第五章 囲まれた密室
From: sayaka-s@mail○○○.ne.jp
Subject: はじめまして、杉村さやかです。
秋津先輩、メールでは初めまして。
今日中に見てほしいものがあったので、やっぱり直ぐに連絡しました。
先日の事件の時言っていなかったのですが実は心当たりがありました。
というのもこのサイトなんですが
http://www.○○blog.net/sb1/youareme
私の身の回りに起きたことと同じような事が書かれているんです。もちろん、私が書いたわけじゃありません。誰かが日記を更新してるんです。
妙なのはその日記が事件の起きる一日前に次の日のことを予言するように書かれているんです。今週の初めから始まっていました。
内容にプライベートなところがあったので、なかなか言い出せず今まで誰にも相談していませんでした。とはいえ、その内容は大した事ではなく、脅迫めいたところもなかったので、最初はそれほど気にしなかったのですが、例の新聞部の事件がおきてから少し怖くなりました。
あの事件も予言されていました。ただ、見てもらえればわかると思いますが、その記事が少し変なんです。どうも、先輩と出会ったこととは違うことを予言しているみたいなんです。それで、その日の予言は外れたのかなと思っていたんですが…実は今日は、また日記のとおり事件が起きました。詳しい事は明日お話ししますが、さっき見てみたところ明日の日記も既に更新されていました。
内容は抽象的なので、はっきりとは何が起こるかわからないんですが、やはり不安です。
明日の放課後よろしくお願いします。
*
「んー」
さやかからのメールを読み終えた秋津は暫くうなっていた。
事件当時、さやかに対し色々とそれらしいことを言ったのだが、そのメールを読むまで秋津は例の件を大したことだとは全くもって思っていなかったのだ。
――でも、コレは事件みたいね。
秋津はそれを認めざるを得なかった。しかも、秋津のあまり得意でない分野の事件かもしれない。
一番に浮かぶ単語はストーカーである。そういえば、杉村さやかという少女は可愛いらしい顔をしていたなと秋津は記憶に残っている顔を思い浮かべた。
――副部長が勧誘したいわけだ。
秋津は一つ溜息をついた。
メールに示されたリンクのブログを読む事で、さやかが色々な事件に巻き込まれたらしいことは直ぐに分かった。そして、当然のように翌日、五月十二日の予言はそこに記されていた。
*
[事件] 写真
秘密の写真…。
どうしよう、誰にも言えない。
あのこのことはあまり好きではなかったけれど…。
あのこのことだけじゃない。
一体どうすればいいんだろう?
犯人は…誰なんだろう?
*
翌日の内容を書いた記事、未来の日記が更新されているようだった。
前日、前々日にもましてその内容は抽象的で、さやかが不安を覚えるのも無理はないと秋津は思った。
タグは事件とある。これも前々日から続くものだった。
――それにしても犯人は誰だろう?とは、なかなかにふてぶてしい記述ね。
しかし、如何したものかと秋津は考えていた。
例の新聞部員の件を除くと、記事を読んだところで実際にはちんぷんかんぷんなのだ。相談に乗るといっても、推理の材料は少なすぎた。
――すこし、話ができるかな…。
開いたメールの『送信者に返信』を選択しながら、暫く固まっていた秋津だったが、ふと思い切ったようにキーを叩くと、返信メールに数行の指示を付け加えて送信した。
*
メールの返信を確認したさやかは、指定された準備を整えていた。
Cheshire Cat>お待たせしました?
White rabbit>登録できたのね?
Cheshire Cat>はい。
秋津はアカウントをメールで送り、メッセージアプリでやりとりする事を提案したのだ。アドレスから白兎が秋津である事はわかっていた。
White rabbit>それにしても、チェシャ猫なんてつけるあたり気が合いそうね。
さやかがそのメッセージアプリの表示名にチェシャ猫を使っていたのは偶然だった。
Cheshire Cat>アリスは好きな童話でしたから。で、どこから説明したらいいでしょう?
White rabbit>えっと、そうね…まず。
少しのラグの後、メッセージが表示される
White rabbit>その、答えにくかったら良いんだけれど…あなたは友人にあだ名を付けられたのよね?
Cheshire Cat>はい、そうです。
White rabbit>そのことを知っているのは特定の友人?
Cheshire Cat>いいえ、不特定多数のクラスメイトが知っていると思います。
White rabbit>そっか…じゃあ、次なんだけど…えっと、告白されたの?
一瞬入力する手を止めた。さやかは気付かずに口を一文字に結んでいた。
Cheshire Cat>はい。
White rabbit>その相手は、あなたの知っている人?
Cheshire Cat>いいえ、初めて会ったんです。
White rabbit>返事は、した?
Cheshire Cat>いいえ、未だです。
White rabbit>でも、会って…告白は済んでるわけよね。相手にとっては。
問いかけるでもなく、独り言のような秋津のメッセージが表示されていた。暫く互いに続く文章を打たなかった。さやかがどう答えようかと迷い、そろそろ何か答えようと思った頃、秋津は質問を再開した。
White rabbit>そういえば、その後。例の新聞部関係の連絡はあった?
Cheshire Cat>いいえ、ありません。
White rabbit>そう…あなた、あの予言はどう思う?
その質問に、さやかは感じていたブログと実際の事件との違和を説明した。
Cheshire Cat>あれは、先輩のことじゃないと思うんです。
よれよれの『シャツ』って書いてありましたよね。
先輩の制服はきちんとしていましたし、女性用の制服ならブラウスです。
だからきっと眼鏡をかけた『男子生徒』との出会いを予言していたと思うんです。
White rabbit>なるほど、そういうカッコをした先輩、上級生ってわけね…。
そこで、また会話が一旦途切れた。秋津は何か考えているようだった。さやかも、少し考えてみたが、今のやり取りに出た以上の『新聞部部員の』人物像は想像し得なかった。秋津は何か思いついたのか書き込みを再開した。
White rabbit>鍵は持ってるのよね?
Cheshire Cat>はい。
White rabbit>じゃあ、明日もう一度入ってみましょうか。
Cheshire Cat>わかりました。
答えたものの、さやかにはそれで何かわかるとは思えなかった。この間お手上げだったのだ。今の情報があったとしても、あの部室からはその人物を特定する物は何も発見できそうにないとさやかは思った。
White rabbit>じゃあ、続きを…今日の事件についてきかせてくれる?
Cheshire Cat>はい、あの、日記は読んでるんですよね。
White rabbit>ええ。時計って何があったの?
