第3話 躁鬱の問題

 あれから数日が経ったが、つかさは挨拶をする程度の友達は何人か増えたが、一緒に行動を共にするような友達は、弥生だけだった。弥生も同じようで、

「いつも一緒にいるのはあなただけよ」

 と言いあって笑っているような仲になっていた。

 一緒にいるからと言ってどこに行くというわけでもない。そもそも同年代の皆が連れ立ってどこに行くのかなど知る由もなく、二人はたまに街に出てショッピングをすることはあっても、それ以外は馴染みのカフェに行って、会話に勤しむか、話題がなくなれば、お互いに今読んでいる本を読むので、別に時間を持て余すようなことはなかった。

 会話も、その時々で違っていたが、話題も漠然としている。漠然とした話題の中で、平気で二時間も三時間も会話できるのだから、想像力が旺盛だからなのか、それだけ気が合っていることで、一足す一が三にも四にもなるということだろうか。気が付けば、かなりの時間が経過していたなどというのは珍しくなかった。

 時間の経過というのはお互いに会話をしている時の共有完に満足しているのか、まったく気にならない。会話が途絶えることもほとんどなく、途絶える時は、話題に対して意見が出尽くした時であり、時間もいい具合に経過しているのだった。

 かと言って、いつも意見が一致しているわけではない。一つの話題に対して、結構違った意見のこともあり、そんな時は会話が白熱することで、却って気持ちが高揚してきて、相手の意見も耳に入ってくる。他の人に言えば、

「自分の意見を言い張れば、相手の意見を受け付けなくなるものなんだけどな」

 と言われるだろうが、つかさと弥生の間にはそれはなかった。

 自分の知らない、あるいは考えもしていなかった意見を相手が出してくることで、新鮮な気持ちで自分の意見と向き合えるものだった。

 つかさは今までの自分の中にはそんな感情はないと思っていたが、どこかに懐かしさがあった。中学時代までのあの天真爛漫と言われた頃の記憶だったのだ。

 今は弥生に天真爛漫さを感じていることで、弥生の意見を、

「とにかく聞いてみよう」

 という考えになれた。

「つかさは、意見を相手に合わせようとしないところが私にはありがたいかな?」

 と弥生が言っていたが、それはつかさにとっても、願ったり叶ったりであり、気持ちは同じだった。

「弥生の意見には、何か懐かしさがあるのよ。私が忘れていた何かを思い出させてくれるようなそんな感覚ね」

 とつかさは言った。

 まったく違ったことを言っているようだが、つかさには、結局は同じことを言っているのだと思えてならなかった。つかさが感じる懐かしさは、たぶん、同じ感覚を味わったことがなければ感じることのないものであろうからである。

 二人は、別に、

「精神分析研究会」

 のことを忘れていたわけではなかったが、なぜか話題にならなかった。

 キャンパス内の通路では、所狭しと新入部員勧誘のブースが入学式の時と変わらぬ姿を見せていた。

 だが、最初こそ度肝を抜かれたかのような、お祭り騒ぎに見えたが、今ではすっかりメモ慣れてしまって、そこにあるのが当たり前であるかのようい思えてならなかった。

 さすがにブースは設けているが、入学式の頃のように、積極的な勧誘もなくなった。

「来る者は拒まず、去る者は追わず」

 とでもいったところなのか、人気のあるサークルには、すでにまとまった新入部員が入部していることであろう。

「そういえば、最初に知り合ったあの、何とか研究会、新入部員入ったのかしら?」

 と、弥生が訊いてきた。

「どうなでしょう? あの時の雰囲気や部の内容の怪しげなところを見ると、いないんじゃないかって思うわ」

 とつかさが答えた。

 つかさの方としても、ずっと話題に上らなかっただけに、逆にそろそろ話題にしてもいいように思っていただけに、弥生の方から言ってくれたことは、渡りに船だったのであった。

