第4話 カタルシス効果

 この矛盾をどう考えればいいか、つかさは自分なりの考えを持っていた。それは、

「人間のエゴイズム」

 に起因するもので、

「人間が自分が他の動物よりも優れていること、さらに人間だけが優遇された存在であることを、神話を使って、人間を神が作ったものだとしておくことで、権利の裏返しに義務があるように、特権の裏には責任が存在するのだが、その責任を創造主の神に押し付けようという考えから、神というものを創造したのではないか?」

 と考えている。

 だから、人間が行うおろかな行動はすべて責任が神にあることから、聖書などの宗教書物では、時々、神が人間を滅ぼそうとしたり、浄化を試みるのではないだろうか。

 そう、人間には「浄化」というものが必要なのである。

ここで、先輩の言っていた、

「カタルシス効果」

 という言葉が結び付いてくるのだが、この言葉と結びついたのは、最初から結び付けるつもりで結び付いたものではない。

 あくまでも偶然であったのだが、えてして人間の考えというのは、一周まわって。同じところに着地するつもりで、気になっているところに着地してしまっていることがあったりする。それが夢だったりするのだろうが、そのメカニズムがどこから来るのか、つかさには想像もつかなかった。

 そもそもカタルシスという言葉には、

「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」

 という意味があるらしく、精神を浄化する効果をカタルシスというのであれば、その効果というものも、神から与えられたものと考えてもいいのかも知れない。

 人間が神というものを創造したのは、創造主を作ることによって、人間の弱さの辻褄をわせるためであり、そのために、定期的な浄化を正当化することで、過去の戦争や災禍までも正当化させようということなのではないだろうか。

 つかさがそもそも神に対して疑問を感じているのは、

「なぜ、宗教によって全知全能の神が違うのだろうか?」

 という意味である。

 人間という動物種を、一つのものだと考えた場合、人間という動物種に複数の宗教や考え方があるというのもおかしな気がしていた。

 では、人間をまた別々の人種として考えた場合。例えば黒人、白人、黄色人種と分けて考えても、それぞれがすべて一つの種類とは限らない。また、国家と考えたとしても、それはあくまでも大まかに考えたところでの、

「国土に所属している人間」

 という意味で、厳密に人種でもない。

 では、人間というのは、動物で分けたところの何になるのか?

 例えば、イヌであれば、イヌという種類が人間全体と考えれば、人種と呼ばれるものは、犬種としての、まず大きく分けて、放牧犬、使役犬、などのグループが人間でいうところの白人、黒人になるのであろう。さらに分かれるところの放牧兼犬であれば、シープドッグ、使役犬であれば、ピンシャー&シュナウザーなどの犬の種類に当たるところが人間の何に当たるかが曖昧なのである。

 日本人や中国人などという国家に属さない、血族を意味するものなのか、それとも土着という意味での国籍に基づく種類なのかである。後者はあくまでも、戦争や国家の興亡によって絶えず変動するものなので、この場合からは考える必要はないのかも知れない。

 だが、血族と言っても、純粋な種族の人間がどれほどいるかである。日本のように島国では、血が混じり合うことは少ないカモ知れないが、国家が陸続きのところは、隣国の人間と結婚することもできなくはない。さらに、民族が行きかうことで、血が交り合うことも多いだろう。

 ただ、家畜やペットと呼ばれる動物では、人間の手によって、人間が扱いやすいように、別の犬の種類を交尾させることで、元々あったものではない新種の犬種などを作り出すことをしてきたので、人間が自ら別の種族と交わるのも、どこまで倫理的に許されるのか、何とも言えないところだった。

