第四章 時計とウサギ

 翌日 五月十一日。木曜日。朝。

 さやかは校門への坂道を急いで登っていた。

 既に時計の針は八時四十分を回っていた。遅刻である。

 ――はぁ…馬鹿みたい。

 坂を登りきった時には随分汗をかいていた。息を整えながら校門をくぐり、そこに居た生徒指導の先生に用紙をもらう。

 ――これで無遅刻は無しか…。

 諦めたようにゆっくり校舎に入ると、靴を履き替えながら溜息を吐く。

 誰もいない廊下を教室へ向かいながら、さやかは昨夜確認した日記のことを思い返していた。

 前日、日記はまたも一日早く更新されていた。


                  *


[事件]目覚し時計!?


 どうしてこんなところで?

 突然ベルの音。

 周りを見回したけれど、何処から音がするのかは分からない。

 結局最後は止まったんだけど…。

 一体誰が?

 何のために?


 止めてくれた人は、もしかして?


                  *


 記事には事件というタグが付いていたが、今まで同様、それが起こる場所も、時刻も指定する記述はなかった。

 内容は以前に比べ、より抽象的であり、もはや日記と言うよりは犯行予告クイズといった感じだった。

 ――それにしてもなぁ…。

 さやかは教室に向かう道すがら再度溜息を吐いていた。

 というのも、遅刻の原因は単なる寝坊だったのだが、それが『目覚まし時計』の故障の所為だったからだ。

 ――ついてないというか…なんというか…。

 時計の故障はブログとは何の関係もないことだったが、予言の事が気になって、なんとも言えず情けない気分にさせられたのだった。

 例の犯人に踊らされているような感覚に、さやかは若干の苛立さえ感じ始めていた。

 教室前にたどり着く。入り口から覗き込むと既に誰も居ない。仕方なくさやかは自分の机に鞄を置き、荷物を取り出す。

 ――急がないと…。

 木曜の一、二限は、隣り合う二クラス合同での芸術の選択授業なので、既に他の生徒は教室を移動しているのだ。生徒は音楽か美術のどちらかを選ぶ事が出来、さやかは美術を選択していた。

 道具を持って教室を出ると、駆け足で渡り廊下を過ぎ、中館西側の階段を最上階まで上る。最上階の踊り場からイーゼルやカンバスの並ぶその先に、美術室の入り口があった。

 急いで来たものの、さやかは暫く通路に立ち止まっていた。

 様々な画材の質によるものか、通路にまで漏れている鼻をつく独特の臭い。それは薬品だと知っていて嗅ぐ化学室の場合とは何か違う。

 担当教師が換気に気を配らないせいか空気はいつも澱みがちだったが、室内は視覚的にもどんよりした雰囲気を感じさせるものだった。

 インクや塗装剤、飛び散った絵具が固まった床やテーブル。

 ずっと使われないままに置き放された工具。雑然と並んだデッサン用の石膏像や動物の骨。それに、天井から吊ってある美術部員の作った奇妙なオブジェ等。

 自身で美術を選択したにもかかわらず、それら部屋全体にある、人工的な臭いとでもいうものが、さやかはあまり好きになれなかった。

 既に複数のグループに分かれて生徒達がそれぞれの課題を始めている。

 美術の授業では、デッサン、油彩、水彩、工芸などから一つ選択して半期の間その課題に取り組むことになっていた。

 後方の窓際に立てられたイーゼル、そしてその前に椅子を置いたある生徒を見つけると、さやかは諦めたように教室に足を踏み入れ、教卓代わりのテーブルに向かった。

 出席を確認した教師に軽く注意を受けてから、後方窓際、既に木炭紙を前にしている一人の女子生徒のところへ向かい、さやかは頭を下げた。

「ごめんなさい」

「いいわ、別に…」

 少し含みのある笑顔でそう言うと、牧野翔子は木炭を取り上げた。

「ちょっとまって」

 さやかは翔子の視線を避けるように後ろを向くと、急いで準備をした。そして振り返って席に着く前に、近くの窓を少し開いた。

「いい?」

「うん…」

 翔子はさやかの方を見つめながら木炭を動かし始めた。その目が紙面に固定されたとき、さやかはようやく自身の画材を取り上げた。


 今、さやかが取り組んでいるのは人物デッサンである。

 最初の課題はそのグループ内でのパートナーを互いにデッサンするといったものだった。

 向かいの翔子を見つめ、さやかは目の前に写し取ったその姿とモデルとを何度も比較した。紙面に写し取った少女の姿はこちらを向いておらず、自分同様イーゼルを前にする少女の、斜めから見た表情である。

 やや伏せた目の長い睫毛、丸みのある鼻、頬に掛かる長い髪、そして少し厚めの口唇、細い顎のラインがそこにある。

 慎重に炭を置き、指でそれを伸ばしていく。木炭紙のざらざらした表面に、微妙な炭の濃淡で陰影を表現していくのだ。

 続く首の線に少し誤差を感じて確認しようと少女を見たとき、モデルは正面、丁度さやかの方を向いていた。

 翔子はやや首を傾げ微笑んでいる。不意を突かれたさやかは気まずくなって、目を逸らしてしまった。視線を戻した時には、少女は既にすました顔で自身の作品に向かっていた。


『杉村さん、描いていい?』

 牧野翔子と初めて話したのは美術の授業である。

 少数のデッサン選択者、そのグループの中で声をかけてきたのは翔子のほうだった。

 クラスメイトとはいえ、一度も口をきいた事がない人物から突然言われたことに、さやかは少々戸惑いを感じたのを憶えている。

 しかし、ひと月ほど美術の授業でお互いを描いているが、二人の間には殆ど会話らしい会話は無かった。もともと、さやかは積極的に会話を始めるタイプではなかったし、たまに翔子の振る話題は、さやかに同意を求めるような内容ではなかった。

 ――合わない、のかなやっぱり。

 短い会話の中に、共通のものを見つける事はそもそも難しかったが、無言の中にもさやかは噛み合わない雰囲気を感じていた。そして、それを感じるほど、最初に翔子から声をかけてきた理由が分からなかった。

 ――どうしてなんだろう?