 ほとんどのサークルが呼び込みをしなくなったので、最初はその存在感がまったくなかった精神分析研究会のブースだったが、今ではまわりも静かになっているのだから、少しは存在感があってもいいように思えたが、通りかかってみると、まったく存在感は感じなかった。

「気付かなければ、通り過ぎてしまう」

 と言わんばかりの雰囲気に、誰も見る人もおらず、ブースの中に留守番として一人いるだけだった。

「誰も来る人いないようでうsね」

 と言って、弥生がいきなり声をかけると、留守番の先輩は一瞬ハッとしたようだったが、弥生とつかさの姿を見て、

「ああ、そうだね。来てくれたのは、正直、君たち二人きりだよ」

 と、口ではそう言っているが、別に落胆している様子はない。

 この状態を、

「仕方のないことだ」

 として諦めているようだった。

 こんな様子を見て弥生が、

「こんな状態で、本当に部活ってやってるの?」

 と訊いた。

「何とかやってるよ。基本的には自習が主なんだけど、なぜかというとうちのメインの活動は、定期的な機関誌を出していることと、心理学の研究発表を自分たちの中でやって、たまに教授と、そのことで話に花を咲かせるというところだろうかね」

 と言っていた。

「機関誌の発行なんてすごいじゃないですか」

 と弥生がいうと、

「学校からの部費なんてそんなに出るものではないので、自分たちで手出しの部費を積み立てて、同人誌のようなものを発行しているんだ。これは最初こそ心理学的な研究発表に限った雑誌だったんだけど、今ではそれだけではなかなか部員も続かないということで、文芸であれば、何でもいいということになったんだ。つまりは、小説でも随筆でも、ポエムでもいいんだよ」

 と言っていた。

「それは面白いですね。それだったら、興味があるかも知れないわ」

 と言って、弥生は前のめりになっていた。

 そういえば、少し前につかさは弥生とそういう話をしたのを覚えていた。

「私は創作するのが好きなので、物語を作ったり、絵を描いたりできればいいと思っているのよ。でも絵だけはなかなか素質が必要なようでうまくいかないんだけど、文芸だったら何とかなるんじゃないかって思うのよ」

 という弥生に対して、

「文芸だって難しいわよ」

 というつかさに対して、

「そんなことはないわよ。目の前にあることをただ書くだけで描写になる。会話だって喋れるんだから書けるはずでしょう? でも絵というのは、遠近感だったり、バランスだったり、きっと持って生まれた何かが必要だと思うのよ。私はその部分が欠けていると思うの。その分、文芸ならできそうな気がするんだけど、ちょっと都合がよすぎる考えかしら?」

 と弥生がいうと、

「そんなことはないと思うけど、でも、文芸は難しいわよ。私も中学の頃書きたいとずっと思っていたんだけど、結局書けずに何度も挫折したような気がするの」

 とつかさが言った。

「要するに、何をするにしてもきっかけが必要なのと同じで、自分で納得するものができるまでには、必ずきっかけが必要だと思うの。それは自分が納得するものであるんだけど、それ以前に一番の問題は、『書き上げること』だと思うのよね。書けないと思っている人は、どうして書けないのかで悩むはずなんだけど、それは途中でそう思うからなのよ。とにかくどんな納得がいかないものであっても、最後まで書き上げる。それが一番大切なことではないかと私は思っているわ」

 と、弥生は言った。

 その意見は前から持っていたもので、彼女の意見に賛成だった。

「そうよね。私にとっては書き上げる前に構成を考えるところからつまずいているんだけどね」

「そうじゃないのよ。構成とかいう以前に、写生でもいいから、一つ書き上げてしまうことが重要だと思うのよね。一番大切なのは、実績に基づいた自信なのよ。それには完成させることが一番大切なの」

