第2話

 美郷はリビングの窓を開けるとベランダからそのまま隣の部屋に移動した。隣の部屋との間には仕切りがあり、出入りは不可能なはずだが彼女の家に限ってはなぜかそれが枠組みだけを残して見通せるようになっている。その真相はというと美海が「これがあると行き来が不便よね」と取り壊したのが理由である。ちなみにこのことを管理会社は知らない。退去費用の修繕費についてどうなるかを美郷は今では考えないようにしている。


 ベランダ伝いに移動して美郷は尊の家の窓に手をかけた。彼女が来ることをわかっていたのだろう。ベランダの窓は施錠されておらず、美郷は内心で不用心だよなと他人事のように考えながら彼の家へと足を踏み入れた。


 その部屋は非常に簡素なものであった。最低限の家具しかなく、殺風景な部屋がそこにはあった。また家具との間に空いた広い隙間を埋めるように脱ぎ捨てられた服が部屋のあちこちで散らばっている。床の所々に掃除があまりされていないのか固まったホコリがちらほらと美郷の目に映る。折を見て掃除しないといけないなと、美郷はぼやきながら目的の部屋へと歩みを進めた。


 たどり着いた部屋の表札には何も書かれていない。その扉を音を立てないように美郷は開け、尊がいるであろう場所へと目を向けた。目的の人物はというといびきをかきながら気持ちよさそうに寝ている。

 昨晩が少し暑かったのか、布団の一部がベッドからずり落ち中途半端に身体に乗っている状態となっていた。その呑気な様子に美郷は眉間に深くシワを作り目を細めた。


 そんな彼女の気持ちをつゆ知らず、相も変わらず尊は穏やかな顔をして夢の世界を堪能している。美郷は足音を立てることもなく彼のベッドまですっと近づいていく。そしてある程度近づくと直立姿勢から右足を斜め後方へ下げ、腰を落とす。すっと構えたその姿は実に堂に入ったものである。彼女にとって何年も続けてきた馴染みの構えからその経験の深さを感じられた。


 しかし、その構えの標的となるものは美郷のその構えからくる拳の痛みを知っているはずだが、残念ながら深い眠りに落ちているためかその危険に未だ気付いていないようだ。美郷はすっと呼吸を一拍止め、目を閉じて精神を集中させる。そして気合を込めた拳を標的の腹筋目指して――


「——は!」

「——殺気!? あっぶね!」


 垂直に振り下ろした。しかし尊は直前の殺気に気付いたのか慌てて目を覚ますと体を転がせて拳をかわすことに成功する。その結果は美郷にとっては極めて残念なことに、反対に尊にとっては不幸中の幸い。目標振り下ろしたはずのその手は目標にあたることはなく、彼のベッドへと突き刺さってしまう。


 ドカン!と大きな音を立ててグワングワンと揺れるベッドはその威力が相当高かったという証拠なのだろう。うまく難を逃れた尊はというと、ベッドの上で背中を壁にあてながら座り込んでいた。その顔から冷や汗がダラダラと流れ、緊張からか瞳孔が開いている。急に動いて息が切れたのだろう、浅く何度も口から息を吐きながら尊は美郷をにらみつける。


 一方、狙ったはずの獲物を逃した美郷はチッと小さく舌打ちをすると、拳を戻して構えを解く。そしてまるで何事もなかったかのような笑顔を尊へと向けた。


「おはよう尊、良い朝ね。朝御飯冷めちゃうから早く食べてね」


 そのあまりの変わりようにこれ以上の危険はないと悟ったのか、尊は身体を弛緩させると顔を下に向けて大きく息を吐いた。そしてそのまま顔を上げることなく下から覗き見るように視線を美郷へ向けながら咎めるように話しかける。


「……お前はどこの暗殺者だよ。わざわざすり足で部屋に入ってきて悪意しか感じねえし。あと、おはよう美郷」

「普通に入ってもアンタは気付いちゃうじゃない。それに文句をいうならもう少し自立してから言ってちょうだい」


 そんな尊の視線をどこ吹く風とでも言いたげに美郷は笑顔を向けつつ答えた。その言葉に本人も世話になっているという自覚があるのだろう、バツが悪そうに唇を尖らせながら彼女から顔をそらした。


