【命題】消せず、許せず、取り戻せない

 何か、事前に知らせてくれれば良かったのに。


 別に、黒猫が横切ったとかの凶兆があったわけでもない。つくづく、悪いことは何の前触れもなくやってくるのだなと思わされる。


 その日は平然と始まって、泰然と過ぎていった。ならば、悠然に終わる筈だったのだ。でもそうはならなかった。宵の口での出来事だった。


 その事故は、世間でも多く語られ、しかしすぐに忘れられていった。

 でも、俺は忘れない。

 忘れることができない。

 その日の出来事は、一つの固有名詞で印されている。


 『佐々古トンネル崩落事件』


 得て、それ以上に、置いていったものがある。


 * * *


 今は帰路の途中。バスに乗り、目的地まで揺られ続ける。

 それはいつものことだ。学校からバス停まで歩き、バスで移動したら降りてまた家まで歩く。それが俺の帰宅路であり、順序を逆にすれば通学路だ。昨日もそうしたし、明日だってそうするだろう。そう思っていた。


 つまりはまあ、それは単なる毎日の繰り返しであったということだ。変調はない。何事もなく、ただ過ぎ去っていくだけの時間だと思っていた。俺はそのとき、家に着いた後のことを考えていたのだから。


 隣には春陽が座っている。俺たちは同じバスに乗り、途中まで同じ道で帰っている。

 今日は疲れる1日だった。疲労は眠気を誘う。バスの揺れさえも、それはまるで揺籠の揺蕩いのように、眠気を助長する。


 横を見る。春陽は眠っていた。

 今は夕暮れ。バスの窓から夕陽が覗く。この世の終わりみたいに真っ赤なその光は、春陽の頬を朱に染める。


 まるで、美しく血に塗れたみたいに。


「………っ」


 手を伸ばす。紅く染まったそれに、触れようとして…


「……」


 唐突に視界から赤が消える。代わりに黒が満たす。

 バスが暗がりで広がる。トンネルに入ったのだ。


 そのとき、


「!?」


 どこからか、メリメリと何かが剥がれる音がした。それは段々勢いを増して、鼓膜を引き裂くような烈音となった。

 まるで雷が直撃したかのような轟音。しかし、そんな轟音に驚き、反応をしている暇もなく、また次の動乱が襲ってくる。

 天井に、重いものがいくつも落ちてくる。連鎖的に続く衝撃がフレームを歪ませ、砕き、窓のガラスにヒビを入れ、壊し。もはや何が起きているのか理解できたものではない。


 分かるのはただ、何かの事故に巻き込まれているのだということ。そして、分かった頃には、もう遅かった。


 バスが、一度、大きく揺れた。


 身を包む一瞬の浮遊感。そのすぐ後に、全身をかき混ぜるような圧倒的な衝撃と、引き裂くような破壊音がきた。

 全身がバスの中で振り回され、殴打と攪拌が己を犯し尽くす。

 

 記憶は、そこでプツリと途切れている。


 * * *


「……………?」


 焦げ臭い匂いで目蓋を開ける。今も感じる、はっきりとしない意識。どうやら俺は、さっきの衝撃で気を失っていたようだ。

 頭がクラクラする。吐き気もある。全身に走る鋭い痛みも。両腕から血で真っ赤になっていて、右の腕なんかは、折れて全く動かない。だけど、奇跡的に、生きていた。それを確認できた。

 そうして自分の無事に安心したとき、しかし再びの不安を得た。


「はる…ひ…?」


 ぐしゃぐしゃになったバスの中。隣にいた筈の、春陽の姿が見えない。


「……ッ!!」


 身体にのしかかる破片を押し除け、くぐり、通り抜ける。

 横転したバスの中。床が壁となり壁が床となったそこは、瓦礫などで雑然としていた。バスのフレームを突き破って存在する分厚い鉄板鉄骨や、歪み壊れもはや原型を留めていない座席たちは、狭い車内をさらに狭小にさせた。


