第11話
目が覚めると真っ白な空間に美郷はいた。先ほどまでその身を苛ましていた傷は身体になく、まるで今までのことが悪い夢のようにも思えてくる。しかし、脳裏に刻まれた腕を食いちぎられた痛みがあれが現実だったとハッキリと訴えてくる。
改めて周りを見回してみたが、やはり彼女の視界には何も映らない。
「ここは……どこ? 私は、さっきの化け物にやられて……ダメだ、ここにくるまでのことがまるで分らない」
記憶を探ろうにもここに来るまでの経緯がまるで分らず、美郷は額に手を当てて考え込んだ。
「やあ、初めましてかな、市ノ瀬美郷ちゃん」
いつの間に現れたのだろう。その声に美郷は素早く振り返った。
そこにいたのは人、なのだろう。しかし、その恰好はとても奇妙なものであった。おでこまで隠れるシルクハットをかぶり、燕尾服に身を包む姿は英国紳士を連想させる出で立ちだ。そんな生真面目さを感じる風貌に反して、顔面を白粉で塗りたくり、目と鼻が真っ赤に塗られていたその姿はまるで出来の悪いピエロのように見えた。それがニタニタと気色悪い笑顔を浮かべている。
直感で相手がろくでもないやつと察した美郷は警戒を強め、無意識に身構えた。
「あんた誰? 少なくとも私にピエロの知り合いなんていないはずだけど」
「そうだね、僕と君は間違いなく初対面さ」
警戒を隠そうとしない美郷に対し、ピエロのほうは実に楽し気だ。どこかからかうような雰囲気を全身から醸し出している。
「そうだね、こういったら分かりやすいかな。僕は君の前世を知っている存在さ。阿部貞人くん」
ピエロはニタニタとした笑顔をより歪め、美郷が誰にも話したことのない秘密をこともなげに告げた。この世に生まれたときに捨てた名前を知っている目の前の存在は少なくとも普通の奴ではない。先ほどよりもいっそう美郷は警戒を強めた美郷は自然と腰を落とし、いつでも動けるように足の力を込めた。
「待って待って! 僕は別に君に害をなそうというわけじゃないよ!」
ピエロはわざとらしく慌てたように、両手を突き出してひらひらと振った。
「むしろ僕に感謝してほしいくらいだよ! 君がこうして新しい人生を送れたのは僕の力があってこそなんだから」
先ほどまでの焦った感じから今度はどこか楽し気に話すピエロに、美郷はいぶかし気な目を向けた。
「……なんだよ、お前。自分が神だとでも言うつもりかよ」
それにピエロは二コリと笑い「大正解!」と言いながら右手をパチンと鳴らす。瞬間、美郷は自分の視点が急に高くなったように感じた。いや、実際に高くなったのだ。
いつの間にか肉体が男に代わっている。10年以上前に美郷がなくした阿部貞人の肉体へ。
「いいでしょ、元男が転生したら肉体は女性って。君のいる国だとトランスセックスっていうんだっけ。人気のジャンルみたいじゃん」
腕を後ろに組みながら自らの力を見せつける自称神へ美郷は阿部貞人の時の低い声で恐怖を押し殺しながら皮肉を零す。
「くそが、いい性格してるぜ、アンタ」
美郷は自分の転生直後の苦労を思い出す。最初はスカートを履くのでさえ躊躇いがあったが、今では化粧のノリ具合を気にする程度にまで身も心も女性になりつつある。それを前世の男だった自分を改めて思い出したことにより、美郷は言い知れぬ羞恥も相まってかまるで苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「どうだい? 新しい人生は楽しかったかい?」
美郷の顔を見てピエロは愉悦にほほを染めている。そのにやけ面を喜ばすことが癪に障るものの、美郷は正直な気持ちを伝えた。
「……まあ、言わされているようでムカつくけど、悪くない人生だったよ」
個性的だが優しい両親、癖が強いが親しい友人たち、そしてかけがえのない大切な親友。前世では終ぞ手に入れられなかったものだ。愛した人に裏切られ、挙句にその手で殺され絶望に沈んだ前世のことを思えば、阿部貞人とにとって市ノ瀬美郷としての人生は十分に幸せと思えるものだった。
正直に答えると思っていなかったのだろう、ピエロは驚きに目を丸くする。少しは鼻を明かせたのかと思い、美郷はさっぱりとした笑顔を向けた。