「もう少しさわやかな目覚めを味合わせてくれてもいいんだけどな」


 そう尊が言うが、最初の頃は美郷も優しく起こそうと努力していたのだ。しかし、あまりにも寝つきがいいのか普通に起こしても彼の眠りを覚ますことはなく、貴重な朝の時間を削られることが多々あった。結果的に力業が有効なのだと気付いた今となっては彼女ばかりを責めるのも酷というものかもしれない。


 ちなみに今の起こし方に変えた当初は尊も油断していたのか起き抜けに腹をさすっていることが多くあった。「ゲハァッ!」と某世紀末の悪役モヒカンのような悲鳴を上げていたものであるが、最近は今日のように避けられることが多くなってきていた。

 自身のストレスのはけ口のためにもそろそろ攻撃パターンを変えてみる必要があるかもしれない。美郷は人知れず次の起こし方について頭を巡らせた。


「おかしいなぁ、シチュエーション的には可愛い幼馴染が甲斐甲斐しく起こしてくれて、しかも朝飯まで作ってくれる。オタク界隈じゃ泣いて喜ぶ展開だと思うけど? 嬉しくて胸弾まない?」

「少なくても、今感じている動悸はトキメキじゃなくて九死に一生を得た安心感だな」


 未だに鼓動が安定しないのか、胸に手を当てながら尊は答えた。それに対して美郷はさほど気にすることもなく、むしろ面倒くさそうに話しかける。


「あっそ。とにかく、時間もないから早く準備済ませちゃってよ」

「まったく、お前は俺の母ちゃんかよ」


 尊は顔を背けつつ、拗ねたようにぼやいた。


「そういうなら、とっとと親離れしてくれよ、尊くん」


 尊は「はいはい、分かりましたよ」と煩わしそうに言いながらベッドから降りた。着ていたスウェットを脱ぎ捨てると、まくりあげられたシャツの隙間から割れた腹筋が顔を出す。それは見事なほどに割れており、彼が日頃から鍛えているであろうことが容易に想像できた。


 美郷は思わず視界に入ったそれを何気なしに見るのと同時に考えてしまう。同じくらい運動しているはずなのにどうしてこう差がつくのだろうと。男女の身体の違いに不思議に思いながら、美郷は無意識に自らの腹に手をやった。


 周防尊は高校2年という成長期にある中でも平均よりも高い身長である。また短く刈り揃えられた黒髪に彫りの深い顔つき、そして細く吊りがちの目と少々厳つい容姿をしている。そのため初対面の相手は萎縮してしまうものもいるだろう。

 とはいえ、10年近い付き合いの美郷にとってしまうと日頃の言動も相まってデカいだけの子どもとしか思えなかった。


 美郷はぼんやりと考えていたところ、尊が咎めるように目を細めてみていたことに気付く。それに小首をかしげながらどうしたのだろうと美郷は彼を見返した。そうすると尊は頬を赤らめて顔を背けた。


 そして普段より幾分か小声で「あのさ、じっと見られているとさすがに恥ずかしいんだけど」と尊は告げた。


「今更じゃない? 昔はよく一緒にお風呂にも入った仲じゃない」


 それとは対照的に美郷は尊へ不思議そうな顔を見せる。彼女にとってその身体は見慣れたものだ。男性の身体にいちいち反応するほど初心ではないというのもあるかもしれない。


 しかし、美郷にとって男性の身体が過去においてありふれたものであったというのが大きな理由だろう。むしろ彼女にとって同性の裸のほうが見るのにためらいを覚えることが多いくらいだ。


「いつの話をしているんだよ、それ」


 しかし当の見られている尊としてはそんな美郷の内情など知る由もない。むしろ日頃から顔を合わせている幼馴染だからこそ、改めて自分の身体をジロジロと見られることに恥じらいを覚えるのも無理のない話だ。


「道場でいつも見てるでしょ。それにいちいち恥ずかしがってたら技の1つも出せないっての。それより、ちゃんと着替えは洗濯機の前の籠に入れておいてよね」


 いつまでも着替えを進めない尊に対して、美郷は中身よりもガワの今後の扱いのほうがむしろ気になったらしい。部屋に入った際のリビングの惨状に目を向けたからだろう。やれやれとでも言いたげな彼女の様子に尊はむっとしたように唇を尖らせる。


