第6話 想像力
やはり、ここにも想像力というものが絡んでくる。それは、マンガと小説の関係にも似ているのかも知れない。
「映像というのは、小説と違って、想像を形にしたものであるということから、『想像していたものと違った』と見た人間に思わせれば、よほどイメージが違ったうえでも素晴らしいと相手に思わせなければ、愚作になってしまう。何しろ、想像というものが、読書における最大の『結果』なのだから」
ということなのではないだろうか。
マンガも同じことで、結局は想像力の及ぶところが最初からないのである。小説を読んでいて満足していた人間が、マンガに走れるわけはないのだ。マンガの方が面白いと思っている人間は、自分の想像力にどこかしかの不満や自信のなさを持っていることによって、想像力の働かない、いわゆる安易に内容が理解できるマンガを簡単に受け入れられるのだろう。
つかさはそんな風に解釈していた。
かと言って、マンガを見ないわけではない。ドラマの見ないわけではない。小説と比較すると、その劣等性は否定できないが、なぜか見てしまう。どこか自分の想像力に不満でも持っているということであろうか?
そんなっことを考えていると、今まで信じられないと思っていたイリュージョンの世界を、
「信用してもいいのではないか?」
と思うようになっていた。
それが外面的なところでは、ホラーや超常現象の世界であり、内面的なところとして、催眠術や心理学の世界だと思っている。
だから、昔の探偵小説を読んでいて、心理学の世界に触れているような変格探偵小説に惹かれた理由だと言ってもいいだろう。
読む小説も、現代のミステリーや、少し前までの推理小説と呼ばれるものを読もうとは思わない。かといって、今のホラーやSF、オカルトにしてもそうである。
どうしても現代の小説は、見た目の印象を想像させるような形の小説が多いように思えた。数ある中の一部しか知らないので、そう思うのかも知れないが、最近の小説は、
「ライトノベル」
などというものが流行っていて。ジャンルという分類に属するものではなく、大分類の中に、
「ライトノベル」
という新種のものが存在している。
つまり、
「ライトノベルという大分類の中に、ミステリーであったり、恋愛小説であったり、SFなどと言ったジャンルが揃っている」
と言えるであろう。
ライトノベルとはどういうものなのかという決定的な定義は曖昧な気がしているが、基本的なところで、ケイタイやスマホなどで小説を書くという文化が流行り出した昨今、まるでブログで日記を書くような感覚で書かれ始めたのがライトノベルというジャンルに発展したのだろう。
略称「ラノベ」は、短い雲霄で、やたらに無駄な改行があり、マンガや挿絵を多用していて。キャラクター中心の作品が多く。そしてラノベの最大にして共通の定義としていえることとすれば、
「読者ターゲットが、若年層である」
ということであろうか。
つかさのイメージとしては、
「限りなくマンガに近い小説」
という意識であり、小説とマンガの間だとすれば、マンガに限りなく違いが、体裁だけは小説の形をとっているということになるのであろう。
そういう意味で、マンガかもしやすく、映像化にもなりやすいのかも知れない。あまりにも漠然とした若年層の感性に寄り添っているため、ある意味想像力がいるのかも知れない。
だが、同じ客年艘でありながら、そんな感性についていけない。いや、ついていく気にもならないつかさはラノベを毛嫌いしていた。そのため、ミステリーが探偵小説と呼ばれていた時代の作品を読み、そこに心理学が絡んでいることを見つけると、心理学に興味を持ってきたという次第でもあった。
少なからずの同年代を含めた若年層に、不満や嫌悪を感じているというのが、本音なのだろう。
らいとのべるという小説のジャンルの中に、BLなどというジャンルがあるという。実際に読んだこともなく、マンガにもあるというからビックリだ。
BLというのは、いわゆるボーイズラブ。ホモ、ゲイなどの世界である。今までの小説の世界では、変格小説の中でもあまり扱われていなかったジャンルで、変格の中でのりょき的な性的行為というと、SMであったり、羞恥プレイなどはそれにあたったのだろうが、それも時代というものが背景にあって、描かれた世界である。
当然、社会問題にもなったであろうし、検閲も難しかったであろうが、今のように比較的自由ではあるが、社会通俗的に分かりやすい結界があるのではないかと思える時代に、ジャンルとしてBLなるものが存在しているということは、これを一つの文化として見ている証拠であろう。
