痛くて、苦しくて、良かった。
潮
①一ノ瀬 雲雀―1
「ねえ、やっぱりやめよう、顔色悪いよ」
「大丈夫、大丈夫」
辛うじて口の中にあった空気で、私はそれだけ口にする。視界がくすんで、意識はぼんやり。とうとううとうとし始めたところで、私の頬に、優しさと愛が一粒落ちて。まるで天にも昇ってるかのような気分で、私は美しい顔を見ていた。
私の首を締め上げる、不安そうな顔も美しいあなた。私の嫌いな私の家で、ただ一つ輝く大好きな泣き顔。もしもこのまま死ねたなら、私はどれだけ幸せだろう。
大好きな人の腕の中とっぷりと、懐かしい羊水の中に浸かって行くかのような気分で眠る。
だけど、少しいつもと様子が違う。深く沈んだ水の底、そこから帰って来られる感じがしない。千夏はもうとっくに、両手を首から離しているのに。
「青白い、もうこれ以上は」
「それはそうだよ。でも大、丈夫だから」
大丈夫かそれか、今更処置しても手遅れか。今回のは明らかに、いつもの苦しさとは違う。力加減の細かな違いか、吸っておいた空気がいつもより少なかったか。何でもいいけど、もう体に芯が残っていなくて。膝の隙間に頭を置いていて、首が曲がっているのも良くなかったのかも。
早く、空気を吸い込みやすい体制に直したりとかしないといけないのに。
体がもう、自分の意思では動かせない。
あ、これ駄目だ。
薄れゆく意識の中、そこまでいってようやく気付いた。
「大丈夫じゃない、手放すよ!?」
ああそうか、死ぬんだ私。
死ぬときは案外あっけないななんて、どこか他人事みたいに思った。
千夏の上に体を預ける。安心できるあなたの下でなら、こんな終わり方も悪くないのだろう。
暖かい体に包まれて、私の体は温もりを得る。
でも、どうしてか。……暖かい、だけで。
なんでだろう。ずっと、こうなった時には、私は幸せになれると思っていたのに。ただ闇雲に暖かいだけで、全然幸せになりやしない。満たされた気分にもなってくれない。まるで、こたつに足を焼かれてる時のよう。
まるで安心の押し売り、私の意思はどこかに置いて、雰囲気だけができていってるみたい。
「ねえ、なにか言ってよ、返事してよ。……え?」
私の涙を拭う両手が、さあっと血の気を引かせていって。それをきっかけに私の視界も幕引きのように、眼の奥まですっと真っ暗になって。
多分揺さぶられている、気がする。でも、それすらベビーベッドの上での出来事のようで。
『好きです』
最後に頭をよぎったのは校舎裏、告白の瞬間の鮮やかな記録。
暖かい、ただ幸せだった瞬間の残像。
……どこで、こうなっちゃったんだっけ。
甘いようで、それ以上に切ない思い出。そこに、どんどんと意識は沈んでいった。
*
「
なんだか異様に体が重い。どこかから、聞いたことのあるような声が、小さな声で聞こえてくる。それから耳が冴えるより前に、触覚が皮膚の温度を受け止めた。
「……え、ぁ、げ五、が。げほ、げほげほっ」
心配されているのかと思って、とりあえず声だけ出そうとしたつもりだった。なのに、そこに襲い掛かったのは、食道より上の場所全部の、何かを丸呑みしたかのような異物感。
私はそれで大きくえずいて、ありったけの吸った空気で咳き込む。
それを何度も繰り返すうちに、まず目が冴えて、意識がその次に戻ってきて。
「雲雀!? 大丈夫、寝てていいからまだ起き上がらないで」
最後のピースがはまるみたいに、千夏の顔が入ってきて。それで私は全部何もかも、さっきの事を思い出した。
ああ、そうだ。私は、危うく人を
「へ、はあ、はあ。千夏……?」
「うん、そう、千夏だよ、わかる?」
「わかる。えっと、ごめん。私」
千夏は久世千夏、高校二年生で私の彼氏、所属している部活は吹奏楽部と、名前だけ入ってる文芸部……。よかった、少なくとも千夏に関して言うなら、記憶喪失は起きていないみたい。
一体、私はなんてことを。気が動転してた、で済ませちゃいけない。
「自分の名前、言える?」