Cheshire Cat>帰りに駅南の電器店に寄ったんです。そしたら、そこの時計売り場で
White rabbit>突然鳴り出した?
Cheshire Cat>はい。
White rabbit>その場に知り合いはいた?
Cheshire Cat>クラスメイトが四人。うち二人は会ったとき一緒に居た二人です。
White rabbit>あと、二人は?
Cheshire Cat>クラスメイトで、一人はバイトで店員をやっていました。
White rabbit>そっちも…明日確認しに行きたいけど…もう無理かな証拠は。
Cheshire Cat>そうですね…。
親友か、クラスメイト。その中に犯人がいるのだろうか? さやかはそれを考えるととても落ち着かなかった。知人を犯人に当てはめて考えないようにしていた。落ち込んでスマートフォンから手を離しているうちに、次の書き込みが始まっていた。
White rabbit>わかったわ。じゃあ、次で最後かな…。
明日の分の日記を読んだんだけど。
あなた、学校で誰か苦手な子がいるの?
さやかは最後の文を読んで少し躊躇した。
――わからない…。
Cheshire Cat>えっと…キライって訳じゃないと思うんです。
でも、苦手ではあると思います。
White rabbit>その人と、写真って何か関係がある?
Cheshire Cat>思いつきません。
White rabbit>そう、じゃあ、その人。特定の誰かかはわからないけれど…
その人と、最近何かあった?
――あった、のかな?
Cheshire Cat>わかりません。最近話はしました。
特にトラブルはありませんでした。
その書き込みの後すこし、応答が無かった。さやかは少し疲れていることを自覚した。チャットのやり取りを通して、自分が何故他人に直ぐ相談できないのかが良くわかった。問題以上に自分の心が整理できていないのだ。そしてその事を人に説明するのがなんとも気分を落ち着かなくさせるのだった。
White rabbit>わかったわ。こちらからの質問はこれくらい。
あと、そちらから質問はあるかしら?
Cheshire Cat>特にはありません。
White rabbit>そう…じゃあ、また明日。今聞いたことから良く考えてみるから。
Cheshire Cat>ありがとうございます。先輩。
White rabbit>いいえ、じゃあね。
アプリを閉じるとさやかは椅子に凭れ掛かり、思い切り伸びをした。たいした情報は提供できなかった。さやか自身でも情報が少なすぎることを感じていた。
――明日、どうなるんだろう。
翌日は秋津と直に会って話をすることになっている。その時、もう一度例の部室を見てみるとは言っていたが、秋津には何か目論見があってのことなのか、さやかには判断がつかなかった。
それはともかく、翌日分の日記は既に書き込み済だった。それを見る限り、明日も何か事件が起こる。そう考えざるを得なかった。
さやかは開いたままにしていたブラウザを操作して例のブログサイトを表示し、内容をもう一度確認してみた。
――写真?
秘密の写真。思わせぶりな内容だが、やはり抽象的過ぎる文章からは判断がつかない。
――でも、誰にも言えないというのはどういうことだろう?
加えて、どうしても気になる一文。
『あのこのことはあまり好きではなかったけれど…』
――苦手な人物というのは、牧野翔子のことなのだろうか? そして写真。そこには何が映っているのだろうか?
彼女は本田が告白したことを知っているのだ。それがどれくらいの噂として流れているのだろうか? 明日になればそれは今日よりずっと広がっていることになるのだろうか?
――そういえば返事、未だ…。
告白を受けて二日が経っていた。この二日、色々な事があったので実際そのことは殆ど考える暇もないくらいだった。明日で三日が経つ。そろそろ返事をしなければいけない頃だとさやかは思った。しかし、どう答えたものか、そして、その前にどうやって彼に会おうかと悩んでしまう。
――彼は三組だったっけ…なるべく目立たないようにするには…。
さやかは首を背もたれに預け、天井を見上げた。
――明日は果たしてそんな暇があるだろうか。
ゆっくりと瞼を閉じる。
――疲れると、先ず一番に目を瞑りたくなるのはなぜだろう?
瞼越しになお蛍光灯の光をまぶしく感じたさやかは、それを遮るように、右腕を瞼の上に乗せた。
視界が暗くなり、赤黒くなり、紫っぽい斑点が浮かび、白い縞々の模様になり、円を描き。最後に黒い水面に浮かぶ波紋のように広がっていった。
*
「なんで保健委員も体育祭の会議に出なきゃいかんのだ?」
翌日の昼休み、いつも通り一番に昼食を取り終えた裕美はぼやくように言った。彼女は保健委員で今日初めて昼休みの会議に呼び出されていた。
「体育祭で、だれか怪我するからじゃない?」
興味なさそうに加奈子が答える。
「まあ、直ぐ済むと思うよ」言って、急いで弁当箱を仕舞うと直子は立ち上がった。
「じゃ、いってくるね」
「めんどー」
小さく手を振り、二人が教室を出て行くのを最後まで見送ると、さやかは食事を再開した。これまたいつも通り、さやかはまだ半分も弁当を食べていなかった。加奈子はペットボトルを口に付けながらさやかに言った。
「今日は、ゆっくり食べれるんじゃない?」
「うん…」
裕美達が席を立って暫くの間、二人は無言だった。
互いに話を切り出す事はあまりなく、大抵は裕美を仲介して会話をするような感じだったので、それは当然のことだったが、さやかは無言でいる事に特別気まずさを感じなかった。
加奈子の性格はさやかとは全く違っているし、共通点も少ないかもしれない、が、今の沈黙に牧野翔子と居るときに感じたような気まずさは全く無い。
――合うっていうのはこういうことかな…。
ぼんやりと加奈子の横顔を見てそんなことを思っていると、不意に彼女が振り向いた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでも…」
首を振りながらさやかは微笑んで見せた。その様子に、加奈子は何? と首をかしげていたが、一転おどけたような表情で言った。
「ま、いいや…あのさ…」顎をしゃくって教室中ほどの席を示す。
「昨日のこと、関係あるのか知らないけど…」
さやかは加奈子の示す席を見た。そこは西崎佳織の席だった。
「牧野さん、今は会議だけど…さっきから一緒に居なかったよね?」
「う、うん」
いつもなら、佳織は翔子と数名の女子生徒と一緒に昼食をとっているのだったが、彼女は今、一人でいた。
「今日は朝から全然一緒に居なかったし、やっぱ、何かあったんだなアレ」
さやかは昨日の光景を思い出す。
――何を、言われたんだろう?
