第8話 催眠効果
自分がいかに催眠術には掛からない人間だと意識していたとしても、意外とそういう人間の方が掛かってしまうものなのかも知れない。そもそも、催眠術を信じていない人や、自分が掛からないと思っている人は催眠術が行われる会場を訪れたりはしない。あくまでも催眠術というのは、治療であり、見世物ではないと思っているからだ。
確かに、
「怖いもの見たさ」
という感覚はあるだろう。
しかし、それこそその言葉が表しているように、催眠術が、
「怖い」
のだ。
催眠術にかかることが怖いのか、まったく意識がない間に何をされるか分からないというのが怖いのか。だから、その恐怖を少しでも和らげるという意味で、衆人環視の元であれば、少なくとも、法に触れるようなことであったり、自分にとって不利になるようなことはないだろうという考えではないだろうか。
魔術やマジックにしてもそうである。時々、観客が演台から促されて、舞台に上がっていくことがあり、マジックの、
「お手伝い」
をさせられることがあるが、こちらが危険になることはない。自分が気付かない間にことは済んでいることが多く、何があったのか分からないが、自分が拍手喝さいを浴びてりするのだ。
マジックにおいても、一種の催眠術にかかっているのかも知れない。その理由として考えられるのは、
「舞台に上がって意識があるままでは、危険が目の前にあった時、反射的に避けてしまったりして、マジックを掛ける人間の想定外の講堂をすることで、被験者を危険に晒してしまうことになる」
という理由と、もう一つは、
「裏で意識があると、マジックの種を見られてしまうことになるので、それは裂けなければいけない」
という理由が考えられるだろう。
どちらもマジシャンとしては、致命的で、どちらも解消するには、催眠を掛けてしまって、意識のない状態にすればいい。
「マジックの被験者なのだから、途中意識がなくても、それは無理もないことだ」
という考えさえ植え付けておけば、被験者の方も安心であろう。
マジックにおいて、この感覚はまるで昔からの暗黙の了解とされてきているようで、催眠にかかっている間に、被験者はその思いを植え付けられる効果もあるのだ。
つまり、マジシャンが被験者に対して、催眠を掛ける場合、実際に掛ける催眠の中にはいくつか複数の効果を生むようになっている。その効果は連鎖するものであり。一種のメカニズムのようになっているのかも知れないと思うのだった。
今、被験者ではない自分が、演台に座っている被験者の女の子を見ているうちに感じたことである。そしてもう一つ、
「私も催眠にかかっているんだわ」
という思いがあったのだ。
明らかに演台の女の子は、催眠術にかかっている。そのかかっている女の子を見ていると、まるで自分の過去と照らし合わせている自分を感じた。
その時、なぜか、催眠術というものがどういうものなのか、考えている自分がいることを感じたのだ。
普段、冷静になっている時に考える催眠術というものがどういうものかという発想とはまったく違った発想かというと、そうでもない。ただ、人が掛かっている催眠を目の前で見せつけられたことで、自分もその催眠にかかっていると思い。
「催眠というものは、伝染するものなのかしら?」
と思わせた。
伝染という言い方と、連鎖という言い方があると思うが、どちらがふさわしいのだろうか?