「死んじまったけど、それでも誰かの命を守ったんだ。俺の命も無駄じゃなかったって思えるよ」
「うんうん、それなら僕も力を貸した甲斐があるってものさ。だけどさ、満足そうにしているところ悪いが、彼、このままだと死ぬよ」
「は?」
そういうと、ピエロは右手を横に広げた。映し出されたのは先ほどまで美郷がいた場所だ。美郷の横に倒れ伏す尊と、頭蓋に大穴を開けた化け物の姿が映し出されている。どうやって彼があの化け物に一撃を入れたのか美郷には分からない。うつ伏せに倒れこむ尊は所々に傷は見えるものの、呼吸により身体が浮き沈みしているところを見るに生きているのは確かなようだ。ピエロのいうような命に別条があるようには見えない。
しかし、そんな安心はあっという間に吹き飛ぶ。化け物が身じろぎし、少しずつ動き出そうとしたのが見えたからだ。
「冷静に考えてみなよ。あんな化け物を相手にただの人間がなんとかなると思うかい? 君は守った気になって満足しているけど、このまま死んだらまさに無駄死にだよね」
「……」
「それどころか、彼、周防尊っていったかな。目の前で友人が自分をかばって死んだ姿を見たんだ。仇を打ったと思ったらそれもできず、このまま殺されたら無様に殺されたら彼、死ぬ寸前まで後悔し続けるだろうね。ああ、実に可哀そうだ。」
そう語るピエロはまるでこれから起こるであろう悲劇を実に愉快気に語った。
「仕方ないだろ! そんなこと言われても今更、どうしようもないじゃないか……」
見ているだけしかできない自分の歯がゆさから美郷は俯きながら唇を強くかむ。しかし、どうにもならない状況から身を蝕む絶望へとらわれそうになった美郷へ蜘蛛の糸が一筋もたらされた。
「あ、それだけど、君、まだ死んでいないよ」
「は?」
その言葉に美郷は素っ頓狂な顔をする。予想外の言葉に茫然とした表情でピエロを見つめた。
「なんだか勝手に思い込んでいるけど、僕は一度も君が死んだなんて言ってないだろ? 全く、最近の人間はせっかちでいけないね」
「だって、あんな、え。まじで?」
突然降ってきた吉報に思わずといった具合に美郷はピエロに先ほどの言葉が真実か問い返した。
「ま、よかったじゃないか。安価な死亡エンドなんて安いメロドラマでもはやらないネタだよ。やっぱり生存エンドこそ王道で鉄板だよね」
「……なんか、いちいち俗っぽい神様だよな、アンタ」
「ふふん、長く生きるコツは何事も楽しむことなのさ」
そういうと、阿部貞人に向かってパチンと指を鳴らす。その音に合わせるように再び肉体は美郷へと戻る。それに一瞬驚いた顔を浮かべるも、すでにこのピエロの行いに慣れてきたのか美郷は溜息をもらした。
「そういうことなら、とっととあっちへ戻してほしいんだけ」
「待って待って! ここに君を呼んだのはお願いしたいことがあったからなのさ」
早く尊のもとへ行きたい美郷だったが、自分の用が終わってないからと本気で焦ったように声を上げた。
「うわぁ、正直、ろくでもない予感しかしない」
「そう言わないでよ。これは君にもメリットのある話だからさ」
美郷は目の前の存在の胡散臭さも相まって、ピエロへ訝し気な顔を向ける。そんなピエロは顔の前に両手を持ってくると、パンッと音立て鳴らした。
——流れ込んできた映像は尊の死を暗示するものだ。刺殺、絞殺、焼殺、圧殺、ありとあらゆる責め苦と死方が一気に脳裏に流れ込んでくる。
「———ッ!」
「見えたかい? それはこの先にある未来で起こりうる可能性だ。見た通り、君の友人、周防尊は死ぬ運命にある」
幻だ。そう言い切るにはあまりにも生々しい光景に、美郷は額に汗を浮かべ浅く息を吸いながらピエロを仰ぎ見た。
「……これは、この未来は本当にあり得ることなのか」
「本当本当、神様嘘つかない。君にとっては残念なことにね。もっとも、信じるか信じないかは君次第さ」
それを芝居くさった仕草で答えるその姿はどこまでも仰々しい。しかし、美郷はそれがかえって目の前の存在が敵いそうにない相手だと否が応でもなく理解してしまう。その挑発的で煽るような目に美郷はゴクリと喉を鳴らした。