 それこそ、宗教によって解釈が違っていたりするので、何とも言えないところであろう。

 カタルシスという言葉が、

「精神を浄化する言葉」

 ということで、カタルシス効果というのは、

「意識せず、我慢していたものを外に発散する」

 という意味だと介してもいいだろう。

 これはある意味、宗教でいうところの、戒律の反対の意味だと捉えることができるのではないだろうか。ただ、戒律の解放という意味ではないと解釈されるかも知れない。

「カタルシス効果というのは、実は催眠療法というのが、中心になるんだよ」

 と先輩は言っていた。

 その言葉を聞いて、弥生は別に表情を変えなかったが、つかさは自分の表情が変わったことを自覚した。

「高橋さんは、今露骨に嫌な顔をされましたね?」

 と指摘され、見透かされてしまったことに恥じらいを感じた。

 すると、先輩は話を続けて、

「いいんですよ。嫌な顔になるのも仕方のないことです。催眠術というのは、それだけ強力なものであり、洗脳などの怪しい感覚に近いものだと考えられてしまいますからね。でも、それは相手との信頼関係がなく、ほとんど催眠術を掛ける人間が、掛けられる人間に対して、何も知らない状態になった場合が怪しく思われるんですよ。元々催眠術というものは、治療などに使われるものが本質でしょうから、掛ける方と被験者とでは、それ相応の信頼関係がなければ、治療にはならないかも知れません。それが心理学という者であり、心理療法に繋がるものではないかと考えます」

 と先輩に言われて、

「でも、カタルシス効果の実験は、信頼関係のある人に行うものなんですか?」

 と聞くと、

「いいえ、だから実験なんです。それを公開でやるというのは、不謹慎な気もしますが、催眠を掛ける人は学生ではなく。この大学出身の精神科医の先生なんです。そういう意味で実績のある人であり、我々が、浄化という意味で真面目に心理学や心理療法を考えていると話をすると、分かっていただけました。先生はそういう意味では信頼できる人なんです」

 ということであった。

「なるほど、分かりました。もし時間があれば、伺うことも考えてみましょう」

 とつかさはあくまでも曖昧に答えた。

 確かに興味はあるが、胡散臭さが抜けたわけではない。sの日までに自分がどこまで解釈できるか分からないが、宗教や怪しい団体ではない大学サークルだということを念頭において考えてみることにした。

 つかさは、自分と先輩の話の中で、絶えず自分の世界の中に入り込んで、いろいろ想像を巡らせていた。その間、弥生が何を考えていたのか、そこまでの発想はなかったと言ってもいい。弥生の方も敢えて何も言わなかったが、後から思うと、弥生が何を考えていたのかが、気になって仕方がなかった。

 かといって、直接聞いてみるだけの勇気があるわけでもない。

 ましてや、弥生の性格から考えて。自分からいうということはないだろう。それはつかさのように、「勇気」という概念が最初に来るからではなく。

「別に言わなくてもいいことを、自分から相手に暴露して、自分の手の内を明かすわけにもいかない」

 という少し冷静な目になっているのではないかと思っていた。

 そもそも、つかさの方も、相手と話をしている時、相手の話を、

「怪しさありき」

 で考えていたのだから、どちらがマシだとかいう発想としては、

「何かが違うのではないかと考えた」

 つかさは、弥生に聞いてみた。

「どうする? あのサークルに入ってみる気になった?」

 と聞くと、

「私は入る気はないわ」

 というではないか。

「どうして?」

 と聞くと、

「冷静になって考えると、入部という選択肢がなかっただけなの」

 という漠然とした答えが返ってきたのだ。

――この人はどこまでも冷静なんだろう?

 と思ったが、冷静であるだけに、その言葉に重みは感じるが、言っている内容には説得力がなかった。だから、人には胡散臭く思わせるのだが、友達としてのつかさには、説得力のなさを浮き彫りにさせられたのだった。

 つかさは、自分の浪人時代を思い出していた。今から思えば、自由だったはずなのに、自由が利かないという意識と、まわりに対しての自虐性の強さが大きかったように思えていた。

 つまりは、自虐することと、自由がないという制約を自分に課すことで、置かれた環境を正当化し、すべてまわりが自分に課した試練のようなものとして解釈することが、いわゆる、

「浄化作用に繋がっているのではないか?」

 と思わせるようにしていたと思った。

 自分の中で、表に出さずに、

「カタルシス効果」

 を自己完結で行っていたことで、何とかその時期を乗り越えることができたのだと思っている。

 この考えが自分だけのものなのかは分からないが、他の人にも同じ考えがあるのだとすれば、浄化作用としても、

「カタルシス効果」

 にも、一定の理解ができるのではないかと思うのだった。

この「カタルシス効果」という言葉に興味を持ったのは、弥生も同じだったようだ。彼女も図書館でよく心理学のコーナーに立ち寄っているようで、フロイトの本などを読んだりしているようだ。

