白鳥と緊張

ハルマサ

第1話 白鳥と緊張


 白鳥モモエはバレエ部に所属している。

 「バレエ部」と言うと周囲からは「ポジションはどこか」と聞かれるが、わたしがやっているのは球技の「バレー」では無く、舞台舞踊の「バレエ」である。

 しかし勘違いされるのも致し方ない部分があった。

 バレエ部には現在、部員がわたし一人しかいないのだ。

 だから、来年からは同好会となる事が決定している。

 十二月に東京で開催されるコンクールで優勝でもすれば結果は違うのだろうが、わたしは市のコンクールでの優勝は愚か、表彰台に上がった経験すらない。

 そんな人も実績もない部活が同好会に降格されるのは当然の処置だった。

 けれどわたしは悲しくはなかった。

 例え同好会に降格されようと顧問の先生が変わるわけじゃない。

 わたしには「フルサト先生」がいればそれでいい。

 ……そう思っていた。


「モモエさん。紹介するわね。こちらバレエ同好会の新しい顧問になる……」

「イヌイだ。よろしく」

「…………」


 突然現れた三十代くらいの男は、これまた突然にわたしの新しい顧問になった。

 不審な男だ。ボサボサの髪に、無精髭。教師という肩書きを疑いたくなる容貌をしている。

 わたしはイヌイなる不審者をじっと見つめると、未だ状況の飲み込めていない瞳でフルサト先生を見つめた。


「えっと、つまり……フルサト先生が顧問で、この人が副顧問になる……?」

「いいえ、そうじゃないわ。彼が私の代わりに顧問になるのよ」

「……フルサト先生は?」

「私はダンス部の顧問になる事になったの。ほら、タケナカ先生が産休になったでしょ。その穴埋めね」

「だったらこの先生がダンス部の顧問になればいいじゃないですか。どうしてフルサト先生が……」


 自分がわがままを言っているのは理解している。

 こんな事を言ったってフルサト先生を困らせるだけだ。

 事実いつもは優しい笑顔を浮かべていたフルサト先生はバツの悪そうな顔をしていた。


「ダンス部は人数が多いから……ダンス未経験者のイヌイ先生には任せられないと思ったの」

「……わたしを見捨てるんですか?」

「そうじゃない、そうじゃないのよ、モモエさん。私も最後まで貴女の顧問で居たかった。けどね、これは仕方の無い事なの。分かってもらえるかしら?」


 分かるはずがない。大人の事情とやらは、まだ高校生でしかないわたしには分かるはずがない。

 ただ、そんなわたしでも分かることが一つある。

 それは大人の事情とやらがわたしの全てを奪っていったという事だ。


「練習を、してきます…………」


 わたしは自分の醜い顔をフルサト先生見せないように、彼女に対し背を向けると、掠れるような声でそう言った。

 そして足早にその場を立ち去った。


 ▼


 顧問がフルサト先生からイヌイに変わってから二週間が経過した。

 あれからフルサト先生はバレエ部には顔を出していない。

 代わりにイヌイはバカの一つ覚えのように毎日わたしより先に部室にやってきていた。


「よっ、モモエ」

「……こんにちは」

「今日は何を練習する?」

「……『白鳥の湖』です。コンクールでやる曲なので」

「あ、それなら俺も聞いたことがあるな。あれだろ? 『茶色好きー』みたいな名前の人が作った曲だろ?」

「……」


 わたしはいつものように辟易とした態度を露にし、彼を睨んだ。

 イヌイは全くと言っていいほどバレエの事を知らなかった。彼が知っているのはバレエを踊る人間を『バレリーナ』と呼ぶことと、『白鳥の湖』の作者が『茶色好きー』であるということくらいだ。

