ。


「ゆーくんを救ってあげて」


 前を向く。

 もう、迷うことなんて無い。


「ははは!面白いじゃあないか!!彼も、なんともまあ頼もしい彼女をもったものだよ」


 “よろしい”と言葉が続いた。


「ならば、キミがそれを、彼に伝えてくると良いよ」

「…え?わ、私が?」

「ああ、そうとも!それを伝えられるのは、他でもないキミだけだ。ならば、キミが行くのが道理だろう?」


 なんとも、さも当然かのように言ってくるではないか。で、でも、それはちょっと予想外というか…心の準備ができてないっていうか…っていうか、それはつまり、もう一度ゆーくんに会えるっていうことか!?


「キミには正体を隠す為の姿と名前をあげよう。今のままでは都合が悪いだろう?」


 そのチャンスは、思ってもみなかった幸運だが、しかし妙に思うこともある。


「…色々と、気にかけてくれるのですね」

「それがボクの役目だからね。キミだって、あの終わり方では、色々とやり残しもあるだろう?」


 その言葉を聞いて、思わずうっとなる。

 自分の死に対して、後悔なんて無い。それは終わりではなく、もっと大きな幸福に繋がると、そう信じられたのだから。

 …ああ、でも、思えば一つだけあったのだ。それは、ほんの些細なことだけど。彼も、分かりきっていることかもしれないけど。


 けれど、その一言で、私の恋はようやく完成する。


* * *


 そうして私は“ティアードロップ”として、彼が来るのを待ち続けたのです。


「ようこそ、いらっしゃいませ♪ボクはキミを歓迎するよ」

「お前は…誰だ?」

「ボクの名前、か…。なに、名乗るほどの者ではない」

「変わった名前だな」

「そ、そういうことじゃない!」

「ナノルホドノ=モノジャナイさん。お前は一体何者なんだ?」

「だ、だから違うって!」

「ナルモノさん。早く教えてよ」

「変な略称を付けるなぁ!!」


(あ、あれぇ?いつも通りのゆーくんだなぁ…?)


 予想していたのとは違った。私としては、もうこの世の終わりみたいな様子の彼を想像していたのだ。それがまあ、後に知ったことだけど、記憶喪失であったなんて…。


 しかし、変にいつも通りなのがいけない。なにしろ、その所為で彼のことをうっかり“ゆーくん”と呼びそうになるのだ。三回くらい呼びそうになってヒヤヒヤした。


* * *


 PCにて、彼の記憶を辿っている最中。


「“好きな人”っていう項目があるぅううう!!!!」

「なにぃいいいいいい!!!!」

「しかも男だぁあああ!!!」

「はぁあああああああ!?!?!?!?!?おいちょっと待てかなり待て!人を勝手にホモにするな!!」

「あ、ちょっと!」


 彼が急いで横に入り込み、肩が触れるほどに身を寄せてくる。PCに表示されているのは、私の名前。


「おい、」

「な、なんだよぉ…?」

「これは男の名前じゃないだろ」

「春陽くん、かもしれないだろう?」

「いやまあ、その可能性もあるだろうけど。でもこれは、どちらかというと春陽ちゃんのほうが格率高めだろ普通」

「ホモじゃないの?」

「ホモじゃなねえよ」


(はい。ホモではないのです。なにしろ、私のことが大好きなんだもんねぇ~~!!)


 正直、めちゃくちゃ嬉しかった、この時。


 なにしろ、彼の記憶を辿っている最中、いきなり“好きな人”という項目を見つけたのだ。おうふ、と一瞬身構えたが、中身を見てみれば予想通り私だ。

 そうであろうことは予想通りだ。しかしまあ、予想以上に嬉しかった。だからテンションも少しおかしくなっている。

 でも、これでもまだ感情を抑えたほうだ。本当なら、今すぐ彼に飛びついて抱き締めたいくらいだったのだから。よく我慢した私、偉い。


* * *


 彼が、あの事件のことを思い出す少し前。この時は、本当に心が苦しかった。


「来瀨春陽という少女は、すでに死亡している。キミが自殺した、少し前に」


 それを言ったときの彼は、ひどく悲しそうだった。


「なぜ?どうして?…知っているだろう?そうでなくても良いさ。知っていなくても、これから思いだすのだから」


 言えば言うほど、苦しそうに、彼はその表情を歪ませる。うずくまり、必死に耳を塞ごうとする。…何かに、怯えるように。


「キミはどう思った?どう感じた?キミはなぜ、死のうと思った?」


 そんな彼を、見守ることしかできないのが、本当に辛かった。だが、それは彼自身で乗り越えなければいけないことだ。どれだけ苦しい現実でも、私はそれを伝えなくてはならない。


