第10話

 決意を固めた美郷は尊にだけ届くほどの声でハッキリと告げた。

「尊、アンタは逃げて」

「な、何言ってるんだよ」

 焦り動揺する尊に対し、美郷は化け物から視線を逸らすことなく再度言い含める。

「あの化け物、私を見てた。狙いは私なの。それならアイツが私を負っている限り、尊が襲われることはないわ。そしたら、アンタは逃げられるでしょ」

「ふ、ふざけるな! お前を見捨てろっていってるのかよ!」

 納得いかないとばかりに声を荒げる尊に、美郷は苛立たしげに叫んだ。

「2人一緒に死ぬわけにはいかないでしょ! それに、そんな身体震わせてるくせに、どうにかなるわけないでしょ!」

 自覚があったのだろう。唇を強く噛み締める尊へ美郷は無理やりに作った笑顔を向けた。

「大丈夫、私がアンタを守ってあげる。昔から私の役目でしょ」

 その笑顔は聞き分けのない子どもを言い聞かせるようであり、何かを悟ったようなものに見えた。美郷は化け物に向き直ると、大きく息を吸い込んだ。

「こい、化け物!」

「待て、美郷!」

 その声とともに化け物に向かって走りだした。後ろから聞こえる静止の声を振り払い、止まりそうになる脚を必死で動かした。徐々に近づいてくることで化け物の顔が少しずつはっきりと見えてくる。獲物が自ら近づいてくるのをどこか面白い玩具を見つけたように歪んでいる。

(当然ね。自分が負けるなんて微塵も思ってないんでしょうね。でも——!)

 近づいてくる獲物を丸のみしてやろうと考えたのだろう。化け物は姿勢を低くし、走ってくる美郷へ自身の大きな口を開いてかぶり付こうとする。

 間近に迫る牙の恐怖を押し殺し、美郷は冷静に眼前へ迫る化け物の顔を睨みつけた。

「なめんな、この犬っころが!」

「ギャン!!」

 美郷は近づく化け物から斜めに飛ぶと、宙に浮いたまま狙っていた化け物の鼻先に向けて後ろ回し蹴りを叩き込んだ。油断していたのだろう、化け物が突然の痛みに鳴き声を上げてその顔を跳ね上げた。

(デカくても犬と同じ弱点でよかった! これで少しは時間が稼げる!)

 予想外の痛みに化け物が頭を震わせているのを見ながら、美郷は自分の賭けがうまくいったことにほっと胸を撫でおろした。相手が油断しているからこその奇襲であり、それを行えるだけの技量を美郷が持っていたが故に切り開けた活路だ。

 それでも所詮はハチの一刺しと変わらない。化け物を追い払えるほどの威力はないのだ。化け物は何度がぶるぶると頭を振って痛みを感じていたようだったが、それも引いてきたのだろう。再び美郷を見るその目に先ほどまでの相手を見下す色は消えている。フーフーと荒い息遣いをしているその姿から美郷は自身をただの餌から狩るのに厄介な獲物へと変わったのだとはっきりと分かった。

 油断なく化け物と対峙する美郷であったが、次の瞬間には自分が宙を浮いていることに気付いた。身体の正面に遅れてくる痛みを感じる間もなく、今度は背中に衝撃が襲う。

「がはッ!」

 壁に背を預けながら、美郷は自身に何が起きたのか混乱する頭で必死に考える。

(くそ、デカくて速いとか反則でしょうが! さっきと動きが全然違う。ただの体当たりでこっちは紙くずみたいに吹っ飛ぶのだから!)