泣いていた少女、よほどのショックを受けたのか?
気付いたときには独り言のように、さやかは言葉を漏らしていた。
「やっぱり、付き合ってるのかな? 牧野さんと甲斐君」
「気になる?」
「えっ?」
加奈子は振り向いてさやかを見ていた。
「なに…が?」
「さやかってさ? もしかして、甲斐君のこと?」
加奈子は真直ぐさやかを見つめていた。その表情は何時に無く、優しげで、そして寂しそうな表情だった。さやかは何も言わずに俯いていた。
*
放課後。
秋津史子は南館一階、保健室前の廊下にいた。彼女はしばらくそこで誰かを待つように廊下を見回していたが、やがて手に持った紙切れに目を落とした。
そこにはその場所で待っていてほしいということと、さやかの名前があった。
放課後、一番にミス研の部室を訪れた秋津は扉に挟まれていたその紙を見つけ、その指定どおりにこの場所にやってきたのだ。
――杉村さん、先に来て、誰も部室にいなかったからこの手紙を置いて行ったのかな?
その場所に用事があるならば別だが、普通に考えると少しおかしいような気はした。しかし別段、指定された場所に問題があるわけでもなかったので、秋津はとりあえずその場所に行ってみることにしたのだ。
もちろん、杉村さやかを取り巻く連日の事件から考えて、この手紙が偽物であることは十分に考えうることだったが、仮にこの手紙が偽物で、さやかが出したものではなかったとしても、部室には今副部長が居るので、もしさやかが部室に来たならそこで事情を知った後こちらに来るなりするだろうし、部室からここまでは最短経路を選べば入れ違いにはならないだろう。秋津はそう考えていたのだった。
――それにしても、この辺り、人通らないなぁ…。
授業が終わってすぐ部室へ向かい、そこからまたすぐ移動してきたので、HRが終わってからまだそれほどの時間も経っていなかったが、帰る人間はここを通らないので、殆ど人には会うことはない。其処へ来る途中も、進路指導及び、学内カウンセラーをしている教師とすれ違った以外は誰とも会っていなかった。
時計を確認すると、午後三時四五分を過ぎていた。そろそろ掃除は終わっているころだろう。
――四時になったら一度部室に戻ってみようか…そういえば、昨日メッセージアプリのアカウントを交換したんだった。
そちらで連絡しようと携帯を取り出したときだった。不意に足音が聞こえたので秋津は顔を上げて音の方向を見た。階段を降り、二階からこちらへ向かってくる足音だ。
――杉村さん?
そう思った秋津の予想に反し、階段を降りてきたのは見知らぬ女子生徒だった。遠目にも、整った顔立ちをしていることが分かり、きちんと縛った髪や、清潔そうな身なりから真面目そうな雰囲気の生徒に見えた。
少女は真っ直ぐ秋津の居るほうへ歩いてきたが、保健室より少し手前の扉を開くと中へ入っていった。
――委員会、かな?
少女が入っていったところは、進路資料室、進路相談室そして主に生徒会の利用する会議室へ続く通路の入り口だった。
ここは増築のせいなのか、少し特殊な形をしていた。
通路は廊下に平行していて、手前から進路資料室、相談室。そして突き当たりが会議室となっていた。
☆(近況ノート:図1参照)
https://kakuyomu.jp/users/ichihasetagawa/news/16817330660078759888
入っていった少女は名札の色から一年生のようだったので、進路指導関係ではなく、委員会で会議室を使うのだろう。と秋津は考えた。思えば少女は何処となくクラス委員でもしていそうな外見をしていた。
秋津が暫くそのまま扉の方を見ていると、先程入ったばかりの女子生徒はまた直ぐに出て来た。そうして来た道を真っ直ぐ引き返し、二階への階段を上って行った。
――どうしたのだろう? 忘れ物かな?
全く自身には関係のないことだったが、なんとなく秋津は気になった。時計を確認する。そろそろ四時だ。まださやかは来ない。どうしたんだろう? やっぱりこの手紙は偽物だろうか? そう思いかけていたとき、また、進路相談室へつながる通路の扉が開いた。
秋津は反射的にそちらを見た、今度こそ杉村さやかだろうか? そう思っていた予想は再び裏切られた。
そこから出て来たのはまた別の少女だった。
少女は扉を開くとすばやく左右を見回していた。長い髪が広がり、大きな瞳が一瞬秋津を捉えた。まともに視線がぶつかり、秋津は驚いた。
見つめるアーモンド型の大きな瞳、鼻から小さな口の辺りの造形が、すました猫を連想させるようなその表情。それは先程見た真面目そうな少女とはまったく印象が違ったが――少し蓮葉な、生意気な雰囲気だった――少女はなかなかに魅力的な外見の持ち主だった。
目があった直後、少女も驚いたような顔をしていたが、すぐに安心したような表情に戻ると、すばやく扉から出て、秋津とは逆の方向へ、階段を越えて学校の正面玄関の方へ走って行った。
――なにかしら…。
秋津は怪訝な表情でその背中を見送っていた。
再び時計を見、秋津は考えた。
――四時になったら一度戻ろう。それに、杉村さんに連絡もしておこう。
四時までまだ十分ほど時間があった。携帯を取り出し、少し遅かったかと思いながら、杉村さやかに連絡を入れる。指定の場所に着いてるけど、どうしたの? 文章に既読はつかなかった。
――どうしたのだろう?
