②一ノ瀬 雲雀―2

 千夏が帰ってからも、すっかり私の脳は冴えてしまって。一応横になり直しては見たものの、眠れる気配は欠片ほども無かった。


【います?】


 一人で過ごす眠れない夜はさっきまでとは打って変わり、全然時間が早く過ぎていってくれなくて。まだ千夏が帰ってから二十分しか経っていないのに、まるでもう長針が三周していてもいいんじゃないかとすら思えるような、耳の締まるような気持ち悪さ。

 時間に閉じ込められているみたいで心も体も嫌になるのに、これを晴らすのも近所迷惑だからできなくて。だから、夜勤の人でもない限りまだ起きるはずの無い夜3時。私は憂さ晴らしの様に、インターネットの網の結び目にダイレクトメッセージを飛ばしていた。


【いるけど。何でこんな時間に起きてるのさ、君高校生でしょ?】


 三分が経たないくらいの所で、縫い糸のアイコンをした知り合いからリプライが返ってくる。ここまで起きていたのは初めてだから、繋がっている人の中でだれがこの時間に起きているのかなんて、全然知らなかったけど。それでも、なんとなくの人柄から察してみたのは、間違ってなかったみたいだ。


【それは別に、いくつになっても同じじゃないですかー? お姉さん、ほんとに働いてるんですか、こんな時間まで起きて】

【大人になったら睡眠って、冗談抜きで貴金属くらい貴重になるからね。少なくとも銀くらいには】

【何言ってんだか。ゲームでしょ? 今やってるの】


  まあ、正直この人が働いているかは、今はそんなに問題じゃない。タイムラインとダイレクトメッセージを交互に行ったり来たりしながら私は会話を適当に進めて、やりたい方向に話をずらしていく。


【そりゃそうでしょ、それ以外に何が。服なんて縫えるわけないじゃん、夜中にミシンなんて動かした日には、近所トラブル待ったなしだよ。どうしたの、暇なの?】

【流石、話が早い! 相談があるんです】


 もちろん、悩みごとはこの人に一番最初に頼るようになっているというのはあるけど。それ以前に、働いていたっていなくたって。

 こんな夜遅くまで起きているような人は、大体寝るのが嫌な人で、ついでに色々なことも嫌な人で、相談相手として間違っていることはほとんどないから、今回の相談も多分聞いてくれると思った。


【また? スズメの悩み、聞いてて面白いからいいけど】

【面白いって……】

【だってどうせ惚気話でしょ? スズメも彼氏も、両方感性ぶっ壊れてるんだもん。SNSで聞くから良いけど、現実では絶対に遭遇したくない】

【ねえ、私に敬語使わせてくださいよ? お姉さん】

【命令もしてない。それで?】


 実のところは、私もこの人の性格は素晴らしく悪いと思っているけど。でも、SNSの相談相手としては、下手な気遣いをする優しい人よりはよっぽどいい。悪友という方が良いかもしれない、だから、ずっとこの人とは続いてる。

 それに。今回の相談に関しては、この人だからこそ答えがまともに帰ってくるんじゃないか、という淡い期待もあった。


【今日、彼氏に首絞めてもらったんですけど。なんか、初めて失神までいって】

【へえ、そうなんだ。彼氏って確か、割と普通の感覚の人だったよね?】


 何気なく返してくれるけど、他の人ならもう私達の中を疑う。DVを疑われたこともあったぐらいだ。


【ええ。いつも泣きながらやってくれて、凄い嬉しかったんですけど。……でも、いざ失神までいって、起きた時めちゃくちゃ泣かれたら、嬉しくはあったんですけど、流石になんか、胸が痛んで、申し訳ない気持ちになって】

【それを感じなきゃいけない所ははるか昔に過ぎてるけどね】

【うるさいな。わかってますよ、それくらい。だから相談しに来たんじゃないですか。やめた方が良いって思ったんです、もうこんな事。でも、同じくらい、今までに見ないくらい嬉しかった。どうしたらいいかわからない。何か教えてくれませんか?】


 メッセージを飛ばして左手で首筋をなぞる。まだ、さっきの跡が残っていた。

 ……私は、手よりもずっと頭に近くて、手よりもずっと敏感な場所で、あの人を感じたいだけなのに。あの握りしめる手を怖いものに、滴る涙を冷たいものに思えるようにならないといけないのだろうか?

 『社会規範よりも私の意思を選んでくれていて嬉しい』なんて馬鹿げた思考を今すぐ捨てて、あんなものは普通じゃなかったと言えるようにならないといけないのだろうか?

 たとえどんな形になろうとも、より強固な恋人との結びつきを欲しいと思うのは、悪いと言われないといけないのか。


【申し訳ないけど、それについてはあんまり私は言いたくないなあ】


 一体どんな言葉なら、私はそれに納得できるのだろう。そう思ってずっと待っていた吹き出しは、本当に大したことの無いものだった。


【なんでですか、いつもだったら何かしらは返してくれるのに】

【だってそれを言ったら、責任の所在私になるじゃん】


 ほんの少しだけ心がざらついて、荒っぽい口調で返信する。


【どういうことですか? そんなことしませんよ】

【いや、絶対にする。だって、『どうしたらいいかわからない』なんて。わからないわけないでしょ、馬鹿じゃないんだから。ただ、それを自分から何かしらで出力するのを避けてるだけで】