 化け物がやったことは特に難しいことじゃない。その発達した四肢を生かして強く地面を蹴り、体当たりしただけだ。ただ、その威力は人が受け止めるにはあまりにも大きすぎた。

(だめだ、今ので肋骨が何本か逝った。どうにか手足は動かせるけど、さっきみたいな技は打てそうにないや)

 美郷は痛みで泣き叫びそうになるのを必死で堪えてゆっくりと身体を起こした。化け物がじゃりじゃりとアスファルトを爪で引掻きながらゆっくりと近づいてくる。その足音から逃げ出したくなる。

「……それでも、引けない、引いてやらない」

 美郷が顔を上げると頭上には化け物の顔が浮かんでいる。弱弱しい獲物を目にしてようやく自分の思い通りになったと喜んでいるのだろうか。化け物は口を大きく開き、その舌からダラダラとよだれをたらしている。

 せめて最後にできる限り反撃をと、どうにか構えを取ろうとする美郷であったがその動きは先ほどまでと違い精彩は欠いてしまっている。近付いてくる化け物の動きがひどくゆっくりに美郷には見えた。

 どうにもならない、その言葉が脳裏を埋め尽くした瞬間、美郷は構えていた腕の力が抜けていくのを感じた。

「……私が食われている間に逃げなさいよ、尊」

 美郷は目を閉じて受け入れるように立ちすくんだ。その顔にはある種の諦観の念が浮かんでいる。

 化け物が大口を開けてかぶり付く、その痛みをじっと耐えていた美郷だったが、横からのぶつかってきた存在により現実に引き戻された。

 そこにいたのは逃がしたはずの尊だった。化け物の牙にかすったのか、背中には一筋の傷が刻まれており、流れ出した血で制服が赤く染まっている。美郷を抱きしめるように抱え込みながら、あの大口から助け出したのだ。

 助かった安堵感と自分の覚悟が無駄にされたような絶望感に美郷は感謝よりも先に叱るような言葉を尊に告げてしまう。

「……馬鹿、なんで来たの」

「馬鹿はお前だろうが! 1人でどうにかできる奴じゃないだろうが!」

 怒鳴りつけた美郷の声に負けじと尊も大声で美郷へ言い返した。痛みもあるのだろう、彼の額にはうっすらと汗が滲み出ている。

「それに、お前がいなくなったらさ、一緒に飯を食うやつがいなくなるだろが」

 痛みを耐えるように歯を食いしばりながら作り出した笑顔に、美郷はこんな絶望的な状況なのに不思議と顔が微笑んでしまう。泣き笑いのような顔をする美郷を抱きしめながら、尊はこんな状況を生み出した化け物へ今度は挑発的な笑みを浮かべた。

「大丈夫だ、俺たちならアイツに一泡吹かせてやれる」

「何その自信。この状況だと羨ましいわ……ほんと、アンタは馬鹿だよ」

「それ以上いうな。言われなくても自覚してる。それに、美郷と死ぬなら後悔はないよ」

 尊は抱きしめていた美郷を下すと、そのまま彼女の肩へ手を回す。ボロボロでありながら頼もしい相棒の姿に、美郷は決意を改めて化け物へと目を向けた。

 獲物を寸前で奪われた化け物というと怒りのあまりに腹を立てたのだろう。周囲の建物を震わせるような唸り声をあげている。鋭くこちらを睨むその姿に美郷は心が折れそうになる。

 それでも、美郷は逃げない。自分の命の使いどころはここだと彼女は決めたからだ。

 化け物は唸り声を響かせながら一歩、また一歩と近づいてくる。そのゆったりとした動きは獲物がもう逃げられないと確信しているからだろう。そして獲物へ届く距離まで来ると、一纏めにかぶり付こうと大口を近づけた。

 それを目にしながら、美郷は回された尊の手を外す。そして、間の抜けた顔でこちらを見る尊を左手で軽く押し出した。

「ごめんね、尊」

「え」


 ——ガブリ、何かにかじりつく音。それに合わせて突き出していた美郷の右腕から真っ赤な何かが周囲に散らばった。


「ぐ、あああああああああああああ!!」

 倒れこむ尊が目にしたのは、化け物に右手を食われる美郷の姿だ。一度にすべて食われないよう、かみつく寸前に身体を後ろに逃したのだろう。しかし咄嗟に伸ばした右腕は化け物の口に挟まれ、歯の隙間から白い骨が見えてしまっている。

「み、美郷!」

「ぎいいい、あああああああああああ!!」

 痛みのあまり閉じた瞼の裏にチカチカと瞬く星を感じながら、美郷は残った左腕と脚を使って化け物へがむしゃらに叩いた。その動きは駄々っ子が出たらめに振り回すようであり、身に付けた技はその動きからは見られない。