 デッサン選択者には同じクラスの人物は他にもいたし、その中にはよく翔子と話をしている少女、西崎佳織もいた。佳織は翔子とパートナーを組むつもりだったらしく、その時は意外な顔をしていたものだった。

 改めて、モデルの少女を見る。

 彼女は澄ました顔で、淡々と作業を進めている。その表情は最初から変わらず、さやかはいつも翔子が何を考えているのか分からなかった。

 ――でも…。

 性格が合わないといっても、さやかは翔子のことを嫌いになるほどでもなかった。少し冷たい雰囲気を感じはしたものの、彼女の素振りには特に嫌味なところはなかったのだ。


 不意に中央のテーブルから大きな音がした、見ると木工に取り組んでいる生徒が鋸を使い始めていた。切り終わった生徒からそれに鑢を掛け始める。その音に気を取られたのか、翔子もひとたび手を休めると、テーブルの方を見つめた。モデルが別のほうを向いたので、さやかは木炭を置いて少女が元の姿勢に戻るのを待った。

「杉村さん」

 中央のテーブルを向いたまま翔子が言った。

 それぞれが離れた位置で課題をしており、工具を使う雑音も入るとあっては、教師に咎められる心配も殆ど無かったが、さやかは小声で問い返した。

「何?」

「あんた…」

 翔子の口元が動いたのと同時に、また誰かが鋸を引く音が響いた。気が付くと翔子はイーゼルの方を向き直っていた。さやかも木炭紙の方を向くと、丸めたパンを紙に押し付け瞼に少し光を入れた。

「何?ごめん、聞こえなかった」

 さやかは翔子の方を向いた。翔子はこちらを向いていなかった。その唇が少し開いたとき、わずかに光を反射していた。少し持ち上がった口の端にさやかは新たにハイライトを入れる箇所を見て取った。唇がゆっくりと動いて、牧野翔子は静かに、だが正確に発音した。

「あんた、告白されたんでしょ?」

 聞いた直後、大きく心臓が脈打って、手元が狂ってしまった。間違ったところに光が入り、絵の少女の表情が歪んだ。

 ――どうしてだろう? 小さな影が少し変わっただけなのに…。

 さやかはモデルの顔を見た。翔子は相変わらず澄ました表情で、自身の作品を向いたままだ。ただ、その口の端だけが少し上がっている。

 ――どうしてだろう?

 さやかは返事をしなかった。

 一度に考える事がありすぎて、リアクションのとりようがなかったと言うのが実際だったが、幸い内心の驚きを表に出さずに済んでいた。

 木炭を動かしながら、翔子は瞳だけでさやかを見つめてきた。その顔は薄く微笑んで返事を待っているような表情。

 ――あれ?

 不思議なことに、その顔を見て抱いた印象が、様々な疑念の何よりも先にさやかの心の中に浮かび上がって来た。

 ――牧野翔子は魅力的な顔をしている。

 何の脈絡も無く、ただ反射的に彼女を見てそう思ったことに、さやかは驚いていた。


 牧野翔子はクラスでも目立つ容姿をしていた。

 同じクラスメイトとして、以前から判っていたことだったが、彼女をモデルに描いているさやかにとって、それは特に感じられることだった。分かりやすい美人顔と言うわけではなかったが、かといって個性的過ぎる事もないその顔は魅力的なバランスを持っていた。

 しかし、最前彼女を見たときさやかが受けた印象は、ただそれだけのことではなかった。

 今まで絵に描いていたモデルとは違う物がそこにある。そんな風に感じられたのだった。

 ――何が違うのだろう?

 考えてみれば実際には簡単なことだった。

 それは翔子の笑みだった。

 モデルにしていた牧野翔子の顔はいつも澄ました表情で、やや目を伏せた陰気な、まるで人形のような表情をしていた。が、今、目の前にしている少女はうっすらと、僅かに微笑むだけで、活きいきとした精彩を帯びているように見えた。

 ――どうしてなんだろう?

 その表情の変化は、何かの自信の表れだろうか? その表情から、何か読み取れるかもしれない。脱線した思考の中、自然と落ち着いてきたさやかはそんなことを考え始めていた。まだ多少心拍数は高かったが、頭では物事を整理しようと考える余裕も生まれつつあった。


「相手は、三組の本田でしょ? 三組じゃそれなりに人気よアイツ。どうなの?」

 ――どうだろう?

 本田の告白は、さやか以外誰も知らない筈だった。

 帰る途中だった牧野翔子からは、その光景は見えてはいなかった筈である。

 ――が、もしかすると見えていたのだろうか。いや、それとも、先ほどの口ぶりから考えると、彼を知っていて、告白のことも以前から知っていたのだろうか?そうだとしたら…。

 考えの途中でさやかは一つのことに思い至った。

 本田の告白を予言していたのは、例のブログであり、当事者以外にそれを知っているのはその記述者である。つまり、それを知っている牧野翔子がブログの犯人ではないだろうかと言うことだ。

 ――でも、もし犯人ならば、感づかれるようなことを自ら相手に話したりするだろうか?

 いや、きっとしないだろうとさやかは思った。

 牧野翔子が犯人ではない。そう考えると、今度はどうやって彼女はそのことを知ったのか? という疑問が持ち上がってくる。


「ねぇ? 聞いてる?」

 今度は少し乗り出すようにして、翔子はさやかの方を見つめていた。

「うん…」

 次々と遷りゆく思考から呼び戻されたさやかは、簡単に相槌を返した。

 牧野翔子の口調は事実の確認をするというよりは確信した事実の詳しい内容を訊くといったものだった。

 どうにかはぐらかすような返事は出来ないものかあれこれ考え、ようやく答えるべき言葉を見つけてさやかは言った。

「あの…誰から聞いたの? それ…」

 自分からそのことに対して答える代わりに、翔子がそれを『見た』のか、『知っていた』のか、『他の誰かに聞いたのか』を確認する事が出来る問いだった。が、しかしこの問いに、

「さあ、だれだったかなぁ?」と翔子はそっけなく答えた。

「だれだったかって…」

「だって噂だもん、そんなの知らないわよ…忘れたわ」

「忘れた? 噂って…」

 その出来事からは二日しか経っていない。もし翔子が噂で聞いたとすれば、それは昨日のうちだろうから、忘れるとは考えられないことである。どう考えてもその答えに友好的な雰囲気は感じられなかった。しかし、それだけでは連日の悪戯の犯人と翔子を結びつけることも出来なかった。

 翔子は再び黙り込んださやかをじっと見つめていた。

 木炭を持った手は動いてはいたが、それはイーゼルの台を指でコツコツと叩いているのだ。そうして暫くさやかの答えを待っているようだったが、ふっと息をはくと少しイライラしたような口調で言った。