 そのときの俺は、酷いパニックに陥っていたのだと思う。何をすれば良いのかも分からず、とりあえず春陽を探そうと混乱ながらに思った。


 その時だ。


「!?」


 鼓膜を破るような爆発音を聞いた。それは、すぐ近くから聞こえた。パラパラと、何かの崩壊が始まった気がした。


 瞬間、心胆を寒からしめるような、悪い想像をしてしまった。

 もしかしたら、ここもいずれ爆発するのではないか。速くこのバスから脱出したほうが良いのではないかと。そんなふうに心の中で諭す気持ちがあって、俺は咄嗟に一歩後ずさった。


 すると、


「…ゆー…くん…?そこに、いるの…?」


 声がした。春陽の声だ。

 俺は振り返る。瓦礫の向こうのさらに向こう。頭から血を流し、服を真っ赤に染めて、春陽は瓦礫の下敷きになっていた。


「春陽!?」


 反射的に駆け寄りそうになって、しかし、その足を止めるように、また新たな爆発音が響いた。

 重い何かが落ちる音。それがいくつも聞こえた。もはや、トンネルさえもが崩落寸前なのだ。


「ゆー…くん…!速く…逃げ、て…!」


 そのとき、俺はさらなる混乱に陥った。

 速くここから脱出しなければ、無事では済まないかもしれない。だけど、ここで逃げれば、春陽がどうなるかなど、分かりきったことだ。


 どうすれば良い。どうすれば良い?誰に問うでもなく、そして答えを得ることもなく、考えだけが頭の中を迷走する。

 春陽を見捨てるわけにはいかない。だけどこうしてここに居続ければ、2人とも死ぬかもしれない。

 片方を思い遣れば、もう片方に意識が向く。堂々巡りな脳内会議は踊り、しかし結論を下すことなく、ただ時間のみが過ぎていく。


 どうすれば良い。どうすればいい?俺の信じるものは、どうすれば良い?


「お…俺、は…」


 爆発音は、その先を覆う。


 * * *


 俺は歩いた。進まなければならなかった。

 そのときの俺は、どんな感情を抱いてたのか。

 覚えているのは、鉛のように重い全身と、引き裂くような痛み。

 炎のトンネルを進み続けて、ようやく、暗さの入り口に逃げ込んだ。夕方であった空には、すっかりと闇が広がっている。肌を焦がす熱さはもう無かった。夜風の冷たさが、何より嬉しかった。


 後ろを振り向く。

 トンネルがある。

 ずっと、さらにずっと奥に。

 春陽がいる。


 俺は、春陽を、見捨てたのだ。


 * * *


 それは実に合理的な判断だった。


 あのままでは、2人共トンネルの崩壊に巻き込まれてしまうのは必定。であればこそ、自分だけでも逃げるのが最善であった。


 第一、春陽も言っていたではないか。俺に、今すぐ、逃げろと。俺はそれに従った。それが春陽の望みであれば、言うことなど何もない。

 だからこれは、仕方がないこ…                                                                       

                                        違う。


違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。


 俺は見た!振り返って、逃げてきた後を見た…!だけど…!


 はっきり言ってしまおう。俺はそのとき、さっさと崩れてしまえと思った。たった今生還してきたトンネルに。崩壊を迎える絶望の穴に。

 そうすれば、俺は俺の愚行に正しさを見出せる。俺の行動は、正しかったのだと。意味があったのだと、ほんの少しでも思えた。


 なのに。


 崩壊は、ひどくのんびりとしたものだった。

 命からがら逃げ出して、今にも崩れそうに思えたそれは、しかしまだ崩れない。

 息も落ち着き、夜風が涼しさではなく冷たさを運ぶようになったとき、しかしそれは崩れない。

 意識を立て直し、絶望に陥るとき。しかし、それでも崩れなかった。


 充分で十分な時間の空白をもって、崩壊はゆっくりと訪れた。

 春陽を救う時間は、あったのだ。

 どうにかしようとする猶予は、残されていたのだ。

 俺があのとき逃げていなければ、春陽は、助かっていたかもしれないのだ。

 …俺は、それを結果論だと思えない。だって、俺は、春陽が、


「好きだった、はずなのだから」


 * * *


 過去の記憶ばかり、閲覧している。


『⬜︎⬜︎⬜︎ん⬜︎。⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎』

『ああ、おはよう春陽』


『折角の優等生サマがそんなことして良いのか?』

『⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎、⬜︎⬜︎⬜︎と⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎に⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎い⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎ら⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎?』