返信を待ち、そうして暫く時間がたった頃だった。
開いたままの通路の扉奥から大きな音がした。何かしら叫ぶ声、続いて、どうやら手前の進路資料室の扉が開いた音がした。そして、廊下側から見える扉に手が掛かり、また勢いよく開かれた。廊下に出てきた人物は奥を振り返って言う。
「わ、私は…!」
それは杉村さやかだった。
「杉村さん?」
秋津の呼びかけにさやかは振り向いた。
「あ、秋津先輩…」
秋津はさやかのほうに駆け寄った。
「どうしたの?」
秋津はさやかの顔を覗き込んだ。さやかは泣きそうな表情をしていた。扉の中、通路越しに奥の進路資料室を見た。引き戸は半分だけ開いていたが、奥はよく見えなかった。
「何が、あったの?」
秋津が呼びかけたときだった。同時に彼女らの後ろから声がかかった。
「さやかちゃん?」
秋津とさやかは同時に振り返っていた。
「直子、ちゃん…」
先程の真面目そうな少女、鍋島直子が階段の方からこちらに向かってきていた。
「どうしたの?」
近くに来てさやかの顔を覗き込んだ直子は秋津と同じ質問をした。
「えっと…」
さやかは無言で二人の方を見ながらも、扉の奥、進路資料室のほうを気にしていた。秋津は奥の扉を見た。半開きの扉の奥に人影が見えた。人影は扉に手を掛けて、開いた。それは少年だった。秋津は見たことのない少年に対して言った。
「あなた、杉村さんに何かしたの?」
「甲斐…君?」直子が少年の名を呼んだ。
甲斐由斗は何も答えなかった。ただ、無表情でそこに佇んでいた。
「ねえ?」少し語気を強めて秋津が再度問う。
「話を、したけど…あんた誰?」
悪びれず、逆に質問を返した少年に。秋津は一瞬言葉に詰まったが。
「私は杉村さんの友達」そう言ってさやかの方を向くと。
「本当に? 話をしただけ?」とさやかに訊いた。
少し遅れてさやかは返事をした。
「…はい」
「あの…えっと?」困惑した様子で直子が言った。
「どうしたの? えっと、甲斐君?」直子は通路奥、会議室を見た。
「いまから…臨時会議。でしょ? 甲斐君も?」
この言葉に、甲斐は眉をひそめた。
「まだあるの? 俺、聞いてないけど…」
「あれ? まだ、連絡回っていなかったのかな?」言いつつも、直子は秋津たちの様子を伺っているようだった。
さやかは気まずそうにしている。対して甲斐は、まったく動揺していない。直子はそんな二人、さらに秋津のことに少々困惑している様子で、秋津もまったく状況を把握できずに混乱していた。
なんともいえない微妙な雰囲気だった。そこから抜け出そうとしたのか、まず、理由をもった直子が言った。
「あの…いいかな? えっと、私たち、会議があるんです…」さやかを見、続けて秋津の方を向いて確認をとるように頷いて見せた。
「その…甲斐君とりあえず、会議室開けてるから。入って待ってよう? 多分、後から牧野さんや他の人も来ると思うし…」
聞きながら、相変わらず無表情な瞳で秋津とさやかの方を見つつ甲斐は答えた。
「うん。じゃあ…いいかな?」
甲斐は秋津に向かって言った。秋津は黙っていたが、軽く睨み返すようにした。直子はすでに奥の扉前に居て、振り向いてその様子を見ていた。甲斐が歩き出すと、直子は安心したように扉の鍵の部分に手を掛けた。
「あれっ!?」
その声が少し大きかったので、秋津を含めそこに居た三人は驚いた。さやかは肩を震わせ、甲斐も少し顔を上げてそちらを見ていた。
「どうしたの?」
秋津の問いに「ごめんなさい」と謝ると、直子は鍵を指差して言った。
「これ、さっき開けておいたんですけど…誰かがいたずらしたのかな? また閉められてるの…誰がやったんだろう? 二人とも見てない?」
さやかと甲斐は首を振った。秋津は最前の光景を思い出していた。直子が通路扉に入って、そして出て来た。その後、もう一人出てきた少女。
「だれだろ? もう…」
直子はひとつ息をつくと、通路の入り口の方へ戻ってきた。
「ごめん、甲斐君。扉のところで待ってて、もう一度鍵を取ってくるから…」
秋津とさやかの方を見て軽く会釈をすると、直子は廊下へ出て行った。秋津は暫く開いた扉の方を見ていた。ゆっくり瞳だけ動かして少年の方を見ると、彼は二人から少し離れた奥の扉前に移動していた。秋津は軽くさやかの背中をつついた。
「先輩?」
振り向いたさやかに秋津は小声で言った。
「で、何があったの?」
「それが…」
さやかは黙って甲斐のほうを見ると、先刻同様、説明するのを躊躇った。
「あの…えっと、後で、その、とりあえず移動しませんか?」
「ん? ああ、それもそうね。あ、そうだ確認したいことがあったんだけど…」
そう言って秋津は持っていた紙片をさやかに見せた。
「これ、あなたが書いたものじゃなさそうね…」
さやかはそれを見て、顔を顰めた。
「わたしじゃ…ないです」
「やっぱりな…まあ、いいわ。とりあえず無事に会えたから。じゃあ、部室に…」
秋津がその通路の入り口を出ようとしたときのことだった。廊下を駆けてくる足音が聞こえて直ぐに、戸口に一人の少女が現れた。少女はさやかに気付いて驚いたように言った。
「…!? 杉村…さん?」
それは、秋津が見た、扉から出て来たもう一人の少女だった。少し興奮しているようで、顔が赤いのは走ってきたから、という理由だけではなさそうだった。
「牧野さん? どうしたの?」
そのさやかの声を無視して、翔子は奥の扉前、甲斐の居るほうを向いた。
「甲斐? あんた…もしかして、あれをやったのはあんた?」
対照的に言われた少年は相変わらず落ち着いていたが、相手の疑問の意味はわからないようだった。
「なんだ? 牧野? なにかあったのか?」
「なにか…って…」
言いかけて翔子はすばやく扉の前に行き、鍵を確認した。
「閉まってるよ」腕を組んで少年が言った。
「知ってるわ!」
怒りを顕にした表情で、翔子は少年の方を向いた。そして、通路入り口の方に振り向くと命令するようにさやかに言った。
「中に誰か居るわ…杉村さん。鍵取ってきてくれる?」
「今行ってるわ、別の人が」その問いには秋津が答えていた。
「…それより、中に誰か居るって? それ、どういう意味?」
