第3話 不思議な死体
清武が開発をしているのは、
「乳製品によって作られる加工食品であったり、調味料の開発」
であった。
味の方は、清武のように、牛乳自体を受け付けない人が考えると、
「できるだけ牛乳の味から遠ざけたい」
と思うのだが、そもそもアレルギーが原因で乳製品を摂取できない人のためということなので、牛乳の味から遠ざけてしまうということは、本末転倒になってしまうことだろう。
だから、アイデアが凝り固まってしまうことになりかねないとして、助手を従えていた。
それも男性ではなく女性、やはり洋菓子やスイーツの対象になる性別年齢層というと、二十代から三十代の女性ということになるだろう。
今の助手は二代目になる。最初の助手は、清武が研究所に入所した時についてくれた人で、彼女が三十歳になった時、寿退職したことで、新たな助手を、当時の新入社員から選んだのだった。
その女性は、短大を卒業して、三年目を迎えていた。短大での成績も優秀だったので、研究所に配属になったのだが、よほど向いていたのか、すでに開発メンバーとしてはなくてはならないメンバーになりつつあった。
それから二年してから、研究所が独立して。清武が研究所の所長になったことで、助手兼秘書のような仕事も担うようになっていた。
しかし、助手としての仕事も何とかこなせるようになり、秘書の仕事はどうなのかと思われたが、実にそつなくこなしている。そもそも短大時代に、秘書検定も摂っていたので、違和感はなかったことだろう。
ただ、清武は所長になったとはいえ、開発員としての立ち位置を大切にしていた、あくまでも。
「一研究者」
としての自分だと思っていて、
「もし、所長と研究員のどちらかを手放さなければならないとすれば、迷わず、所長の立場を手放すことになるだろう」
という立場を保っているので、最初の彼女の立場は、
「秘書というよりも、助手の方」
という立場であったが、清武が所長の仕事が中途半端になりそうになっているので、必然的に、彼女に秘書の仕事の比重がかかってきたのだった。
彼女の名前は波多野千晶といった。
賢明な読者諸君は、
「波多野?」
と聞いて、
「どこかで聞いたことがあったような……」
と感じたことだろう。
そう、皆さんのご想像の通り、前述の波多野副所長と関係があった。
そもそも、千晶がこの会社に入社したのは、兄がいたからというのもあった。
断っておくが、彼女は兄の力で入社できたわけではなく、逆に彼女の成績からすれば、お願いしてでも入社してほしいくらいであった。何も知らない一般所員の中には、
「兄の七光りではないか?」
と言われるかも知れないが、波多野兄妹は、そんな言葉をいちいち気にするほど、小さな人間ではなかった。
「言いたいやつには、言わせておけばいい」
という風に、ドンと構えていたのだ。
千晶は、所長秘書の仕事までしなければいけないということで、その補佐を副所長である兄が手伝っていた、
「さすが、絶妙な呼吸」
と、清武所長を唸らせるほど、二人への信頼度は絶対だったのだ。
そんな毎日を過ごしていると、きっと毎日があっという間だったに違いない。
あの冷静沈着な波多野千晶が、
「もし自分を見失う時期があるとすれば、本当に何かのきっかけが絶妙のタイミングで訪れなければ、道を外すことなどないだろう」
と言われていた。
千晶は、会社の中では大人しい方なので、何を考えているのか分からないという人が結構いるが、さすがに兄の副所長と、自分が助手と秘書を兼任している所長の清武には、彼女が何を考えているかは想像がつくようだ、
しかし、その対象はそれぞれ違っていて。兄が気が付く部分は、清武には言づかない部分であって、逆に気付く部分は兄が気付かない部分であったりする。
もちろん、共通して分かる部分もあるのだが、このすべてを埋め尽くせば、千晶の考えていることのすべてになるのだった。
もっとも、清武には自分が分からない部分を兄が分かっているということ、逆に兄には自分が分からない部分を清武が分かっているということは知らなかった。一番この状況を把握しているのは、他ならぬ千晶であった。
千晶は分かっているというよりも自覚と言えばいいのだろうが、千晶には自覚という感覚がない。自分のことを分かっているのは、自覚からではなく、他人事のように見ることができるからで、それが全体を見ることができるという冷静な目だということができるのだろう。
だからこそ、千晶には秘書の仕事をしながら、助手もできるというところがあるのだが、それは決して彼女が自分のことを分かっているからではなく、自分のことを他人ごとのように見ることができるという概念からであった。
清武が所長を務める研究所は、最初はスイーツや洋菓子専門の研究所であったが、次第に調味料や、肥料などの研究も行うようになっていった。その方針を考えたのは、副所長の波多野氏であり、彼は所長を説得して、自分が調味料研究の部長も兼任していた。
彼は前にいた会社が調味料を専門に販売していた会社であり、開発技術もほぼ昔から競合の追随を許さないほど、強大な会社だった。
元々、彼を引っ張ってきたのは、調味料研究を細々とやらせるためだったのだが、ここまで調味料にのめり込んで開発ができるようになったのは、波多野氏が元いた会社とのパイプが強かったからである。
そもそも、前にいた会社が、他の競合の追随を許さなかったのは、新たに開発した調味料の特許をすかさず取得してきたからだった。
特許を申請し、許可されるまでには、いろいろな書類の提出が必要なのだろうが、まごまごしていると、特許申請が成立する前に、他の会社から発売されてしまう可能性がある。そのあたりを一切できなくするノウハウが、この会社にはあったのだ。
開発能力と、開発した製品を他に渡さないテクニック。この二つを持っていれば、業界での立場は安泰だと言えるだろう。
調味料の開発と、牛乳アレルギーに関わる研究は、意外と切っても切り離せない状態だった。