昔から、確かに男色、衆道などと言われていた時代、戦国時代などの戦が中心であった時代などのような、今の我々から想像もできない時代であれば、致し方がないかと思うが、そういう意味で、同じ時代に生きていても、年代でまったく違う時代を生きているかのような若者と、昭和からの人間とでは大きな違いがあるだろう。
だが、若い人の中にも、今の若者とは一線を画した考えを持っている人もいて。令和よりも昭和に近い考えの人だっているに違いない。つかさもその一人で、今の小説やマンガを読むよりも、昭和の小説を読む方が好きだという人だっているのだ。
つかさが、まず嫌だと思ったのは、マンガに描かれたキャラクターだった。自分が好きになれないキャラクターが多くいて、さらに、見ていると、皆同じ顔に見えてくるから不思議だった。
一人の作者が、違うマンガで同じ顔を描いているというのは、その作家の個性なので、それは当然認められるべきものだと思うのだが、違う作家なのに、なぜか同じ顔に見えてくるのは、なぜなのかよくわからない。
マンガを嫌いになったのは、その頃からなのかも知れない。
キャラクターの顔が似ているだけではなく、劇画調であれば、その表情の作り方の技法もソックリに見える。だから、キャラクターが酷似しているように見えるのかも知れないと思った。
どうしても、似ている人がいると、
「誰かの絵をマネて描いている」
と思えてならないのだ。
もちろん、最初にマンガを描きたいと思った時、描けるようになるまでの練習として、誰かの絵をマネてみるというやり方をする人は少なくないだろう。だが、それはあくまでも、
「他人の画法」
であり、自分のものではない。
本当にそのことを分かって描いているのだろうか?
そのことを分かって描いているとすれば、つかさには、それは確信犯にしか見えなくて、言い訳の利かないほどの罪だと思っている。
では気付かずに描いている人はどうなのだろう?
つかさの考えとしては、罪とまでは言わないが、マンガ家としては失格なのではないかと思っている。それはつまり、プライドの欠片もない人間のやることで、少しでもプライドがあれば、自分の絵が誰かの、
「パクリ」
であるということに気づくはずである。
それに気づかないということは、プロとしての自覚も、プライドもないのと同じで、見るのもおぞましいと考えていた。
確かにプロになると、雑誌社の編集部の意向などが大きく左右する世界なので、まず何と言っても、
「売れる作品」
の製作が急務なのである。
個人が趣味で描いているのであれば、売れる売れないは関係ない。何しろ売るための機会ではないからだ。しかし、プロは、
「売れてなんぼ」
であり、
売れるから、出版社も原稿の依頼にくるのである。
しかも、その依頼を断ることはできない。
「できないということであれば、他の作家に依頼する」
と言われてしまえば、終わりだからだ。
作家とすれば、維持やプライドを押し通したつもりなのだろうが、出版社にはそんなことは関係ない。やつらの目的は売れるものを売って、自分の成績にする。売れなければ自分の責任問題という世界に生きているのだ。作家が誰であっても、やつらにとっては、道具でしかない。
あくまでも、外部から見た勝手な想像でしかないのだが、道具でしかないマンガ家は、プロであることで、
「自分の描きたいものが描けているか?」
という気持ちと、
「プロである以上、売れる作品を描き続けなければいけない」
というジレンマに悩んでいるかも知れない。
その気持ちも痛いほど分かる気がしている。しかし、実際に自分たちは世に出てきた作品がどのような過程やドラマによって作成されたものなのか、知る由もない。もちろん、簡単に出てきたものではないと想像はつくが。やはり、売れると言われるものばかりが世に出回るのは、どこか抵抗がある。
まるで出版界によって作られたブームに感じるからだ。
世間のブームがマンガに影響するものもあれば、マンガがブームの火付け役になることもある。だが、つかさは、そのどちらも嫌いだった。
マンガというものが世間を動かすのであれば、世間は二次元によって動かされていることになる。マンガが映像化されて、アニメとして放送されるだけではなく、最近では、ドラマの原作が、マンガだったりすることも多い。そういう意味では、
「映像化されやすいマンガ」
というものの、需要も大きいのかも知れない。
そう考えてくると、小説がドラマの原作だった時代から比べて。その領域にマンガが入り込んできたということは、やはり、マンガが小説に近づいてきたということになるのだろうか?
