【命題】吾輩は普通の人間である。名前はさっき知った
俺という人間を説明するうえで最も難しいこと、というか面倒くさいことは、説明するほど面白い人生を歩んできたわけではないというところだ。いや、そもそもこんな前置きをする時点で、月宮悠斗という男がどれだけ平凡であったかが窺えるだろう。
とはいっても、そんなのでは説明にならない。なのでこれは、月宮悠斗という人間がどんな人間なのかというより、どれだけ普通なのかを示す場となる。
とりあえず、基本ステータス。
男。17歳の高校3年生。APPは14くらい(ただし自己申告によるものとする)。
犬か猫どちらが好きかと言われれば、ジャンガリアンハムスターが好きだと答える。
誇れるような特技があるわけでもないし、どうしても成し遂げたい夢があるわけでもなかった。それを俺は変わっているとは思わない。その精神性は、きっと数あるものの一つに過ぎないのだろう。
…やはり、自分を説明するというのは難しい。いや、難しいというより、気恥ずかしい。別にそんな、他人に語り聞かせることができるほど、ひねりの効いた面白可笑しい人生を歩んできたわけではないのだ。
そも、自身が思う自身など、得てして自分の思い描く理想にすぎない。こうあるべき、という願望が、本来の俺を朧げにする。それはきっと、月宮悠斗などでは到底ないのだ。
無論、月宮悠斗がどんな人間であるかということを完璧に説明する方法はある。出生から今に至るまで、今まで生きてきた記録全てをここに示せばよい。
でもそれは、とてつもなく長くなる(或いは、意外に短いのかもしれない)だろうし、陰々鬱々としていて、見るに堪えないものでもあろう。まあ、要するに、短い文章で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いということだ。
ならば、ここはとある先人に知恵を借りようと思う。
自分自身を説明するのは不可能。でも、自分以外の何かを説明することはできるだろう。
そうすることによって、自分以外の何かに対しての相関関係や距離感が自動的に表され、結果的に自分自身を説明することになるということだ。
とはいえ、俺はカキフライが特別に好きというわけでもない。ならば、何について語ろうか。
考えて、しかしすぐに思いついたものが一つあった。
俺は自殺したらしい。らしい、と言うのは、それは実感がないからだ。自分が自殺しただって?いったい何があったのやら。そんな、他人事なくらいに。
俺が自殺したワケはいまだに分からない。自分自身についてを思い出したといっても、それが全てではないのだ。何か、まだ忘れていることがある気がする。
そんなこんなで、今の俺の中では自殺がトレンドだ。だから、ここは一つ”死”について語ってみることにする。……死について語る高校生。まあ、なんというか。目をチョキでパンチしたくなるような、なんとも傍らいたしといった感覚。
死について、どう思うか。すぐに思いつく感覚としてはやはり、怖いというものだろうか。自殺して、ここに来たというのに、今の俺は死に対して恐怖を抱いている。おかしく聞こえるだろうか?