「なに? 怒ってるの? いいじゃない別に、誰が知ってたって、あんたがフラれたって話でもないんだし…ちょっと訊いただけでしょ? そんなに恥ずかしいんならもう訊かないけど」

「え?」

 その言葉は少し意外だった。さやかはずっと問いが続くものと考えて、どう答えるべきかを悩んでいたのだ。

「うん、ごめん」

 さやかは何となく謝っていた。

「前から思ってたんだけどさ?」

 言いながら翔子は再び目を紙面に向け、作業を再開していた。

「杉村さんって、冗談とか、そういうの通じないよね」

「…」

 そこで、会話が途切れた。あるいは打ち切られたのかもしれないとさやかは思った。

 木工の雑音が少し小さくなった。一段落したのか、テーブルの指導を離れた美術教師が、順番にデッサンのチェックを始めた。二人の間に立った美術教師は両方の作品を見、少しばかり修正点を指摘したあと、互いの作品を見るようにいった。さやか達はそれぞれのデッサンを確認しあった。

 翔子のデッサンは上手だった。そこでさやかは素直に『凄い』と言った。

 さやかのデッサンを見た翔子は杉村さんも上手じゃない。というと、ついさっき無表情で辛辣な言葉を吐いた人物とは思えないほどの笑顔で微笑んだ。

 

 教師が去ったあと、再び絵を前に椅子についたが、なんだか息が詰まるような気がしたさやかは、出来ることならすぐに外の空気を吸いに行きたいと思っていた。

 休み時間まではまだ時間があった。仕方なく手を動かし始める。再び無表情に戻っていたモデルの顔は描きやすかった。ただ、その顔はやっぱり魅力的だと、さやかは思った。

 暫く経って「ところで…」と不意に翔子が会話をきりだした。

「鍋島さんって、甲斐のことどう思ってんの?」

 その問いにさやかはまた少し動揺した。翔子の事が犯人だとか、そういった考えは既に頭の隅に追いやられていた。

「え、それは…知らないけど」

「ほんとに?」

「うん…」

「…」

 そこでチャイムが鳴った。

 さやかは画材を置いて立ち上がると、入り口へ向かおうとした。その背中に

「トイレ?」と呼びかけ「私も…」というと牧野翔子は後ろから付いてきた。


                  *


 鏡を前に、さやかは髪を結びなおしていた。

 横で手を洗っている翔子が言った。

「ほんとに知らないの?」

「なにを?」

「鍋島さんのこと」

 聞かれて、さやかはふと手を止めた。わからないものは仕方がない。

「うん…知らない」

 ハンカチで手を拭いながら、翔子はさやかの後ろに立ち、スマートフォンを取り出した。ピンク色の、派手なストライプ模様のカバーをつけていた。暫くそちらを覗き込んで何やら入力していた翔子はふと鏡越しにさやかに視線を合わせた。