それとも、小説の最大の武器である想像力が人々の中で鈍ってきたということであろうか。
とにかく、小説とマンガというものの差が縮まってきたことで、今までは小説は小説の楽しみ方があったと思っていた人がマンガに走ってしまうというのもありえないことではない。
なぜなら、マンガはビジュアルに訴えられ、それがそのままアニメになったり、ドラマになったりするのだ。それだけ昔に比べると、マンガのジャンルも多様化してきたと言えるのではないだろうか。昭和の一時代であれば、ギャグマンんが、SF、ロボットマンガ、あるいは、スポーツ根性もの、などが多く、アニメにはなっても、実写化は難しいものがあったように思えた。
実写化をしても、どうしてもアニメのようにはならず。演技をする役者も、ドラマを作るスタッフも原作がマンガであれば、きっと難しい部分が多かったのだろう。それが今ではマンガ自体が映像化に特化したかのような作品も多く。恋愛もの、サスペンスものと、同じマンガでも読者層が別れていたものが多かったことだろう。
そう、マンガの急激な発展には、
「読者層の変化」
というのもあるかも知れない。
小説にしてもそうであるが、ある一定のジャンルを好きで読んでいる人は、他のジャンルの作品をあまり見たいとか、作家に特化するという人もいるだろう。だが、最近のマンガは、ジャンルに特化するという人が減ってきたような気がする。
「どんなマンガでも楽しければ読む」
という人が多く。考えてみれば。これは昔からの風潮でもあるが、みんなの話題に乗り遅れないように、見るという人も多いことだろう。
だが、小説を最初に読み始めた時は、面倒くさがって、ついついセリフだけを呼んでしまって、情景を思い浮かべることなく読んでいたため、内容に辻褄が合わず、最後には何を読んでいたのか、分からないという状態になっていたのを思えば、最初からマンガしか読んでいない人は、マンガなりの想像力が養えているのかも知れないと思うのだった。
ただ、それを本当の想像力として認めることができるかと言われると、つかさは認めることができない。だからこs、今も昭和の古い小説を読み漁っているのだった。
つかさのSっ包摂の読み方が最近変わってきていた。
「作者の目になって、読む」
という意識が強くなってきた。
別に自分でも小説を書いてみようという気持ちがあるわけではないが、最初はセリフばかりを斜め読みのような形で読んでいたものが、情景を思い浮かべながら、想像力を生かすようになったのは、無意識にであったが、作者の気持ちになって読めるようになったからではないかと思っている。
小説を読んでいると、いろいろな情景が思い浮かんでくる。特に今の時代の光景ではないので。
「昭和初期の写真」
などという本が図書館に置いてあるので、それを見てみたり、時々百貨店などの催し物コーナーで、
「百年前からの我が街の歴史展」
などというものがあると、率先して出かけてみた。
結構人はたくさんいるもので、いるとすれば年配の人ばかりなのではないかと思っていたが、行ってみると、若い人が多いことに驚かされてしまった。
ほとんどの客が一人での拝観で、じっと黙って見つめている姿を見ると、何か頭が下がる思いがあるくらいで、本当は、どうして見に来ているのか聞いてみたい気がするのだが、それを聞くのは何かマナー違反のようにさえ思えた。それこそ、自分で想像するものであり、果たして。あの人たちの目に写し出される写真には、どんな思い出や想像が去来しているというのだろう。きっと、まわりの人がつかさを見る時も同じような興味を持って見ているのだろうが、その人たちも聞いてみることはマナー違反だと思っているに違いない。この空間にゆとりを感じるのは、つかさだけではなかったであろう。
