第8話

 それから美郷は何度か継姫に話しかけようと試みたが、結局近づくことさえ出来なかった。加えてホームルーム前に用事があるとのことで、今は教室で彼女の姿を見ることすらできない。仁方がホームルームで連絡事項を伝えているのを聞き流しながら、明日以降で落ち着いたときにでも継姫と話そうと美郷は切り替えることにした。

 ぼんやり考え事をしていたら、いつの間にか終わっていたのだろう。教室を後にする仁方に合わせるように、クラスメイトの声がそこかしこで沸き立ち始める。美郷もそれに促されるように帰宅の準備を始めた。

「美郷、先生の話だと真っ直ぐ帰れってことだったけど、どうする?」

 机の中身を鞄に詰めていた美郷に尊が話しかけてきた。その質問に美郷は朝に話した道場の件を思い出す。

 朝のホームルーム時点では未定ではあったが、その後話の進展があったのだろう。帰りの時点では方針も決定しており、当分の間は部活動を含めた活動は禁止で正式に決まったとのことだった。仁方は各自早めに帰るようにと改めて生徒たちに念を押すと、足早に教室を出ていった。その際にちらりと見えた彼女の目がまるで敵を睨むようでひどく恐ろしく美郷は感じた。

 それくらい神経質になっているのに何かしら違和感を覚えたものの、かといって何かできるというわけでもない。今は学校の方針に従っておくのが無難だろうと美郷は考えた。

「そうね、残念だけどあそこまで言われて万が一、寄り道してたなんてことがにーにー先生の耳に入ったらやばいし。しばらくは道場行くのは控えたほうがいいかも」

 尊も異論はないのだろう。残念そうに顔をしかめた。

「仕方ないか。あとで山田師範には俺のほうから連絡しておくよ」

「悪いわね、連絡よろしく。あ、帰りだけど夕飯の材料の買い出しあるから荷物持ち、付き合ってよ」

「へいへい、分かりましたよ」

 そういうと、美郷は必要な教科書などをしまった鞄を手に立ち上がった。尊も自身の鞄を手に取り、先立つように教室を後にする。

「あ、あの、市ノ瀬さん!」

 美郷が教室から出ようとしたところ、呼び止める声が聞こえその足を止めた。美郷が振り返るとどこかおどおどした地味な印象を受ける男子生徒が手を伸ばした状態で立っているのが目に映った。

「なに? どうしたの野崎君」

「あ、いや、その……えっと……」

 呼び止めた生徒、野崎は声をかけたはいいものの、何を話をしようかまでは考えていなかったのだろう。言葉を詰まらせながら視線を四方へと向けて口ごもり、おどおどした様子を見せた。

「おーい、美郷、早く来いよ」

「ごめん、今行くね! 悪いね、野崎君、急ぎじゃないなら明日でもいい?」

「あ、うん、えっと、帰りは気を付けて!」

 美郷は「うん、ありがとう!」と軽く野崎に手を振ると、尊を追いかけるようにして教室を後にした。

「野崎、なんだって?」

 追いついてきた美郷へ平坦な声で尊が何の用だったのかを尋ねた。美郷のほうへ視線を向けることない尊を気にするでもなく、彼女は「いや、私もわかんない」と困ったように答えた。そして尊へ挑発的な目を向けた。

「もしかして私の魅力にやられたかな? いやあ、モテる女って辛いわー」

「ハイハイ、ソウデスネー」

「なに、なんか異論でもあるわけ?」

「イイエ、イチノセサンハトテモカワイラシイジョセイダトオモイマス」

「……おっけー、今日がアンタの命日にしたいのねそうなのね!」

 棒読みで答える尊に美郷は額へ青筋を浮かべた。彼女の雰囲気が変わったのに気づいたのだろう。尊は彼女の暴力が自らの身に襲い掛かる前にと勢いよく廊下を駆け出した。

 脱兎のごとく駆け出すその背を慌てて足早に追いかけていた美郷だったが、玄関辺りでどうにか追いつき尊を捕まえることに成功した。その首を締め上げ、「ギブギブ」と声を漏らしながら顔を青くさせている尊へ仕置きをしていた美郷であったが、向かい側から歩いてくる継姫の姿が視界に映ったことで慌てて技を解放した。