「いつも話、してんじゃないの?」

 さやかは一度見返し、直ぐ視線を外すと言った。

「そういう話、しないから…」

「そう…ふーん。ま、いいや…」

 言うと翔子は少し肩を竦めるようにして、さやかの後ろを通り過ぎた。そのままトイレ入り口のノブに手をかけると扉を半開きにして振り返った。

 さやかは丁度髪を結び終えたところだった。

「なに?」

「その三つ編み…かわいいわね」翔子は言った。

 悪口を言われたわけでも無いのに、翔子に言われたその言葉にさやかは始めて嫌な感じを受けた。


                   *


「さやちゃん、どうしたの?」

 昼休み、いつものグループでやはり一番に昼食を取り終えた裕美が、さやかの顔色が悪いと話しかけてきた。

「別に、なんでもないよ」

「何でもない? ほんとに?」

 そういうと裕美は同意を求めるように他のメンバーの顔を見る。

「確かに、ちょっと元気ないみたいよ」

 箸を止めて直子が言った。

「うん、最近寝不足でね…」

「どうして?」食事のごみを袋に詰めながら加奈子が訊く。

「…そろそろテストでしょ? いろいろと間に合わなくてさ」

 さやかは誤魔化すようにそう言った。

「へぇ…偉いね」裕美が感心したようにそういうと、加奈子が皮肉っぽく。

「あんた一夜漬け専門だもんね?」と言った。

「でも、点数悪くないもんね」

「裕美ちゃんは理数系得意よね。うらやましい」

 本当に羨ましそうに直子が言う。

「カナちゃん、数学勝負しようか?」裕美は何時に無く得意気にそう言った。が、

「いや、あたしは数学捨ててるから、国語なら受けるよ」と、加奈子にはあっさりかわされてしまった。

「あたし国語苦手なのに?」

「あたし得意だから…」

 いつも通りの二人のやり取りを笑顔で見ていた直子だったが、ふとさやかの方を見て言った。

「でも、本当に元気ないわね?」

「そう? そんなこと…ないんだけど…」さやかは美術室のことを思い出した。

「美術室って、ちょっと空気合わなくて…そういえば、音楽ってどう? みんな一緒でしょ?」

「うん、まあ、楽しいね。いきなり合唱とかやるよ」裕美が言った。

「私は楽器がやりたいんだけどな」

 少し不満そうに加奈子が言うと、それに答えるように直子が言った。

「楽器は後期になってかららしいわね…美術は、どう?」

「えっと、色々あるんだけど、私はデッサンを選択してるの。人物デッサン」

「ああ、クラスメイト描くんでしょ?」裕美が知ってる、とばかり人差し指を立てた。

「誰と一緒に書いてるの?」

「え?」さやかは一瞬応えるのを躊躇した。

「あの、牧野さん…」

「え? 牧野さんと一緒なの?」ペットボトルを口に持っていく途中、驚いたように加奈子が言った。「意外…」

 それに便乗するように裕美が続けた。

「だからじゃないの、元気ないのは…なんか言われたんじゃないの?」

「そんなことないよ…」

「ほんとに?」

「うん」

 裕美は席の後ろを振り向き、牧野翔子の席を見つめた。彼女は教室にはいなかった。

「あたし、牧野さんきらーい」

 さやかは描いた少女の顔を思い出していた。

「裕美ちゃんは、何で、牧野さん嫌いなの?」

「え?」問われた裕美は目を丸くしてさやかの方を振り向いた。

「ああ、うん」裕美は思い出すように斜め上を見上げるようにする。

「前にね、牧野さんの落し物、なんか手帳みたいなの…もちろん中は見てないよ。それを拾ってあげたんだけどさ」

「見たんじゃないの?」

 口を挟んだ加奈子を無視して裕美は続けた。

「折角拾って返してあげたのに、パッて手からひったくってお礼も言わないの…」

「それって…ひどいね」

 直子が同情するように言った。

「中見たのが分かったんじゃないの?」

「だから見てないんだって!」

「まあ、にしても、確かに礼儀はなってないね…」

 そう言うと、加奈子はまた一口お茶を飲んだ。

「でもさ…あたし、あの子もあんまり好きじゃないけど…一緒に居る西崎って子? あっちのほうもあんまり好きじゃないね…」

 ペットボトルに蓋をしながら、加奈子は独り言のように言って、窓の外を見た。その後暫く誰も何も言わなかったので、彼女は気付いたように一同の顔を見回した。

「あ、ごめんね? なんかキライな人の話なんて面白くないね?」

 直子とさやかは苦笑いをした。

「あたしはいいけど?」裕美がそう言って笑うと

「あんた性格悪いな」と加奈子自身も苦笑した。そして、空になったペットボトルを掲げて振ると言った。

「ねえ? ちょっと場所変えて、コーヒーでも飲まない?」


                   *


 さやかと裕美の二人は加奈子の誘いで食堂へ向かっていた。直子は一緒に教室を出たが一人委員会の用事があったので、途中で別れていた。

 食堂は本館と中館の間のやや東側、室内運動場(道場)と一部接するように建てられており、入り口外側に、ベンチやテーブルのあるそこは、ちょっとした談話スペースとなっていた。

 普通のルートは遠回りだと加奈子が主張するので、一行は非常階段と、続く生垣の間を通る近道でそこへ向かっていた。さやかは上履きが汚れないようにと気を使っていたが、先を行く二人は全く気にしていないようだった。

 ――大して遠回りってわけでもないけどなぁ…。

 湿った土を踏まないように足元を気にしていたさやかは、不意に立ち止まった裕美の背中に頭をぶつけてしまった。

「あ…あれって?」

 顔を上げてみると、裕美は進行方向とは違う向きにその視線を留めていた。それに気付いて前を歩く加奈子もそちらに目を向ける。

「ん?」

「どうしたの?」聞くと、裕美は片手の人差し指を唇につけ、もう一方の手で指を差した。

「何?」

 裕美が指差した先、校舎と体育館との間の木蔭に、甲斐と一人の女子生徒の姿があった。

「なんだろ? あ、西崎さん…?」

 西崎佳織が甲斐と何か話しているようだった。遠いので何を話しているのかは分からない。甲斐はいつも通りの調子に見えたが、少女の方は何かを訴えかけるような様子に見えた。

「あれ? 今日は…牧野さんは…」

 加奈子が言いかけたときだった。甲斐が一言、何か言った後に少女の背中が少し震えたように見えた。そして、甲斐の後ろからもう一人少女が現れた。

「あ、牧野さんだ」

 後ろから現れた牧野翔子はどうしたの? とばかり首を傾げているように見えた。翔子の口元が少し動いたように見え、それに対して何か叫んだかと思うと、西崎佳織は二人に背を向けてその場を走り去って行った。

 遠目に見ただけだったが、彼女は泣いているようだった。

「何だろう?」

「あ、こっちくるよ」

 二人が歩いてくる様子に、一同は生垣に身を隠すようにして食堂の方へ向かった。


                   *


 昼食後少し時間が経っていたこともあり、食堂前のスペースは比較的すいていた。コーヒーの紙カップを持って、三人は中央の辺りに開いていたテーブルについた。

「さっきの、なんだろねあれ?」コーヒーに口に付けながら、裕美が言った。

「そりゃ…あんた、修羅場じゃないの?」

 カップを持った人差し指で相手を刺しながら加奈子が答える。

「ねぇ?」同意を求めるようにさやかを見た。

 さやかは両手でカップを持ち、コーヒーを冷ますように息を吹きかけていた。

 正直なところ、ついさっき見た光景が何を意味するのか良く分からなかったさやかは、上目遣いに加奈子を見つめ返すと

「何かそんな風でも、無かったような気がするけど…」とだけ答えた。

「あ、でもさ、もし」思いついたとばかりカップから口を離した裕美が少し前のめりになって言った。「そうだとするとさ…やっぱ、牧野さんと甲斐君、付き合ってるってことなのかなぁ?」

「んーあたしはそうだと思ってたんだけど、前に否定したのはあんただよ?」

「うん、そうなんだけどさ…さやちゃんどう思う?」

「え? いや、どうと言われても…」

 さやかは首を横に振った。

「まあ、わかんないけどさ…そういえばもう一つ」加奈子は頬杖をついた。

「直子は…無いって事?」問いかけるように裕美を見る。

「う~ん…あそこも怪しいと思ったんだけどなぁ?」

「何が?」

「えっ!?」

 後ろからかけられた声に裕美はおどろいて振り向いた。後の二人もそちらを見ていた。

「直子ちゃん…」

「委員会すぐ済んだから…まだここに居ると思ってさ。何話してたの?」

 直子はさやかの隣の席に着いた。手にはミルクティーの缶を持っている。

「えっと…」さやかは加奈子を見た。

「まあ、カッコいい誰かとか、乙女な話」

 はぐらかすようにそういって、裕美の方に同意を求めるように首を傾げる。その意を汲んで、裕美も合わせるように言う。

「あ、そうそう、そんなところそんなところ…」

「へぇ…」直子は缶を口に持っていく。

「で、誰がカッコいいの?」

 そういうと、直子は再びさやかの方を見た。

「えっと…それは…」

「えっとね、夏樹先生」

 さやかが答える前に裕美が助け舟を出すようにそう言った。

「夏樹先生って、あの、カウンセラーの? だっけ?」加奈子が話を促すように問う。

「そうそう、実は前に行ったんだよ、相談に」

「あんたが、何を相談する悩みがあるの?」

「あるよ!」

 ――夏樹先生か…。

 今年の四月から配属されたという、その非常勤のカウンセラーは、朝礼で紹介を受けてから、一部の女子の間で人気となっていた。まだ二十代の若い職員で、長身に眼鏡の似合う知的な好青年といった雰囲気の人物だった。

 さやかとしては特別好きなタイプでもなかったが、印象は悪くなかった。

 彼は昼休みと放課後に進路相談室で、進路、及び学校生活に関する相談を受け付けていた。それなりに利用者はあるようで、日によっては一人当たり話を聞く時間を決めて、なんていうこともあるらしかった。

