【命題】それは生きるに値する
「…これは、本当のこと、なのか…?」
声が震える。形容もできない何かが、心の内を、強く揺さぶってくる。
春陽の記憶は、まるで実感のように、奥底に流れてくる。感情も、何もかも。だからこそ、俺はそれを、今見たことを、信じることができない。
嘘ではないのか。醜い己が、自身を許すために作り出した、幻想ではないのか。
「本当のことだよ。彼女が生きている限り、キミはどうしても彼女を諦めることができない。だから決めたのさ。自分が死ねば、キミは、生きることを選んでくれると」
「そんなことが…!」
「あるんだよ」
言葉は、途中で切り捨てられた。
「人は、理由が無ければ死ぬこともできない。そう言っただろう?だからさ、あったんだよ。死ぬ幸福が、生きていく恐怖を上回ったのではない。ただ一心に、誰よりも好きだった人に、死んでほしくなかった。ただそれだけさ」
「…そ、そんな…それは…」
それは。身震いすら感じるほど、眩しすぎる覚悟だった。
誰かを助けるために、自分の命を絶つ…?言葉と音の響きだけでは、その重さが伝わらない。
自分の命が、刻一刻と失われていく。それを、何よりも明確に感じていたはずだ。ああ、なんと恐ろしいことだろう。今の自分では、共感なんてできない。想像することすら、難しい。
地獄のような状況で、死への恐怖が、時間と共に増大していくなかで。それでもあいつは、他人のことを想ってしまうのか。
いったい、どれだけの覚悟があれば、そんなことができるのか。
どうしてお前は、俺を助けようとしてくれたんだ。
その価値が、はたして俺にあったのか。
どうして、死ぬのがお前で、生きるのが俺だったんだ。
お前のために死ねるなら、俺は、俺自身を誇れたのに。
どうしてお前は、そんなに正しく在れるのか。
俺は、お前ほど、正しくなれない。
「どうして…」
どうして。どうして、どうして。
「…どうして、俺なんかが、助けられて、しまったんだ」
疑問が巡る。巡り巡って、終着するところはやはりそこだ。
そして、再び、己が醜く感じる。生きては、いけないのだと。死ぬべきなのだと。
「それを、彼女が望んだからさ」
違う。
その答えは、俺が欲しいものではないのだ。
そんなことを言われたら、俺は、また間違えてしまう。俺は、俺が犯してしまったことに、意味を見つけてしまう。
あの日と同じように。春陽を見捨てて、逃げたときのように。
だから俺は、俺自身を許さないようにしてきた。己の全てを、呪い続けてきた。
自分自身が、永遠に失われることで、許しと救いを求めた。
けれども。
「キミが、どれだけ己を呪おうとも。過去の行いを、許せなくても。すでにキミは、望まれてしまったんだ。キミのことが大好きな、一人の少女に」
ティアードロップは、毅然とした表情でそれを言う。間違ったことなど、何も無いとでも言うかのように。
「彼女が、どれだけキミを愛していたか、分かるかい?彼女の最後を、キミは見ただろう。彼女を看取ったのは、凍える孤独ではなかった。暖かく、晴れ渡る青空のような誇らしさだった。それはどうしてだい?キミには、それが分かるかい。ボクは分かるよ。きっと、今のキミより、ね」
なぜ、俺にそんな言葉をかけるのか。
やめろ。やめてくれ。
そう言いたいのに、しかし喉は動かない。
だって、それは、
「キミはあのとき、逃げたんじゃない。想いを託されて、生きることを決めたんだ。そうだろう?」
ティアードロップは、心配そうに、恐れるように、労わるように、そう言うのだ。今にも消えそうな灯火を、その小さな手で、必死に守るように。
その声は、泣きたくなるほど優しい声だった。こんな俺にも、そう言ってくれる人がいるのだ。それすら否定してしまっては、もう、自分には何も残らなくなってしまうような気がした。
「だから、さ」
言葉は続く。遮ることなく。
「生きてくれよ。彼女が、そう望んだように。悲しいことだけじゃない。キミの人生は、沢山の幸せで、溢れているはずなんだから」
………ああ、くそ。
なんて、なんて優しい言葉だろう。
古びた感情が、起き上がっていく。冷めた心が、熱を持つように。
死にたいと、そう思っていた。俺のような人間は、死ぬべきだと。いや、それもきっと言い訳なのだろう。
あの日から、ずっと続く、後悔と懺悔に、押しつぶされそうで。悲しい、そう思うことが止められない。そう思うことが、何より苦しい。
だから、逃げ道が欲しかった。ただそれだけ。だから、死んで、終わらせようと思った。
けれども。
生きろと、願ってくれた人がいた。言ってくれる人がいる。
あぁ…なんてことだ。なんということだろうか。俺は、たったそれだけの事実で、己の全てが、許されたような気分になる。なって、しまう。
自分が、生きていくこの先を、想像してしまうのだ。