 ゲホゲホとせき込む尊をしり目に、声をかけようか悩んでいた美郷であったが、継姫も美郷たちに気付いたのだろう、進路を変えて彼女たちのほうに向かって歩いてきた。

 そして彼女たちの前で立ち止まると、ペコリと小首を下げた。

「ごめんなさい、あれから話すこともできなくて」

 申し訳なさそうに謝る継姫へ美郷は慌てて言葉を返す。

「仕方ないよ、あれだけ囲まれたらね。転校初日から大変だったでしょ。うちのクラス、騒がしいのが多いし」

「そうね、仁方からも聞いていたけれど、これほどとは思わなかったわ」

 苦笑いを浮かべながら頬を掻いた美郷を見て、同じように継姫も笑みを浮かべた。美郷は継姫が仁方をどこか親し気に呼ぶその様子が気になり、「仁方って、伊波さんはにーにー先生と知り合いなの?」と尋ねた。

「にーにー、ああ、仁方先生のことね。お世話になったことがあるの、昔にね」

 一瞬誰のことか分からなかったようであったが、それが誰のことを指しているのか分かったのだろう。懐かしさを覚えるその口ぶりに彼女が仁方を慕っているのを美郷は感じた。

「あの先生がねえ、誰かの面倒を見れるほど甲斐性があるとも思えないけど」

「ま、人に歴史ありってやつだ。意外と俺たちが知らないだけで実はすごい人とか」

「想像つかないわー、さすがに普段がダメ人間すぎる」

「確かに」

 尊のフォローする言葉を聞き、仁方が面倒を見る様子を思い浮かべようとする。しかし、日頃の行いを思い出し意図せず美郷は乾いた笑いが零れてしまう。尊も自分で言ってみたものの、やはり想像できなかったのだろう。釣られて笑みを浮かべてしまっていた。

「そうね、貴方たちのいうことも最もだわ。あれでも、昔は結構真面目な人だったって話よ。今は全くそうは見えないけれどね」

 同じようにクスリと笑みを浮かべるその顔は朝に出会ったときと同じ実に自然なものであった。教室で見た作り笑顔とは違うその顔付きに心開いてくれているのかと美郷は内心の喜びが隠しきれず、頬のにやけを抑えることができそうになかった。

 しかし、話が盛り上がりつつある中、継姫はハッと何かを思い出したような顔をする。そして少し焦ったように話題を切り替えた。

「ごめんなさい、話がそれてしまったわ。実は私、周防君に用事があったの。今少し時間あるかしら」

「俺? まあ、この後は帰るだけだから時間はあるけど」

 急に話を振られて驚いたのか。尊は目を見開き自分を指刺して聞き返した。そして、この後一緒に買い出しに行くと美郷と約束していたことを思い出したのだろう。横にいる美郷へ「悪い」と手を立てて頭を下げた。

「私は大丈夫! 行ってきなよ」

「ごめんなさい、少しばかり周防君を借りるわね」

 申し訳なさそうな顔を浮かべる継姫へ「いっそお持ち帰りする?」と言い、美郷は下卑た笑みを浮かべた。しかしその意味が分からなかったのだろう。不思議そうな顔をして継姫は小首を傾げた。

「美郷、おっさんかお前は。伊波さんが困ってるだろ」

「可愛い子にセクハラできるのは女の子の特権なのよ」

 楽し気に微笑む美郷を見て尊は色々と言いたげな顔をしていたものの、諦めたのだろう。深く大きくため息をついた。

「悪いね、伊波さん。美郷の戯言だと思って聞き流してくれ。それで、どこに行けばいい?」

「え、ええ。それじゃあ付いてきて」

 自分が揶揄われていたのに気づいたのだろう。ぽかんとした顔をしていた継姫だったが、尊に声をかけられたことで恥ずかしさから慌てたように背を向けて小走りで去っていった。それを見た尊も慌てて追いかけようと足を踏み出しかけたが、隣の美郷が気になったのだろう、彼女へ困ったような顔で振り返った。

「いいから。早く行きなよ。私、先にスーパー行っているから。終わったら合流してよ」

「すぐに済むって話だし、玄関で待ってろよ」

 むっとした顔を浮かべる尊に美郷は「いいよ、待ってるのも退屈だし」といって玄関に向けて歩みを進めた。それを見て決心がついたのか尊も継姫の後を追うように走り出す。

 遠ざかる足音に引きずられるように美郷は振り返り、遠ざかる背を見つめた。そして誰に聞かせるわけでもなくポツリと彼女は呟いた。

「話って、いったいなんだろうな」

 校舎内では下校する生徒たちの声が響き渡っている。その声に埋没するように美郷の声は喧噪へと消えていった。

  