翔子は代わりに答えた秋津に驚いた様子で、困惑気味に視線を落とすと「…分からない」とだけ言った。気分を落ち着けようとしたのか、彼女は数回大きく息を吐いた。
秋津とさやかは顔を見合わせた。さやかは不安そうな表情をしていた。ブログの予言を気にしているのだろう。どうやら、暫くは様子を見たほうがいいのかもしれない。秋津はそう思った。
数分も経たぬうちに駆け足で直子が帰ってきた。
「ごめんなさい…あ、牧野さん? 他の…人は?」
「他の人?」翔子は怪訝な表情で問い返した。
「連絡は?」
「連絡?」翔子は最初に入ってきたときの不機嫌な顔に戻っていた。
「それより、早く鍵を渡してよ」
「あ、はい。これ…」
翔子は直子から鍵を受け取ると、それを南京錠へ差し込み開錠した。そして、留め金から錠を外すと恐る恐る、ゆっくりと扉に手をかけた。
――ガン…。
「何…コレ!?」
翔子はドアから手を離し、少し後ずさりした。どうした? と声を掛けながら今度は甲斐と直子が覗き込む。
「なんだ…?」
秋津たちも扉に近づいた。今度は甲斐が引き手に手をかけた。
――ガン…。
「ダメだ、開かない…誰かが中から扉を押さえてるのか?」
「…だから、言ったでしょ?」翔子はその隙間を見つめたまま言った。そしてもう一度扉に近づくと大きな声で中に呼びかけるように言った。
「ねえ! だれなの? 開けなさいよ!?」
「牧野…さん?」直子は翔子に説明を求めた。
「どうしたの? 牧野さん? 会議は…その、コレは誰が?」
「誰かわかんないから言ってんでしょ!」翔子は直子を睨んだ。
「…ごめんなさい」
「なあ…」甲斐が言った。
「なんか良く分からないけど、牧野? 俺に用は無いの?」
「えっ?」
突然の質問に翔子は苛立った声で答えた。
「一体何なの? 会議だとか、用だとか…私は今…」翔子は言いかけて口ごもる。
「じゃあ、会議って無いの?」甲斐は、今度は直子に向かって聞いた。
「えっと…」
牧野翔子は顔を上げない。直子は秋津たちの方を見たが、二人とも答えようが無かった。
「まあ、それにしてもか…」
仕方ないな、という風に甲斐が言った。
「コレ…どうする?」
「たしかに、そうね…」直子はピッタリと閉まった扉を見つめた。
「誰なの…って言っても無理か?」
「誰も居ないんじゃないか?」
「そんなこと無い!」
二人の会話に突然割って入ると翔子が言った。
「そうね…誰かが中から…」驚いた様子でそういった直子はさやか達のほうを振り返る。
「ちょっと変だし、私…先生呼んでくるよ、そうだ…夏樹先生」
言って、直子は直ぐ横、進路相談室の扉をノックし、その開き戸のノブに手をかけた。一瞬遅れて、はっとした表情で翔子は直子の手を掴み、それを止めようとした。
「先生は…だめ…」そう言って翔子は顔を上げた。表情は不安そうだった。
「どうして?」
素直に疑問をぶつけてきた直子に対し、一瞬言葉に詰まった翔子は、ボソボソと小声で答えた。
「それは…きっと…あんたも困るはずよ」
「えっ?」
二人は暫くの間無言で見つめ合っていた。翔子は少し睨むように、直子はその視線から逃れようとも目を逸らせない。といった風だった。
「でも…」ようやく視線を逸らし、直子は助けを求めるように秋津の方を見た。
それを受けて、秋津は翔子に問いかけた。
「牧野…さん?」
翔子は無言で秋津を見た。秋津は素早く進路相談室のノブに手を伸ばしてそれをひねった。
「なっ!」翔子が焦ったような声を出したのと同時に鍵のかかった扉の、閂の引っかかるガン、という音が響いた。
「夏樹先生なら、さっき外ですれ違ったけど…これ」
秋津は扉に張られた紙を指差した。そこには『進路、及び学校生活に関する相談受付(月~木、昼休み、放課後)。夏樹隆文』と、書かれていた。
「今日はもう居ないんじゃないの?」
「そう…ね」翔子は安心したように、直子の手を掴んでいた手を下ろすと、そのまま無言で俯いてしまった。秋津は進路相談室の扉に凭れて腕を組むとそんな翔子の様子を暫く見つめていたが、少し首を傾け、俯いた翔子の顔を覗き込むようにして言った。
「先生、呼んじゃいけない理由って…」
顔を上げた翔子は秋津の問いには答えず相変わらず黙っていたが、閉じられた扉に手を伸ばし、戸板に触れながら何かを考えているようだった。隣の直子は困惑した様子で扉と翔子を交互に見ていた。
それを見つめるさやかも、依然として状況が飲み込めない様子で口を噤んでいる。
「多分、私たちも関係あると思うのよね…」
茫然と動きを止めていた三人に対し、秋津がつぶやくようにいった。さやかは秋津の方を振り返った。
「先輩?」
他のメンバーも秋津に注目していた。秋津はそれらの視線に臆することなく言った。
「あのさ、先生には言いたくないんだよね?」
「…」うつろな表情で振り返った翔子は、ぎこちなくうなずいた。
それを確認すると、秋津は片方の眉を上げて、理解を示すように小さく数回頷いた。
「多分、誰かが中にいるのよね?」秋津は扉のほうを見た。
「じゃあ、私たちで中に誰か居るのか調べてみましょう?」
「先輩!?」
「でも、どうやって?」
直子が不安気に言った。直ぐ横の甲斐はドアの前でポケットに手を突っ込んで壁に凭れていた。その甲斐に向かって秋津が訊ねた。
「この部屋の入り口は? いくつある?」
「ここと窓だけだろ?」
甲斐は感情のない平板な声で言い返したが、その目の光は少しばかり秋津に対する敵意を感じさせた。そんな甲斐を見つめ返して秋津が言った。
「もうひとつ」
「もうひとつ?」さやかが鸚鵡返しに訊いた。
「そう、このあたり少し増築で変な形になっているでしょ?この会議室は隣の教室。今は空き教室だけど、そこと繋がっているの」
「そう…なんですか?」
「うん…」
うなずいて、確認するように秋津はそれぞれの顔を見回すと続けた。
「手分けして、この扉、窓、そしてもうひとつの入り口を見張ればいいんじゃない?ここは…」
秋津の言葉をさえぎるように翔子が叫んだ。
「あの…あたし、窓の方見てくる!」
「ちょっと…ねぇ…ちょっと待って」
翔子は秋津の制止を無視すると、廊下へ走り出ていってしまった。