伝染というと、まるで病気のように、人から移ったという意識が本人にあるものであり、逆に連鎖というと、本人に意識はないが、まわりから見ると、被験者の影響を受けていると感じさせられるものではないだろうか。
今日の場合の、この催眠というのが、伝染なのか連鎖なのかというと、つかさは、
「伝染だ」
と思った。
なぜなら、自覚があるからである。
しかし、まわりにもつかさが、演台の女ん子の影響を受けていると思えば、それは連鎖のように見えているわけであり、
「この催眠は連鎖の影響もあるのではないか?」
と考えたりもしたのだが、その理由は、自分が演台の女の子の影響を受けて催眠にかかっていると思って、これは無意識にまわりを見た時、隣の少し離れた一人の女性も、催眠にかかっている様子が見えたからだった。
腰から上の身体をぐるぐる回すようにして、身体全体で何かを表現しているかのようだった。
以前、連れていかれた宗教団体の教室のようなところで似たような光景を見たのを思い出したが、その時はまだ子供だったので、ただ怖かったという印象だった。
その時は、まだ小学生だったつかさが、母親の友達から紹介されたということで、つかさを連れて恐る恐るであるが、覗きに行った宗教団体の教室で、同じように、教祖と思しき人がいる演台を見ながら身体を回していたのだ。
それを見た時、
「こんなところにいちゃあいけない」
と言って、母親はそそくさとつかさを連れて、その場所を去ったのだ。
つかさには何が起こったのか分からなかったが、その場を立ち去ることは、
「宗教団体と催眠術の組み合わせは恐ろしいことになるんだ」
という意識を植え付けたのかも知れない。
この光景はおろか、小学生の頃に母親に連れられて、宗教団体に参加したことがあるなど、忘れていた。故意に忘れていたわけで、思い出したくもない過去だったのだ。
だから、このまま思い出すことはないと無意識に感じていたはずなのに、ここで思い出してしまうというのは、つかさにとってこの場所は因縁の場所であり、本来なら、このまま何も考えずに飛び出してしまいたい衝動に駆られていた。
だが、隣には弥生もいることだし、いきなり飛び出してしまうのはさすがにまずいだろうと思った。
つかさは、一般論として宗教団体を否定する気はなかったが、自分のこととなると、頑なに拒否したいと思っている。それなのに、なぜ、
「精神分析研究会」
などという怪しげな団体を意識したというのだろう。
「ここは宗教団体などでは決してないのだ」
という意識があるからだろうか。
あくまでも、団体のやっていることは、精神分析の研究であり、心理学や精神医学の見地から、今回の催眠術を見ているつもりだった。
だが、実際に催眠に掛かってしまうと、催眠にかかっていることを悪いことだとは思わず、何よりも、
「催眠にかかっている間は意識がないもののはずだ」
と思っていたことと、違っていることに気が付いた。
だが、今回もそうなのだが、今まで催眠術に他の人が掛かっているのを見た時、
「一体、どんな状態なんだろう?」
という目で見ていると、その様子は、本当に無意識にしか思えない。
自分だけが他の人と違っているように感じるのは、それだけ無意識に感じるからではないだろうか。
つまり、催眠術はかかっている本人と、まわりから見ている状況で、別人を浮かび上がわせているようで、
「ジキルとハイド」
を感じさせた。
それとも二重人格な様子が、自分の意識という壁の内と外で違って見え、それが正反対の状態であれば、
「ジキルとハイド」
という発想になるのだろう。
催眠術を研究していた人も、催眠術を掛けることによって、何かの効果が得られると感じているから催眠術が発展していったのであって、決して見世物でも何でもないと思いたい。
今日のこのイベントだって、名目は、
「ショー」
ではなく、
「実験」
ということになっているではないか。
確かに実験という言葉にも違和感があるかも知れないが、
「本当に実験という言葉が悪いことなのだろうか?」
と考えるが、果たしてどうなのだろう?
「麻酔をかけるのと、催眠とはどう違うのか?」
という話もあるが、
「麻酔は、完全に意識を失わせ、その間に手術を行って、病気を治すという目的がある。催眠というのは、精神的な病気を治すのに、感情をマヒさせて、その間に精神的な病を治す」
というものではないだろうか、
つまり、麻酔というのは、感覚をマヒさせるものであって。催眠というのは、感情をマヒさせるものではないかという考えである。
麻酔の場合は効力が落ちてくると、自然と引いてくるものである。クスリとして投与するのだから、人間が麻酔を解くということはできない。
しかし、催眠の場合は人間がその人に意識して描けるもので、本来ならその時に治療も一緒に行うべきなのだろうが、なかなかそこまで進歩していないというのが現状なのかも知れない。
それを思うと。今の催眠療法は、まだまだなのかも知れない。ずっと昔から研究され続けて、いまだに実験と称しているくらいなので、それも仕方のないことなのかも知れないが、それだけ人間の中に潜在している、精神は神経というものは同じ人間が解明しようとすること自体無理のあることであり、かなりハードルが高いということなのだろう。