――――――――――

 

「おい、どこまで行くんだよ」

 急ぎ足で進んでいた継姫の背に追いつきしばらくその後ろを歩いていた尊であったが、物言わず歩みを止めない彼女にしびれを切らして苛立ちの混じった声で問いかけた。

「そうね、この辺りでいいかしら。人払いも済んだみたいだし」

 そういって、継姫は歩みをピタリと止めた。瞬間、リンと鈴の音が尊の耳に響く。そして音色に合わせるように周囲の景色が色を失っていった。

 ここに来るまでの途中で何度か生徒たちとすれ違っていたはずだが急に人影は見えなくなり、不気味なほどに周囲は静まり返る。尊の視界に映る人の姿は継姫だけだ。その奇妙な状況に背筋にひやりとしたもの感じた尊に対し、継姫は特に慌てた様子はない。まるでこの状況がはじめてではないようなその姿が返ってひどく異物に尊には見えた。

「周防君。市ノ瀬さんとは付き合っているの?」

 突然に告げられた言葉の意味が分からず、また自分の隠していた本心に無造作に触られたようであり、尊は嫌悪感に勝手に顔を歪めてしまう。

 尊は告白された経験が今まで何度もある。強面ではあるものの顔立ちは整っており、長身で幼い頃より武道で鍛えたこともあって無駄な贅肉は見られない。それもあってか見ず知らずの女性から好意を寄せられることは珍しくなかった。

 今回もまたそれなのか、そう考えた尊はふうと大きく溜め息をついた。

「……いや、付き合ってない。アイツとは友達だよ」

 内心の苛立ちを隠すように尊は声の抑揚なく答えた。友達といった瞬間、彼は胸がキュッと締め付ける感覚を覚えたが、顔には出さないよう表情を固める。

 しかし、そのことについて特に大した思いもないのだろう。ひどくどうでもよさげな顔を継姫は浮かべていた。

「そうね、ただの男女関係なら私もいうことじゃないわ」

 そのどこか突き放すような口ぶりに尊は頭に血が上るような感覚を感じた。それに逆らうことなく感情のまま押されるように強い口調が意図せずこぼれてしまう。

「だったら、いちいち口に出してくるなよ。話がないななら俺は帰るぞ。美郷を待たせてる」

 舌打ち交じりに継姫に背を向けた尊だったが、継姫の「待ちなさい」という小さくも耳に届くハッキリとした言葉に踏み出した足が地に縫い止られてしまう。

「貴方が近くにいると市ノ瀬さんが不幸になるっていったらどう?」

 冷たく、どこか怒りを感じる言葉に尊は目筋を吊り上げながら振り返った。

「どういう意味だ」

「言葉のままよ。貴方は自分に宿った力の意味を知らない。いえ、知らないふりをしているのかしら。どちらにしても、このままだと貴方は大切な物を失うということよ」

 怒りを滲ませる尊に対して怯えるでもなく、どこか呆れを含んだ目を継姫は浮かべている。しかし、その目がどこか責めているようであり、尊はのどの奥が乾いていくのを感じた。

「いったい、何の話をしているんだ」

「いずれ分かることよ。その時になってせいぜい後悔しないようにね」

「おい、どういうことだ! まッ——!」

 話したいことは済んだのだろう。話は終わりとばかりに継姫は背を向けるとその場を去ろうとする。尊は静止の言葉をかけようとするも、彼女の鋭い目によりそれ以上の言葉を告げることができない。気圧されて立ちすくむ尊を気にするでもなく継姫は歩みを止めることなくその場を去っていった。

「くそ、いったい何だってんだよ」

 小さくなっていく背を目に、尊は小さく呟いた。しかし、その声はいつの間にか耳に聞こえてき生徒たちの声に搔き消えてしまう。

 無性に美郷に会いたい、尊はその言葉で頭が埋め尽くされていた。けれど継姫の言葉に足が石になったように動かすことができない。すれ違う生徒たちの奇異な視線も気にも留めず、尊はしばらくの間、その場で立ち続けていた。

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