 実際はバレリーナはバレエを踊る女性を指す言葉だし、白鳥の湖の作者はチャイコフスキーなのだが、これを指摘したところで彼が唐突に凄腕の指導者になれるわけでは無い。

 わたしは邪魔くさい彼を頭の中で勝手に消去した。

 部屋の奥の棚からレコーダーを引っ張り出してくる。それをガラス張りの壁の近くの机の上に載せた。

 レコーダーのボタンを押して、曲を流す。曲は当然『白鳥の湖』だ。

 頭の中で振り付けを反芻しながら、別室にて練習着に着替える。

 だいたい曲の中盤で着替えが終わるのでイヌイのいるダンス部屋に戻り、レコーダーの前でストレッチ。

 一曲流し終わる頃には、丁度準備が完了する。

 レコーダーを操作して一つ前の曲の終わりの三十秒を流す。

 それが流れている間にわたしは所定の位置に付き、目を瞑る。

 曲が終わり、切り替わる。流れるのは『白鳥の湖』。

 わたしの四肢が脳内のイメージに従って動き出した。


 ▼


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 曲が終わると、わたしは肩で息をしながら額の汗を拭った。

 わたしは体力が少なく、四曲踊るだけでこのザマだ。

 こうなると二十分は休憩が必要になる。

 わたしは壁に背を預けると、水筒の水を一口飲んだ。


「いやぁ、やっぱりキレイだね、バレエってのは。いつ見ても感動するよ」


 休憩をとるわたしの前にイヌイが手を叩きながらやってくる。

 彼はいつもこんな調子だ。

 最初のうちは褒められたようで嬉しかったが、二週間も続けば誰だってこれがお世辞だということに気づく。

 気づけばただ鬱陶しいだけだ。


「気を遣わなくていいですよ。自分の踊りの程度くらい自分が一番よく分かってますので」

「その程度ってのは、練習の踊り? それとも本番の?」

「──ッ!」


 イヌイの質問を聞いたわたしは手にしていた水筒を落としてしまった。

 練習着が水に濡れる。

 しかし、それが気にならないくらいの衝撃がわたしの心臓を揺らしていた。

 わたしはイヌイの顔を睨みつけた。


「……どういう、事ですか?」

「…………」


 イヌイは何も言わなかった。

 ただ、彼の目がわたしの全てを見透かしているように見えて、わたしはつい胸を押さえた。

 イヌイがふっと息を吐く。


「いやね、昨日部室の掃除をしようと思って色々やっていたんだ。そしたら君の去年のコンクールの映像が出てきた。失礼ながら中を見させてもらったよ」

「────っ」

「課題曲はキミの十八番の『白鳥の湖』。聞くところによるとキミはあれを小学生の頃から踊っているらしいね。どうりで上手いわけだよ。素人の俺が言うんだから間違いない」


 イヌイはそこで言葉を区切ると、「だが」と話を続けた。


「素人目から見た去年のキミは下手くそだった。十年近く踊り続けた曲のはずなのに、動きは硬く、見せ場で振りを間違える。正直、見るに堪えなかったよ」

「…………」

「けどどうしてか、今日のキミの踊りはたった一年の練習にしては上手すぎた。凄い上達ぶりだと言えばそれでお終いだ。けど、そうじゃない。このまま行けばキミは今年のコンクールで去年と同じ踊りを披露する羽目になるだろうね」


 二週間前にあったばかりなのに、イヌイはまるでわたしの全てを見てきたようにそれらを語った。

 そして、わたしがひた隠しにしてきた弱点すらも。


「──キミは未だにゴジラのように巨大な緊張に追われているんだろう?」

「…………」


 本当にイヌイは凄い先生だ。

 フルサト先生もその事には気づいていただろうが、ついぞわたしに答え合わせをしてこなかった。

 これまでの先生もそうだ。

 場数をこなすうちに緊張は小さくなり、やがて消えると、そうタカをくくってわたしの問題から目をそらそうとしてきた。

 けど、そういった思惑とは反対に舞台に上がれば上がるほど、そこで失敗を重ねるほどにわたしの緊張は大きくなり、いつしかわたしの視界に収まりきらないほど巨大な化け物へと成長していった。

 これを倒さない限り、わたしは舞台で踊れない。

 なのに、倒す手段が見つからない。

 目に見える化け物じゃない。だから、誰かの助けは届かない。

 これはわたしの問題で、わたしだけが解決の鍵を握っている。

 だから──


「緊張? 違います。去年はただ単純にわたしの技量が足りなかっただけです。今日のわたしの踊りが上手く見えたならそれはわたしの努力です。わたしが死にものぐるいでやってきた努力を緊張なんて安っぽい言葉で汚さないで!!」