「なかなか難しくて、簡単には理解できない」

 と言っていたが、つかさも実際に読んでみると、そう簡単に理解できるものではないようだった。

 そんな時、つかさは、フロイトの話をした時、気になることを言っていた。

「フロイトという人は、人間の精神的な研究には、性的感情との結びつきが深いと言っているような気がするのよ」

 と言っていた。

「どういうこと?」

「彼は精神分析の中で、リビドーや幼児性欲などの研究もしているのよ。人間が成長していくうえで、性欲とは切っても切り離せないものであるらしいのよ。つかささんは、人間の性欲って、思春期以降からだと思っているでしょう?」

 と訊かれて、

「ええ、確かにその通りだわね」

 と、つかさは答えた。

「でもね、人間の性欲って、生まれてからすぐにもあるということなのよ。例えば、母親の母乳を吸う時の口が、すでに性欲であったり、幼児の頃、排泄の時に、肛門に感じるものが性欲であったりね。これは別に恥ずかしいことではなく、誰にでもあることだというの。もしその幼児性欲と呼ばれる感覚のバランスが崩れると、異常性癖に陥る遠因になるのかも知れないわ。それにね、この間からよく聞く『カタルシス』という言葉があるでしょう? 基本的には浄化というのが一般的な意味になるんだけど、排泄という意味もあるらしいの。人間の排泄という行為は、そういう意味では幼児の頃から大切なものだったに違いないわ」

 と弥生は答えた。

「じゃあ、リビドーというのは?」

 とつかさは訊いた。

「リビドー論というものがあって、人格形成をすべて広義の性欲に求めて、説明したらしいの。この場合の性欲のことを、リビドーと呼ぶのよね。でも、この説にはどうしても、性的発想に対しては、敏感に反応する人もいたりして批判的な考えの人も多いんでしょうね。でも、完全に否定することもできないから、今でも論争や批判を受けながらも、残っている発想だとも言えるんでしょうね」

 と弥生は説明してくれた。

 よく調べたものであり。今ではネッ友発達しているので、調査にもさほどの時間はかからないだろう。それだけに、今度は膨大な情報量から、必要なものだけを抜き出す作業が多くなってくる。

 昔は加算法だったのだが、今では余分なものを省くという意味で、減算法だと言っても過言ではないかも知れない。

 弥生の話には説得力を感じるのだが、これは相手が女性だという意識が、無意識のうちに形成されているからなのかも知れないと思うのだった。

 もし、男性にこのような性欲の話をされたらどうだろう?

 例えば、目の前の先輩から、性欲に対しての話をされて、大切なこととして説得力を挙げることができるだろうか。それよりも、自分の身の安全を最優先に考え、異性というものが自分に対して性欲の対象として見てきた場合は、そこに愛情が入り込まないと思うのは危険かも知れない。

 ただ、まったく入りこまないわけではなく、入ってきてもまずが性欲のはけ口という発想が先に立つ。男性はそれでいいのかも知れないが、女性はそうはいかない。太古の昔から、性欲の体操とされた女性の結末は悲惨なものだと考えられているからであろう。

 そう考えると、

「心理学というものは、異性を性欲の対象とすることへの言い訳であるのかも知れない。言い訳をするために、性欲というものを正当化し、それを人間の当然の感情として考えることで、人間全体から個人に落とし込んだ時、いかに理解できるかが問題になるのではないか?」

 と言えるのではないだろうか。

 そのわりには、心理学や精神分析という学問が、一般人からかけ離れたものであると考えるのは、どうなのだろう?

 言い訳であるならば、もっと世間一般に普及していて、その考えが前面に出てきていてこその言い訳のはずだ。それを許さないのは、きっと性欲というものが宗教などでいうところの禁断のものであって、

「犯してはならない聖域」

 というものではないかとも考えられる。

 その部分をカタルシス効果は逆行しているのではないだろうか。

 今までにカタルシス効果なるものが、近年のフロイトの出現までに、誰も提唱しなかったというのも、おかしな気がする。きっとそれだけ性というものが禁断のもので、侵してはならない性癖だと思われていたからだと考えないと、理屈に合わない気がしてくるのだった。

 つかさはそんなことを考えている自分が時々怖くなる。

 高校時代に味わった躁鬱症が、怖さを誘発しているのかも知れない。

 高校生活から、泥沼とも言える浪人生活を経て。やっとそれまでと百八十度違う大学生活に入ることができたというのに、どうしても不安が先にあって、素直に楽しむことができないでいた。