「え? うん、雲雀。一ノ瀬雲雀」
どれだけの心配をかけたのだろう。起きるまで何時間の間、たとえ脈があったとしても。それも自分で手をかけた人の安否なんて、それこそ死ぬほど気がかりだったはず。
「よかった……」
どうか、怒ってほしかった。どうして、どうしてこんなことをさせるんだって。そうでもないと、私の中に落としどころができなくて。
なのに。なのに千夏は胸をなでおろす暇も無く、堰を切ったかのように泣き出して。間もなく私の布団に顔を
「ちょっと」
びっくりして、反射的に起き上がる。くらりと目眩がしたけれど、そんなことも気にしていられない。
「……ごめんね、本当に」
泣いていて、聞こえてるかはわからないけど。
千夏の頭を抱えるように、軽く千夏に覆い被さって。そして、吐き出すようにそう言った。本当に、私の心の地の底から、私と千夏に誓ってそう思ったから。
理由は、大きく分けて二つ。一つは、千夏に対して想像もできないほどの不安を強いることになったから。
……もう一つは、こんな事態になってもなお。私の心の一部分には、目の前で号泣している千夏が。目の前で思いっきり泣きじゃくるあなたが、本当に私の事を愛してくれていることを教えてくれているようで、本当に嬉しい気持ちになっていたから。
「大好き、千夏、大好き。ごめんね」
どこも真っ暗な家の中に、ただ二つ。千夏の泣き声と、千夏を抱きしめる私の温度だけが、蛍光灯だけの部屋に広がっていく。
「大好き、大好き、大好き、大好き」
千夏が私の胸の中で泣いている間、私は絶やすことなくそう言い続けた。
そうしないと、千夏が暗い所に。この部屋の外から、真っ暗な外から広がってくる、今にもこの部屋を侵そうとしている冷たい闇の中に。どこまでも広がる空漠に、呑まれてしまいそうだったから。
「どこにもいかないで」
涙で毛布が使えなくなったっていい。ただ、
だって、愛は、脆すぎる。
*
「ねえ千夏。いつ聞こうかと思ってたんだけど。今ってもう真っ暗だし、日付も変わったじゃん」
所在なさげに床に座り込む千夏に、私は真夜中話しかける。ベッドが1人で使われるだけでこんなに不便になると思ってなかった、明日にでも何か簡便な椅子を買わないと。
「うん、どうかした?」
「帰らなくて大丈夫なの?」
黄色い花柄のカーテンを下から少し掬う。二色の世界に見えたのは、蛍火のように遠くで光る二十にも満たなそうな窓の光と、残りの暗闇をかろうじて照らす満月。
日付が変わってから、もう随分と時間が経っていて。高校生が一人で出歩がない方がいい時間も、もう遥か昔にすぎていた。
「いや、いつかは帰るよ。帰らないのは流石にね」
「それならいいけど」
「とはいえ、流石にもう帰った方がいいのかな。暫く母さん会社泊まりになるらしいから、その実帰らなかったところでだけど。……でも、うーん」
千夏がベッドに膝から乗って、外側からカーテンを開け、乗り出すように窓を覗く。
少し唸って小声で悩む千夏を見て、もう帰るには怖いんだと思った。
当たり前だ、夜は怖い。どの瞬間に後ろから口を塞がれ、車に連れ去られるかわからない、それが夜なんだから。
といっても、この家はどの部屋も散らかっていて。私の部屋以外はかなり寝させるにも無理があるし、第一明日も学校がある。
「んー、いや、でも、それは」
千夏は、まだ何かを真剣に悩んでいるみたいだった。明日の科目はなんだったっけ? ああ、そもそも千夏は教科書とか持って帰らないから、そこで困ることは別にないか。
……いや、それなら。それなら、いよいよ泊めた方がいいのか?
一部屋くらいどうにかできるだろうし、今から家に帰るなんて、それこそ一睡もできなくなるかもしれないし、それに、補導されるかも。
いやいや、違う。
そんなのよりも、千夏が帰る途中でだれか悪い奴に捕まってしまう、それだけは絶対に嫌だし。果てしなく不純異性交遊に違いないけど、もうそれしか残っていないのかも?
