第5話 犯罪心理と模倣犯
普通、愉快犯であったり、異常性欲を満たすために行う犯罪は、犯人が抑えることのできない感情を、犯罪という最悪の形で表に出すものだ。だが、捕まりたくはないのは当然なことなので、一度行うと何とかそこで自分の感情を抑えることができると思っていたのかも知れない。
だが、一度やってしまうと、その成功が心の中での自信につながったのかも知れない。
「犯罪を犯しても、無能な警察などに捕まるわけはない」
という驕りである。
だが、一度成功すれば、二度目はハードルが一気に下がることだろう。犯人が捕まらない以上、警察は同じ場所の同じ時間の警備を厚くするはずだからだ。それでも警察の一瞬の隙をついて犯行に及び成功などしてしまうと、さらに犯人は自信をつけることになるだろう。
警察には、
「警備を敷いた」
という自負と、
「まさか、同じ場所、同じ時間に犯行を繰り返すはずはない」
という油断の隙をついたのだ。
つまり、精神的な心理の溝を抉ったと言ってもいいかも知れない。
だが、次は警察も必死だ。犯人がまた犯行に及べば、今度は完全に袋のネズミであり、飛んで火にいる夏の虫だった。つまりは警察と犯人で交互に優勢さが逆転するという発想である。
では、一般人の感覚はどうであろう。
最初はまったく想像もしなかったところで起こった犯罪に、恐怖の底に叩き落されたことで、少々不便でも別の道を通ることになる。そちらの方が明るくて危険はないというわけではないが。一度起こってしまった場所を通るという心境にはならなかった。
だが、そう考えるのは半分くらいの人だろうか。それでも一度目はほとんどの人がその場所からいなくなったが、犯人が検挙されることで、人出は戻ってくる。再発の危険を予見しながらも不便さを再度味わう感覚にはなれないのだった。
だが、二度目が捕まり、今度は三度目……。
そうなってくると、群集心理は感覚が鈍ってしまうもののようで、彼女たちは考えるようだった。
「これだけ何度も犯行が行われる場所で、危険だと言われている場所なので、警察の警備も厳重になっていることだろう。それもごく当たり前のこととして警備されている。でも、それがマンネリ化することはない。何度も起こっているだけに、今度再発すれば警察の面目は地に落ちてしまう。そういう意味で、ここほど警備という意味で安全な場所はないと言えるだろう」
という心理が働くのだ。
だが、、この心理は当たり前のことであり。犯人の心理と警察の捜査能力とは関係のないものだった。したがって、連鎖で犯行が起ころうとも、いつもここを利用している婦女子にとって、一番安全な場所であるということに変わりはないのだった。
それをまわりの人は他人事のように分析して。
「狙われる方も、どうしてこんなに犯行が繰り返されるのに、どうして人が減らないのか不思議でしかない」
と思っていることだろう。
そう、他人事で考えていたのでは、深層心理を見抜くことはできない。自分がその立場に陥った時として考えなければ、同じ立場にはなり切れない。
だが、あくまでも自分は襲われるはずのない立場をしてみるのだから、どこまで心境に近づけるか分からない。分かってはいけない結界のようなものがあることだろう。
だから、その場所を毎日のように通っている婦女子の気持ちと、事件を記述して後世に残そうとした人の心理は違っているはずなので、その人たちの心理を、その本から見ることはできない。
むしろ、その本から、被害者が減っていないということに対してその人たちの心境やその理由を考える人がいるだろうか?
あくまでも、この本は、当時起こった模倣犯のような事件が、数件続いた時代だったという事実を書きたかっただけのであろう。
心理的な話はほとんど書かれていないが。その本を見つけてきて。わざわざつかさにその内容を見せようとした弥生の心境は、一体どういうところにあったのか?