…でも、それでは、駄目だ。
「……………あぁ」
漏れる吐息は、まるで、心を開錠するようで。
閉ざしていた“それ”を、悲嘆の空気と共に、吐き出していく。
そうとも。分かっていた。知らないふりをしていた。
暗い過去を許せなかった自分は、もういない。
俺を生かす為に、自分で命を絶った春陽の覚悟を、無駄にはできないと、そう思えたからだ。
生きていこう。そう思う、心の揺らめきは、確かに存在するのだ。
なのに。
この心は、それでも苦しみを訴えている。
この、抑えきれない気持ちは何だろう。
今にも、胸が張り裂けそうな、少しでも、感情を緩めてしまえば、悲しみが波濤のように襲いかかってくる。
何かが、狂おしいほどに悲しすぎる。そう思うことが止められない。そう思うことが、何より苦しい。
それは、生きていくその先を思い浮かべる度、強く感じる。
ああ…やはり、そうか。
思い描く、自分の、これからずっと続く、人生を。沢山の幸福で溢れていると、ティアードロップは言ってくれたか。それはきっと、想像もできないような、素晴らしい毎日なのだろう。
でも、
「……ぅ…ぁ…」
言葉が詰まる。それを言えば、もう、この気持ちの抑えは、効かなくなるだろう。
「…ぁ………!」
やっぱり、そうだったのだ。こんな俺にも、正しいことはあったのだ。そう思えることは、嘘ではなかったのだ。
あの日の後悔も、呪いのような自己否定も。自らを、死ぬべきとした理由全て、ひとえに、これ一つを、思わないようにするためだった。
「………っ…!」
あぁ。もはやここまでだ。自分を騙し続けるのも、もうお仕舞いだ。俺は、もう、それを隠せない。思わずにはいられない。
………なぁ、春陽。やっぱり、俺はさ。お前と一緒にいて、本当に、楽しかったよ。毎日が、幸せだったよ。
心の底から、そう思えるのだ。だから、悲しいと思ったのは、きっとそういうことだ。
あの日から続く、胸を裂くような、痛みと苦しみ。それは、自分がしてしまったことへの後悔ではなく、自分を責める嫌悪でもなかった。
ただひたすら、ただ一心に、俺は“それ”だけが耐えられなかった。
俺が、本当に、悲しかったのは…
* * *
「………春陽には、もう、二度と、会えないんだよな……?」
震える声が、弱々しい響きとなって、空白に散り果てる。
「…俺が、さ。たとえ、生き続けたとしても………」
広がることなく、霧散する。
「…春陽は、もう、居ないんだよな………?」
心の奥で、必死に堰き止めていた感情が、熱いものとなって押し寄せる。
はたして、ティアードロップは何も言わなかった。
そんなこと、疑問にすることでもないのだろう。それは、既に、確定された事実だから。その答えは、自分が一番良く分かっていることだから。
だけれども、
「………ああ」
ティアードロップは、永遠のような沈黙を置いて、ようやくそれを言う。それは、肯定の響きだ。
そう返ってくるのは、分かりきっていたはずなのに。その一言が聞こえただけで、まるで世界全てに裏切られたような絶望で、心の中が一杯になる。
無価値、無意味、虚無、空白。今まで己を満たし続けていた荒廃は、醜い自分への諦めではなく。
なによりも、春陽に、もう二度と、会えない。もう、あの笑顔を、見ることもない。
悲しかったのは、たったそれだけのことだったのだ。
「…ぁ……ぁぁ……ぅ………」
頬を、何かが伝って、落ちていく。
春陽のいない毎日。それはもう、酷く寂しくて。まるで、終わることのない地獄のよう。
この苦しさが、これからずっと、付き纏うのだろう。それを思わない日なんて、無いのだろう。
だって、春陽との記憶は、どこまでいっても鮮やかで。幸福と楽しさで、溢れていて。
ほんの少し前までは、それが当たり前の毎日だった筈なのに。今は、もう、そんなことすら、思い出になってしまった。
春陽と一緒にいることのできる幸せは、もうない。喪失が、今と昔を断絶する。
俺は、そんな苦しさに、耐えることができなかった。
…ごめんな、春陽。
折角、救ってくれたのに。お前が助けてくれたこの命を、俺は無駄にしてしまう。
「月宮悠斗!!」
突然、
「キミは馬鹿か!!」
張り上げる声がした。
ティアードロップだ。でもそれが、一瞬誰のものか分からなくなるほどに、勢い付いたものだったので、思わずそれが本当にティアードロップのものなのかを疑った。
「いいか、よく聞け」
お前そんなキャラじゃないだろ…
「…いいかい?よく聞きたまえよ?」
あっ、言い直した。
「死は救いなどではない!ただ逃げているだけに他ならない!!」
音が轟く。それは、研ぎ澄まされた剣のような言葉の数々だった。
「人の営みっていうのは、数えきれないほど多くの犠牲の上で成り立っているものだ!だというのに、キミは…!