「ねえ!」廊下の方へ呼びかけた声も虚しく。翔子の足音は遠ざかり、まもなく聞こえなくなってしまった。
「もう…入るんなら、もうひとつ、隣の部屋から繋がってるドアの方が確実なのに…」
秋津は一同を振り返るとあきれたように言った。
「でも…まあ、仕方ないか…ねえ、どうする? 他の人? やる気ない?」
「あの…」恐る恐るといった風に直子が言った。
「良く分からないんだけど…この中に誰か居るんですよね? 二つの入り口をふさぐのはいいけど…そうすると、牧野さん一人で大丈夫かな?」
「…そうね、でも…彼女は何か知ってるみたいだったし…」
秋津は何か含むような調子で言った。
「先輩? 私が、牧野さんと窓の方見てきましょうか?」さやかが言った。
「…いや、あなたは駄目よ」
さやかは言われてから気付いた様だった。「…はい」というと、上目遣いに秋津を見て数回頷いた。何か危険があるとすれば、それはブログに事件を予言されている自分自身であるということに気づいたのだ。
「じゃあ、俺…ここで良いよ」
不意に甲斐が言った。
「この扉、見張ってりゃいいんだろ? 多分…自分から閉じたから開けないだろうけど…まあ、そっちから入れるっていうんなら、こっち側からロックしておいてもいいけどさ…」
南京錠を掴んでそう言った甲斐の顔を、秋津はその真意を探るように見つめていたが、やがて納得したようにうなずくと、後の二人を向いて言った。
「じゃあ…そうね、もしかすると、逃げるためにこっちから出てくるかもしれないから、鍵は閉めないでおいて見張ってて…えっと直子さん? でよかったかな?」
「はい、鍋島直子です」
「そう、私は秋津よ…じゃあ、鍋島さん…あなた、隣の部屋の鍵を職員室から取ってきてくれる? 多分、直ぐ見つかるわ、一階の…ただ資料室とだけ書いてある鍵がそれだから…」
「え、あ、」一瞬、さやかのほうに意見を求めるような視線を送った直子だったが少し遅れて「はい…」と返事をするとその場の雰囲気に押されたように、小走りに廊下へ走っていった。
「じゃあ、私たちも…」
廊下に出ようとする秋津の後ろについて、さやかが小声で問いかけた。
「秋津先輩、一体…何が起こってるんでしょう?」
「わからない…」
振り向かずに秋津は答えた。廊下に出ると、隣部屋の入り口の前に二人は向かった。扉には鍵がかかっている。会議室の扉同様、引き戸であるその扉は南京錠で施錠してある。留め金にかかったその錠を弄りながら、秋津は言った。
「杉村さん? あなたは、一人にならない方が良いわ」さやかの方を見る。
「コレが…きっと『事件』なんでしょう。まあ、疑いも無く…」
さやかは落ち込んだように下を向いた。
「はい…多分。でも、一体何が?」
「だから、分からないって…」
言いかけて秋津は思い返していたブログの内容から、さやかに質問した。
「…あ、そうだ…杉村さん? そういえば、写真。ブログに書いてあった写真っていうの。事件のきっかけになっているんでしょう? それは何だったの?」
その質問に、さやかはひどく動揺したようだった。
――あの甲斐って少年とのことに関係があるのだろうか?
さやかは黙り込んでしまった。そんなさやかを見て、秋津がどうしたものかと考えているうちに後ろから階段を下りる足音が聞こえてきた。その音を聞いてようやく顔を上げたさやかはすまなそうに言った。
「先輩すみません。あとで、ちゃんと説明しますから。今は…」言いながら、さやかは秋津の肩越しに、後ろから来た直子の方を気にするように見ていた。
「今は、ちょっと…」
その視線に、この場では話せないのを理解した秋津はうなずいて答えた。
「分かったわ、じゃあ、これが済んだら…」
「はい」
「あの…」ちょうどその会話が終わったところで、顔の前で鍵を振りながら、小走りで直子が帰ってきた。
「コレですよね?」
「ありがとう」
秋津は直子から受け取った鍵を確認した。扉の錠の鍵と、隣の会議室に繋がる扉の鍵の二つがまとめられていた。秋津はすぐさまそのうちの一方を南京錠に差込み、扉を開いた。さやかと直子は秋津の後ろから部屋の中を覗き込んだ。
もうずいぶん使われていないその教室は、窓が無く薄暗かった。良く見ると窓のある側にまでファイルの詰まったロッカーが並べてあり、それらが日を遮っているのだ。手前にはダンボールが詰まれ、ガラクタで溢れかえっている。古くなった机などが片側に寄せてあったが、さらにその上にはいらなくなった教材など、収納されていない資料が平積みにしてあり、床同様、埃にまみれていた。
部屋の向かって左側、机が二層になって寄せてあるところに。一枚の扉が見えた。それは、ちょうど今誰かが潜んでいると思しき会議室に繋がっている扉だ。机だけでなく、近くの床までガラクタは並んでいる。
「あれよ」
秋津はその扉を指すとすばやく障害となっている机の前に進んでいった。入り口に残された二人もあわててその後を追った。
「どうせなら、あの甲斐って子にこっちに来てもらえばよかったな…」
ぼやくように言いながら秋津は手前の机を掴んで移動させ始めた。二人も慌ててそれを手伝った。机はパイプで椅子と繋がった古い型で、移動させるのは大変だった。加えて部屋はガラクタで溢れかえっていたので、ただ机を移動させるだけでも一苦労だった。そうしてようやく出来た隙間、目当ての扉を前にした秋津は持っていた鍵を確認した。二つのうちから扉の鍵を選んでいると、不意に、頼りにしていた入り口からの光が遮られた。
「誰?」秋津は戸口を振り返った。
声に、秋津以外の二人もそちらを見た。
そこにはまた、秋津の知らない少年が立っていた。
「いや…あの…」
三人に見つめられ、うろたえたような声を出したその少年は、既にクラブ活動の服装なのかジャージの上下に身を包んでいた。背が高く、短髪で若干色黒のその少年は、扉に手をかけ、部屋を覗き込むような姿勢のまま、きまり悪そうな顔で瞳を泳がせていた。
「なに、してるの…かな? って…」
少年は若干俯き加減で恥ずかしそうに言った。秋津はさやかが直ぐに少年から目を逸らして俯いたのが分かった。
――なんだ? さっきの少年のことといい?