ただ、この時代には性犯罪が多く、その中でも通り魔的なものが多かったと言いたいのか、それとも、模倣犯が流行していたといいたいのか、それとも連鎖が事故と違い、作為の元に行われたといいたいのか。よく分からないまま弥生の顔を覗き込んだが、こういう時の弥生は徹底的に表情を変えようとしない。きっとつかさが弥生の顔を見つめる時は、そのほとんどが、彼女の問題としたいものが見えてこずに、いくつかの仮説の中で考えたことを目で訴えようとしたものを受け付けないといった構図が生まれているようであったのだ。
この本における犯罪には、何か異様な寒気を感じたのだが、それはつかさが時代背景に強い意識を感じていたからだった。
実は弥生が言いたかったのも、この時代背景の中で起こったこの犯罪が、どれほど自分を驚愕させたのかということであった
弥生も、
「つかさならきっと同じことを思っているはず」
と感じたから、敢えてこの本の内容をつかさに教えたのだった。
何度かこれからも弥生が見つけてきた本の内容を弥生に示そうとすることがあるのだが、そこにこのような彼女の意図が含まれているのだということを、徐々に知っていくことになる。
そこまで分かってくると、弥生がつかさの感情をいかに知りたいかということも分かってきて、弥生はつかさのことを知りたいという感情が、ひいては自分の感情の本質を見つめることになると思うようになったのだ。
それはまるで、自分の顔ほど、本人が認識することができないのと同じ感覚と言えるのではないだろうか。
自分の顔は鏡などの媒体を使わなければ見ることができないという当然のことの確認のようだったのだ。
弥生はどうやら、精神分析と犯罪心理に興味を持ったようである。つかさもそんな弥生に感化されるところがあり、彼女が持ってくる本などを見ては、自分なりにいろいろ考えていた。
弥生が犯罪心理という本を読んでいるのに対し、つかさは、弥生が気にしている時代の探偵小説などを気にしてみるようになっていた。
特に大正末期から昭和初期くらいまでの探偵小説と、戦後の探偵小説とでは、なかなか趣も変わってきている。
当然その間に戦争があり、敗戦による占領時代という波乱の時代があったのだから、当たり前のことであろう。
戦前の探偵小せつぃと呼ばれるものには、探偵小説の分野であったり、呼称というものが、作風によって、若干論争のためになるものがあった。
例えば、
「本格探偵小説と、それ以外」
という発想である。
これを小説の分野の一種の歴史として見ると結構面白いことに気づくこともあり、つかさには興味のあることであった。
まずは、小説家の中に、
「本格探偵小説」
という言葉を提唱する人が現れた。
「探偵小説というものは、ストーリー性もさることながら、謎解きやトリックなどに重きを置いたものと、それ以外の小説全体の持つイメージ、つまりは、猟奇的なものであったり、怪奇、空想科学、幻想などと言った、ホラー、SF、オカルトと呼ばれるものに分かれていくことになる。実際に探偵小説の中では、猟奇的な不健全と見られる分野として、いわゆる変格探偵小説と言われる部門に分かれて行った」
と言われている。
つかさは、まずは、変格探偵小説から読み込んでみることにした。
ストーリー、謎解きというよりも、猟奇的であったり、人間の内面にある隠さなければならない心理が犯罪という形になって表に出てくる。それが変格探偵小説と呼ばれるものである。
それを見た時、
「これって、カタルシス効果と言えるような感覚ではないかしら?」
と感じた。
Kタルシス効果とは、自分の内面で抑圧してきたものを、我慢せずに吐き出す形である。犯罪というものも、広義で考えれば、カタルシスだと言ってしまえば、犯罪を犯す広い意味での動機ということになるのではないだろうか。
小説をして書いている分には、自分の中での思いを発散させることが、自分の仕事になるのだがら、中には、
「趣味と実益を兼ねた」
と思っていた人もいたであろう、
中には、変格小説として、
「犯罪者が探偵小説家で、自分の作品をよりリアルに仕上げるために、実際に小説家を表の顔だとすれば、裏では犯罪者だった」
というエピソードをテーマにした小説も少なくはなかったろう。
その思いが過去から紡がれていると思うのは、かつて海外で書かれた。