辛い、苦しい。だから死ぬだと?馬鹿者め。それで解決になるのか?それではただ、現実から目を逸らしているだけではないか!それが何の解決になるんだ!そんなくだらない感情で、キミは、今まで犠牲にしてきたものを台無しにするつもりか!
キミが、ここで諦めてはダメだろう…!いつかキミがあの世に行って、今まで犠牲にしてきたものに会ったとき、“お前らのおかげでこんなに幸せな人生になったぜ”って胸を張って言えるくらい、幸福な生き方をしなければいけない責務が、キミにはあるはずだろう!?」
想いは続く。
「なにより…!!」
ティアードロップは、振り絞りように、力を叫ぶ。
「キミの幸福を、誰よりも望んでいた彼女の思いは、いったいどうなるんだよ!!」
………え?
「どうして…どう、して…!キミは…死ぬことを選んでしまったんだよ……!!」
強烈に、猛烈に、キャラ崩壊すら気にしないほど、想いを叫ぶティアードロップ。
その、目尻から、
「…おい……?」
シルクのような頬を伝って、零れ落ちるものがあった。
「なんで、お前が、泣いて…?」
それは、奴の名が示すもの。ティアードロップ。涙の雫。
きらきらと輝くそれは、止めどなく溢れる。
「なんで…お前は…そこまでして、俺に優しくしてくれるんだ……?」
俺の生き死になんて、お前には、全く関係なんて無いのに。
「………それは、違うさ」
泣き腫らした、ほのかに赤くなった目元で、ヤツはまっすぐ見据えてくる。
「ボクの名はティアードロップ。キミの到来を、誰よりも嘆き悲しみ、そして涙する者。ボクは、死ぬことを選んでしまったキミがなによりも悲しい。なによりも悔しい…!キミの人生は、そんなところで終わっていいものじゃないだろう!!」
それは、内に響き、強く揺さぶる言葉。
「今が、どれだけ苦しくても!キミという善性は、必ず…必ず!幸福に満ちた未来に辿り着く!!理想論じゃない。希望的観測でもない!必ず、必ずだ!!だから彼女は、最後まで幸福だったんだ!!たとえ自分の命が尽きようとも、それは終わりなんかではなく!!もっと!もっともっと多くの…!輝きに溢れた、今よりももっと!大きな幸せに繋がるんだって!!そう、思えたのだから!!」
叫ぶ。涙も溢れる。嗚咽を漏らしながら。でも、ティアードロップは、その言葉を止めることはしない。
「キミが…彼女に誰よりも愛されたキミが…!それを信じられなくてどうする!?どんなに辛く、苦しい現実があろうとも、死がその救いになることは…!断じて無いんだ!!キミは、それら全てと共に…!一生!!この先を生き抜かなくてはいけないんだ!…ああ、残酷なことさ。辛いことばかりで嫌になる。でもっ!それがっ!!キミの人生なんだよっ!!!」
どんな時でも、照らし続ける太陽のように、それは止まらない。
「だけど、その先には…!必ず幸せな結末がある!!今の苦しみは、無意味なんかでは…!無いんだ!!」
顔が、ふっと上がって、
「だから……お願いだよ……っ」
朝露に濡れる花のように、大粒の涙を蓄えるその瞳が、こちらを一心に見とめる。
「死にたい…なんて、苦しみしかない…なんて、言わないでくれ…!」
高鳴りが、頂点に達する。
「生きて、くれよ……っ!」
振り絞るような叫びが、静けさに響き渡った。
しん、と静かになる。
ティアードロップは、力を出し切ったように、その場でぺたりと座り込んだ。
ティアードロップの言葉、叫び、想い。そのどれもが、今の俺には眩しすぎる。それが、俺なんかに、与えられていいのか。
俺は、そんな人間でない。けど、けれども、そんな俺のために、ティアードロップは泣いてくれたのか。
俺の死を、我が物のように悲しんでくれる人がいる。今の苦しさは、必ず、この先の幸福に繋がるのだ、と。そう言ってくれる人がいる。
春陽が死んだあの日。世界の終わりにも思えた、深い絶望。今も続く、後悔と懺悔。忘れられない罪の記憶に、どうしようもなく打ちひしがれてしまった自分。
春陽の居ない世界は、まるでモノクロームのようだった。色がなく、無機質で、悲しさに溢れきっている。