秋津がさやかの様子を不審に思っている間に、直子が少年に呼びかけた。
「本田…君だよね…その…会議はなくなった…みたいなんだけど…」
突然の言葉に少年はふと我に帰ったように顔を上げて問い返した。
「会議? って、何?」
「えっ!?」
直子はまたも困惑の表情を浮かべた。それも当然といえば当然のことだった。なにしろ、今までその話題。すなわち『予定されていた会議』というのはそれを言った全員に理解されていないのだ。
「やっぱり…だれも、聞いてないのか…おかしいなぁ。牧野さん、さっきも変だったし」
秋津は直子に訊いた。
「彼、何か関係あるの?」
「はい、彼、三組の体育祭委員なので…もし、今日会議があったんだったら…」
直子は少年を見る。
「なるほど…」秋津は本田の方を見て言った。
「えっと…本田君? ちょっと手伝ってくれる?」
本田は突然面識の無い人物から呼ばれて、少し戸惑っていたが「なん、ですか?」というと部屋の中に入ってきた。
「この…扉を…ん?」
廊下の方から足音が聞こえ、秋津は説明を中断した。待てとばかり、片手を上げ、秋津は廊下の方へ注意を向けた。通路の扉を抜けこちら側へ廊下を走ってくる音だった。全員はまた戸口を振り返っていた。秋津はそちらに向かって呼びかけた。
「ちょっと…あんた、どうしたの?」
廊下を走っていたのは甲斐だった。彼は戸口で振り返った。
「牧野が…」
「どうしたの?」
「後だ!」
質問に答えず立ち去ろうとした甲斐を秋津が呼び止め、訊いた。
「鍵は?」
「閉めてる!」それだけ言うと甲斐は廊下を走っていった。
秋津は暫く戸口を見ていたが、一つ溜息をつくと直子に言った。
「あ、そうだ、鍋島さん…まだ会議室の鍵は持ってる?」
「はい…返すの忘れてました…」
「ああ、いいの、じゃあそこで廊下の方、通路の入り口見てて…」
秋津の言に、直子は首を傾げながらも廊下に出て行った。秋津は次に、近づいてきた本田の方を向いて言った。
「…とりあえず、この扉あけるの手伝ってくれる?」
そういうと扉の鍵を開け、ノブを捻って向かいの部屋の方に押し始めた。
「この扉、会議室の方に開くようになってるの。多分、扉の向こうには、書類なんかが入ったロッカーがあるはずだから…」
「えっと…」本田はさやかの方を少し気にしながらも、秋津の横に立ち、扉を押し始めた。扉はすぐにロッカーの後ろに当って止まり、二人はそれを押すように力を入れた。わずかに開いた扉の間からロッカーと床との摩擦音が聞こえてくる。
「よし…杉村さん、あなたも…手伝って」
「は、はい」
茫然とその様子を見ていたさやかも扉を押すのに加わった。三人で力を入れると、扉はゆっくりと開き始め、埃だらけのロッカーの後ろ側が見えた。
「先輩、開き…」
さやかがそう言いかけたときだった。何かにつっかえたように、それ以上扉が開かなくなってしまった。
「あれっ?」
扉を押していた一同は顔を見合わせた。
「何か引っかかってるのか?」
全く状況を知らない本田が言った。
「おかしいなぁ…」秋津は戸口の直子に向かって訊いた。
「ロッカー以外に特に障害物ってないわよね」
「はい…机はありますけど…動かしたロッカーにぶつかるほど近くなかったと思います。開かないんですか?」
「うん」
「私も…手伝いましょうか?」
「いいえ、あなたはそこで見てて」
答えながら秋津はもう一度扉を押し返すよう、さやかと本田の二人に目配せする。
再び三人は扉を押し始めた。しかし、何かが障害になっているのか、それ以上扉は開かなかった。
「ダメか…これ、一体何…」本田がぼやくように言って秋津の方を見た。秋津は扉に手をかけたまま、少し開いた扉の奥、わずかに見えるロッカーの後ろ側を見ていた。秋津は耳を澄ませ、中の様子を伺っていた。その様子を見て本田はさやかの方へ視線を移したが、一瞬目が合うと何となく気まずそうに目を逸らした。
そうして、三人とも暫く扉の前で動きを止めた。部屋の中は微かに誰かが動いているような音がしていた。さやかも中の気配を感じて、不安そうな様子で秋津の方を見た。
不意に何かが外れるような音がした。そして次に続いた音は
「窓が、開いてる!?」
秋津の耳に聞こえてきたのは、部屋の窓をスライドさせたときの音だった。そして続いて。
『うわッ!』
と、驚いたような悲鳴が、その開いた窓越しに入ってきたように聞こえた。
三人は顔を見合わせた。
「今の…牧野さんの声?」
「みたいね、まずいかも…牧野さん? 牧野さん? 大丈夫?」
扉の向こうに呼びかけながら、秋津は本田に目配せした。三人はもう一度力を入れて扉を押した。すると、最初に少しの抵抗があったものの、より大きな摩擦音を響かせつつ、ゆっくりだが扉は会議室側に開いて行った。
扉の間から見えるロッカーの角度が徐々に変わり、そして、開ききった扉とロッカーとの隙間に「先に、入るわ…」と秋津が滑り込んだ。次にさやかが続いて、最後が本田だった。
「あんた…?」
秋津は部屋の中に入るやいなや窓の方を見ていた。そしてそこに、またも見知らぬ少年の顔があった。
「なに…やってんだあんた?」
「…前田…君?」
さやかは窓越しに部屋の様子を伺っている少年を見てその名を呼んだ。
「杉…村?」
窓越しに秋津たちを見ていたのはさやかのクラスメイトの前田圭二だった。
「お前ら…ここでなにやってんだ?」
「なに、やってるって…」
言いかけて、秋津は部屋の中を見渡した。会議室の中、秋津が見渡す範囲には、誰一人として見当たらない。
「ねえ」秋津は前田と呼ばれた少年に問いかけた。「だれか、ここに居なかった?」
「いなかった? って?」
少年は混乱した様子で言った
「ここから…その窓から誰か出てこなかった?」
「いいや? 出ては来なかったけど…なあ、牧野が言うからずっと見張ってたけど…これいったい何やってるんだ?」
秋津は前田の問いを無視して続けた。
「あなたずっとそこに居たの? そうだ…牧野さんは? 無事? なにかあったみたいだけど?」
「ずっとそこに居たかって? それはそっちに訊きた…」
前田を無視するように秋津は窓に近づいて、外を見た。
「牧野さん?」
前田の後ろ、生垣に続いて植えられている木の陰に翔子は青い顔で座り込んでいた。秋津の呼びかけに、彼女は無言で顔を上げたが何も答えなかった。
「どう…したの?」
無視されていた前田はむっとした表情で答えた。
「牧野は、猫に驚いただけ…」
秋津は前田の答えに首を傾げた。
「猫? 猫が…この部屋から…窓から出てきたって事?」