それでも、目の前の存在が与えてくれた情報へ縋るしかない。美郷にとって尊が死ぬという未来など選べるはずもないからだ。たとえ自らが死ぬことになったとしても。
「どうすればいい? どうすれば尊は死ななくて済む?」
「それは君の行動次第さ。神は道を指し示すだけだよ。選択するのはいつだって君たち人間に委ねられているのだからね」
結果は示した。あとは未来を回避できるかは君次第だと告げるその姿はまさに信託を告げる神そのものだ。
「……正直、アンタのことは正直な話、まだ信じられない。それでも、あれが本当に起こりうる未来だっていうなら、俺は、私は何をしてでも尊を助けたい。たとえ何かを犠牲にしても!」
胸に手を当て美郷は、いや、阿部貞人は自らに誓いを立てた。
「うん、君ならそう言ってくれると信じてたよ。それじゃあ、今から君の意識を戻そう」
「あーでも、このまま戻っても出血とかで死にそうだよな……」
早速とばかりにピエロは送り出そうとするが、その言葉に対し美郷は待ったをかけた。今更ながらに自分の状態を思い出したのだろう。このまま行っても犬死するだけの状況に頭を悩ませる。
しかし、そんな美郷の心配をよそに何も心配するなと言わんとばかりに憎たらしいほどに清々しい笑顔を見せた。
「安心したまえ。君にはもう戦う力があるはずだよ。ただ気付いてないだけさ。胸の声を聞くがいい。さあ、君の大切なものを守るために力を尽くしてくれ!」
「おい、どういうことだよ! てか、アンタあの化け物のこととか知っているなら何かおしえて——」
美郷が何かを言い終えるよりも前に、ピエロはパチンと両手で指を鳴らす。すると、先ほどまで目の前にいた美郷は姿を消してしまう。そして誰もいなくなった場所に向かってピエロは一人、誰に告げるでもない
「君の未来に幸あらんことを。市ノ瀬美郷さん」
ピエロはそういうと、身体を丸めてプルプルと震えだした。そして天を仰いで高笑いを始める。何もない空間にピエロの甲高い笑い声だけが響いた。
そうして一通り笑い満足したのだろう。ゆっくりと息を吸い、呼吸を落ち着かせた。
「全く、胡散臭いって疑っている割にすぐに信じる辺り、君はきっと性根がいい人間なんだろうね。僕は一度も自分のことを神だなんて名乗ってないのに簡単に信じてさ。それは前世からなのか、それとも元々の身体の持ち主に引っ張られているのか、いったいどっちなんだろうね」
ピエロは誰もいないはずの空間へ振り返った。しかしピエロの目には1人の少女が映り込んでいる。
「どう思う? 市ノ瀬美郷」
「……」
そこにいたのは張り付けにされた美郷と全く同じ顔をした少女だ。動けない状態でありながら瞳は強い憎しみの色で染まっている。
「そう睨まないでくれよ。僕だって君にしてやられたんだ。本来入れるはずだった魂を割り込みされて計画の変更を随分とさせられた。ほんと、何事も上手くいかないものだね」
彼女が何もできないと知っているからだろう。その口ぶりからはどこか嘲りが感じられる。
「……やる」
「お? ようやく話をしてくる気になったかな? 独り言だけだとどうして単調になってつまらなくてね。こんな空間だもの、話し相手がいないと退屈で仕方ないのさ」
「殺してやる……〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇!」
少女が大声で目の前のピエロの名前を告げる。しかし、その名前だけがまるで虚空に吸い込まれるように聞こえない。
ピエロは少女の近くまで近寄ると、その顔の前に人差し指を立てると「チチチ」と声に出しながら指を振った。
「ダメダメ、僕の名前は軽々しく口にしていいものじゃない! それに君はもうゲーム盤から降りたんだ。今回は観客として黙って楽しまなきゃ」
そういってピエロは少女へ背を向ける。そして美郷が消えていった場所へ実に楽しげに語りかけた。
「さて、駒の配置は終わった。ネタバレもしたし、これでシナリオは大きく変わるだろう。だからこそ今回はどういった結末になるだろうか、実に楽しみだ。僕の目的のためにもせいぜい頑張ってくれよ、阿部貞人、いや、市ノ瀬美郷くん」
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