逆にこんな世界をマンガに描いたら、どんな絵になるというのだろう。
昔のそれこそ、昭和初期を描いたマンガもないわけではないが、想像しているものとさほど違っていなかった。
写真で浮かんでくる想像力でしかないのだから、そんなに豊富な想像力であるはずはない。どれだけ想像を形にできるか、それこそ漫画家の技量なのだろうが。やはりその偉大を描く人が少ないのは寂しいところだ。
逆に、明治、大正を描く人は少なくない。それらの時代の表舞台よりも、貧しい農村などで起こっているホラー的な作品が売れていたり、あるいは、大正ロマンと言われる庶民よりも少し上流階級を描いた華やかな作品も人気があったりした。そういう意味ではあまり知られていない大正という時代を描いた作品に興味を持つ人は、想像力が豊かなのではないかと思えた。
その時に、つかさは、再度思った。
「小説とマンガの境が分かりにくくなっているんだ」
という思いである、
しかもそれは、マンガが小説に近づいているのであり、小説がマンガに近づいているわけではない、確かにまだ小説も十分に娯楽として本屋のほとんどを占めているが、雑誌や専門書も少なくない中での文芸作品。それに比べてマンガの張っては底を知らないと言ってもいいだろう。
ただ、実際に売れる売れないを別にして、マンガを描いている人を考えると、その絶対数がどれほどのものなのか、想像もつかない。そういう意味で、hン屋で増えてきているマンガというのは、この世に生を受けたすべての完成品の中からいえば、本当に氷山の一角でしかないのかも知れない。
小説などが文庫本になって本屋の一角を賑わしているように見えるが、それも親などから聞くと、今の本の並びはまったく変わっているという。
「昔の小説などは、有名作家の本がどれだけ並んでいるかというのが、一種の本屋の規模を見る指標のようなところがあって、出版社も、出せば売れるという時代があったことで、有名作家の本は、作家の先生の中では。これを発表するのは恥ずかしいくらいの駄作だと自分で言っているような作品でも出版社が発行するんだよ。それでも売れる時代だったのだから、今の本屋からは想像できないだろう? 本棚の二段くらいを一人の作家が占有するなんてザラだったんだよ。百冊以上の文庫本を発行している作家さんは、いくらでもいたからね」
「へえ、今では想像もできないな」
というと、
「今は本当に売れるものか、統計的に過去に売れたものしか置いていない。過去に一世を風靡したものも、今では覚えている人が一部のファンに限られているので、本を置くだけ無駄だということよね。相当が廃刊になったんじゃないかしら? もっとも。今は電子書籍というものがあるけど、これだって、すべてが電子書籍になっているわけではないよね。紙媒体であっても、電子書籍であってお、忘れた頃に、復刻版などと言われて売り出されるけど、本当に売れる作品なのかどうか。分からない。だから、誰にも気づかれずに復刻版も廃刊になるのかも知れないね」
と言っていた。
「今は、ライトノベルというような作品が多くて、表紙もマンガが描かれているようなものが多いのよね。それだけならいいんだけど、昔の探偵小説などは。鬼気迫るような恐怖の絵が主流だったのに、今は、怖いんだけど、イケメンの探偵や主人公が、怯えている姿を見せることで、いかにも探偵小説というイメージを醸し出しているんだけど、それをもし今の若い人が読んだらどんな気持ちになるのかしらね?」
とつかさがいうと、