その問いに前田は首を振った。
「いや、違う…猫が中に入っていったんだ」
「えっ!?」
そのときだった。
――にゃーん。
猫の声が聞こえた。
「なんだ…?」
本田の声に秋津は部屋の中を振り向いた。
最後に入ってきた本田はいつの間にかロッカーの間を抜け、パーテーションをよけて、入り口横、簡易キッチンについているシンクの方へ移動していた。
「どうしたの?」
秋津もパーテーションを避けてそちらへ向かった。さやかも後ろからついてくる。
――にゃーん。
「…ここ」
本田は眉間に皺を寄せシンク下の収納、その開き戸を指差していた。それをみて、秋津も眉を顰めた。
シンク下収納の閉じられた開き戸の取っ手。環状の金属部分が、外側からまとめるように南京錠で施錠されていた。そして、猫の鳴き声はその奥から聞こえてくる。
「先輩…!」
さやかが秋津の腕にしがみついた。
「大丈夫…」秋津はさやかの肩に一度手を乗せると、ゆっくり腕を放しそちらへ近づいて行った。しゃがみこんで開き戸を見る。もう一度、猫の鳴き声がした。秋津は反射的に扉に手をかけて、それを引いていた。ガタン、きっちりと施錠されていて、それは開かない。本田が唾を飲み込む喉の音が聞こえた。一つ息を吐くと秋津は立ち上がり、また二度ほど息を吸い、吐いた。後ろから、さやかの不安そうな息遣いが聞こえ、さらにうしろから「おい、どうしたんだよ!?」という前田の声が聞こえてきた。
「おい!?」
その声をすこし鬱陶しく思った秋津が、黙るよう言い返そうと振り向いたその時。視界の片隅に鈍く光る物を見た。
「…鍵?」
思わず口に出していた。シンクの端にその鍵は置いてあった。秋津は手にとって直ぐにそれを閉じられた収納部の南京錠に差し込んでみた。
鍵は合っていた。回すとカチャリと音がして、錠が開いた。すぐさま取り外し、秋津は扉を開いた。
――にゃーん。
暗闇に、しなやかな白いシルエット。そして黄と、薄い青、二つの色の違う瞳が輝いて瞬間、瞳孔は突如入ってきた光によって縦に細く絞られた。
「ね、こ…?」
左右の色の違う目の白猫が、ゆっくりと扉から出てきた。そして、一度それぞれの顔を確認するように首を巡らすと、さやかのもとに歩いていき、その足に自分の頭を擦り付けるようにしてまた鳴いた。
さやかはしゃがみ込んで猫の顔、そして首輪を確認すると顔を上げて秋津と本田の方を見た。
「これ…シロ?」
「シロ?」
秋津が問い返すと、代わりに本田が答えた。
「管作のおじさんが飼ってるシロか…?」
本田は眉を顰めたまま独り言のように言った。
「でも…なんでこんなところに?」
「本田君?」しゃがみ込んで収納部の扉奥を見ていた秋津は、振り返ることなく、本田に向かって言った。
「はい?」
「そこの扉…開いてる?」訊きながら秋津は開いたシンク下収納に手を伸ばしていた。
「えっ?」
いわれて本田は自分の後ろ、会議室の入り口扉を見た。何の変哲もない扉に内側から鍵を掛けるような仕組みは何もなかった。つまり内側からは施錠されていない。
本田は扉に手を掛けた。表側で留め金が音を立てたが扉は開かなかった。
「開いてない、みたいだけど…外から鍵してるんだろ? 違うのか?」
問いかける本田に無言で振り向くと、秋津はシンク下収納から手を出した。その手には何か派手なものが握られている。
「たぶん…ね」
言って、直ぐに立ち上がると、秋津は手に持っていたものをさやかに預けた。
「これ…持ってて…」
「はい? なんです…!?」
さやかは手渡されたものを見て驚いた。それはピンクの派手なストライプ模様のカバーを掛けた携帯電話だった。
「先輩…これ…?」
「ちょっと持ってて…」
「なあ? おい!」
再び呼びかけた前田の声に「煩い!」と、振り向きざまに言うと秋津は素早く先ほど入ってきた入り口から隣の部屋へ戻った。心配そうな顔の直子が、戸口から離れて扉の前に来ていた。
「どう…したんです? だれか? 居ましたか?」
秋津は直子の問いには答えずに逆に問い返した。
「それより、廊下見てた? 甲斐って子が通路から廊下に出た後、誰かそこに入っていかなかった?」
「えっと…一人…入っていきましたけど…」
それを聞くと、秋津は直ぐに廊下へ走って行った。再び隣の部屋へ続く通路へ入り、会議室入り口の扉を確認する。甲斐の言った通り、扉は施錠されていた。
「閉まってる…か…」
独り言を言うが早いか、秋津は踵を返し、今度は進路資料室の扉に向かった。扉は半開きになっていた。秋津はその扉に手をかけて部屋に一歩踏み込んだ。勢い良く乗り込んだせいで扉が大きな音をたて、中に居る生徒が驚いたように戸口を見た。
「え?」
しかし、驚いた声を漏らしたのは秋津の方だった。
「…先輩? なにしてるんですか?」
そこに居たのは、ミステリィ研究会、副部長の大場彰だった。
「何してるって…進路資料を…みてるんだけど…」
大場は片手に持った参考書を顔の横に持ってきて揺らし。
「今年から僕三年だからね」というと、少し肩を聳やかして見せた。
「どうしたの?」
「…」
秋津は暫し無言で、大場を見つめ返した。大場はその様子に少しおどけたような表情で「何?」と応じた。
「あの…先輩はいつからここに?」
「ついさっきから…」大場は参考書のページをめくりながら答えた。
「ここに…誰か入って来ませんでしたか?」
「いいや、僕一人だったけど?」
答えながら次の参考書を選ぶ。
とぼけた様な大場の対応に、秋津は不満そうに言った。
「本当に?」
参考書を眺める姿勢のまま、瞳だけを動かして秋津を見た大場は少し嫌味に言った。
「なに? だれか、ここを通ったはずなの?」
「…いいえ、わかりません」
「そう…」
秋津は自分が入ってきた入り口の方を振り向いた。少し開いた扉からは通路が見える。
「まあ、事情はよくわからないけど…」
大場は少し口調を変えると
「そこの扉…さっきから半開きだったんだけど…誰もその通路を通った様子はなかったよ」と念を押すように言った。
秋津は振り返って大場の顔を見た。ミステリィ研究会副部長は首を傾げ、微笑んでいた。
「お役に立てたかな?」
「…どうでしょう?」
言って、踵を返しかけた秋津だったが、ふと思いついて大場の方を振り返った。
「やっぱり、とりあえず来て下さい」
大場は参考書を棚に戻すと、ボサボサの髪を掻き揚げ、満面の笑みで答えた。
「…了解」
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