 と弥生は言っていた。

「実は今度、新入生を対象に、カタルシス効果の実験をやるんですが、来てみませんか?」

 と先輩に言われて、

「カタルシス効果?」

 と、つかさが聞くと、

「それは、体のいい『ストレス解消』のイベントですよね?」

 と弥生は、笑いながら言った。

「どういうこと?」

 とつかさが聞くと、

「カタルシス効果というのは、、寂しさ、悲しみ、辛さ、苦しさのような不安やネガティブな負の要素が話をすることによって取り除かれる効果なのよ。精神的に自虐的になるからなのか、それとも、ネガティブなことをいうことで、内に秘めてしまうと、悪い方にばかり考えてしまうことがなくなるという効果なのかも知れないわよね。私個人としては、カタルシス効果というものを信じているんですけどね」

 と弥生は説明してくれた。

「人間は、本当に面白いですよね、基本的にはポジティブなことを口にしていると、アドレナリンが放出されたりして、いい方向に進むというけど、ネガティブなことをいうことも悪いわけではないという発想は新鮮な気がしますね。さっきの言っていたように、ネガティブなことが重なると、どんどん悪い方に堂々巡りを繰り返す。それはなぜかと考えると『鬱状態への入り口なのではないか?』と感じたんですよ」

 と、先輩がいった。

「なるほど、鬱状態ですね。私も受験生の時には鬱状態に陥ったんですが、躁状態とが交互に襲ってきたので、躁鬱症だったのではないかと思っています」

 とつかさは言った。

「躁鬱症というのは、基本的に躁状態を先天的に持っていなければ陥らないと思うんですよね。鬱状態というのは結構陥る人はいますよね。環境だけで陥る人は陥ります。でも躁状態というのは、環境だけでは決して入ることはないと思うんですよ。だって、躁状態というのは、鬱状態と逆で鬱に陥りそうな時であっても、いい方にしか考えられないんですよね。これってすごいことですよ。よほど、自分を客観的に見ることができないと入ることはないと思います」

 と先輩は言った。

「私は躁状態に入ったことはないんだけど、躁状態の人は入ったことのない人間から見れば、怖く感じるですよ。鬱状態よりも、よほど病的に思える。特にまわりは、躁状態を能天気と呼んだり、あまり深く考えていないというけど、それだけではなれないと思うんですよ。きっと病気のように何かの原因か、菌のようなものがあるじゃないかと思うと、それが恐怖に繋がるんです」

 と、弥生は言った。

 自分が、

「躁鬱だ」

 とカミングアウトしたにも関わらず、それを聞いたうえで今のセリフを口にするのは、つかさから考えれば、ひどいことのように思えたが、弥生には弥生の考えがあるので、何とも言えないが、かなりの毒舌なのだろうと思えた。

 ただ、話に説得力はあり、一言で気持ちをぶち抜かれる気がするから、説得力を感じるのだろう。

 ダラダラと理屈をこねられると、説得力を感じない。秒殺で射抜かれると、目が覚めたような気になるのだろう。ひょっとすると、カタルシス効果も、似たような効力を持っているのではないかと思うのだった。

 カタルシス効果は、ストレス解消お意味が強いのだろうが、果たしてそれだけだろうか? 負のスパイラルが堂々巡りを繰り返すという感覚が果たしてカタルシス効果を考えた人に分かっていたのだろうか。考えた人は。確かフロイトだったと思う。フロイトは精神分析や精神科の部門での世界的なパイオニアだということは知っているが、なかなか精神分析関係の話は難しいので、どうしても避けてしまっていた。

 だが、本当に避けて通れるものなのだろうかと思ったのは、弥生と知りあったからではないだろうか。弥生もひょっとすると、つかさと知り合ったことで、それまでの自分の中でだけ済ませようとしていた感覚が広がるかも知れないと思うようになったのかも知れない。

 鬱病の人は、いろいろ社会的にも過去から問題にはなるが、躁状態の人のことを問題視することはあまりない。

 天真爛漫であったり、楽天的だという表現をすることはあっても、むしろいい意味で使われることが多い。鬱状態と一緒の時で、躁鬱症と言われると、一気に悪いことのように考えられるが、それも重点は鬱状態に置かれていて、躁状態はそれほど悪いことのように言われない。