 抵抗する美郷を鬱陶しく思ったのだろう。化け物は嚙みついていた腕を首を振ることで無理やりに引きちぎった。痛みに叫ぶ美郷を自身の手で仰向けにして押さえつけると、今度は残っていた左腕に食いついた。

「や、やめろ、やめてくれ!」

 へたり込み、茫然としたような顔をする尊を化け物は煽るような目で見ると、先ほどと同じようにためらうことなく左腕を捥ぎり取った。

「ぎいぃぃぃぃ!!」

 美郷は失った腕の痛みを歯を食いしばるようにして耐えようとするも、口からは堪えきれずに呻くような音が漏れ出してしまう。ニチャニチャとあえて音を立てて咀嚼する化け物は、まるで獲物を甚振ることを楽しんでいるように見える。それが分かるだけに、美郷は最後の抵抗とばかりに化け物へ挑むような目を向けた。

 その目が気に食わなかったのだろう。化け物は押さえつけていた美郷をまるでごみを払うように投げ飛ばした。勢いのまま地面を滑るように転がった美郷は尊の前でその動きを止めた。

 曖昧になりつつある意識の中、美郷の目にふらふらと近づいてくる尊の姿が目に映る。絶望に顔を染め、今にも泣き叫びそうな尊へ美郷は痛みに耐えながら見るものを安心させるような笑みを浮かべた。

「……よかった。……たける、けが、は、ない?」

「あ、ああ、あああああああああ」

 頭を抱え込み、呻くような声を上げる尊へ美郷は手を伸ばそうと身体を動かした。泣き出す彼の頭をもう撫でることはできない。それに今更ながらに思い至った美郷は冗談を言うような口ぶりで彼に告げた。

「わたし、うで、なくなっちゃったんだ。これじゃあ、もう、ごはんも作ってあげられないよ。それに、約束、やぶってごめん。しあい、もうできないね」

「もういい、もういいから! 頼むから、頼むからもう喋るな! ああ血が、血が止まらない、止まらないよ!」

 取り留めのない美郷の言葉は擦れており、時折せき込むようにその口から血が漏れ出てくる。それに尊は顔をくしゃくしゃにし、両目から流れ落ちる涙を拭うことなく彼女の両腕の付け根を押さえつけていた。それでも止まることなく流れる血はまるで砂時計のように美郷の命が尽きていくようであった。

 必死で命を繋ごうとする尊へ、美郷は「もう、いいから」といって突き放す。

「にげて、たける。わたしは、うごけそうにないから」

 その言葉を「いやだ!」と叫びながら首を左右に振り、尊は美郷の言葉を拒否しようとする。身体を美郷の血で真っ赤に染まろうともそれを気にするでもなく、ただ一生懸命に自分を救おうとしてくれる。そんな優しい彼を一人残して逝くことへの申し訳なさから、美郷は最後の気力を振り絞り言葉を紡ぐ。

「ごめ……ん……ね……」

 薄れゆく意識の中、その姿を視界に捉えながら美郷は瞼を閉じた。先ほどまで感じていた息遣いがなくなり、まるで眠るような姿からは、しかし命の息吹は感じられない。

 尊は冷たくなっていく美郷を抱え、その物言わぬ身体へと語りかけた。

「……おい、冗談だろ。寝坊なんてらしくないじゃん。なあ、美郷、返事してくれよ! 俺を、俺を一人にしないでくれ!」

 しかし、必死な問いかけもそこに魂なきものなら答えが返ってくるはずもない。その事実が尊に彼女がこの世にはいないのだということを否応なしに突きつけた。

「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ! 待てよ、美郷、俺を、僕を置いていかないで!」

 泣きじゃくり、叫び声をあげる尊を化け物がニヤニヤと口元を歪めながら見ていた。それを気に留めることなく尊の目から絶え間なく涙がこぼれ落ちてゆく。それはまるで子どものように尊は美郷だったものへ縋る。

 縋り、縋って、そして、尊が事実を受け入れた瞬間、彼の胸の中心がドクンと大きな音を立てた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 

