第9話
「継姫、まったく、お前は余計なことを」
先ほどのやり取りを見ていたのだろう。歩いていた継姫に呆れたような目を向けながら仁方が話しかけた。
「別に、私は当たり前のことを言っただけです。誓人が一般人と必要以上に仲良くなったとしても待っているのは碌な結末じゃないでしょう。それは教官も知っているはずです。私としては教官が今の状態まま放置しているほうがどうかしていると思います」
継姫は歩みを止めると、横にいる仁方を見ることなく答えた。
「周防尊。誓人の落とし種でしたか。覚醒はまだみたいですが、それも時間の問題なのでしょう。着任時に話は聞きましたけれど本当に何の訓練も受けていないのですね」
「全く、お前は頭が固いな。それにこの先に待つ運命が過酷なものだとしても、少なくとも今くらいは甘い夢を見るくらいは若者の特権だと私は思うわけよ」
仁方はそういうと胸元から取り出したタバコを咥え、火を付けた。ふうと吸い込んだ煙がモクモクと上がり、彼女の顔周りを白く漂った。
「私には分かりません」
無表情で答えるその継姫の顔はまるで能面のようだ。その顔を見て仁方は苦笑を浮かべた。
「……そうか。ま、その夢を見る権利は伊波、お前にだって持ってほしいと私は思っているんだぜ」
「必要ありません。それより報告にあった事件ですが、対象についてどれだけ調べがついてますか?」
どこか機械的に応対した継姫はとっとと本題を話せとばかりに話を促す。それに仁方は先ほどまでのどこか惚けた表情を引き締め、携帯灰皿を取り出すしタバコの火を消した。そしてスマホを取り出すとポチポチと継姫の顔を見ることなく操作を始める。
「ま、ご想像通りだ。世間に出ているのはごく一部。食われたのは少なく見積もって二桁はいっている」
継姫も同じようにスマホを取り出すと、表示されたデータに目をやる。仁方より送られた資料にはニュースで報じられている被害者に加えて独自に調べられたものが表示されていた。行方不明になっているのは家出少女やホームレスだったりといなくなっていてもすぐには気付かれないような人がほとんどだ。そして、最近になるほどそういった被害者はいなくなっている。
目につきやすい人はすでに食いつくされ、見境が無くなってきている。資料を目に継姫はそのように推測した。
「そうですか。それでしたら私は帳の出現した場所を一通り探ってみることにします。もしかしたら何か痕跡が残っているかもしれませんし」
「頼むわ。私は動けないから継姫だけが頼りだ。……悪いな」
「いえ、これが私の、誓人としての仕事ですから」
そういって継姫はスマホをしまうと、申し訳なさげに頭をかいている仁方を気に留めることなくその場を後にした。
悠然と歩き去っていく継姫を見送っていた仁方だったが、その姿が見えなくなると壁をがんと叩いた。
「……くそが、ガキに責任押し付けるのが大人のやることかよ。このポンコツめ」
仁方は小さく舌打ち自分の左胸を抑えた。その顔は苦渋に歪み、嚙み締めた唇は白くにじんでいた。
――――――――――――
すぐ終わるという話だったが、尊が美郷と合流したのはそれなりに時間が過ぎてしまってからだった。すでに買い出しも終えてしまったのだろう、袋いっぱいに詰められた食材で両手がふさがってる。スーパーの前で立ちすくむ美郷は時計の針が一回りするほどとは思っていなかっただけに、ようやく到着した尊へ責めるような目を向けた。
「あ、ようやく来た。思ったより遅かったじゃない……って、尊。どうしたのよアンタ、すごい顔よ」
しかし顔つきがいつもとは違うどこか不安げなものであったこともあり、美郷は慌てて尊へ近づいた。
「あ、ああ。ちょっとな」
尊は顔を背け何でもないようとでも言いたげに慌てて表情を取り繕うと無理やりな笑顔を浮かべた。何か隠すような様子に美郷は彼との間に壁を感じてしまう。