自殺者の俺は、どうしてか死に対して恐怖を感じている。それはいったいどんな恐怖か?ここで一つ、俺のエピソードを引き合いに出してみよう。
俺が今よりもっと小さいころ。子供特有の幼さ故に、母にとあることを質問してみた。
「人って、死ぬと、どうなっちゃうの?」
そのときの俺は、いったいどんな気持ちでそれを口にしたのだったか。覚えているのは、困ったように返事を濁す母の苦笑であった。
満足できなかった俺は、父にも同じ質問をした。父は物知りだ。きっと知っているに違いない。そんな確信と共に聞いたのだが、だいたい母と同じ反応をされてしまった。
当然、そんなもので好奇心が満足するはずもなく、当時の俺は小学校の担任の先生や、近所のお年寄り、図書館の司書相手など、とりあえず思い浮かぶ頭の良さそうな人に、片端から同じことを聞いたのだった。
ある人には、笑って誤魔化されてしまった。ある人には、分からないと素直に言われてしまった。ある人には、最もらしいことだけ言って、肝心の答えをはぐらかされてしまった。
眠るように穏やかなものだ、と言ってくれた人もいた。今までの人はろくに答えてもくれなかったものだから、“なぜそう言えるの?” と追加で聞いてしまったのも覚えている。二つ目の質問には、答えが返って来なかったことも。
いま思えば、それも当然だといえる。なにしろ、本当に死んだことのある人なんているわけがないのだから。
我ら生者が思い描く死とは、人の勝手な想像の受け売りでしかない。と、そんな言葉を本で見たことがある。聞く人が違えば、返ってくる答えも三者三様だ。分かっているのは、命が無くなるということだけ。
でも、その時の俺にそんなことが分かるはずもない。全ての疑問には、それと同じ数の答えがあると思っていた。
どんな人に聞こうとも答えてもらえず。ならば本で調べようとすれば、わけの分からない言葉ばかりで理解不能だ。そのとき俺が使った本は…医学書だっただろうか。分厚い百科事典も使った気がする。見たこともない文字が敷き詰められたページの数々。そりゃあ分からないのも当然だ。
分からない、分からないと喚き散らして、それをよく父や母に宥められた。まったく、子供の頃の俺は、容赦なく周りに迷惑をかけたものであるのだな。
子供が考えうる全ての策を使い果たした俺は、一度は諦めていたのだと思う。きっとこれは分からないものなのだと、そう自分に言い聞かせて。
でも、それでも自分の中の好奇心はまだまだ燻っていて、数日も経たないうちに、やっぱり知りたいと思うようになった。でも手段がない。あらゆる手は尽くしてしまった。
だから。俺は試すことにしたのだ。
祝日。父も母も出掛けて、1人、家の留守番を任されたその日。台所から、母がいつも使っている包丁を持って自分の部屋へと向かう。本で死を調べている最中に知ったことだ。人は手首を切ると、たくさん血を流して死んでしまうらしい。
なんの迷いも無く、ただ“知りたい”という明確な意思を持って、包丁を手にする俺は、ある意味狂気的ともいえる。それほどの疑問だった。それほどの興味だった。それほどの難問だった。
逡巡など無い。ためらいなど無い。右手に握られた銀色。その鋭いほうを、左の手首にそっと当てる。自分がどうなるかなんて考えなかった。だって、それが知りたくてそうしていたのだから。
そのときに、それは来た。
左手首の内側。管状に隆起するそこに、金属の冷たさを感じながら。あとは右手を思い切り右に引けば、というときに。俺は今までにない奇妙な感覚を得たのだ。
胸の奥、は少し違う。もっと下の、腹の内側というのが的確だろうか。そこが、ぎゅうっと締め付けられるような感覚。とても、良いなんてものではない。
真っ暗な夜に感じる不安感のような、親と逸れ一人ぼっちで広いショッピングモールを駆け回る心細さのような、歯医者で順番を待っているときの胸騒ぎのような。そんな感覚だった。
右手を引けば良いのだ。ただそれだけで試すことはできる。でも、たったそれだけのことが、そのときの俺には難しかった。
気づけば体が震えている。だというのに、右手は石のように動かない。包丁を握る力も、徐々に抜け落ちていく。痺れ、疼き、己の“動け”という意思に対して、反逆しているよう。
やがて包丁が支えを失い、するりと手から抜けていく。硬質的な音が響くなか、俺は何もできずただ棒立ちしていた。