『まあ、何はともあれ意外だな。お前がそんなにモテないなんて』

『⬜︎?⬜︎、⬜︎⬜︎?』


 楽しかった。とても幸せだった。こんな日が、毎日続くと思っていた。


 でも、もう無い。

 その幸福は、炎と煙の記憶を跨いでから、存在することはない


 だって、


 俺が見捨てたのだから。


「……ぁ…」


 俺には、後悔する資格すらない。あってはならない。許してはならない。だって、見捨てたのは、間違いなく、自分で選んだことなのだから。


 だというのに俺は、悲しんでいる。自分で選択した結末に、絶望している。

 そのことがなによりも穢らわしい。そんな感情を得るのであれば、いや!春陽を本当に好きだと思っていたのなら!俺はあそこで、逃げるべきでは無かったのだ!!!


 俺は春陽を救えた。でも、できなかった。しなかった。あそこで、逃げさえしなければ、春陽は死んではいなかったのだ。

 その事実が、今の俺を苦しめる。いや、当然の結果だ。でも、でも!俺は、春陽の死を、望んでいたわけではない!

 どうして…どうして…なんで…あんな、ことに…!!


 醜い俺は、そんなことを考える。チロリと、何かが燃える。どうして、あんな結末にしたのだ…!!

 数多ある選択肢の内、一つだけ、全てを救う方法があって。それを、どうして!全てが終わった後に知らせた!?


 そんなこと、知らなければ良かった!!そうすれば俺は、自分の醜さに気付かずに済んだ!俺は、その後を、緩やかな悲哀で過ごすことができたはずだった!

 俺は!俺、は……


「………あぁ」


 そこでようやく、理性が戻ってきた。その激情は、勘違いも甚だしい。盗人猛々しいとは、よくぞ言ったもの。そこで再び、痛感する。


 自分は、なんて、醜悪なのだろうか。


 * * *


「……?」


 気付けば、夕闇の中にいた。


「ここ、は…?」


 四角の室内。規則正しく並べられた座席。そこは、見覚えのある、あのバスの中だった。

 断続的な揺れが身体を響かせ、窓から、血のように真っ赤な夕陽が、こちらを見つめている。


「あれ…?なんで、俺…こんな、ところに……」


 頭が、ふわふわとして、どうして、こうしているのか。少し前の記憶も、思いだせない。


「ああ、そうだ…」


 そうだ。いつも、していたことじゃないか。

 ここはバスの中。そして、時刻は夕方。つまり、今は学校からの帰りの途中だったのだ。


「あれ…?でも、」


 でも、どこかおかしい。

 バスの中は、妙に静かだった。揺れる音はするけれど、人の声はまったくしない。

 誰も居ないのだろうか?そう思って、俺は周りを見渡す。


「…え……?」


 すると、


「―――――」


 そこには、春陽がいた。


「…春陽….?」


 こちらに背を向ける春陽に、俺は、手を、伸ばそうとして、


「あ」


 赤い夕陽が、ぱっと消えた。

 ぱっと消えて、暗闇が満ちて、


「……!?」


 次の瞬間、耳を劈くような、破壊音が響いた。


「な、なにが…!?」


 爆発音が響いた、その瞬間。


「え?」


 バスの天井を突き破って、それは落ちてきた。


「ッッッ!!!!」


 バスは横転する。逆らうことのできない衝撃に、全身がかき混ぜられる。


「ッが!?っハ!?!?」


 硬い何かが、身体の骨張るところを強打する。


「ッあ!?!?」


 倒れた瞬間、迫る瓦礫が、己の四肢を押し潰す。

 絶叫。


「あああああああああああ!?!?!?!?!?」


 筋肉が、ブチリといって断裂する。骨と関節は、極大重量によって噛み砕かれる。鮮血は一瞬で辺りを満たし、爆発による炎の大群は、全身をぐちゃぐちゃに、爛れるほどに焼きつける。


