鉄拳のアイアンメイデン

@0913dodome

第1話

 少女の頭から流れ出た血が顔面を少しずつ染め上げていく。開かれた目に鮮血が滲んでおり、恐らくまともに見えていないのかぼんやりと虚空を見つめていた。切られた傷口は頭だけではなく、失った両腕の付け根からドクドクと流れていく血が白い制服を紅白色へと変えていく。倒れ伏し、激痛に叫び声をあげたいのだろう。口元がパクパクと開くもののそんな力ももはや残されていない。うめき声すら虚空へと吸い込まれていく。


 その不思議な感覚を感じながら、市ノ瀬美郷は自分の命が長くないのを予感していた。彼女はその感覚を知っていたからだ。昔、そう、今の人生を歩むよりずっと前に、同じような痛みを感じたことがあったから。


 そんな今の自分の状態を諦めながら受け入れようとする美郷の手を男が強く握りしめている。ぼやけた視界に映るのは長年連れ添った幼馴染の姿だ。今まで見たこともない必死な顔で叫ぶその言葉を薄れゆく彼女の思考ではまともに聞き取ることもできなかった。


「おい、—丈——美郷、———して———。俺を——にしないでくれ!」


 それでもわずかに聞き取れた男の声からすがるように必死で呼んでいるというのだけはどうにか聞き取ることができた。けれど徐々に意識が彼方に追いやられていく美郷はそれにまともに返事をすることすらできなかった。


(ああ、これ、死んじゃうかもしれないな……だって、昔に死んだときと同じ感じだし……)


 自分の死を確信しながら美郷は考えていたのは今日までの日々のこと。走馬灯のように今生の日々を思い返しながら、最悪の結末を迎えた前世。変わろうともがきながら、結局はこうして今も同じように死を迎えようとしている。それでも、彼女の心に後悔はない。大切なものを守れたという身勝手な充実感からか、死を迎えるにあってその顔は不自然なほど穏やかに見えた。


 それでも心残りはあるのだろう。赤みがかった彼女の視界にぼんやりと浮かぶ幼馴染を見ながら彼女は最後の気力を振り絞り、言葉を紡いだ。


「ごめ……ん……ね……」


 その言葉を最後に彼女の意識は闇へと消えていった。


――――――――――――――――――


 美郷の平凡な日常が変わるきっかけは高校2年の進級を間近に控えた頃のことだった。


「美郷ちゃん、お母さんね、来週からのお父さんの単身赴任についていくことにしたの。せっかくだし、赴任先では二人きりで久しぶりに色々なとこへお出かけしちゃう予定なのよ。デート楽しみだわ、えへへ~」


 彼女の母親から突拍子もなく告げられた話はまさに寝耳に水で、普段は落ち着いているといわれる美郷でも動揺を隠すことができなかった。


「……年考えろよ色ボケババ「ああん?」——なんでもありません、美しいお母さま」


 突然すぎるその申し出に美郷は思わず日頃から思っていても口にはしなかった本音がこぼれてしまう。しかし、のほほんとした雰囲気から一変した母親の表情を見てすぐに自らの発言を撤回した。


 美郷の母である美海は年齢が40代を少し越えたくらいだが、その見た目から年齢通りというにはあまりに若く見える。20台後半といっても差し支えないほどではあるが、自身では年を重ねてきた自覚があるのだろう。年齢を感じさせる呼び方には非常に敏感のようだ。


 にらみを利かせて美郷の発言を撤回させたあと、その雰囲気をまた柔らかなものに変えて詳しい経緯について説明を始めた。


 美海がいうには何でも夫である郷太郎が仕事の都合により1年ほど遠方へ単身赴任することになったということらしい。郷太郎は大学の時から美海と同棲していたこともあり、今まで一人暮らしをしたことないため生活力が壊滅的とのことだった。

 

 結婚して20年近くになるも未だに夫への愛情を薄れさせない美海は、夫の赴任先での生活に不安を感じたのだろう。今回の単身赴任に帯同してついていくことにしたらしい。


 そう一通り説明した美海は仕方ないという体裁ではいるものの、その口ぶりからは喜びが漏れ出てしまっていた。おそらく彼女の頭の中では赴任先での久しぶりの夫とのデートを今から想像しているのだろう。鼻歌交じりに視線を上に向けながら体を左右に揺らしていた。


「ちょっと待ってよ。母さんはうら若きか弱い乙女を一人にして不安じゃないわけ?」


 しかし、美郷からするとこの家で一人暮しをすることになるわけであり、身勝手に思うのも無理のない話である。つい責めるように口調になりながらも、未成年を一人にすることへの危機感を煽るようにして同情を引き出そうとその顔は必死だ。


 そんな美郷の訴えであったが、美海からするとその心配は杞憂だとでも言いたげに自信満々な笑みを浮かべる。その表情から美郷は逆に不安を感じてしまう。


 しかし、残念ながら美海から告げられた返答は彼女の不安を的中させてしまうものであった。


「大丈夫! そう思ってあらかじめお隣さんにもよろしく言っておいたから」

「お隣さんって、尊のこと?」

「そう、尊くん」


 そういって美海は右手の親指をぐっと上向きに立てながら自信満々に告げた。そのしぐさに呆れから美郷は右手のひらをおでこに充てて天井を仰ぎ見て口から大きなため息をつく。


 市ノ瀬家は都心から少し外れた市街地にある集合住宅で暮らしている。築年数はそれなりに経つが、リフォームされたこともあり古いという印象は感じられない作りであり、ご近所付き合いの長い家庭も多い。その中の1つが周防家であり、尊は美郷の小学校からの幼馴染でもあった。