 むしろ、楽天的すぎると、考えが甘くなってしまうということで、性格的なことよりも具体的な考え方の方に目が行ってしまうので、躁状態そのものを問題にすることはあまりないと言ってもいいだろう。

 だが、最近のつかさは、躁状態の時の方が怖い時がある。それは、

「暗示にかかりやすいのではないか?」

 という考えである。

 例えば、宗教団体などの組織において、催眠術や、マインドコントロールなどで、人心を操ろうと考える人は、まず人間を、

「いかにすれば、集団催眠に掛けやすい状態になるだろう?」

 と考えた時、

「何事もいい方にしか考えず、深く考えない人が集団催眠に掛かりやすい」

 と思っている。

 集団催眠というのは、一つの集団を、皆同じ方向に向かせるために行うのが、宗教団体などのような組織の目的である。一度にたくさんの人を先導するのだから、まずお互いのことを気にしないような精神状態に導くことが大切だ。せっかく催眠に掛けたとしても、すぐに我に返って、元に戻ってしまっては元の木阿弥になってしまう。そうさせないようにするためには。余計なことを考えないようにしたうえで、催眠を掛ける必要があるのだ。

 強烈な催眠であれば、一度掛かってしまうと、何かの暗示がなければ解けないというではないか、つまりいかに催眠に掛かりやすい状態を作り上げるかというのが重要なのだ。

 そのためには、人間同士の信頼関係は一番邪魔になることだ。自分が催眠に掛かっても、相手が掛からなかった場合、他人を意識する気持ちが残っていれば、催眠にかかっても、過去からずっとつながりのある人の言葉を無視できないと無意識に感じると、そこで迷いが生じ、我に返ってしまうことだろう。

 たった一瞬の催眠がいかに強烈でも、今までの自分というものを作ってきた基礎が残っていて。意識してしまう以上、洗脳は難しいだろう。

 つまりは、ロボットのように、感情を持たない状態にすることが、マインドコントロールの本質ではないだろうか。

 そもそも催眠というのはそういうものではないか。意識がなくなった状態で、術を掛けた人のいうことだけを聴く。それがどんなに理不尽なことであっても、聞かなければいけないほど強力なものである。もし、命令者が、

「自殺しろ」

 と言えば、命令には従わないわけにはいかない。

「死ぬまで正気には戻れないんだ」

 ということの証明のようで、死んで初めて目を覚ますということである。

 だから、催眠というのは、本当であれば、人間のように複雑な精神回路を持っているものは掛かりにくいはずなのに、なぜこんなに簡単にかかってしまうのかというと、きっと、人間というものが、

「怖いこと、不安、悲しみ、そして辛さ、苦しさ、つまりは、ネガティブな発想を持っているからなのであろう」

 と言えるのではないだろうか。

 だが、逆に人によっては、躁状態というのも持っている。(ちなみにつかさは躁状態というものは、人間であれば誰でも潜在しているものだと思っている)

 だから、無意識にも意識的になることができる。躁状態には、皆無意識に入っているつもりでいるが、鬱状態が終わりかけると、躁状態が見えてくるという現象から、無意識ではあるが。意識していると思っているのだ。

 そんな躁状態を持っていることは、不安というものを裏付けるために必要なもので、不安というものの存在の辻褄を合わせる意味でも躁状態が存在していると思っている。

 ただ、不安がすべて悪いものだとも、躁状態がすべてポジティブなことなのでいいことばかりだとは言えないのではないだろうか?

 マインドコントロールというのは、事会で聴いたことはあっても、実際に自分のまわりにはそんなものは存在していないと誰でもが思っているに違いない。それこど、無意識に意識している証拠なのだ。マインドコントロールというものを実際に信じているのに、自分には関係ないと思う。その他人事な考えが躁状態を作りだし。その状態が、マインドコントロールを引き起こさせることになるとは、何とも本目津点灯なことではないだろうか……。

 マインドコントロールと、カタルシス効果、この二つがいかに絡み合って催眠術を構成するか、見てみたものである。

 だが、実際に行うのは大学生なのだろう。しかも、これは奇術団における「魔術ショー」などとは違うものなので、いかな結果になるか恐ろしい。

 しかも、お題目は、

「実験」

 ということである。

 当然、実績があると考えてもいいのだろう。特に催眠術というのであれば、かかるだけは問題ではない。元に戻らなければ、それこそ大問題だ。

 ちなみに催眠状態というのは、どういうものなのだろう?