「ァ…!?ッガ……!?」


 息ができなかった。苦痛を感じる前に、また次の苦痛がくる。


「ッア!?ガ…!!!!」


 腹の中を、異物が抉るのを感じる。逃げようとして伸ばした手を、鋭い破片が磔にした。鋭利が、手の甲から腕までに、鮮やかな紅を描く。


「ア、ぐ…ガ!?」


 濁流のように襲いくるその痛みに、脳が焼き切れそうになる。痛みを超えた、苦痛を超えた、激痛を超えたそれらに蹂躙されて、意識が吹き飛びそうになる。

 崩壊は、一旦の停止をした。連続していた破壊音は、断続的なものへと変わる。


「ッハァ…!!ハァ…!!」


 破壊は止まった。でも、負傷がどうなるわけもない。

 全身が痛い。焼けるように、引き裂くように。痛みは際限なく、止むことはない。

 朦朧とする意識のなか、血がどくりと溢れていくのを感じながら、それでも俺は、唯一動く喉を震わせる。


「…たす…けて……」


 痛い。苦しい。


「…だれ…か……」


 誰でもいい。俺を、この地獄から、救ってくれ。


「…たすけて……」


 死にたくない…!


「…死にたく…ない……!」


 混濁する視界。そこに、ふと、黒い髪の少女が見えた。


「春陽……?」


 ああ、そうだ。春陽だ。俺を、助けに来てくれたんだ!


「たすけて……はる…ひ…!」


 もう、痛くて、苦しくて、堪らないんだ。早く、早く俺を助けてくれ!