「以前は、表紙カバーの絵が、結構本を手に取るきっかけになっていたものだけど。今のマンガの作風で書かれた絵であれば、手に取る若者もいるかも知れないわね。でもそれを買って読んでみる人もあるいはいるような気がするの。でも、本を読むのにはかなりのハードルがあると思う。ライトノベルなどを読む人は、どうしても行間が空いていないと読めないという人がいたり、セリフがほとんどない作品は目が痛くなるという人もいるでしょうからね。でも、少しでも読もうとすると、今の子だって想像力はあると思うの。逆に想像力に飢えているかも知れない。マンガやドラマを見ているだけで、想像力を感じているとすれば、本当の意味での想像力を知らないということでしょうからね。そう思うと、読み始めると、案外、本当の想像力に目覚める人だっていないとも限らない気がするのよね」
というではないか。
「それは希望的観測なんじゃないかしら? そんな人がたくさんいれば、もっと本が売れそうな気がするもも」
とつかさがいうと、
「確かに下どまりの状況にあるんだけど、決して本屋から文庫本がなくなることはないでしょう? それはきっと年配の読者だけではなく、若い人の中に、想像力を掻き立てられることで、本を読もうとしている人がいるからなんじゃないかと思うのよ。そういう人はきっとなくならないと思うの。今が下どまりだとすると。今後も、この状況を数位すると思うんだけど、ブームというのは、必ず回帰するものなので、また来ると思うのよ。その後がどうなるか、それが興味深いところなんじゃないかな?」
「うん、なるほど。私もそんな気がするわ。.確かにブームというものは、何年かに一井戸は巡ってくるものだっていう話も聞いたことがある。でも、そのことに敏感なのは、結構今の若い子だったりするのよ。それだけブームが短くて。目まぐるしく変わっていくものなんでしょうけど、逆にいうと、もっと続いてほしいと思っている熱狂的なファンがいることも確か。ブームにうまく乗っかかって、すべてのブームの中でずっと熱狂的になれる人はどこかコウモリのようで信用できないということを言う人もいるけど、そればかりではなく、当然それぞれにいいところを見いだせないと、ブームにも乗っかれないということよね。だから、それがその人の特徴であり、長所なのかも知れないわね」
とつかさは言った。
「私だって、嫌いなものもあれば好きなものもある。逆に嫌いなものがあるから、好きなものをどのように好きなのかと再認識することもできる。でも、今あなたの言ったようなことができる人というのは、きっとお母さんたちの時代にはあまりいなかったと思うの。いたとしても、きっとまわりからは、そんな考え方というのは否定される傾向にあった。今の人はあまり自分たちのまわりで否定する人がいないから、いいのかも知れないわね」
と母親がいうと、
「それは何ともいえない。たぶん、平成の時代にあった苛めや家庭内暴力。家庭崩壊などが地盤にあって。世の中を見ないようにしていることから、今のように人の気持ちを無駄に傷つけないようになったのかも知れない。だけどね、逆にその気はなくても人を傷つけることが増えたのも事実。それが集団意識からくるものなのか、感情のマヒが招いたことなのか。それとも、自分を正当化したいという意識からなのか分からないけど、最近問題になっている、SNSなどでの誹謗中傷。あれなど、誰だか分からないということをいいことに、自分の理想は思いを他人にぶつけているだけの人だっているわよね。でお、本当はそれは自分の中だけで解決しなければいけないことなんだけど、ネットの世界だからということで、分からないと思って。自分の中で勝手に解決しているのかも知れない」
とつかさは言った。
そう言って思い出したのが、
「カタルシス効果」
という言葉だった。
――ここに繋がってくるのか――
とつかさは思ったが、実におかしな感覚だった。
たまには親と話をするのも新鮮でいいのかも知れない。
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