麻酔の場合は、医学の進歩とともに発達してきて。ほとんどの人が麻酔に対して不安を感じているわけではない。
手術を受ける前に、いちいち、
「麻酔から覚めなかったら、どうしよう?」
などと考える人はほとんどいないに違いないからだ。
催眠術の場合は、掛けられるのを極端に嫌う人は少なくない。
それこそ、
「元に戻らなかったらどうしよう」
と思うからに違いない。
しかも、催眠術には、麻酔を使う医者のような、れっきとした免許を持っていた李、絶対的な信用がある人ではなく、テレビなど人気の人であっても、誰がその安全性を証明してくれるというのだろうか。
それを思うと、催眠術というものが胡散臭いものだと考えてしまうのは、誰にでもあることなのではないだろうか。
催眠術にかかるというのは、ゆうきがいることだ。演台にいる女の子がどういう経緯で今日の、
「実験台」
になっているのか分からない。
ひょっとすると、催眠術を掛けている人の娘かも知れない。
「他人を巻き込むよりも自分の娘を」
と考えているのであれば、それも潔いと言えるかも知れないが、催眠に掛けられる子供は溜まったものではない。
それこそ、親からずっと洗脳されてきているのかも知れないし、催眠を行うにもその前に洗脳しておく必要があるのだとすれば。それは何かが違う気がする。本末転倒ではないかと言ってもいいだろう。
催眠術の効果は、この会場では抜群の効果を生んでいるように見えた。
それは、演台で催眠を掛けている人の力なのか、それとも、媒体になっている演台に座っている女の子の影響なのか。それとも、ここにきている人は、皆催眠に掛かりやすいということなのか、ハッキリと分かっているわけではないが。演台の女の子の力だけは認めないわけにはいかないと思ったつかさだった。
催眠術というものが今までの自分の中でどのように影響していたのか、この時に思い知らされるような気がした。
――過去にも催眠術にかかったことがあったのかも知れない――
と感じたのは、まわりと自分の催眠のかかり方に違いを見たからだった。
催眠にかかってしまうと、自分の過去と照らし合わせようとする意識が生まれてくるというのが、今回の催眠で感じたことだった。今は
「催眠から覚めなかったら、どうしよう?」
という意識はなかったのだ。
催眠術にかかってしまうと、洗脳されたイメージも強くなって、本当に元に戻るのかということを疑問視するのも無理のないことであった。しかも、催眠術は麻酔のように、時間が来たら、自然と切れてはくれない。ひょっとすると。時限装置のような催眠もあるのかも知れないが、考えにくいことだった。
催眠や麻酔と違って、睡眠というのも、毎日誰も気にせずに行っていることである。時間帯はバラバラかも知れないが、必ず普通の人は一日に一回は睡眠という時間を摂る。
睡眠は、摂らなければ命にもかかわることなので、無意識に摂っていると言ってもいい、食事や性欲も、摂らなければ生きていくことができないものの一種であろうが、無意識に行うことではない。睡眠の場合は、眠くなってしまうと、そのまま無意識にでも睡魔に陥る。無意識に陥ってしまうから、「睡魔」というのかも知れない。
食事を摂るのは、「食欲」、性を欲するのは、読んで字のごとしで、「性欲」というが、睡眠は欲という言葉で言い表すことではない。きっと潜在しているものの中でも一番密接にかかわっているので、欲という言葉が介在する余地すらないのだろう。
ただ、睡眠の場合は、
「目が覚めなかったら、どうしよう」
と感じることはほとんどない。
確かに、眠れなくて悩んでいる時、睡眠薬を飲んででも寝ようとするのだが、その時はクスリの効果があることから、目が覚めない場合を想像して、恐怖を感じることもあるだろう。
躁鬱状態に陥った時など、特に鬱状態の時は、すべてを悪い方に考えるので、逆に目の前のことに集中してしまう感覚がある。だから、睡眠薬に頼るのも仕方がないと思うのだし、睡魔が襲ってくると、今度はその時になって、
「目が覚めなければどうしよう」
という感覚に襲われるのだ。
鬱状態というと、
「朝って、本当に来るんだろうか?」
と思うこともある。
これは、目が覚めなければどうしようという感覚に似ているものであって、目が覚めるかどうかが、自分だけの問題だが、朝が来なかったら問題はすべてに波及してしまい、本来なら、目が覚めないどころの話ではなくなるだろう。
だが、朝が来ないということを意識してしまうと、今度は気が楽になって、目が覚めることを意識しなくなるという逆転の発想が浮かんできたりした。
これは、三すくみの関係にも似ている。
「ヘビがカエルを呑み、カエルはナメクジを飲み込む。そして、ナメクジはヘビを解かしてしまう」
というもので、これは考えてみると、自然の摂理に適っているとも言える。
つまりは、
「三すくみが自然界の環境を司っている」
と言っても過言ではないだろう。
だから、精神分析や倫理、さらには人間の本性の中で、何か三すくみが存在しているのかも知れない。
それを知らず知らずのうちに感じていることで、何気なく生活していることも、無意識だと思っているのだとすると、