「人気、あるみたいだね?」

「そうなんだよ…! それでさ、あたし、その日はお話できなかったんだよ」

「へぇ? そんなに人気あるんだ!?」

 驚いたように加奈子が言う。

「別に、悪くはないと思うけど…そんなにカッコいいか?」

「優しそうだし、大人って感じじゃん?」

 そういって、裕美は同意を求めるように、今度は直子に話を振った。

「ねぇ?」

「え? うん、そう、かもね…」

 直子は意外にもそっけなく、そう答えた。

「あれ…さやちゃん、どう?」

「いや…私は、直接話したこととか無いからよくわかんない」

「つか…あんたは話したの?」

 加奈子の問いに裕美は首を大きく縦に振った。

「そうそう、で、何とか翌日にはできたんだけど、コレがまた時間が無くてさ。殆ど話せずじまい。いや、でも先生カッコよかったよ」

「へぇ。ん? で、あんたは何の悩みを相談したの?」

「え? いや、その…先生のタイプは? とか…」

「それ、相談じゃない」

 さやかは二人のやり取りを見て苦笑しつつ、直子の方を見た。

 ――あれ?

 その瞬間、彼女の様子がいつもとは少し違っているようにさやかには思えた。

 いつもなら裕美たちを楽しそうに眺めているのが直子だったが、どうしたことか今日はあまり関心がなさそうに別の方を向いていた。

 ――どうしたんだろう? あ…。

 不思議に思って直子の視線を追った先には、牧野翔子の姿があった。

 どうやら翔子は、今は甲斐と一緒ではないようだった。彼女は端のベンチに腰掛け、肘掛に頬杖を付いてぼんやりと遠くの方を見つめていた。

 さっきからずっと直子は黙って牧野翔子を見ているようだった。その様子をまた不思議に思いながら、さやかは朝の出来事を思い出した。

 ――そういえば、牧野さんが告白のことを知っているのなら、もうすでに噂は広がっているのかもしれない。

 他の誰かから間接的にそれを聞く前に、みんなにはここで話してしまおうか? 友人の顔を順番に見る。ふと、目を合わせた裕美が疑問符を浮かべたような表情で顔を傾けた。さやかは迷っていた。が、一体何から話せばよいのかわからなかった。

 ――まずは、ブログ。

 予言された、告白。

 そして外れた予言、消えた新聞部部員…そういえばどうなったのだろう?

 いたのかもしれないもう一人の新聞部員、その人物は部室を開けっ放しでどこかに居なくなってしまったのだ。ただ、それもブログの犯人の仕組んだ事かも知れない。

 まとめようとした考えは早速こんがらがりそうになっていた。と、その時出会った上級生の言葉を思い出した。

『何かあったら言ってね』

 ――そうだ、まず彼女に相談を持ちかけてみよう。

 さやかは裕美に笑顔を返し、なんでもないと首を振った。

 それを友人達に相談しても良かったのだが、まず確認できそうな事は例の新聞部部室のことだと考えたさやかは、事件を一緒に体験した秋津史子に相談することに決めた。

 その件に関しては、何も知らない友人達に話すより、彼女に相談したほうが頼りになるのではないか? そう思えた。なんと言っても彼女はミステリィ研究会なのだ。

 さやかは胸ポケットを確認した。今度こそポケットにちゃんと入れてきたメモは、ミス研の勧誘チラシと一緒にしてあった。


                   *


「んとね…秋津さんは…今日はデートだね」

 放課後、ミステリィ研究会の部室を訪れたさやかを迎えたのは、三日前に勧誘チラシを配っていた例の少年だった。入り口に片手を突っ張って立ったその姿は、やはり軟派な雰囲気を振りまいていた。

「デート…ですか?」

 答えながら、さやかは小さく肩を落としていた。ようやく相談しようと決心した相手は今日に限ってデートだというのだ。彼女のプライベートなのだから仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせたが、なんともやるせない気分になってしまった。自分自身のことを考えると、今は恋愛に関しても、それ以外のことに関しても問題だらけなのだ。

 少年はさやかの残念そうな様子に気付いたように、少し優しい語調で言った。

「うん、たまにね…何か言付けがあるなら承るよ」

「いえ、また…伺います」

「そう? わかった…彼女、大抵毎日顔は出してるから」

 その台詞に、どうも、失礼しました。と言って一礼し、踵を返したさやかを「ちょっと…」と少年は呼び止めた。

「えっと…杉村さん、だよね。入部の方、考えてくれた?」

「え? いえ」さやかは振り返って少年の顔を見た。

 ――あれ? わたし名前言ったっけ?

 何となく不思議そうな表情をしてしまったさやかをみて少年は、何か気付いたようにいい足した。

「えっと、僕は副部長の大場彰って言いますよろしく」

「はあ、私は…って知ってたんですよね」

「うん、調べたからね。いや、勧誘するからにはちゃんとどういう人か調べてるんだウチは」

「そうなんですか?」

「うん」

 調べたって…まさか、最近起こった事件も知っていたりするのだろうか?

 知っていてもおかしくないかもしれない。同じように事件を体験したのは他でもないミステリィ研究会のメンバーなのだ。そう思うと、ミス研副部長の台詞に少し胡散臭い感じをおぼえた。

 大場彰は微笑みを浮かべたまま小さく顎を引いて見せた。クリーミーブラウンの長めの髪が、細くなった目の上に垂れ下がった。髪の毛はもう少し短くしたほうが良いなとさやかは思った。

「その…別のクラブに決めた訳でもないんですけど…」

「あ、いや、良いよ…」少年は軽く手を振って見せた。

「秋津さんに用事があるだけでも何でもいいからまた来てね、歓迎するよ」

 少し考えてから、一礼するとさやかは答えた。

「はい、また…来ます」


                   *


 教室への帰り道、さやかは再び悩み始めていた。それは、ミステリィ研究会のことだった。彼らをどの程度信用して良いのかさやかは迷い始めていたのだ。考えすぎかもしれない、と何度も思いなおしつつそれでも先ほどの少年の言動と先日の事件、そしてそこに居たミス研のメンバーとの出会い、今その相手に出会えないこと、それらが何か意味を持っているように思えてきた。