「伊波さんと何かあったの」
「なんでもない。それより、買い出しはもう終わったんだろ。あまり遅くなるとまずいし、とっとと行こうぜ」
その壁を乗り越えようと詰め寄る美郷を避けるように尊は美郷の手から袋を奪い取り早足で歩き出した。
「ちょっと待ってよ! アンタはデカいんだから少しペース落としなさいよ」
小走りにならないと追いつきそうにないその背に美郷は荒々しく文句を述べた。都合が悪くなると話を一方的に区切り子供のように逃げ出すのは尊のいつもの癖のようなものだ。
出会った頃より変わらない癖にすっかり慣れてしまっている美郷は、歩きながらはぁと溜め息をついて物言わぬ背中に問いかけた。
「全く、何だってのよ。そんな怖い顔してさ。私には話せないような話なの?」
すると尊は歩くのをやめ、美郷へ向き直った。手を伸ばせば届きそうな距離でありながらいつまでも届きそうにない。迷子のように不安そうな顔を尊は浮かべていた。
「……なあ、美郷。俺はお前にとって迷惑か?」
「……何よ急に。日頃のこと言っているの? そう思うなら少しは家事を手伝っても———」
「そうじゃなくて! 俺は、お前のこと———」
すがるような声に美郷は茶化すような笑みを浮かべて尊から顔を逸らした。このまま話を続けるのは良くない、そう思う美郷の内心を遮るように尊は隠していた本音を告げようとする。
けれど尊が言葉を告げることはできなかった。リンと甲高い鈴の音が響き、彼は言いかけた言葉を飲み込んでしまう。音色とともに一瞬で周りの景色が色彩を無くしていく。
「……この音、さっき伊波といるときに聞いたのと同じ音だ」
明らかに先ほどとは違う、どこか不安を沸き立たせるような周りの変化。先ほどまで遠くで聞こえていた人々の営みの音が不気味なほどに聞こえてこない。
「……ねえ、ここってこんなに静かだったっけ」
「いや、いくら何でもおかし過ぎる。まるでいきなり周りから生き物が消えたような感じだ。美郷、何だか嫌な感じがする」
「私も。さっきから冷や汗が止まんない。早くかえ———」
不安からすぐにこの場所を離れよう、そう美郷が口に仕掛けた。しかし、彼女が言い終わる前に何かを壊すような音と喉をつんざく様な人の叫び声が響き渡る。
「悲鳴!? 誰かいるみたい!」
「美郷!?」
「私、ちょっと行ってくる! 尊はそこで待ってて!」
「おい、待てって!」
尊の静止の声を聞かず、美郷は声のする方へ向かって走り出した。この異様な空間に誰かがいる。突然の異様な状況における不安もあり、美郷は自身の不安を押し込めながら叫び声のする方へ走り出した。
近づくにつれてツンとした匂いが鼻に付く。内心に浮かぶ嫌な予感に緊張からか息が短くなり、背中の毛が逆立っていく。暗くなりつつあり、街灯が灯り始めた道の先、照らされた先に見えたのは倒れていると思われる人の足だ。
「大丈夫ですか!」
何かトラブルでもあったのか。ようやく自分たち以外の人がいたということへの安心とその相手が危険な状態かもしれないという恐れから美郷はその相手に向かって声をかけた。
しかし、美郷の期待は裏切られる。彼女の目に映ったのは人であった何かだ。血だまりにポツンと落ちた人の足。むき出しの骨と筋張った肉がそれが本物だと否応なしに訴えている。
「な、なに、これ。血、なの。それにこれ、人、のあし」
それを見た瞬間、美郷は何なのか理解したのだろう。途端、吐き気が彼女を襲う。鉄臭さと腐乱臭が鼻に付き、彼女はしゃがみ込みとその場で胃に残っていたものを吐き出した。
「な、なんなのよ、いったい」