「実験ということですが、催眠術のようなものだと考えてもいいんですか?」

 と聞くと、

「一種の催眠状態だと思っていただいていいのではないかと思います。ただ、『厳密な催眠術なのか?』と訊かれれば、私は何と答えていいのか、返答に困ってしまいます。とにかく一度自分の目でご覧になってもらうしかないですね」

 と先輩は言った。

「催眠術というのはどういう状態なんでしょうね? 私が以前見た催眠術では、生理的に受け付けない嫌いな動物であっても、催眠状態であれば、掴んだり、身体に乗っけたりするのを笑顔でできるくらいですから、本当に、相手に死ねと言えば、殺すこともできるんでしょうね」

 という話であった。

「だけど、人間の生理的なものというのは、本能で動くものなので、洗脳されると、本能よりも強いものということなんでしょうね。その間の記憶というのは、まったくなくなってしまうものなのでしょうか?」

 とつかさが聞くと、

「催眠状態というのは、意識はないそうです。だから、生理的に受け付けない動物を催眠状態で触っても、催眠から覚めて誰から何も言われなければ、まったく覚えていないということです。つまりは、意識だけではなく、感覚すらもなかったことになるんでしょうね」

 と先輩はいう。

「本能が覚えているようなものだと思うんだけど、そんなに自分お内面よりも催眠術の方が強いというのも、何とも釈然としないですね」

 とつかさがいうと、

「というと?」

 と先輩は言う。

「私たちは、どうしても、自分中心主義が頭にあるので、無意識であっても、本能におるものが一番強いと思うんだけど。催眠術はその本能よりも強いものを残しているということになるんですよね。ということは、催眠術という他人の意識づけの方が強くなり、やはり釈然としないんですよ」

 とつかさがいうと。

「それは違うんじゃないかな? 催眠術というのは、あくまでも人間の奥にある潜在的なものを引き出すだけで、やはりその人が持っているものを利用するだけなんです。生理的に受け付けないものでも、催眠術で受け付けるというのは、その人が究極に自分を極めれば。苦手な動物はなくなるということなのかも知れないですね。人間の限界というのか、催眠術は人間に限界というものを押し付けてはいけないということを教訓として教えるためにあると考えるのは、かなり危険なことなのかも知れないですね」

「そういう意味で、催眠を胡散臭いと考え、宗教によろ洗脳や、人間の限界を極めるような考え方が、普通に生活している人間に対して不安や恐怖を与えることから、宗教団体は敬遠されるのかも知れない。宗教団体を擁護するつもりはないが、すべてを否定するというのも違う気がする。かといって、宗教団体がそれぞれ個性があっていいものかという考えも一つにはある。だって、人間にとっての全知全能の神とされる宗教ごとのカリスマが、そんなにたくさんいてもいいものだろうか?

 そもそも、世界での戦争の半分以上は、宗教戦争だと言っても過言ではない。

 洗脳であったり、マインドコントロールが宗教というものを司ってきたのであれば、やはり人間の限界というその存在を勝手に求めてもいいものなのか? あるいは、その限界を決めるのが人間であっていいものなのか、実に疑問である。

 神話などに出てくる神というのは実に人間臭い。嫉妬や恨み、性欲や名誉欲などが人間界と絡み合って、歪な世界を作りあげている。

「神だってしょせんは人間の創造物だ」

 と言えるのではないだろうか。

「だが、神話では神が人間を作ったことになっている。これは、タマゴが先かニワトリが先かという無限ループ」

 という考え方に近いのではないだろうか。

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