 ――大掛かりなドッキリ…なんて事は。ないわよね。

「まあ、そこまでする意味なんてないか…」

 自分の考えに内心で苦笑しつつ教室に帰ってくると、そこには裕美と加奈子が待っていた。

「あ、来た来た」

「あれ? 加奈子ちゃん?」

 掃除のある裕美を待つ時間に、さやかはミステリィ研究会を訪れていたのだが、帰って来て加奈子が教室に居たのは意外だった。彼女は珍しく今日はクラブを休んでいた。

「試験に向けて結構休む人増えてね、数減ってんのよ。もう自主連って感じね」

「そうなんだ」

「加奈ちゃんと帰り一緒って久々だね。だからさ、今日はちょっと寄ってかない?」

 裕美は二人を誘った。

「駅南の喫茶店、最近出来たところ」

「あのね、クラブ無いからって別に暇だって訳じゃないのよ?」

「でも、電器屋に用事あるって言ってたじゃん? 加奈ちゃん」

「まあ、いつでもいいんだけどね?」

「駅南まで行くならさ、寄ってこうよ。ケーキ食べたいんだよわたし。たまにじゃん、いいよね?」

「まあ、いいか…」

 久しぶりに裕美の意見に同意した加奈子はさやかの方を見て言った。

「さやか? どうする?」

「うん…行く」

 さやかは正直その誘いが嬉しかった。午前中に牧野翔子に言われたことはもちろん、そこから決意しての秋津への相談が空振りに終わった事にさやかは多少落ち込んでいた。それだけでなく、疑心暗鬼に陥っている自分自身の心も気持ち悪かったのだ。

 ――やっぱり持つべきものは友達だ。

 なんてことを考えながら、ゆっくりとその先に向かう店でのことを思い浮かべた。やっぱり、そこで少しは悩みを相談しようか? そうだ、ブログも何も関係なく、ただ、ある少年から告白された事を話してみるのはいいのではないだろうか。そんな風に思い始めていた。

 学校を出ると、駅まではいつもの下り坂である。途中には小さな公園と、コンビニがあるほかは殆ど人家が並ぶばかりの風景である。一人なら寂しい下校坂も、三人で話しながらだといつもよりその距離は短く感じられた。

 坂からの道は丁度駅の北口に突き当たるので、さやか達は手前で道を逸れ、地下道を抜けて南に出た。地下道は駅に平行して続く商店街に出るようになっていて、商店街の中ほどに駅の南口がある。そこから南には周りが少し開けていて、ファーストフード店や喫茶店、ゲームセンター、大型書店に加え新しい家電量販店等もあって、学生達は寄り道することも多かった。

 目的の店は南に随分先のようだったので、その前に一行は加奈子の希望で、手前にあった大型家電量販店に向かった。

 入り口に向かうその途中、手前の駐車場を抜けたところだった。店の裏口付近にいる人影を指して加奈子が言った。

「あ…牧野さんだ」

「あ、ほんとだ?」

 裕美とさやかも直ぐにそれと気付いた。

 牧野翔子は、搬入口のようなところで、ドア越しに誰かと話をしているようだった。中に居るのは誰かわからなった。暫くしてドアが閉まると、少しの間翔子はそこに立っていたが、やがて駅へ向かう道へと引き返して行った。

「なんだろ?」

「さぁ…?」

 三人はなんとなく翔子の後ろ姿を見送っていたが、入り口付近で立ち止まっているわけにも行かず、後ろから他の客が来たのにあわせて、店に入ることにした。

「あれ? なにしてんの? お前ら」

 店に入った途端、後ろにいた客が声をかけてきた。

 さやか達は後ろを振り返った。そこには同じ学校の制服を着た男子生徒が立っていた。

「なんだ、前田君か…なんか用?」

 冷たい声で加奈子は言った。

 よく見ると、その少年はクラスメイトの前田圭二だった。

 開いた学生服の前から、派手な赤いシャツが覗いている。その色合いと同じくらい、頭の色も派手だった。顔もどちらかと言えば派手な部類だったが、少し太り気味で、首は短く見えた。身長も高いとは言えず、全体的にやや太短い印象の外見だった。

 前から加奈子はこの少年のことを嫌っていたが、いつも調子がよく、馴れ馴れしい態度の彼をさやかもあまり好きではなかった。本当なら、加奈子は君付けなんかで呼びたくはないのだろうなとさやかは思った。

「なんか用って…別に何でもないけどさ…」

 明らかに面食らった様子で前田はそう答えた。彼にとってはクラスメイトに会えばとりあえず声をかけるのはいつものことなのだ。

「別にさ、何しにきたのかって聞いただけだろ?」

 その答えに、加奈子は一言「買い物よ」と答えると。じゃあ、いこ。とさやか達二人を促して、すぐに店の奥へ向かった。

「なんか、かわいそうだね前田君」

 歩きながら裕美は少し可笑しそうに言った。

「あいつ、嫌い。調子のってんのよねいつも」

「まあ、でも、さっきの顔見た? 結構効いた感じだったよ」

 そう言った裕美同様、前田のリアクションを見て、さやかも少しかわいそうだと思った。が、歩いているうち、裕美が見えないように親指で後ろを示すのを見てその考えはまた一転した。少年は一行の後を付いてきているのだった。

 ――なんだろう? 懲りないなぁ…

 さやかがそちらを伺う様子が加奈子にも伝わったのか、どうしたの? と言って加奈子は後ろを向いた。途端、彼女の表情は険しくなった。

「ちょっと、なんか用?」

「何も用なんてないよ…」

 前田は先ほどよりもうろたえた様子だった、彼は加奈子よりも身長が低かったので、キッと高い位置から加奈子に見つめられた様子は尚のこと情けなかった。

「俺も買い物があるんだよ、ただ、道が一緒なだけだって…そこの先の」

「電球?」

「そう…」

「…」加奈子は言い返さなかった。実は、彼女の買おうとしていたのが、替えの電球だったのだ。一同の間に微妙な沈黙が流れた。と、その雰囲気から一人抜けるように裕美が言った。

「あたし、機種変更したかったんだよね。ちょっと携帯見てくる」

 さやかは「あ、」と言ったままその背中を見送っていた。加奈子は少しむっとした表情でそこに立ち止まっていた。気まずそうに前田はその後ろを、じゃあなと言って通りすぎた。

「加奈、ちゃん?」さやかは機嫌を伺うように加奈子を見上げた。加奈子はいつしか裕美の向かった方向を見つめていたが、苦笑いするとさやかの方に振り向いた。

「ごめんね、さやか」

「ううん、いいんだけど」

「あとで、あたし奢るよ」

「そんな、いいよ」

 思わず両手を前に出して遠慮したさやかに、少し高い位置から加奈子はその手を押さえこむようにして言った。

「いいの。あんた、いつもあたしの言うことに気使ってくれてるでしょ?」

 そんなことないと言おうとした時には、加奈子は既に踵を返して歩き始めていた。そして、さやかは飲み込んだ言葉を、もう一度考え直していた。加奈子の言った事は正しかったのだ。