「…………」

「──っ!? …………練習に、戻ります」


 気づいた時にはわたしは声を荒らげていた。

 その声にイヌイは面食らった様子で、ただ立ちすくんでいた。

 わたしは小さく呟くとレコーダーのボタンをいじった。

 その手が震えていた事にわたしだけが気がついた。

 だってその部屋にはわたししかいなかったから。

 最後に見たのは部屋の扉を閉める、イヌイの老木のような太い指だった。


 ▼


 イヌイはあの日以降も部室に顔を出した。

 ただし言葉を交わすことは無い。

 話すのは些細な業務連絡だけだ。

 それ以外は無音。白鳥の湖だけが静かに響く。

 そんな日々が二ヶ月続いた。


 ▼


 十月。秋も終わりに差し掛かり、いよいよ空気が鋭さを持ち始めた頃。

 わたしはわたしと似たような格好をした女子たちが犇めく部屋の隅にいた。

 これから始まるのは市が開催したコンクール。

 参加者はここにいる二十名。わたしの出番は前から三番目だ。課題曲は当然『白鳥の湖』。

 わたしは先程からその曲を聞きながら、いつもと同じようにイメージトレーニングをしていた。


「──はぁ、はぁ……」


 ゆっくり深呼吸をする。深呼吸をする。深呼吸を──


「はっ、はっ、はっ……」


 イメージが固まらない。頭の中に靄がかかったように、覚えたはずの振り付けの一部が黒ずんではっきりとしない。

 曲のリズムが歪に感じた。間が広く、かと思ったら突然音が跳ねる。

 指が震える。

 わたしはいつの間に極寒の地にやってきたのだろうか。

 足や腕が凍りついたように動かない。


 ダメだダメだダメだ。また……また、この感覚──


「モモエちゃん?」

「──っ!?」


 不意に肩を叩かれて、わたしは跳ねるように振り返った。

 そこにいたのはコンクールでたまに顔を合わせるバレエ仲間だった。

 彼女は心配するような顔でわたしを覗いていた。


「な、なに?」

「次、モモエちゃんの番だよ。早く舞台袖にいかないと」

「え……?」


 わたしは慌てて時計を見る。長針は後五分でわたしの出番だと告げていた。

 わたしは急いで準備をすると、駆け足で舞台袖へと向かった。

 関係者だけが出入りする廊下を抜けて、舞台袖へと繋がる扉を開ける。

 そして、わたしはわたしの目を疑った。


「どうしてここに……?」

「顧問が部員の晴れ舞台を見に来ちゃいけねぇのか?」


 そこにいたのはイヌイだった。彼は久しぶりに見せる飄々とした態度でそう言うと、モモエの前にやってくる。


「……緊張してるか?」

「……いえ、いつも通りです」

「いつも通り、か……」


 イヌイの背後に見える舞台で演者が観客に向けてお辞儀をした。

 時間だ。

 わたしはイヌイの横を通り過ぎる。


「──モモエ、ひとつアドバイスがある。聞いてくれ」

「……」


 バレエ初心者のイヌイが一体何をアドバイスするというのか。

 わたしはそれが少しだけ気になって足を止めた。

 イヌイが振り返る。わたしは前を向き続けた。


「まず一回大きくヤラカセ。そんで心臓バックバック鳴らしたら──俺を見ろ」


 イヌイはそうとだけ言うと、先程モモエが入ってきた扉から出ていった。

 舞台では照明が落とされ、演者が袖にはけてくる。

 それと入れ替わるようにモモエが舞台の中央に立つ。

 照明は暗いままだ。

 観客からはまだわたしの姿は見えていないだろう。

 わたしはちらと前を向く。


「────」


 わたしは息を呑んだ。

 呼吸が途端に荒くなる。

 目の前にヤツがいた。

 大きな口を開いてわたしの失敗を待っている。


 曲が始まったらヤラカセ? バカを言うな。

 ヤラカシたら喰われるんだぞ。

 喰われたら、もうお終いなんだぞ。

 ヤラカスわけにはいかない。ヤラカスわけにはいかない!