『対象ー確認。適合ー合致。要請ー承認』

『Covenant!!』

『代行顕現≪オルター≫ー不死身の騎士ジークフリート!』


 尊の慟哭とともに、彼の脳内に無機質な機械のような声が響き渡った。その声に合わせるように、尊の周囲を黒いモヤのようなものが漂い始める。それが全身を包み込むと少しずつ輪郭を構成していく。そして煙が晴れると全身に黒の騎士甲冑のような鎧を身に纏った姿が現れた。手足を角ばらせた無骨さを持ちながら、ピッタリと身体を覆うその出で立ちは動きを疎外しないであろうことは想像に難くない。

 しかし特徴的なのはその両腕だ。右腕には肩を突き抜け伸びた長大な金属杭がその異様な存在感を示している。反対に左腕には無理やりつけたような小型の竜の頭がついている。それもあってか非対称なその出で立ちがひどくアンバランに見えた。

 鎧をまとった尊は、抱えていた美郷を優しく地面へ横たえると、身体を震わせながら顔を化け物へ向けた。

 フェイスマスク越しに見る尊の顔がどんな表情をしているのか化け物からは見ることはできない。しかし、それが先ほどまでの怯えたものではなく、身を焦がすような熱に突き動かされていることは分かる。

 化け物は音を立てて口に含んでいた美郷の腕を飲み込むと、四肢に力を込めていつでも飛び掛かれるような低い姿勢を取った。唸り声をあげて警戒を強める化け物を尊は見上げると、内心の想いを解き放つためゆっくりと両腕を顔の前へ持っていく。

「……おい、糞犬。その腕はテメエみたいなケダモノにやるほど安いものじゃねえんだよ。返せ、返せ、返せ、返せぇぇぇ!」

 怒りに身を任せるように、尊は力一杯に地を蹴った。その一歩で一瞬のうちに化け物の近くまで接近する。そして化け物が反応する間を与えることなく、手甲で覆われた腕を思いっきり叩き込んだ。

「ギャイン!」

 突如襲った痛みに化け物が悲鳴を上げ、反射的に殴られた前腕を持ち上げらた。それを逃がすかとばかりに尊は左手で掴んだが、勢いのまま持ち上げられたためそのまま宙へと放り投げられてしまう。中空に飛ばされた尊を見失ったのだろう、その場で化け物が左右に頭を振って探している。その姿を真下に捉えながら、尊は中空で姿勢を変えると重力に逆らうことなく化け物の頭上に向かって落下した。

 身体全体に風の抵抗を感じつつ、尊は右腕を大きく振りかぶった。その動きに合わせるように右腕の金属杭が強く光り輝き始めた。その光で尊の居場所に気付いたのだろう、化け物が真上から落ちてくる尊の姿をようやく捉えた。瞳孔を開きこちらを見る化け物の頭に向かって尊は思いっきり右腕を振り下ろす。そして拳の衝撃に合わせるようにガチンと撃鉄を叩くような音が響く。

「貫けえええええええええええええ!」

 尊の叫び声に合わせて金属杭が高速で射出されると、打ち込まれた右腕の真横に大穴が開く。衝突の瞬間、爆発音と一緒にピンク色の肉片とひび割れた白い頭骨が周囲を舞う。

「ぎゃいいい!!??」

 何が起きたのか分からなかったのか、化け物は突然の痛みにふらつき、しばらくするとズシンと大きな音を立ててその巨体を横たえた。

 爆発による反発で吹き飛ばされた尊は勢いを殺すことができず、瓦礫の中へとその身体を突っ込ませた。土煙が舞う中、尊は身体を起こし痛みに軋む身体を歯を食いしばりながら動かしてゆく。そして歩いては倒れを繰り返しながら美郷の身体の近くまでくると、その身体の真横へと身体を横たえた。瞬間、パリンとガラスが割れるような音ともに彼がまとまっていた甲冑がはじけ飛び、彼本来の身体が姿を現す。

「み、さ……と……」

 滲む視界で映る美郷は相変わらず眠っているように静かだ。目が覚めたら彼女が目覚めてくれる、そんなありもしない願いを思いながら、尊は意識を手放した。


 ——ドクン、何かを叩くような音が周囲に響いた。

 

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