「ジキルとハイド」
という作品である。
完全に相反する性格を二重人格として持ってしまった一人の男の物語であるが。これは開発した薬によって作られた、
「もう一つの性格のお話」
であった。
だが、実際に、これだけ長い歴史の中で、リアルに、
「ジキル博士とハイド氏」
が存在しなかったと誰が言えよう。
元々この作品も、何か題材が実際にあって、それをイメージして書かれた小説なのかも知れない。
そう思うと、つかさは変格探偵小説に興味を持った。
ただ、彼女の中では。
「これを現在のミステリーの中では一緒にできないものではないか?」
と考えるようになっていた。
変格探偵小説の中で好きな作家がいた。その作家は心理的な内容を言葉で表現し、その内容を小説のテーマとして挙げているので、小説で聴いた言葉を実際に専門書で調べてみたりした。
それが、その時の趣味のようになり、意識の中で、
「心理学と犯罪学の融合」
とまで思うようになっていた。
その中で、実際にカタルシスについての話を描いている作家がいた。
その作品では普段から、不満に思っていることを絶えず口にしている人で、言わないと気が済まないという、病気のようなものを持った人だった。
せっかくいた友達も次第に遠ざかり、その中の一人がノイローゼになってしまった。その人は自分のノイローゼの原因が、その人だと思い込み、殺害してしまったが、実際のノイローゼの原因は他にあったのだという、
なぜ分かったのかというと、その人が死んでも、自分のノイローゼが治ることはなかったからだ。ちなみにこの小説の主旨は、殺人事件を解決するという、単純な探偵小説ではなく、実際には捜査の途中の描写はあるが、それはあくまでも主人公に対しての聞き込みであったり、主人公について分かったことを描いたりした程度で、実際に犯人が捕まる場面も書かれているわけではない。
最後まで読み終わってしまうと、そのあたりの描写を書いてしまえば、この話の趣旨から離れてしまうということで、敢えて載せていないのではないかと思ったほどだった。
主人公のノイローゼが相変わらずで収まるわけではないというよりも、彼が死んで誰も不満を人に言わなくなったことで、主人公は自分のノイローゼがなくなることは永遠になくなってしまったと思い込んでしまった。
彼のノイローゼは、殺してしまった人がいう不満からではなく、むしろ、誰かが不満を言ってくれることで、自分のノイローゼの部分を吸い込んでくれていたということだったようだ。
それを自らの手で消し去ってしまったのだから、永遠にノイローゼから逃れられないと思い込んでしまったのも無理もないことだった。
彼とすれば、殺した相手が、自分の代弁をしてくれていたのだろうと解釈をした。なるほどそばにいて聞いていれば、不快な気持ちに陥って。自分のノイローゼに火をつけているかのように思えてくる。しかも不満を人にぶちまけるようになった頃に、ちょうど自分のノイローゼが自分の中で確定したように思ったからだ。
それまではノイローゼも若干あったのだが、それはノイローゼ気味という程度で、そこから先発展するのか、徐々に下火になっていくのか、どちらともいえる状況だった。
しかし、その状況をノイローゼだと確定させるくらいまで発展させてしまったことで、自分の中で、
「カタルシス効果というのは、その人に効力のない。まわりに対しては害でしかないものなのだろう」
と思い込んでしまったのだ。
そもそも、この思い込みという精神状態が、ノイローゼを引き起こしてしまったのだろう。自分では勇気がなくて、自分の中の不満をぶちまけるというカタルシス効果を持つことができなかったくせに、無意識にその人の感情に乗っかかっていたことを本当に知らなかったのだろうか。知っていて、そんな自分に対して嫌気がさしてしまったことも、ノイローゼの原因だとすれば、相手を殺してしまうというのは、まったくのお門違いであり、本末転倒な仕業であった。
その小説の結末では、結局主人公が自殺をすることになる。そして、この小説のテーマとして、
「その時代には様々な理由で自殺が起こっていたが。中には、このような理由での自殺もあり得る」
ということをテーマとしていたのだろうと思った。
これは、作者が言いたかったことではあるが、果たして読者に伝えたいことなのかどうか、それもよく分からない。
