③久世 千夏―1
雲雀の事が、本当に大好きだった。
大好きって言ったら大好きって返してくれる人なんて、雲雀以外に僕は知らない。
一目惚れなんてつまらないものじゃない。花が一日やそこらじゃ咲かないように、相応の時間をかけて、確実に、不可分になるまで惹かれていったんだ。
守りたいとかを言うには僕は幼すぎるから、それは言わないで来たけれど。それでも、いつまでも大切にしたい。それだけは、四六時中想い続けてきた。いつか、本当に守れる人になれるように。
なのに、どうして。
「えっ」
「ちょっと、千夏、痛いよ」
どうして僕は、僕の右手は、この小鳥みたいにひ弱ですぐに壊れてしまえそうな腕を、守るどころか締め上げているんだ?
「え、あ、雲雀」
急いで右手の力を抜くと、ぐに、と指と指の隙間に身体が入ってこようとして。その感覚の生々しさが、緩んだ指の隙間から見える、朱色がかったゴム質の肌が。罪悪感を何割、いや何倍増しに広げていく。いや、罪悪感なんてものじゃない。
これはもう、罪悪だ。
「ごめん、雲雀」
「ああいや、いいよ全然」
「うん。……いや、でも待って」
焦りと不安で声が出ない。なんで、どうしていきなり。今の事は良くなかったけど。でもそれにしたって、何もかもわからない。
……昨日の帰りなんて、やっと少し雲雀の重要そうなことが知れて、頼ってって言ったばかりなのに。色々なことがこれからで、いや、これからだったはずなのに。
「なんで? 嫌だよ。何があったの、何か悪い事した? 僕」
「いや、そういうわけじゃない、好きだよ、大好きだよ」
「ならなんで」
「大好きだから、駄目なの」
「わからないよ、なんで好きなのに別れるの?」
どんな事を話したらいいかもわからないまま、僕は焦ってまくしたてる。
でも、それはどれもがまともに取り合われていないようで。
「私が一緒に居たら、千夏が迷惑する」
「そんなことない、僕だって雲雀の事は大好きなのに、なんで別れなきゃいけないなんてことになったのさ」
「……でも、私の首絞めてる時の千夏、いつも悲しそうな顔してた。毎回千夏の事泣かせて、泣いてる千夏の顔見てて嬉しくなってた人間なんだよ、私は」
「そんなので僕が雲雀の事好きじゃなくなる筈ないじゃん。じゃあ、僕が笑ってたらよかったの? 僕が、千夏が申し訳ないって思うような顔ばっかりしてたから駄目だった?」
少しずつ分かってきたのは、僕の放つ『好き』には、もう取り合われていないことぐらい。
「そうじゃない、千夏は、私なんかと一緒に居ていいような人じゃないの」
「そんなことない! 僕はそんなに良い人じゃないし、第一雲雀以外に一緒に居たい人なんて、僕には誰にもいないんだよ」
「そんなことない」
「ある。今だって、考えるより前に雲雀に手を出した」
雲雀が今何を考えているのか、何を考えて昨日を過ごしたのか、僕には全く察せないし考えたくもないけど。でも、火を見るよりも明らかなのは。
信じたくないけど、これは出来の悪いエチュードなんかじゃなくて。雲雀は本気で言っているんだということと。このままだと本当に、呆気なくすべてが終わってしまうことだった。
それに、ちょっとやそっとの事では雲雀は意思を変えそうにもないことも。
「それは仕方ないよ、だって、今まで私が散々そうさせてきたんだもん」
「違うよ、だって昨日まで首絞めるときは、本当に怖かったんだから僕」
「あ、今も言った。やっぱり千夏はいい人だから、そんな笑いながら首絞める何てことできっこないよ」
「え、いや、それは、話の流れじゃん」
何を言っても、雲雀には届いていない。それどころか、その後に雲雀が話す度、結末が近づいてきて。
まるで、本当に結論だけを持ってここに来たみたいだ。……そんなことをされたら、僕にはもう何もできないのに。
「それはそうだけど、でも。やっぱり千夏は、私と一緒に居たら、これがらもどんどん不幸になって行っちゃう」
「雲雀と一緒に居て、雲雀のいない世界よりも不幸になるなんてことあり得ない」
全然、僕の話なんて聞かれてない。ただ言葉一つ一つを話す度、雲雀が遠くにいってしまう。雲雀が口を開く度に、僕の言葉が、執着が、皮を剥ぐように引き剥がされる。
やめてよ。もう、僕の言う事どれか一つに『そうだね』って返してくれたら、それだけで昨日までと同じで、幸せにいられたはずなのに。なんでいきなり、僕の言う事全部にバツを打って、どこかにいってしまおうとするんだ。