 それでも、私は彼が苦しんでいるのを、どうしても我慢できなかった。だから、


「……ごめんね」


 あのとき、思わず声にしてしまったのは、そういうことだ。でもこれじゃあ、彼にとって何の助けにもならないなと、後になってから気づいたものだ。


(がんばれ、ゆーくん。貴方なら絶対に大丈夫)


 見送るように、想いをつくる。その言葉に嘘はない。確信で満ち溢れている。

 なぜなら、私がそれを一番よく知っているのだから。


* * *


 もう少しだ。あと少しで、彼はこの出来事を乗り越えられる。


 だけど、最後に大きな壁にぶつかった。私の死の、真実を知った後のことだ。

 彼は、揺れる声で、今にも崩れ落ちてしまいそうなか細い声で、それでも何かを必死に伝えようとしている。

 震えながら前を向き、何かを言おうとして躊躇う。彼の中で、複雑な感情が混ざり合っているのが見て分かった。


(…大丈夫、怖くないよ。どんなことでも、ゆーくんなら乗り越えていける)


 そう、思っていたのだが。


 最後のそれは、どうしようもないほど天敵だった。


「………春陽には、もう、二度と、会えないんだよな……?」


 心臓が、どきりと跳ねる。


「…俺が、さ。たとえ、生き続けたとしても……。…春陽は、居ないんだよな………?」


 今にも泣き出しそうなその顔で、彼は振り絞るかのようにそれを言う。


 その時私は、自分の至らなさを恥じた。

 彼を苛むのは、後悔でも、罪悪感でもなかった。ただひたすら、愛する人にもう二度と会うことができないのだという現実。それこそが、彼をこの暗い死にまで導いた原因だったのだ。


「………ああ」


 彼の問いに対し、ただ私は、頷くことしかできなかった。

 その苦しさだけには、私も救う術を持たない。


(ど、どうしようか……。というか、こんなのどうしようもないんじゃないかなぁ…)


 なんて考えていたら、とうとう我慢できなくなったのか。彼はぼろぼろと涙を流し、悲しさを焼き尽くすかのように泣き始めてしまった。


 やばい、すごく何とかしてあげたい。なにしろ、涙なんて滅多に流さない彼が、今ここで大泣きしているのだ。しかも、雨に濡れた子犬のように震えながら。


(ヤバいヤバいどうしよう!?!?な、何か言ってあげるべきかな?でも何を!?!?)


 彼はどんどん悲しみを強めていく。…ああもうチクショウ、何もできない自分が、なんとも腹立たしい。腹立たしいというならば、メソメソ情けなく泣きまくっているゆーくんもだ。普通そんなことで死ぬ?メンタルお豆腐かよ!!


 ああもうホント腹が立ってきた。だから、言うべき言葉も、そういうことになったのだ。


「月宮悠斗!!」


 私は、感情のままに声を張り上げる。


「キミは馬鹿か!!」


* * *


「決めたよ」


 彼は、とても穏やかに、そう言う。

 この時のことは、正直良く覚えていない。もう、必死に言葉をつくって、想いを彼に伝えようとして。生きることを選んでもらうために、精一杯だったのだ。


「生きる。お前と、春陽がそれを望んだように。まあ、儘ならないことは、たくさんあるだろうけど、頑張って生き続けるよ」


 だから、その言葉を聞いたときは、本当に嬉しかった。信じていた通りだ。彼なら、どんなことがあっても、必ず乗り越えていける。


 だけど、少しだけ寂しくもあったのだ。

 生きることを選んだ以上、彼はもうここには居ることができない。

 彼とはもう、二度と会うことがない。

 つまりこれは、正真正銘、最後の別れだ。

 それを知るのは私だけ。だから、彼がそれを知ることもない。


「…もう一度、会いたいなぁ……」


 これで良い。これで、良いのだ。


「会って、いつものように、話したい……」


 これ以上、彼を悲しませるわけにはいかないのだから。


「何でもないことを話して、いつものように笑いたい……」


 別れの悲しさは、私の中だけに閉じ込めておこう。


「もっと、お前と一緒に、したいことだって…たくさんあるんだ……」


 それが良いと思った。そう、思った。


 なのに、


「…春陽……!!」


 ……ああもう。ずるいよ、ゆーくん。


『…まったく、いつまで泣いているの?』

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