「目が覚めなかったらどうしよう?」
という感覚が、睡眠によるものであったり、催眠術によるものであったり、クスリによるものであったとしても、何があっても、目を覚ますという感覚を持っているはずである。
となると、目が覚めなかった場合は、別の理由から来るモノだと言えるだろう。
病気であったり、人から殺されるなどの、自分の意志とは直接関係のないことで死んでしまう場合である。
人によっては、
「睡眠と、催眠の区別がつかない」
と思っている人もいるだろう。
それは、その人が普段から睡眠と催眠を考えているからなのかも知れない。考えれば考えるほど、その違いが分からなくなり、混乱してくることを示している。
ただ、一つ言えることは、
「睡眠は、一人にしか効力はないが、催眠というのは集団で掛けることができるものだ」
と言えるのではないだろうか。
「集団催眠」
という言葉があるが、これは言い換えれば、
「洗脳や、マインドコントロール」
と言えるものであろう。
他人から掛けられたものであり、自らが望んだものを睡眠というのに対し、自分の潜在しているものを引き出してくれる力が催眠なのではないだろうか。
今目の前で繰り広げられている、
「カタルシス効果の実験」
もそうなのではないか。
しかし、カタルシス効果というのは、不満などのネガティブなものを口に出したりして、発散させることで、ストレスを解消させるものではなかったか、今ここで行われている儀式は、完全に静寂の中で行われていて、ストレスというものを発散させている様子は見られないようだった。
「ひょっとすると、これが今回の実験なのかも知れないな」
と感じた。
声を出さずに静寂で行うことで、催眠効果を高め、それを中心に集団催眠に掛けようという考えがあるとすれば、恐ろしいという想像ができていた。
もちろん、声を出すことがストレス解消には一番いいことなのだろうが、それを敢えて抑え込む形にしたことで、意識が目の前だけではなく、室内というエリア全体に影響する形になると考えると、これは単純な、
「カタルシス効果」
と言う名の実験ではなく、
「集団催眠への実験」
なのかも知れない。
集団で催眠を掛けてどうしようというのか?
そのあたりまではまったく想像はつかないのだが、集団催眠だということになると、話の辻褄が合っているような気がしてくるのだった。
つかさの横で弥生も、何かの催眠にかかっているように見えたが、どこか抗っている様子もあった。
「弥生も、催眠に掛からないように抗っているのかしら?」
とつかさは感じていたが、横顔を見る限り、顔色はあまりよくなく、顔は赤いのだが、紅潮しているというよりも、病的という雰囲気だった。
だが、弥生の表情は、何かを抗っているような表情なので、明らかにつかさとは違う。
「ということは、同じ催眠であっても、その効果が違うということなのか?」
と考えると、その人一人に掛ける催眠ではないのだから、何か一つに特化した発想からの催眠ではない。それぞれ、状況の違う状態で催眠を掛けることになるということであれば、催眠はもっと深いところで掛けることになるだろう。
つまりは、一掴み深いところの感情を掘り起こすということになるのであって、感情の根底は、皆同じものだと言えるのではないだろうか。
その感覚があるからこそ、集団催眠が可能だと考えられるのであって、問題は堀個々した状態が、抑えの利かないモノであった場合、どうすればいいかというところであろう。
そのあたりの検証も臨床試験が終わっていないと、本番ではできないことである。
「一体、どこで誰を相手に実験を行ったんだろう?」
ということが問題になるのだが、危険性のない連中でなければいけないのではないか。
「まさか……」
つかさは。今自分の考えた発想を打ち消そうとしたが、できなかった。
この発想は、してはならないものであり、発想自体が罪になりそうな気がしたのだ。
最近世間では、コンプライアンスや家庭内暴力、あるいは苛めなどというワードが慣れっこになってしまっている。昭和のある時期から言われ出したことだが、それまでは同和問題による差別や、肉体的な欠陥による差別用語を放送禁止用語として言わなくなってきた。
そのこともあって、実際に精神的な病気や疾患がある人が表に出てくることはなくなり、ある意味隔離状態にされることで、誰も意識しなくなっていた。
まさか、そんな人たちが急にいなくなるわけもなく。ただ、世間の注目から漏れてしまっただけだった。
「そんな彼らは今どこで何をしているのだろう?」
と思うと、表に出てこないのだから、裏に潜んでいる。そのウラというのはどこにあるというのか?
そんなことを考えていると。
「ウラというのは、病院などに隔離されている」
と言えるのではないだろうか。
「昔は精神病院などと言っていたけど、言わなくなったのは、名前を変えて存在しているのではないか?
その場所は、近くて遠い。見えているようで気付かない。そんな場所ではないかと思えてきた。
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