……今の雲雀だって、何も傷つけてないのに、涙を溜めて。どこからどう見ても、限界なのに。
「何で、わかってくれないの? 好きなんだよ」
「うるさい! ……もうやめて、何も言わないで」
もうこれ以上、はなさないで。
「いや……うん」
目が眩むような感覚がしても、涙は出てきてくれなかった。よく聞かれることもせずバツを打たれたことが信じられなかったのか、それともバツを打たれたことがどうしようもなく嫌だったのか。まだ、何かが理解したくないままだったから。
泣く方向にも舵を切れない、逆切れするにもそのとっかかりすら与えてくれない。パラパラ漫画を一枚捲ったら突然何もかもが変わっていたかのような、ただ一面に広がる不条理さに話の見えてこなさ。ただ、一つだけわかったことを除いて。
「嘘つき」
「え?」
「理由はわからないけどさ、冷めたんでしょ? 僕に」
「え、いや」
「だって!」
……だって、そうじゃないか。好きな人と別れるきっかけなんて、根っこを辿ればどれも好きじゃなくなることに行くんだから。
「全然僕の話聞いてくれないじゃん雲雀、こんなに好きって言ってるのに。なんで好きな人を両想いなのに振らないといけないのか、僕の言った事全部聞かなかったことにしたのか、理由があるなら教えてよ」
「……ねえ、怖いよ」
「教えて? 嫌いになったならそれでいいから。それなら、それなら。……そういうことなんだったら、僕は大泣きして終わりに出来るんだからさ」
僕は、なるべく刺激しないようにそう放った。雲雀を、というよりは、自分を。
雲雀に話の主導権を握られるのが怖いし、もし僕が雲雀の言いたいことを理解してしまったら、その時こそ僕がどうしようもないことが理解してしまえるような気がして。
「…………それは違う」
「そう。……ごめん。ちょっと考えさせて、一日」
口から薄い空気で吐いたその声の切実さが、余計に僕を憔悴させる。とても嘘には聞こえないその声が、今の僕にとっては一番不気味で、怖くて。
泣き声が聴こえる窓側の席。僕は教科書の整理も十分でないまま、なりふり構わず外に出ていって、後ろも見れずに家に帰った。
*
雲雀には友達がいない。だから、休み時間は専ら本を読んでいて。
付き合いだして少しした頃、どうして友達がいないし、作ろうとも思わないのかってことを質問したことがあった。
”二人以上の人と仲良くなったら、どこかで仲違いが起きたら大変だから”
みたいなことと、”一夫多妻制の国では全員を平等に扱わないといけないから辛い”みたいな話をされて、そういう物かと思った記憶がある。だから誰かに唆されたとか、そういう風なことだとは考えられない。
でもそれなら、こんなことになるのはおかしい。でも、なってる。目の前にある現実と、類推の間にある致命的な隔たり。それに撥ね除けられ続けたたまま、僕は夕方の帰り道を辿り切ってしまっていた。
鍵を上下の鍵穴に差し込んで、丈夫そうな玄関の扉を開ける。ドアの隙間から見える薄闇と少しの安心感と共に、僕は誰も居ない家の中に入った。
今日の朝食べた食パンの皿が、洗われないままリビングに放置されている。付け合わせの野菜に掛けたドレッシングが、皿に残って渇きかけていた。
カチャと音を立て、フォークと汚れた皿を持ち上げる。そして流し台に置いて水を出すと、水道管が心地良い水の音を立てた。
皿が浸かり切って蛇口を止めると、再び訪れる静寂。
いや、違う。水の音の次に聞こえてきたのは、重苦しい圧迫感の沈黙。
「あー……」
一回耳抜きすると、気持ちはさっきより楽になった。そのまま鞄だけを持って自室に行ったら、そこにあるのは小綺麗な空間。鞄をそのまま地面に落として、ベッドの上に横になる。
そして、一息ついたその瞬間。眼から涙がとめどなく溢れ出した。
「なんでだろうなあ」
こんなに好きで、こんなに愛していたのに。そして、きっと雲雀もそうだと思って、ずっと思ってたのに。
どうして、一日で全部がひっくり返らなきゃいけないんだろう。
愛って、こんなに呆気ないものだったっけ。こんなに簡単に全部なくなって、手が施せなくなるものだったっけ。大好きなのに、大好きなのに、まだ全然側に居たりないのに。綺麗な残滓だけを残して、いきなり全部なくなってしまった。
まだ涙も乾ききらない夜の初め、僕は手癖でスマホに手を伸ばす。
そして真っ先に目に入った文字に、僕は言葉を失った。
【振られた?】
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