 ――そんなこと、ないんじゃなくて…。

 自分の思っている事を、いつも言えないでいる。遠慮しているだけともいえない。そんな自分は少しずるいことをしているのではないか? さやかはそんな風に思えてきた。

 加奈子は既に少し先を歩いていた。そこに追いつこうと、さやかは小走りで駆け寄った。その背中に、ありがとう。そう言おうと思ったのだった。

 その時だった。

 色々な事があって、全部すっかり忘れていたのだ。

 今度は何の予感をも抱かせぬまま、それは起こった。

 さやかは周りなど見ていなかった。

 ゆっくり歩いていたら? 果たして気付いただろうか?

 今、さやかが走りすぎたところは、『時計売り場』だったということに。


 ――ジリリリリリリリ…

 足を止めたのが先だったのか、波打つような心臓の鼓動が先だったのかどちらかは分らなかった。ただ、さやかは音の方向を見て、茫然と立ち尽くしていた。

 ――ジリリリリリリリ…

「まさか…」さやかは思わず声を漏らしていた。

 さやかが振り向いた左側の棚一面に、ありとあらゆる種類の目覚まし時計が並んでいた。その何処からか、電子音ではない、目覚ましのあの嫌なベルの音が鳴り響いている。先を歩く加奈子がこちらを振り返った。

「どうしたの?」そう言った彼女の呼びかけに、さやかは直ぐに反応できなかった。

 ――これ…一体誰が…。

 同じような時計が並ぶ中、どれから音がしているのか分らないのだ。さやかは咄嗟に思いついて目覚ましスイッチの上がっている時計はどれかと探した。と、探し始めた瞬間、出っ張ったスイッチがたくさん並んでいることに気付いた。おそらく一つ意外はOFFになっているのだろう。しかし、音のする辺りのを一つ二つ押してみたが、音は止まらなかった。そうこうしている間に、加奈子が戻ってきた。

「どうしたの?」

「あの…勝手に鳴りだして…」

 言った声が少し震えていたせいか、加奈子は怪訝な顔をした。さやかの事情を知らない加奈子にとって、それは当然の反応だったが、それでさやかはより声が小さくなってしまった。

「ちょっと、びっくりして…」

「しかし、どれかしら…」言いながら加奈子も、どれが鳴っているのかわからない様子で、一つ二つ持ち上げてボタンを押してはいるものの音は止まらなかった。だんだん、周りの人間も気付いてきて、さやか達のほうを見る。いつの間にか先に行ったはずの前田圭二も戻ってきていた。

「ねえ、どうしたの? あっ!」裕美の声がした。彼女は棚の向こう側から回り込んでくるところだった。と、その裕美の前を通り過ぎて一人の店員が駆け寄ってきた。

「あ…」

 緑色のジャケットを着た店員はさやか達の前に立つと、暫く棚を見ていたが、徐に一つの時計に手を伸ばし、そのスイッチを押した。

 音は止まった。店員はゆっくり、さやかの方を見た。

「何してるの? こんなところで」

 目覚まし時計を止めた店員は、同じクラスの甲斐由斗だった。


                   *


「それにしても、さっきのはドラマチックだったねぇ…」

 並んで歩きながら裕美が言った。

「いやーカッコいいなやっぱし…甲斐君は」

「なんかスマートよね、気に入らないけど…」そう言って、加奈子は笑った。

「あそこでバイトしてたんだね。だからさっき牧野さんもいたわけか…」

 三人は電器店を出て、喫茶店に向かっているところだった。

「ねぇ、さやか? どうしたの?」心配したように加奈子は聞いてきた。

「いや、ううん、ちょっと、さっきはびっくりしちゃって…」

 さやかは少しぼんやりしていた。さっきの出来事をずっと考え込んでいたので、二人が何を話しているのか分らなかった。

「まあ、そりゃびっくりはするでしょうけど…」

「鈍いなぁ…加奈ちゃんは…」

「なにが?」

「だって、あんだけカッコいいんだぜ、甲斐君は…颯爽と現れて…」

「時計止めただけじゃん」

「でもカッコいいんだよ」

「で、さやかはそれに見とれてたと?」

「ちがうのかな?」裕美は俯いたさやかの顔を覗き込むようにして言った。

 さやかはまたぼんやりと別のことを考えいて、直ぐに返事が出来なかった。

 ブログに予言されていた事が、今日はやっぱり起きたのだ。そこに書かれていたこと。

『とめてくれたのは、もしかして?』

 甲斐由斗はバイトとは言え店員である。その売り場の時計に細工を仕掛けるなら、彼が最も適任であると言える。しかし、場所はともかく、さやかがここに来ること、そしてその時間までも指定できるわけがない。

 ――いや、違う。それはブログの犯人が自分から目を逸らすためにそう書いているだけ…でも、わたしはどうしてここに来たんだっけ?

「さやちゃん?」

「え? は、はい? なに?」何度目かの呼びかけにさやかはようやく気付いた。

 顔を上げると、不満そうな裕美の顔と、少し呆れた様子の加奈子の顔が並んでいた。

「さやか…大丈夫? とりあえずここ」そういって加奈子は喫茶店の看板を指差した。

「着いたけど…」


 いつの間にか辿り着いていたようだった。電器店を出てからは随分歩いていたような気がする。さやかは加奈子の指差す看板を見つめた。

「あ、うん…」

 新しく出来たというその喫茶店を、さやかはぼんやりと見上げた。

 レンガ敷きのエントランス、テラスにはたくさんの鉢植えが並んでいる。張り出した窓にも小さなプランターが掛けてあり、それぞれに色とりどりの花が咲いている。窓の向こうには厚いカーテン越しにおぼろげな光が見え、赤い屋根と黒く塗った木の板、そして漆喰の壁のコントラストが、そこだけ何処か別の国から切り取って持ってきたような雰囲気を醸し出していた。