しばらくそうしていると、自分が今一人きりであるということが妙に強く意識されて、わけも分からず泣き出してしまった。
結局、その日は試すことは出来なかった。震える体をベッドに押し付け毛布に被り、必死に丸まっていた。あまりの心細さから、ちょうどそのとき外出から帰ってきた母に思わず抱きついて、慰められたのだった。
そのときの感覚の名前を、当時の俺は知らなかった。でも今なら言える。
それは、恐怖だ。
冷たさの如き恐れだ。研いだ刃の如き怖れだ。
夜の暗闇に感じた不安も、親と逸れた心細さも、歯医者で順番を待つ胸騒ぎも。種類、形はそれぞれ違えど、その根源にあるものはどれも、恐怖という感情だったのだろう。
ならば、死ぬ間際に得る恐怖とはどんな恐怖なのか。俺はあの時のことを思い出す。腹の内側が締め付けられるような感覚。今なら、それに相応しい名前を与えられるはずだ。
不安….心配?いや、違う。違うというか、それの対象が分からない。何を不安に思っている?何を心配している?その対象こそ、答えのはずなのだから。
今はもう朧げな子供の頃の記憶。ふとした日に思いついた、“死”とはなにか、という疑問。あのときの俺は、いったいなにを思ってその疑問を口にしたのか。
こういうのは、論理的に考えても埒があかない。感覚的に、思いついたことを発着点に、想像を膨らませる。
死というものが分からない。分からないからこそ知りたいと思った。分からないということは恐怖?いや、それは違う。なんとなくだが、それはそのとき感じた恐怖の本質とは違う気がする。
痛み?たしかに、痛いのは苦しい。苦しいのは嫌だ。それを恐怖として捉えることもできる。でもそれだけと思えるほど、この疑問に噛み合うものではない。あくまでそれは添え物で、主たるものではない。
では、主たるものとは何か?
改めて、死とは何かということを考え直してみる。あのころは、それを色々な人から聞いたし、それから今に至るまでも、様々な方法で見聞を広めていっている。
返ってくる答えは、正しく三者三様。一つも同じ返答は無いし、百人に聞けば百個の、答えになり得るものが返ってきた。でも、それらから一概にして言えることは一つ。
死とは、生ではなくなることだ。
同じように聞こえるだろうか。いや、断じて違う。少なくとも当時の俺は、死ぬことより生きることができないことに恐怖を感じていたと思う。
……一つ、思い出したことがある。
子供の頃の俺は、別にどこか特別な才能があったわけではない。
学校へ行き、友達と遊び、ご飯を食べて良く眠る。月並みにものを考えられて、それでも敢えて言うとすれば、少しだけ好奇心が強かった、だろうか。
俗人が思い描く普通の日常を当たり前に過ごせて、またそれを幸福だと自覚していた。
勉強は面倒くさいけど、友達と会って遊ぶことは楽しかった。家に帰れば、他の誰よりも頼もしい父がいて、他の誰よりも優しい母がいて、その間で笑い合えることは、とても暖かかった。
あの日。誰もいない家の中。包丁を手首に当てたとき。それら全てがいきなり思い出された。また、これ以上進めば、もう二度と、その幸福を得られないのだと気付かされた。そんな簡単なことを、なぜ今まで気付けなかったのか。
……ああ、ようやく思い出せた。あのときは言葉に出来なかったが、今は違う。
生ではなくなる。生きる事ができないということ。死んでしまえば、今まで得てきた愉悦は、もう二度と得られない。それはすなわち、手に入る“幸福”を失うことに等しい。
それはきっと、真の恐怖たり得るのだろう。
続く平穏も、成し遂げたい志も、誰かと共にいる幸福も。生きることで得られるもの。それはきっと、愉悦なのかもしれないし、懊悩であるのかもしれない。
だけれども、死はそれら全てを置き去りにする。それは、紛れもなく、恐怖以外の何者でもないはずなのだ。
死ぬことが怖くない人間なんているはずがない。それはきっと、正しいのだろう。
でもそれは、必ずしも“生きることが苦しくない”という意味にはならないのだ。
死ぬ恐怖より、生きる苦しさが優ったなら?いや、言い方を変えよう。
死ぬ幸福が、生きていく苦しさを上回ったのなら?
その幸福は、命を捨てるに値する。そして、
そんな幸福は、俺にもきっと、存在したのだろう。
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