 両家の付き合いは長く、かれこれ10年にも及んでいる。周防家が引っ越ししてきたある日、尊が公園でいじめられていたのを美郷が助けたのきっかけだ。助けたのち、家へ案内している途中で尊が隣に引っ越してきたことを知り、美郷が世間の狭さを実感したのは言うまでもない。

 それ以来、色々と紆余曲折はあったものの小学校を卒業してから今までずっと一緒に過ごしてきた仲である。


 しかし、美郷としてはこれまで互いに困ったときは助け合ってきた関係ではあるが、今回は事情が違うのではないかと思わずにいられない。美郷にとって尊は図体ばかりがでかくなった子どものように思うことが多い。また生活力が皆無という意味では彼女の父親と大して違いはない。


 けれど、それは尊の家の事情を考えれば仕方ないという一面もある。とはいえ結果的に生来の面倒見の良さから世話を焼くことになってしまっている現状を踏まえると彼女自身の世話が増える分、余計な手間がかかるということに違いはなかった。

 それを踏まえて美郷は最後の抵抗とばかりに美海に問題点を伝えてみることにした。


「……私、尊の家の食事とか、今もときどき代わりに作っていたりするんだけど。あいつ、放っておくと家の中がごみ屋敷になるから気をかけて掃除をしに行ったことも一度や二度じゃないし。世話されるよりも私がしてる側じゃないかと思う」

「いいじゃない! これを期に新婚生活みたいなことしても良いわよ」


 けれどやはりというべきか、すでに美海の中ではそれすらも決めたことを覆すまでには至らない話だったようだ。むしろいい機会だとでも言いたそうに言葉を返す。

 それに対し、美郷は向けていた視線をそらして美海の言葉に鼻で笑う。


「はっ、面白い冗談ね。結婚生活って家政婦や召使いのことを指すって初めて知ったわ。Twitterで投稿してフェミニストを発狂させてみようかしら」


 皮肉交じりで返したその言葉に美海は眉を下げて美郷を見た。その顔からひどく残念なものを見る目をしている。年頃の娘がひどく捻くれた言い回しをすれば仕方ない話だろう。


「枯れてるわね、美郷ちゃん……どうしてこう捻くれたのかしら」

「むしろ10代の高校生を部屋は別とはいえ一緒に生活するのを許可する親のほうがどうかしていると思うけどね」


 そう言葉を返すと美郷は口角をつり上げながらはっと小さく息をはいた。

 この話を聞いたのち、美郷は尊にもこの件についてどう思っているのか聞いてみた。返ってきた答えはというと「すでにほとんど俺んちはお前に世話になりっぱなしだから、今と大して変わらなんだろう」とのことだった。


 ちなみにその話をした次の日、尊が脇腹を抑えながら登校してきたのが、美郷はその件について触れることはなかった。犯人が誰なのかは言うまでもない話である。


 そうして一度決まったものがそう簡単に覆るまでもなく、この話からしばらくして美海は夫と一緒に赴任先へと旅立っていった。美郷が学校から帰ると両親はすでに家を空けた後であり、机の上には1通の手紙と小さな箱が置いてあった。


 手紙には「安心家族計画のために使ってね♡」と一言書かれていた。小箱の中身は夜の生活でお世話になるゴム製品である。美郷は脳裏で笑う母の顔を想像して思わず書かれていた手紙を握りつぶし、勢いのまま小箱をゴミ箱に投げ捨てた。


 その日、美郷と美海との間の心の壁は製品に書かれた極薄0.01㎜の薄壁とは真逆の極厚1mの鉄板に早変わりしたのは言うまでもない。


 こうした経緯で美郷は現在、一人暮らしをしている。世話を任されたはずの尊はというと、まったく役に立たないどころか、むしろ彼女にとっては世話を増やすばかりとなっていた。とはいえ1か月も経った今となっては彼女としても生活に慣れたのか、今では手早く2人分の朝食と弁当の準備を並行してできるくらいになっている。


 そうは言っても面倒なことには変わりはないのだろう。目覚ましの甲高い音に合わせて美郷はベッドから身体を起こすと、小さくため息をつく。そして寝間着から手早く制服に着替えると簡単に身だしなみを整えて出て台所へと向かった。


 美郷は冷蔵庫にかけられた着慣れたエプロンを身にまとうとそのまま朝食の支度を始める。冷蔵庫から干物を取り出しグリルで焼きながら、作り置きのほうれん草のお浸しを皿に盛りつけ。並行して鍋に軽く水を張ったのち、計量スプーンで適量のだし粉末を混ぜ、豆腐とねぎを入れて手早く味噌汁を作り始めた。味噌汁の準備に目途が付いたのか続いて冷凍庫から取り出した総菜を弁当箱に詰めていく。


 そうしていると昨晩から準備しておいた炊飯器が料理の完成のタイミングに合わせてピーと炊き上がりを知らせてきた。そのあまりの手際から美郷がはじめての一人暮らしとは思えないほどに、その動きは板についたものであった。


 そうして食事の準備を終えると後は食べるだけなのだが、生憎とそういうわけにもいかない事情が美郷にはあった。彼女は身に着けていたエプロンを外すと壁越しいるであろう相手をにらみつける。


「……アイツ、本当にいつまでたってもガキなんだよなぁ」


 そういうと美郷は右手で頭をかきながらはぁと小さく息を吐いた。渦中の人物はおそらくまだ夢の世界にいるであろう。美郷にとってはよく食べ、よく動き、よく寝る尊はまさに健康児童そのものだ。とはいえ、高校生なのだからいい加減一人でできることはしてほしいという思いは尽きない。

 とはいえ、今からいきなり独り立ちさせるにはあまりにも今は時間が限られている状況でもある。


「しゃーない、起こしにいくか」

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