 照明が付き、視界が明るくなる。

 客席からはわたしの顔が良く見えるだろう。

 こちらからは逆光になっていて客の仔細な表情は読み取れない。

 それを不気味に思うわたしの心を化け物が下卑た笑みで覗いてくる。


 震える。凍える。凍りつく。

 曲が始まる。

 動きはまだない。まだまだまだ──


「あっ……」


 振り付けの動き出し、最初の一歩。

 凍り付いたわたしの足は思うように上がらず、逆足を巻き込んで、バランスを崩した。

 曲にはない盛大な音が舞台から客席まで響く。

 客席のどよめきが耳朶を打ち、鼓膜を化け物の息遣いが震わせた。


 ヤラカシた、ヤラカシた、ヤラカシた。

 ヤラカシたらどうなるんだっけ?

 ヤラカシたら……


 ──まずヤラカセ。そんで──俺を見ろ。


「──っ」


 うるさい心臓の音を無視して、わたしは客席に目を向けた。

 逆光で客の顔はよく見えない。けれどその人物はすぐに見つかった。

 入口の前に腕を組んで立ち、真っ直ぐにわたしを見つめる瞳。

 力強い眼差し。


「…………」


 わたしは失敗を犯した。失態を晒した。ヤラカシてしまったんだ。

 なのにイヌイは"いつもと同じ"眼差しでわたしを見つめていた。


「いつもと同じ……?」


 そうだ。いつもと同じだ。

 いつもと同じ曲。

 いつもと同じ服装。

 いつもと同じメイク。

 同じだ。これは練習と同じ。化け物が存在しない練習と同じだ。

 ──だったらいつもと同じ踊りをすればいい。


 わたしは立ち上がり、前を向く。

 化け物の姿はもういない。

 わたしの視界に映るのはイヌイ"先生"だけ。

 ならば踊れる。白鳥のように舞える。


 わたしは小学生の頃からイメージし続けた最高の踊りを頭に浮かべ、それをなぞるように踊り出す。

 動きは洗練され、思考は研ぎ澄まされ、徐々にわたしの体とイメージが重なっていく。


 曲は終盤。大詰め。

 残すは最後のポーズだけ。


 その時、ようやくわたしの体とイメージが完璧に重なった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 曲が聞こえなくなると、視界は一気に広がった。

 イヌイ先生だけを映していたわたしの視界に大勢の観客が映し出される。

 わたしは一瞬怯んだが、彼らの溢れんばかりの拍手喝采がそれを押し退けた。

 曲の終わりはいつも静寂と共にあったわたしにとって、それは初めての体験で、戸惑いがあった。

 だが、心から感謝の気持ちが湧いてきて、わたしの体は勝手にお辞儀をしていた。

 更に大きな拍手が返ってくる。

 わたしはようやく自分が『白鳥の湖』を踊れた事を自覚した。

 そしてその自覚はこれより先に現れるだろう化け物への武器へと変わることだろう。


 わたしは最後にもう一度頭を下げると、胸を張って舞台袖へと降りていった。


 ▼


 これは余談だ。

 コンクールの結果は最下位だった。

 最初の転倒で大きなマイナスを食らい、その後のダンスではそれを覆すことは出来なかった。

 いつもと同じ順位だ。

 けれどこれまでとは明確に違うことがひとつある。

 それは──わたしが化け物と戦う武器を得たという事だ。

 もっともこの武器が手に入ったのはイヌイ先生がいたからだ。

 彼はわたしが最下位だと知り、わたし以上に落胆していた。

 そして次こそは一位を取ると意気込んでいた。

 彼はやはりバレエの事は何も知らないようだ。

 いや、バレエの事を知らないのはわたしも同じだろう。

 だってわたしはバレエは個人で戦うものと思っていたからだ。

 けれどそれは間違いだった。

 バレエは独りでやるものじゃない。周りに支えられて、その支えてくれた人達の思いを背負ってやる団体戦だったのだ。

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白鳥と緊張 ハルマサ @harumasa123

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