 その不安とは、

「不安を感じながらも大学生活に無意識のうちに嵌り込んでしまって、不安を持っているという意識がありながら、染まってしまうことが怖いのか、それとも、不安を抱いたまま、無意識に大学生活に染まってしまうのが怖いのか」

 つまりは同じことのようだが、順序が違ってしまうために、同じ結論でも、その度合いには天と地ほどの違いがあるのではないかと感じることだった。

 不安を意識してしまうと、無意識に普段なら意識してしまうことを感じなくなってしまうという、

「感覚のマヒ」

 というものが恐ろしいものとして意識されることになるのだろう。

 友達になった弥生とはそういう話をしたいのだが、話をしているうちに、

――これが本当に私の言いたかったことなのだろうか?

 と考えさせられることがある。

 会話というものに相手があるのだから、自分の想い通りにいかないのは当たり前のことである。

 無意識に、

「友達などいらない」

 と思っていたその理由として、

「友達と一緒にいると、自分の思っていることを自由に感じることができなくなってしまうのではないか?」

 という理屈から成り立っているのだった。

 弥生という女の子を見ていると、天真爛漫で自分とまたく違った性格に思えていたのだが、話をしているうちに、発想が似てはいるが、お互いに相手を認めることのできない結界を持っていて、相手の結界は見えるのに、自分の結界というものを意識できていないように思えたのだ。

 弥生という人間が、果たして今までの自分の中にいたものなのか、それとも将来の自分の中で、弥生と酷似した自分が現れるのではないかという、理屈としてどこかで自分と交わるところのある相手だという考えが生まれてきたのだ。その思いは知り合った時からあったのか、途中から芽生えたのかは分からないが、考え始めると、切り離して考えることができなくなっていた。

 そんな弥生が翌日になると、面白いものを持ってきた。図書館で見つけたと言って、少し厚めの本を取り出し、

「この部分なんだけど」

 と言って指差した部分は、リビドーについて書かれていた。性犯罪というものをリビドーの考え方で見てみようという主旨の本なのではないだろうか。

 どうやらその分厚い本は、過去の犯罪について書かれたもののようで、今から九十年くらい前のお話だった。

 つかさの意識の中を紐解くようにして。

「大正末期か昭和初期の政治的に激動の時代で、東京は関東大震災の後の復興の時代ということかしら?」

 というと、

「ええ、ちょうどそのくらいの年ですね。この時代は政治も不安定で、だけどまだ軍部もそこまで強くなかったので、犯罪も凶悪なものがあったのかも知れない」

 と弥生が言った。

 そこに書かれている犯罪は、きっと今の性犯罪の元になったようなものなのかも知れない。その中の一つに、夜になると、ある場所で起こる女性暴行事件。一人が捕まっても、次から次に同じ場所で犯罪が繰り広げられる。最初は犯行が凶悪だったことで、その道を通る女性がほとんどいなくなったが、犯人が捕まると、また増えてきた。しかし捕まったにも関わらず、さらに犯罪が続くと、また人が減った。

 だが、一回目とは明らかに減りはすくなかった。警察の努力により、また犯人が捕まったという。

 それなのに、また犯罪が起こった。今度は若干二人目の逮捕から時間が経ってからのことだったという。

 すると、今度は人が減ることはなかった。犯罪は繰り返させるのだが、なぜか人は減らなかった。ただ、女性の側でも準備している人がいたようで、一人歩きをしている中で、少し離れたところを、屈強な男が彼女を護衛するように歩いているのを犯人は分からなかったようで、一人歩きしているその女を襲うと、電光石火でその男が襲い掛かり、暴漢をやっつけてしまったという。いわゆる最終的には殺害したのだ。女を他紙桁男は現行犯逮捕され、刑に服すことになったが、今度はそのあとからは、女性を狙った犯罪ではなく。男が暴漢をやっつけるという犯罪の傾向に移行したという。

 ウソのような本当の話としてその本には書かれていたが。要するに、

「犯罪は連鎖する」

 ということが言いたいのであろう。

「事故は連鎖反応を起こす」

 と言われているが、犯罪というのは、特に計画的なものは、犯人が意志を持って行うものなので、連鎖反応というものは、

「模倣犯」

 だと考えていいだろう。

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