そんな世界で生きていくことが、どうしようもなく嫌だった。もはやどうにもならないと、独りで諦めていた。
でも、それは違ったのだ。
苦しみも、悲しみも、絶対に無くならない。在り続ける。変わることはない。だけど、それら全てが無意味ではなく、未来の幸福に繋がっている。
涙とともに、そう言われて。まったく…。卑怯だよ、ティアードロップ。卑怯じゃないか。そんなふうに言われたら、信じずにはいられないじゃないか。
春陽は俺に望んでくれた。生きてほしい、と。ああ、そうだ。俺は、あの時できなかったことを、今度こそやってみせるんだ。
春陽。お前のためなら、なんだってできるさ。それくらい、お前のことが好きなのだから。それを示すことが、生きることで為せるのならば、幾らでも生きてやる。
「……ティアードロップ」
俺がその名を呼ぶと、ヤツはこちらをゆっくりと向く。
「やっぱり、俺は、春陽がいないと、悲しいけどさ」
ティア―ドロップは、目尻に、いまだに大粒の涙を潤ませて。不安そうに、俺のことを覗き見る。
「そんな悲しさを、吹き飛ばす以上の幸せなんて、本当にあるかな」
「…当たり前だ!このボクが、保障するとも」
溢れる涙を拭いながら。それでも笑顔は絶やさぬよう、ティアードロップはそう言った。
「…………そうか」
分かった。
良いんだな、春陽。お前が、望んでくれたんだよな。
なら、俺はそうする。
「決めたよ」
声は、高らかに。震えているかもしれないけど、しかし心は、澄み渡った青空のようだ。
「生きる。お前と、春陽がそれを望んだように」
生きることを。お前が約束してくれた幸福を目指して。
「まあ、儘ならないことは、たくさんあるだろうけど、」
これからも、あの日のことを後悔するだろう。お前の居ない毎日に、悲しみ続けるだろう。それでも、
「頑張って、生き続けるよ」
その度に、俺は思い出そう。
春陽。お前との毎日を。全てが幸福で、全てが満ち足りていた。まるで、星の輝きのような日々を。
「そうか…そう、か……そうなんだね…!うん、うん!よかった…!よかった!!そう言ってくれて、ありがとう…!生きると、言ってくれて…ありがとう…!!」
* * *
ぼろぼろと溢れる涙を、ティアードロップは拭い続ける。
「もう、泣くな。お前が泣いてるとなぜか悲しくなる。見てて腹立つし」
「む!途中までは良かったのに!腹立つとか、泣いてる女の子になんてこと言うんだ!」
恨めしそうな表情を向けてくるティア―ドロップ。
「まあ…何はともあれ、ありがとうな」
「え…?なんだよいきなり気持ち悪い」
「ひ、人がせっかく、感謝の気持ちを伝えようとしたときに!!」
“まあまあ”という声がする。
「礼には及ばないさ。ボクの名前はティアードロップ。キミの到来を、誰よりも嘆き悲しむ者。キミが死を選ばないというのなら、それは無上の喜びだ」
微笑みながら言うティアードロップに、つられて俺も笑顔になる。意識せずとも無意識に、ふっと笑うことができた。
「じゃあ、そろそろキミとはお別れかな。ここは、自殺した者が来る場所だ。だからもう、生きることを決めたキミが、これ以上いて良い場所ではない」
「…そうか。長くここに居たわけでもないのに、なんだか寂しくなるな」
「そうかい?ふふ。そう思ってくれるなら、ボクも嬉しいよ」
ティアードロップは、はにかんでそう言うと、どこか遠くのほうへと振り向いた。それにつられて、俺も視線を振る。
「…あれは」
光があった。果てしない地平線だったそこは、真っ白な光の奔流となって、その先を、壁のように満たしていた。
「あれは門だ。キミが現実に戻るためのね。あの門は段々と近づいていき、そしてキミを呑み込む。この世界からも、まるでそれが夢だったかのように抜け出せる。といってもまあ、飲み込まれるのにも、まだ時間があるようだ」
ああ、そうか。なるほど、これはアレだ。
時間はある。しかしやるべきことはない。つまりは暇。
ならば、やることは一つ。
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