「大丈夫? そんなに帰るの不安だったら、……一部屋くらい整えるから、泊まる、とかも」
軽く右手で頬を掻いて、千夏の方を向いて言った。さっきまであんなに見ていた千夏の目が、なぜかこそばゆくて直視できない。
「え!? どうしていきなりそんな」
窓から、言葉を受けて振り向く千夏。その瞬間に発した声の調子で、あちゃあ、外れてたかと思う。
「帰るのが不安で悩んでたとかじゃないの?」
「違う違う。それ怖がるんだったらもっと早くに帰ってるよ」
「そうなの、じゃあ他に何かあった?」
「いや、ちょっと待ってね、これは言わないとまずいんだけど、言っても別に良いとは限らないというか」
のらりくらりと言葉を交わして、千夏はまた私に背を向ける。その一瞬に千夏の顔が赤くなっていっていたことを、私は見逃さなかった。
「……何か隠してる?」
「待って違う、隠してるんじゃなくて。あーいや、でも、そうか」
「どう」
「隠してるねえ、確かに」
「言って?」
何かを疑うわけじゃ無いけど、隠し事があるのは嫌で。少し詰め寄って聞き出そうとしたら、千夏は歯切れの悪いことを言った。
「知らないほうが良いこともあるよ、雲雀」
「いいから、気にしない気にしない。何、知られたくないこと?」
「……わかったよ。あの、千夏が起きる前の事なんだけどさ」
「こっち向いて言って」
次に何が飛んでくるのかと、私は身構えて次の言葉を待つ。
「全然呼んでも反応無くて。介抱した後に、だけどね? 何したらいいか分からなくて、少し無茶をしないといけなかったと言うか、その」
「うん」
そこまで言うと千夏はまた口を紡ぎ、左の頬を掻く。
そして、今日一番顔を赤くして。
千夏は一瞬だけ目を合わし、すぐに目を逸らして言った。
「人工呼吸したんだ」
「ああ、人工呼吸」
小さい粒のような声に、私は一回鸚鵡返し。
でも、そこから数秒したぐらいで。千夏の言わんとしたことが、遅れて私に入ってきた。
「え、それってもしかして」
千夏の
「ごめん」
「いや、そういうことじゃなくて」
私は今まで、誰ともキスをしたことは無くて。それはもちろん千夏にも同じだったんだ。
つまり。ファーストキスが、知らない所で終わってしまった、それが驚きだったことなんかは、今更言うまでもない。
でも、私は千夏とキスをした。それも、多分白雪姫の物語の様に必然で、必要不可欠な段取りで。それが、二人の結びつきを強めたみたいで、ほんの少し嬉しくないことも無かった。そう思わないとあまりに残念過ぎた、というのもあるのかもしれない。
「えっと、千夏?」
「うん」
「いや、怒ってない怒ってない本当に、萎縮しないでよ」
「いや、それはわかるんだけどさ、雲雀は怒らないだろうとも。それはそれとしてこう、落としどころが無いというか」
「なるほどね。まあ、悩んでくれてるならもうそれでいいけど」
私が寝ていた以上仕方のないことだけど、やっぱり、二人の温度はどこか違う。
私はやばいことになったと思う反面、まだそれでもどこか非現実的で。
「そっか、ファーストキスがかあ」
「ちょっと、というかかなり焦ってて……」
「いいよ、それのおかげで助かったんだし」
まあでも、実際私から言い出すのも躊躇ってて。いいタイミングがあったら言おう、と思ってもう数か月が経っていたから、もう時期的にも仕方の無いことだったのだろう。
散々首を絞めさせて、それでいてキスもまだって言うのは変な話だし、丁度良かったと思うことにする。
「そこで千夏が思い切ってくれる人だってわかったからよかった、悔やむなんてとんでもない。……ごめんね? 今更だけど、キスすら前なのに何回も首絞めさせて。その、私は嬉しいけど、やっぱり千夏は毎回怖かったのかな、とかさ。さっきの千夏見てたらいきなり思えてきてて、私も今、落とし所がなくて」
「ああ、うん。じゃあ、一旦はおあいこにしよう、話が詰まっちゃうだろうし。……確かに毎回怖かったよ?」
「クラスの隅にいるような奴が、運動部にいると思う?」
「思わない」
「でしょ、体つきはもう仕方がないよ」
起きてからずっと沈んでいた空気を、自虐で和ませようとする。それを上手に交わしてから、千夏はまた神妙な顔で言った。
「……あのさ。これ聞いていいのかわからないけど、そろそろ聞くぐらいはいいと思うんだ。いい?」
「何を」