「わかったよ。とりあえず先にお前は戻ってろ。さすがにそうジロジロと見られていると着替えづらい」

「はいはい、戻りますよ。朝食を済ませてくれないと洗い物が終わらないんだから早くしてよね」


 美郷はそういうと尊に背を向け部屋を後にした。自分の家に戻ると登校時間にはまだ余裕がある。彼を待つ間は手持ち無沙汰だったこともあり、美郷は洗面所へと足を向けた。


 洗面台の前に立ち、美郷は鏡に映る姿を見ながら寝ぐせを確認したり、肌の様子などを確認する。そのむき身の卵のよう艶やかな肌にはニキビの1つもない。鏡を見ながら寝ぐせがないかなど確認しながら美郷は改めて鏡に映る自分の姿を見た。


 栗毛色の肩まで伸びた髪、気の強さを感じさせる猫のような目、愛嬌を感じさせる少し丸っこい顔に反して一文字に結ばれた不愛想な口元。彼女にとってはすっかり見慣れた顔が変わることなく鏡に映されている。


 髭の生えることがないその顔に違和感を覚えることもあった。今となってはシェービングクリームよりも化粧水を塗ることのほうが多くなった肌を見て、改めて女性は大変だなと美郷は他人事のように考えた。


 美郷は考えに思いを巡らせながらも手を止めることはなく、身だしなみを整え終える居間へ戻る。きしくも着替えを済ませた尊がベランダ越しに部屋へ入ってくるのとちょうど同じタイミングだったようだ。それを確認すると美郷は台所へ向かい、炊飯器から手早く2人分を茶碗によそうとそれぞれの席に振り分けた。


 尊と向かい合う形で美郷は席へ座る。「いただきます」の合図は一糸乱れることなく、彼女たちの関係性の深さを感じられた。しばし無言で食事を進める中、部屋から聞こえてくる音はニュースのアナウンサーの声だけだ。


 そんな中、唐突に尊が食事をしながらポツリと「いつも思うけど、ほんと料理うまいよな」とこぼした。干物から器用に骨を外し、ほぐした魚を口に含みながら話す尊の言葉に美郷は特に誇る様子がない。


「大して難しい料理じゃないわよ。作り置きだったり、手早く済ませられるものだから結構手抜き。尊もやってみたら意外とすぐにできるようになるわよ」


 謙遜ではなく本心からなのだろう。その言葉がから褒められたことに対して何の感情も抱いてないのが伝わってくるようであった。それに対し、彼女のいう手抜きのことすらできない尊としては納得のできない話である。


「それが結構難しいんだよ。俺と親父だけだとどうしても栄養バランスも偏るしな」

「ああ、確かに。おじさんも結構いい加減なところあるものね」


 美郷は尊と彼の父親が2人だけで生活していた時の惨状を思い出す。家の都合によりしばらく離れたあと、彼の家へ訪れた際のことを思い出したのだろう。今日以上に散らかった部屋や台所の洗い物の山々。放っておいたらゴミ屋敷を生み出す生活力のなさに見兼ねて手を貸すようになったのは中学に上がってしばらくしてのこと。


 尊の父、周防大和は仕事柄忙しいこともあってか滅多に家に帰ることがない。引っ越し当初はそれこそ尊は市ノ瀬家で過ごすことが多かったくらいだ。中学に上がる頃から尊も面倒をかけることへの遠慮からかその頻度は少なくなっていったが、気になって家へ様子を見に行った美郷が惨状を目にして以来、今ではお節介に世話を焼くことへの引け目もなくなってしまっている。


「おじさん、しばらくまた忙しくなりそうなの?」

「みたいだな。どうも最近は物騒みたいで仕事場にこもりっきりなんだと」


 大和は近くの警察署で勤務している。元々仕事第一の人間であるものの、最近ではいつもに増して忙しくしていると美郷は以前に尊から話を聞いたことを思い出す。


 尊がちょうどニュースでその件について触れられていることに気付いたのだろう。テレビに視線を向けず、空いた手でテレビを指さした。美郷は向けられた先へと視線を向けると今まさにテレビの画面からその原因となるニュースが報じられているところだった。