小説というものは、確かに読者ありきのものであるが、必ずしも読者に何かを訴えるものではいけないと言えるのであろうか。言いたいことがあって、それを言うだけではいけないのだろうか。読者の心に響く小説が、なるほど、
「売れる小説」
であり、小説としての理念なのかも知れないが、この小説を読んでつかさは、確かに作者の言いたいことが分かったように思えたが、伝えたいことだったのかというと、少し違う気がする。
「こんな小説があってもいいな」
と思ったが、それは、上から目線ではない小説に出会えたことが、この小説の中のカタルシス効果のようなものではないかと思えた。それだけ、自由で豊かな発想になれるということであろう。作者の気持ちになることができるという、そんな小説であった。
他の小説を読んでみうと、そこには「模倣犯」に関する話があった。
模倣犯というと、人のマネをするというイメージが強いが、その犯人が一体何を目論んで模倣しているのかということが分からない。そこにどんな心理的な要素が含まれているのか分からないことが多い気がするが、冷静に考えると、模倣犯は頭脳犯罪でもある。
例えば、凶器を隠す時などにも応用できることで。
「一度警察が調べて、何も発見されなかった場所に隠すというのは、隠し場所としては一番安全な場所」
という話がある。
これも心理的な問題であるが。一度調べた場所は、もう二度と調べたりはしない。そこに隠しているわけはないという発想よりも、もう一度調べる時間と手間が、実際に考えればないはずだというのが根底にあるのだ。
だから怪しいと誰か一人が思ったとしても、二度とは調べない。しかも、そこが捜査令状を取ってまで調べた場所であれば、もう二度と捜査令状を取ることないだろう。もし、また捜査して何も出てこなかったら、警察の信頼は地に落ちてしまうから、そんなことはできるはずもない。
だが、実際にそうやって、一度調べたところにもう一度隠すというのは、実際の事件ではあまり聞いたことがない。むしろ探偵小説の中で。トリックとして、わざわざ取り上げる場合はあるが。そのことを掘り下げて話題にすることはないだろう。要するに、
「目立ちにくい、犯罪トリックの目玉と言えるのではないか」
というものである。
そういう、
「心理の盲点を突く」
という意味での模倣犯であれば、単純な
「人のマネ」
というものではなく、愉快犯としてではない、緻密な犯罪計画の核心であると言えるのではないだろうか。
つかさが読んでいて、実際には面白い話ではなかった。トリックが目立つわけでもなければ、内容も淡々と進んだ。
模倣犯を全面に押し出して、連鎖反応のようなものとの比較を描いている程度であれば、探偵小説の醍醐味を味わいたくて読んでいる人間には、甚だ物足りなさがあって当然であろう。
だが、蘭亭小説を深層心理という観点から読んでいると、模倣犯の考え方が、
「玄人好みするもの」
と考えることもできるであろう。
玄人好みというのは、
「大人の小説」
だと思っている。
深層心理を描く小説を大人の探偵小説だと思っていて、それが、変格探偵小説の存在意義のようなものだと思っている。
揉歩班がその、
「大人の探偵小説」
に該当すると自分でも思っているくせに、どうして、物足りなさを感じたのか。
それが模倣犯と呼ばれる犯罪ジャンルの真骨頂であり、物足りなさを味合わせることで、さらに、別の模倣犯小説を読ませるようにさせる。
そうなると、最初が物足りなかったはずなのに、次第に少しずつではあるが、楽しみを見つけようとしている自分がいる。
それはまるで最初を百として楽しめるように自分からハードルを下げていくようなものだ。つまりは減算法の読書術なのではないだろうか。
それを引き出すための作風術に、模倣犯の小説があるのだとすれば、うまく読者が作者の術中に嵌ったことにはなりはしないだろうか。
他の小説が、作品だけで勝負するのに比べて。模倣犯事件は、ジャンル全体で読者に挑戦しているような感覚だ。
作者側も、
「いかに、読者に欺瞞を与えることができるか?」
が肝である。
小説のトリックの中に心理的トリックとして、叙述トリックというのがあるが、ジャンル全体で叙述しているかのようなトリックに果たして気付く読者がいるのだろうか?