 さやかはそれを素敵だとは思ったが、街中では浮いた外観といえた。ただ、建物の片側にある公園と、反対側に巡らせた生垣がなんとか街の雰囲気との緩衝材となっていた。

「うん、入ろっか…」数秒遅れてそう言ったさやかに、二人は一度顔を見合わせてから肩を竦めた。

 店の中は、外観同様。やはり街中とは思えないようなインテリアだった。

 入り口のケーキの並ぶショーウィンドーや、レジスターを別にすれば、柱や床まで外観そのままの木造建築で、天井の真ん中を通る大きな梁が印象的だった。木製の椅子やテーブルも、やや暗めの照明に、年月を感じさせる赤い光沢を放っており、店の奥の方には大きな暖炉が見える。家具と同様、光沢のあるマントルピースの上には色々な食器や写真が飾られていた。その暖炉も実際に使えるもののようだった。

 奥の席をどうぞ。言われて、低めのパーテーションを通り過ぎ、奥のテーブルに向かう途中、通り過ぎる席にある人物を見てさやかは驚いた。

 そこには秋津史子がいた。

「あ、先輩?」

「…杉村さん?」

 さやかの声に顔を上げた秋津はケーキを取ろうとしていたフォークを置いた。その様子に気付き、秋津の向かいに座っていた人物も顔を上げた。

「史子ちゃん? お友達?」

 その人物を見て、さやかはまた少し驚き、そして意外に思った。

 デートと聞いていたが、秋津の向かいに座っていたのは少女だったのだ。

 ゆるくウェーブのついたセミロングの髪は明るいブラウンで、その瞳も同じように色が薄く、虹彩の模様が淡い光に映し出されていた。薄暗い照明の中でも肌の色は磁器のように白く、優美な曲線を描く繊細な目鼻立ちが、まるでフランス人形のような愛らしさでその小さな顔に収まっていた。

 さやかは少しの間その少女の容姿に見惚れていた。

「うん、杉村さやかさん。彼女新聞部なの…さっき話した」

「ああ、あなたが…史子ちゃんから聞いたわ。新聞部の一件」

 そう言うと少女は微笑んだ。

「わたしは、史子ちゃんの友達で、篠宮郁子っていうの。よろしくね杉村さん」

「はい、こちらこそ…」

 とびきりの少女の微笑みに、さやかは少し照れながら会釈を返した。

 暫くその様子を見つめていた秋津は、少し砕けた調子で言った。

「今日はどうしたの?」

 その呼びかけに、ふと我に帰ったさやかは、一瞬。それはこちらの台詞だ、と思いながら答えた。

「えっと、友達に誘われて…先輩こそ、今日はミス研にはいらっしゃらなかったんですね、デート…なんですか?」

 言いながらさやかは向かいに座っている少女を見た。彼女は顔に相変わらず穏やかな微笑を浮かべた顔を軽く傾げた。

「デート?」

 さやかが事情を話すと、秋津は呆れたような表情で言った。

「また適当にそういうこと言うのよね、あの人。ただ、友達と寄り道してるだけよ…」

 そういって、秋津は同意を求めるように向かいの少女を見た。篠宮郁子は小さく肩を上げ、悪戯っぽく目を逸らした。彼女はそう言った仕草が様になる少女だった。

「ところで、ミス研に来たって事は、何かあったって事?」

「えっと…」さやかはあわてて注意を秋津に戻した。

「その、あの後、新聞部のほうで何かあったって言うわけでも、いや…」

 言いかけて直ぐに口ごもった。既に奥の席に向かっていた二人は振り返ってさやかの方を見ていた。どうしたの? と裕美が声をかけてきた。説明しようと思ったが、ついさっきの出来事の整理が未だついていなかった。

「あの…すこし相談を。と思っていたんですけど、今は…」

 さやかは前の二人に向かって、ちょっと待ってと片手を挙げると。再び秋津の方を向いた。

「そうね…まあ、私たちはいいんだけどね。そっちもお友達がいるみたいだし。明日でもいい?」

「はい、じゃあ明日の昼休みくらいに…」

「えっと、昼はごめんなさい。ちょっと無理なの…放課後なら、あ、そうだ…」

 秋津はメモ用紙を取り出した。挟んでいたペンで素早く走り書きした物はメールアドレスのようだった。

「もし、早めがよかったら連絡して?」

 さやかは受け取ったメモを確認した。

「分かりました。じゃあ、また後でメールします」

 それでは…お邪魔しました。と、さやかは二人に一礼した。上級生は二人とも微笑みを返してくれた。さやかはメモをポケットに仕舞いながら、もう一度相談の段取りを考えていた。

 ――やはり、二人にはまだ何も言わないでおこう。

「どうしたの?」奥のテーブルに向かうと、さやかが手前になるように二人は奥の椅子に並んで掛けていた。

「ううん? ちょっと知り合いの先輩がいたから」

「あの席の人? 綺麗な人だったね」裕美が見えないように指差した。

「うん」

「ああ、綺麗というか、お人形みたいだったけど、似合うね…ここの雰囲気に」

 店員が水を持ってきたが、未だ誰もオーダーがきまっていなかった。三人はメニューを広げてそれぞれに悩んだ。意外にも一番長い間迷っていたのは加奈子だった。二度目に店員が来た頃には、秋津達は既に帰るところの様だった。席を立つ二人の後ろ姿をぼんやりと見送っていた加奈子は、彼女らが店を出ると改めてくるりと内装を見渡してから溜息をついた。

「あたし、この店に似合わないかも…」

「そんな…」

「ま、仕方ないね、加奈ちゃんはスポーツ少女だから」

 加奈子は裕美を睨んだ。

「何?」少したじろいだ風に裕美が言い返した。

「あたし、さっきさやかに奢る約束してんだけどさ…」

「うん」

「あんたはあたしに奢ってくれない?」

 裕美は目を丸くして問い返した。

「なんで?」

 加奈子は腕を組むと、椅子に凭れるようにして、顔を傾け目の端で裕美を見た。

「今度のテストにケーキ賭けよう」そう言って口を斜めにする。

「はぁっ? それって、今払ったら賭けじゃなくない?」

 裕美は口を尖らせて眉を顰めた。そんな裕美を見て、加奈子はニッコリと微笑んだ。

「良いじゃない先払いで、どうせあたしはあんたに国語勝つからさ?」

 二人の会話を聞きながら、さやかは手のひらのメモを見ていた。さっきもらったアドレスが書かれている。

 White_rabbit@mail○○○.ne.jp

 ――どうして、白兎なんだろう?

 さやかはふと、マントルピースの上に飾られた置物を見た。陶製のウサギの置物だった。服を着たそのウサギは、片手に時計を持っていた。

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