視界一杯に映るのはバラバラになった人であった何か。足のほかにまとまった肉はないが、肉体を構成するであろう内臓の一部がそこかしこに散らばっている。まるで齧り付いた後、咀嚼したら口に入りきらずにこぼれたらこうなるかもしれない。
そして何より目立つのが引搔いたと思われる地面に残る巨大な爪痕らしきもの。美郷の目に映る異様な痕跡が何なのか。それは今日、ニュースでも聞いた行方不明の現場に残る傷と同じものだ。
——クチャリ、クチャリ、何か固いものを咀嚼するような音がする。
ぞくり、首筋に何か冷たいものを当てられたように美郷はぴくんと身体を跳ねさせた。そして不気味な音がするほうへ美郷は恐る恐る視線を向ける。
そこにいたのは気付かないのがおかしいと思えるくらいに大きな黒い毛むくじゃらの物体だ。背を向けているのだろう丸まった背中が美郷の目に映る。
「ば、化け物」
それはこちらに気付いていないのか、相変わらず一心に何かを食っているようであった。食っているものが何かなど言うまでもない。この光景を作った原因はこの獣なのだから。
(やばい、こいつはやばい。こんなの見たことない。遠目に見る限り伏せている状態で私の背より高い。ということは立ったらもっと大きいはずだ。犬やオオカミのような見た目だけど、それにしたって大きすぎる! 少なく見積もって大型トラックくらいの大きさの犬なんて地球上にいるはずがないでしょ!)
大きいというのはそれだけ質量が大きいということでもある。それが四足獣の哺乳類となるとなおさらだろう。単純に巨大化したとなるとその重さはトンは超えているのは想像に難くない。しかも相手は車などの機械的なものとは違い、少なくとも生物だとすると動きは予想もつかない。体当たりだけでなく牙や爪まで使われたら人が敵うはずがないだろう。
美郷の頭は先ほどまでの見ず知らずの誰かを救うという考えはすでにない。脳裏にあるのはこの化け物からどう逃げるか、ただそれだけだ。いや、それ以外を考える余裕などない。
今にでもこの化け物が自分を次の獲物に変えないとは言えないのだから。
美郷は震えて動けなくなりそうな足を叱咤し、ジリジリと少しずつ化け物から遠ざかろうとする。相変わらず咀嚼音が聞こえてくるが、少しずつ音の間隔が短くなっていく。恐怖から叫びそうになるのを必死で抑え、ふうふうと浅く短い呼吸を繰り返した。
次第に小さくなる背中を見つつ、どうにかこのまま背を向けて逃げられるかもと美郷が考えた瞬間、状況は彼女にとって最悪の事態へ変化する。
「美郷、大丈夫か!」
心配で追ってきたのだろう。そこら中を探し回ったのか息を切らしながら尊が美郷の肩に手をかけた。それに驚いた美郷はビクンと身体を跳ねさせ、思わず大声で彼に怒鳴りそうになる心を必死で抑え込んだ。
「バカ! なんで来たのよ!」
小声で怒気を込めて尊に告げながら、美郷は横目で化け物へと注意を向けた。しかし、先ほどまで聞こえた咀嚼音はすでに聞こえてこない。嫌な予感を覚えて目を向けた先にはのそりと身体を起こしてこちらへ向き直ろうとする化け物がいた。
そして完全に向き直った化け物はその爛々と鈍く光る赤い目を美郷へと向ける。目が合った、美郷は自分が完全に次の獲物として認識されたのだと混乱する頭で理解してしまった。
尊もようやく化け物の存在に気付いたのだろう。驚きと恐怖のあまり目と口は大きく見開き、身体はぶるぶると震えている。
それを見て美郷は先ほどまであった恐怖がすっと消えていくのを感じた。
(こいつは次の獲物として私を狙っている。このデカさだ、下手に逃げても絶対に追いつかれる。たけど私が狙われている限りは尊は無事なはず。それならやることは決まっている!)
——私が囮になって食われている間に尊が逃げる。それしかない。
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