 画面の中ではキャスターが街角を歩く人々に向かってインタビューをしている様子が映っている。「連続失踪事件、犯人は一体何者なのか!?」とセンセーショナルに謳うその文言からマスコミが面白おかしく騒ぎ立てているのが伝わってくる。とはいえ、事件に関わる当事者からしたらたまったものではないだろう。


「おじさんも犯人を追っているんだっけ?」

「みたいだな。あまり仕事のことは家で話さないのだけど、しばらくこの事件へ掛かりっきりになりそうだから家には帰られないとさ」


 ほら、と差し出されたスマホ画面に移されたメール画面からは「しばらく仕事で帰れない。美郷ちゃんによろしく伝えておいてくれ」と簡素に書かれていた。美郷はそれにはぁと息を小さく吐くと、肩をすくませた。


「そっか、お互い忙しい親を持つと子どもは大変ね」

「まあな。とはいえ、親父がいても部屋を汚くする人間が増えるだけなんだけど」


 そのことに特になんとも思っていないのか、尊は箸を止めることなく口にものを運び続ける。気にした様子のないその姿をなんとも言えない気持ちで見つめる美郷であったが、彼が最初から自分頼りであることに気付くと目を細めて尊をにらみつけた。


「……その分、私の負担が増えるってわかっているならもう少し感謝したらどう?」

「ほんと、美郷には足を向けて寝られないな」


 尊はそういうと箸をおき、美郷に向かって手を合わせ仏を拝むような仕草をする。どこかからかうようなその姿を見て、美郷は彼への反省を促す意味を込めてある提案をすることにした。


「そう思うなら今日の帰り、何かおごりなさい」

「アイスでいいか?」


 顔を下に向けてどこか覗きこむように尊は美郷を見た。彼女の好物で手を打とうとするどこか打算的な提案ではあったが、それが分かったからこそ美郷も容赦をするつもりはない。


「ハーゲンダッツのバニラで手を打つわ」

「まじか……スーパーカップじゃダメか?」

「だが断る」


 「まじかー、今月小遣い厳しいのに」と尊は天井を仰ぎ見た。それに美郷は「どうせ趣味のプラモをまた買い込んだのだろう」と彼の金欠の理由を思い浮かべる。生活費の一部を削ってまで買い込むその趣味に少し呆れながらも、それと同時に尊の母親が存命であったならもう少し生活は変わったのだろうかと考えてしまう。


 周防家は尊と大和の二人暮らしである。彼の母親は幼い頃に亡くなったと美郷は聞いていた。亡くなった詳しい経緯については彼もよく覚えていないこともあり、美郷も深く聞いたことはない。


 美郷は尊の家に飾られた家族写真を見たことがある。その写真は2人の人物が映っていた。1人は幼い男の子、もう1人は笑顔で優し気に微笑む女性であった。一緒に映り込むやんちゃそうにほほ笑む写真の中の尊は今の口数の少ない彼とは似ても似つかないものであった。

 それでもその写真の中の家族の様子から彼らが仲の良い親子だったのだろうことは美郷も想像がついた。


 もし今もこの場にいてくれたなら、私の苦労に共感してくれただろうか、美郷が叶うことのない願いに思いを馳せる。そんな当事者である尊は食べ終えたのか「ごちそうさまでした」と手を合わせて自分の分の食器を洗い場に持っていくところだった。それを見て美郷も止まっていた箸を動かし始めた。


 テレビからはインタビューを受けている行方不明の関係者だろうか、声を震わせながら居なくなった者を気にかける言葉を零している。そんな画面の向こうの悲痛な叫びも彼女たちの日常の中ではただの雑音として流れていく。彼女たちの日常とはかけ離れた他人の不幸など例え現実に起こっていることであっても関係がなければ所詮はフィクションと変わりのないことだからだ。


 美郷と尊はこのとき、自分たちがこの画面の中の出来事の当事者となり、関わっていくことをこの時はまだ知る由もなく、今は当たり前の日常を漫然と受け入れていた。


 いや、彼女たちは日常があまりもあっけなく崩れ去るということをその身をもって知っていた。ただ、気付きたくない現実からただ目をそらしていただけなのかもしれない。それでもこのぬるま湯のような今をただ享受し続けるのだった。

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