「なんで、そんなに僕に首を絞められたいの?」
右目だけを睨むように細め、私の顔を見る千夏。
ドクンと大きく心臓が鳴る。ついにこの質問が、と思った。
……むしろ、頼んだだけで今までよく、こんな異常性癖に付き合ってくれたという方が正しいのだろう。でも、これを言ってしまうのは怖い。
「本当に嫌ならいいんだけど、やっぱり気になるというか。嫌ならいいけど、言わなくても」
「いや、えっと、いいよ言う。千夏の手、暖かいから。それを一番近くで感じながら、意識が遠くなっていくのが好きなんだ」
引かれる、というか引かれて普通だと思いながら話す。わかりやすく嫌な顔をしたりはしなかったけど、それでも納得した感じではなかった。
間違ってはいない。でも、少しだけ隠してものを言ったから、違和感があったのかもしれない。
「んー、まだわからない」
「何が?」
下を向いて考える千夏に、私は少しだけ焦って。
「手と手じゃ駄目?」
「それだと加害性が……あ」
「加害性?」
思わず、言わないはずだった口を滑らせた。
加害性、これは、一番根っこの部分。それで、理由の中でも本当に利己的で、どうしようもない部分だから。なるべく伏せたかったのに。
手と手は嬉しい、でも首の代替にはなり得ない。その気持ちだけが先行して、ついにこれを言ってしまった。
「今のは聞かなかったことにできない?」
「え、流石に無しだよ」
「だよね。えっと、私。……千夏にというか、大好きな人限定だけど。……痛いことされると嬉しいんだ」
「なんで」
「だって、だってだよ? 恋人同士が進展したら、確かにキスはするかもしれない。でもさ、それってなんか、当たり前というか……」
口角だけを吊り上げた、不自然な笑みが自然にできる。大丈夫かな。これ以上は、本当に不味いんじゃないか。その言葉だけが胸に一杯溜まっていって、途端に緊張で体が止まる。
「当たり前? いや、まあ、もしかしたらそうなのかもだけど」
「でもさ、普通こんなことしないじゃん? 首絞めなんて」
「うん」
「だから、千夏が、本当に私の事を考えてくれてるんだなあって。本当にやっていいのかとか考えるけど、最後には私の頼んだとおりにしてくれて。泣きながら首に力掛けられてるときとか、本当にそう思うの。……変態だ? 私」
そこまで言った所で、部屋が途端に狭く感じた。
瞬く間に私の体が真っ赤に、呼吸も荒くなり始めていたし、周りが見えてない内に、心臓の鼓動もさらに早くなっていて。
「なるほど、ねえ。確かに、ちょっと変態かも」
「ちょっと待って、落ち着くから。……引いた? 私の事」
「引いたというか、呑まれかけたけど。大丈夫だよ、全然嫌いになったりしてない」
「本当に?」
「本当、本当。……僕としては、もっと綺麗な方法で伝えられるようにしたいけれど。それは僕の仕事だよなあ」
「いや、別に私の事だし、千夏が変わらなきゃいけない何てこと。え、いいの? こんな気持ち悪いこと、いきなり言われて」
「一応いいよ。とはいえ毎回僕に見えるのは、顔色が悪くなっていく雲雀だから。そういう所で何も思わないことは無いけど。でも、それは僕がちゃんと色々伝えられてないのにも少し責任があるし、彼氏の僕がなんとかしないと」
「いや、千夏は何も、私の問題だから」
「嫌だ。やらされてるし、聞かされたんだから。考えさせてもらわないと、むしろ僕の方が嫌。雲雀も頼ってよ、付き合ってるんじゃないの?」
「……それなら、まあ」
どんなやりにくい空気になるのか、と思って私は言葉を開いたけど。でも、千夏は全然気にしたようでは無かった。むしろ、最後に見せた千夏の顔は。どこか安堵とか、嬉しさを孕んでいたのかと言うほどに、さっきまでと違う崩れた顔。
「じゃあまあ、丁度いいから今日は帰るよ」
そして、千夏は立ち上がって。……そして、私の右手に右手を重ねて。
「ありがとう、教えてくれて。じゃあ明日」
そのまま鞄を右手に下げて、私の部屋のドアを閉めた。
「嘘」
千夏がいって少ししても、まだ心臓が鳴りやまない。それは、今までに感じたことがない、でもとても単純な理由で。
手と手が重なっただけなのに、その温度がいつまでも忘れられなかったからだった。
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