いや逆に模倣犯というものを受け入れることができた読者は、最初から叙述に引っかかってしまったことに後で気付き、
「最初から分かっていたかのようだ」
と感じるつもりになって、小説を読んでいたに違いない。
他の小説との違いに気づいた読者は、どこか自分が玄人になったかのような思いを抱くだろう。それが錯覚かどうか、誰に判断がつくというのだろうか。
小説を読むのがs浮きではあったが、元々面倒臭がり屋だったこともあって、ついつい、途中をすっ飛ばして、前ばかりを見てしまうくせがあった。
つまり、
「セリフの少ない小説は読みたくない。いや、読めない」
という感覚があったのだ。
だから、一時期、マンガに流れてしまいそうになったことがあった。だが、小説から入った人間がマンガを読むと、そこか物足りなさがあった。それがどこなのか分からなかったが、
「絵を見るということは、知らず知らずにキャラクターやその絵の好き嫌いに目が行っている」
ということに気が付いた。
絵の好き嫌いが、キャラクターから来ていることは分かっていた。最初に見て。
「このタイプの男性は嫌いだ」
と思うと、二度とその作家の作品は読みたくない。
最初にキャラクターありきで作品に接してしまうからだ。
小説から入った人間には、それが許せない。物足りなさを感じるからなのだが、その物足りなさが、見た瞬間に秒殺で嫌になるということが分かったからだ。
どんなに好きな絵であっても、絵だけを判断してその本を、ましてや作家を好きになることはできない。あくまでも最初のハードルを突破しただけのことなのだ。つまりはマンガを見ていて、最初のハードルに失敗すれば、もう見る気はなくなるのだ。
だが、これは小説も同じだった。だが、小説の場合は、マンガと違って、瞬殺ということはありえない。なぜなら、マンガのように好き嫌いを判断する材料がないからだ。
その材料というのは他ならぬ、絵のことであり、絵がないから、自分で勝手に想像することができる。物語に合わせて絵を想像していると、その人の顔が想像できる場合と、のっぺらぼうのように想像できない場合がある。顔が想像できなかったからと言って、小説を読むのをやめたりしない。そこにハードルが存在しないからである。
あくまでも、小説は最後まで読んでなんぼである。最後まで読み終わる前にハードルを設けることはしない。もしハードルがあるとすれば、想像することができない小説である。つかさは、それを小説だとは思っていない。違ったジャンルであるという思いを抱くが、自分とは世界の違うものだと思うことで、読むのをやめるというそもそもの感覚とは違うと言えるであろう。
想像力に発展はあっても、失望はないことから、想像力が頭の中で完成した時点で、初めてのハードルを迎えることになる。
そのハードルはゴール寸前にあるもので、飛び越えてからまた。新たなコースが待ち構えている。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉、そのものだと言えるのではないだろうか。
小説から入った人間がマンガを見て、最初に感じたハードルが何と邪魔なものであろうか、そこに絵があるために、一番の醍醐味である想像力を働かせる余地がないばかりか、嫌いな絵であれば、
「裏切られた気がする」
と、相手からすればそんなつもりなど微塵もなく勝手に思い込んでいるくせに、一人の読者を失うことになるのだ。
そういう意味で、マンガは分かりやすいだけに。つかさと同じように。最初で瞬殺してしまう人も多いかも知れない。それもつぃかさは嫌だった。
「もう少し楽しませてほしいよな」
という考えをマンガという世界は、簡単に打ち砕くことになるのだ。
想像力も及ばないマンガという世界に、早々と見切りをつけたのは、そういうことであった。
「マンガは日本独自の大切な文化だ」
という人もいるが、つかさはそうは思わない。
文学があって。絵画がある。マンガは幻術という中で、何とも中途半端な存在であり、なぜにこんなにももてはやされるのかが分からない。ドラマや映画の原作でも、ほとんどがマンガではないか。絵を映像にしたところでどのような想像の発展があるというのか、信じられない。しいてマンガがいい点といえば、
「どんなに名作と言われる作品であっても、いや、名作と言われれば言われるほど、映像にするとその素晴らしさが失われてしまう」
ということではないだろうか。
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