 でも、その次に送られてきた文章を見た時。

 私が最初に思ったことは、『何を言っているのか』ではなくて。……『どう返したらいいんだろうか』だった。


【そんなこと、】


 そこから先を思いつかなくて、そこまでで送信ボタンを押す。


【どうだろうね】


 すると、また。帰ってきたのは、全く調子の変わらない、でも鋭さの変わらない文章。


【じゃあ、もう一つ付け加えてあげようか。スズメはさ、愛されたかったんだよね?】

【それは、そうだけど、それが何】

【じゃあ、何で愛されてるのに満足しないの? 理解できない。自分の言ってる事の矛盾に、自分自身が気付けてないとでも思ってるの? これ以上言わないといけないなら、言ってあげるよ】

【いい、何も言わないで】


 私はその先を制そうとした。

 もしもこの人が目の前に居たのなら、私は今すぐにでもこの人の口を、どんな手を使ってでも封じていただろう。……でも。


【スズメが欲しいのは、愛じゃないんだよ。だって、スズメの言う恋愛の中に、彼氏はほとんど介入してない。スズメが欲しいと思ってた愛は、そんなに明確に愛されてても不安になるようなものだった?】


 インターネットでは、それはできなくて。

 頭に釘を打ち込まれたみたいな、嫌で、でも違いないその文字列、その響き。私は、ただ言葉を失うことしかできなかった。

 ……私が欲しかった愛は。私が、願っていた愛は。

 その人の事を考えるだけで、暫くの間は十分幸せになれて。隣に居て、ある程度通じ合ってる感覚があればそれはもう幸せな気持ちになって。

 そういう、今からはとても考えられないような、怖くなんてならないものだったのに。それが出来ないと思ったから、いつかにそれを諦めたんだ。

 それで、哀に恋愛をすり替えた。千夏に愛されればされるだけ、それ以上に渇きが生まれていくように。より強いものを求めるように。

 ……そして、そうしたのは間違いなく私。こんなこと、認めたくないに決まってるじゃないか。


【……まあ、色々いいながらもさ。お似合いの二人だとは思うけどね】

【思っても無いようなことをよく】

【あれ、逆鱗触れた感じ? これは本当に思ってるのになあ】

【最低、寝る。お礼は言っておくよ】

【寝るの? まあ止めるようなことも無いけどさ。でも、考えなよ】


 これ以上見まいとばかり思って、電源ボタンに手をかける。次の瞬間に続きのメッセージの通知で画面がもう一回明るくなって、私は焦って電源を消した。

 毛布の中に入り込んで、胎児のように丸くなる。でも、中に潜って忘れようとしても、記憶は脳を温めていくばかりで。むしろ、さっきから少し時間が経ったのに、尚更目が覚めたくらいだった。

 大嫌いだ、大嫌いだ、大嫌いだ。こんな酷いことばかり言うあの人も、こんなひどい目にばかり私に合わせる世界も。

 いつまで経っても、まるで変わろうとしない私も。

 何もかもが無くなればいいと思った。私ごと全てが塵になったら、どんなにこの規格外の激情から解放されるのかと思った。あの人の言ったことが、ほとんど全て正しいような。そんな自分自身が、一番いなくなるべきだと思った。

 それと。あの人の言ったことの中で、唯一本当に許せないことがあったんだ。


【普通、言われたところで首絞めるような人間が碌な人間なことなくない?】


 電源を消す直前、一瞬見えた通知の文字。私は、千夏の事は、本当に好きだったんだ。私の事を悪く言うのは良いけど、千夏の事まで悪く言ったのは。それだけは、本当に許せない。

 ……千夏は私とは違う。それなら、私といたら駄目なんだ。


「……謝らないと。それで、もう別れるんだ」


 もう、迷惑はかけられない。こんな我儘な私に、あの人の人生をこれ以上使わせるわけにはいかないんだから。







 どう言って別れたらいいのか、どんな顔して切り出せばいいのか。全く思いつかない間にも、いつもと変わらない速度で空を回る太陽。何もかも徒労で迎えた放課後を教えてくる時計が、今はただ憎らしかった。

 気の利いた言葉は浮かばなかった。でももう、これは学校で伝えなきゃいけない。いつもみたいに家にいってしまったら、私はまた甘えてしまうから。

 最後までこんなに、何もできなくてごめん。心の中でそう呟いて、私は自分の席を立つ。後ろから二番目ぐらいに座る千夏は、まだ、何も知らない。


「ん、どうしたの? 雲雀。珍しいね、学校で」


 教科書を鞄に直しながらも、僅かに顔をほころばせる千夏。それで、また胸に重しがかかる。どんな気持ちになっても悲しみ足りない。でも、それが私の、いや、大好きな千夏の為なんだ。


「……今までごめん。別れよう、私達」


 何の前振りも無しにそう言った。

 言った側から、もう涙が滲む。振った側から泣くなんて、どこも許された事じゃないのに。

 でも、私の利己的な哀のために、これ以上千夏を巻き込むわけにはいかないんだ。


 ……さようなら、大切な人。


「何?」


 涙が両目からあふれ出す。

 今までで一番、わかりやすい感情。私の劣等感も、行き過ぎた千夏への思慕も思ってない。ただ、それら全部は雫になって、教室の床に破片を散らしたから。

 千夏の目も憚らないままに、泣き止む気配も無い私。


「ねえ、説明して」





 プツン。





 ……でもそれは、本当に一瞬の衝撃で、掛け金をしたみたいにぴたりと止んだ。


「えっ」


 千夏が、今までに考えたことも無い握力で。今までに聞いたことも無い、迫力のある声で。私の右腕を掴んで、離さなかったから。

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