「―――――」


 しかし、


「…え?」


 春陽は、近づいてこない。


「…おい…?」


 むしろ、離れていく。


「…どうして…?」


 その背中が、どんどん離れていく。


「…待って…!待ってくれ……!!」


 どれだけ叫ぼうとも、その姿は、こちらを振り向くことさえしない。


「…なんで…!?春陽…!」


 もう一度、叫ぼうとしたとき。


「……!?」


 再び爆発音が響く。

 崩れる音が、さらなる縦列を為す。

 トンネルが、崩壊してゆく。

 炎の眩しさにやられて、俺は思わず、まぶたを閉じた。


「………?」


 開けた先。そこには、もう。


「ぁ…」


 春陽の姿は、どこにもなかった。


「……………」


 激震の轟く破壊。身体を走り回る痛みと苦しみ。炎の熱さと、紅の輝き。そして、それら全てが導く、どうしようもない死と断絶。


 俺に残されたのは、そういうものしかなかったということだ。


「………いやだ…」


 誰も居ない。


「…いやだ……!!」


 誰も、居ない。


「いやだ!!!」


 泣き叫ぶ。


「死にたく無い…!!」


 血が溢れ、涙が溢れる。


「こんな…一人きりで…なんて!!」


 孤独の悲しみは、肢体を焼き貫き砕いた痛みを優に超える。


「春陽………!!」


 名前を呼んでも、意味はない。


「…だれか……!!!!」


 叫んでも、意味はない。


「だれか…!たすけて…!!」


 救いを求めても、意味はない。


「…どうして……!?」


 その疑問に、意味はない。


 なぜなら。


「………ああ、そうか」


 それは、俺がしたことなのだから。


 * * *


 俺が悪い。俺が選んだ。俺が悪い。


 それからずっと、自分自身を呪い続けた。あのとき何もできなかった自分を。その結果に苦しみ続ける自分を。


 俺は、どうすれば良かったのだ。

 そんなもの、決まりきっていた。

 俺は、どうして、そうしなかったのだ。

 俺は、愛する人より、自分の命を優先した。

 春陽はなぜ、死んだのだ。


 それは、


『オマエノセイジャナイ』


 違う。


『ショウガナイコトダヨ』


 その声は、残酷なくらいに優しくて、


『オマエハナニモワルクナイ』


 掻きむしりたくなるほど、穢らわしい。


『アレハタダノジコダ』


 やめろ。


『ワカルサ。ツラカッタダロ?』


 黙れ。


『ハルヒガシンダノハ、』


 それ以上言うな。


『キミノセイジャナイ』


「黙れ!!」


 叫ぶ。


「知ったような口を利くな!!!!」


 俺は…!


「許してほしいわけじゃない!!!!」


 怒号が響く。雨上がりのように静かになる。優しかった声は、もうない。


『……………』


 やってしまった、と思った。悲しむ俺を、彼らは励まそうとしていただけなのだ。それは、別に俺を貶めようとするわけでなく、ただひたすらに優しさから来ていたはずなのに。


「…い、いやっ…ちが……」


『―――――』


 離れていく。


「…ご、ごめん…でも……!」


『―――――』


 1人、また1人と。


「ま、まって…まって……!」


『―――――』


 ガチャリ、と扉は閉まる。

 もう、誰もいない。

 俺は、


「ぁあ…ぁ………」


 独りだった。


 * * *


 俺は、自分は春陽のことが好きなのだと思っていた。でもそれは、もしかしたら、違うのかもしれない。


 俺は、善く生きることを望んでいた。善性が、生きることの第一条件であるかのように。正義のヒーローに、なりたかったのだ。

 春陽は、途方もない善人だった。俺が望む在り方を、形にしたかのような存在だった。だから俺は、好きになったのだ。好きで、いられるようにしようと思ったのだ。


 思い出す。

 あの日のことを。

 俺が、どうして、春陽が好きになったのかを。

 陽の光みたいに輝く彼女を好きでいられるなら、俺も少しは輝けるんじゃないか、と。

 そう、思ったはずだった。

 だからだろう。俺の“好き”は、手段だ。それ自体が目的ではない。

 だからだろう。だから、俺は…春陽を、見捨てた。


 ああ、そうだ。そう考えると、俺は幾らか気が楽になった。なってしまった。だから、これでいいのだろう。


 もう、俺には何もない。


 救えた筈のものを救わなかったのは、ひたすらに自らの醜さゆえで、

 俺の“好き”すらも、偽物で、

 偽物だったものも、もう何処にもいなくて、

 俺は、そんな世界で、生きていくことはできない。今も尚、この身を灼く苦しさに、耐えることができない。

 確信が達した。

 天秤は、逆転する。

 

 * * *


 ざざーん、ざざーんと波の音がする。白い、砂浜にいる。

 ようやく、俺は、俺の記憶を取り戻した。忘れていた、苦しみさえも。


「……ッ!!!」


 もはや、何を考えることもない。


「ッガ!!!」


 掻く。掻きむしる。首を、血の通るそれを。この命を止めるため。


「ク…カ……!!」


 痛い。痛い。早く、死にたい。1秒でも早く、俺は、この苦しさから逃げ出したい。


 あの日からずっと、頭の奥で言葉が響いてくる。


『お前が死ねばよかった』


『どうしてまだ生きているのか』


『お前のせいだ』


『彼女が生きるべきだった』


『不公平だ』


『お前に価値は無い』


『死ね』


『死ね』


『死ね』


 分かった……もう、分かったから……。

 やめて…やめてくれ……。

 もう、許してくれ……もう何も、考えたくない……。

 全て、思い出したから…。俺が、悪いから……。

 

 俺が、死ねば良かったんだ。


「駄目だぁあああああ!!!!!」


 瞬間、ティアードロップの方向から飛来してくる物体がある。


 ノートPCであった。




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