最初は調味料から開発するという概念までは清武にはなかった。市販の調味料をいかに利用するかということを考えてはいたが。調味料が多きあカギを握っていることは分かっていた。
そこへ、会社の方で、調味料大手メーカーの重要人物が入ってくるということが分かった。最初は、
――自分の開発にどんな調味料が有効か、調味料の専門家に訊ねてみよう――
という程度にしか考えていなかったが、波多野氏の方では、
「所長、私はここで、調味用の開発から携わっていきたいんです。前の会社のノウハウは頭の中に入っていますから、ある程度はできると思います。ただ、前の会社のように特許を取りに行ったりするとバレてしまい、せっかく今良好な関係を結んでいるのが壊れてしまいます。そうなると、いい調味料が格安で入荷させることができなくなり、経皮的には大きな痛手です。だから、ここは、開発した調味料を表に公表するのではなく、製品の中に隠してしまえばいいわけです。他の会社もまさかせっかく開発したものを発表しないなんて概念はないでしょうから、うまい作戦だと思います。それは私たちのこの会社が調味料を製造しているという企業としての概要の中に含まれていないからですね」
と言っていた。
だから、新しい調味料の部署は、開発目的ではなく、いかに調合するかを専門的に考える部署だということにしておけば、まさか他の会社も、既成の調味料が市場委溢れているのに、わざわざ開発をするのだということに気づくことはないだろう。
「所長、特許を取るよりも、こっちの方が効果的だとは思いませんか?」
と言われて、説得された清武は、さっそく経営者会議に諮って、新部署の設立に尽力した。
もっとも、波多野氏の前もって手を打っておいた調整のおかげで、事は思ったよりも順調に進み、部署設立までには時間はかからなかった。
副所長がそのまま部長になり、ほぼ波多野氏の考え一つの部署になった。表には出すことのできない極秘を持っているため、社員も本当の部署の意味は知らないことだろう。
だが、ここで開発された調味料は洋菓子やスイーツだけでなく、パンの方にも惜しみなく使われた。完全に、業務用の開発であった。
この敷地内にある大きく分けて三つある部署。
開発関係部署、工場、物流センターと、それぞれに稼働時間がバラバラである。
開発部は、ほぼ本社と時間に変わりはないが、工場は、早朝からの稼働で夕方までの仕事なので、収量は開発部と変わりはない。そのため、陣人は早番、遅番の二交代制である。しかし、物流センターは二十四時間の稼働だった。ここの物流センターは、オオワダコーポレーションの物流だけではなく、他の物流に弱い会社のための、物流代行業も担っているので、結構な大所帯になっている。勤務は三交代制で、倉庫内は、他の会社の製品も置かれているため、かなりのスペースとなっていた。
そもそも、物流センターと工場は別の場所で運用していたが、立地を考えると、物流センターに一つの機能を持ってくるのが最適だと考えた社長が経営者会議に諮って、数年前から、この運用になったのだ。
だから、表から見ると、二十四時間すべての部署が稼働しているかのように見えるほど、物流センターの方は活気に溢れている。しかし実際に二十四時間なのは物流部門だけで、会社の中枢は、普通の会社の勤務と変わりはなかった。
その日の異変に最初に気付いたのは、朝の七時半くらいに出社した開発部門の新入社員である山口であった。彼は、
「親友社員というのは、誰よりも早く出社し、仕事前に一通りん掃除をすませるものだ」
という風に考えていたので、ほとんどの社員が恥時をすぎないと出社してこないのに、彼は七時半までには会社に来ていて、掃除を始めることにしていた。最初は、少しきつかったが、慣れてくると、これも日課になり、それほど辛くなかった。そろそろ朝が寒い時期になってきたので、起きるのが辛いとは思ったが、目が完全に冷めてしまと、出社してくることに違和感はなかったのだ。
その日も、七時半に出社してくると、すでに動き出している工場、二十四時間、どこをとっても切り取ることができないかのような、エンドレスを感じさせる物流センターと、会社に入ったとたん、仕事のスイッチが入るのは、ありがたかった。
山口青年は、いつも敷地内の入り口から、一番奥にある開発センターまでを、倉庫内を横切るようにして歩いていた。
山口は倉庫内に響いている音で好きな音があった。それはフォークリフトがバックする時の甲高い警告音だった。だだっぷろい倉庫に置かれた商品の間を縫うようにして、乾燥した空気に響き渡るその音は、いつ聞いても新鮮だった。
特に、朝聞くその音が好きだった。夜の音も嫌いではなかったが、仕事が終わって、気だるさが残っているために、余計に気だるさを演出しているようで、朝の音とはまた違って聞こえることが嫌だったのだ。
どうしても疲れを誘う音、
「今日も、仕事が無事に終わってよかった」
というよりも、フォークリフトの音だけは気だるさしか演出していないように思えた。
それだけに、朝の音が余計に爽快感を与えているように思えて仕方がないのであった。
そんな倉庫を通り過ぎて、真っ暗な事務所、まったく活気がなくて、広い倉庫を見てきただけに、まるで小さな檻にでも入れられたハツカネズミにでもなったかのような気分だった。
だからと言って、朝一番で憂鬱になる必要などまったくない。それこそナンセンスというものだ。
開発部の事務所の元気は、まず最初にセキュリティシステムを解除して、カギで扉を開けると、その左側にある、全体のスイッチを入れると、部署すべてのライトがつく仕掛けになっている。一度つけておいてから、そのさらに隣にある、部署ごとのスイッチ分電盤で必要以外のスイッチを消すという仕掛けになっていた。
「どうして、こんな面倒な仕掛けにしたんですか?」
と訊いてみたところ、
「メインスイッチと、その横の部署ごとのサブスイッチとは別々の管理になっていて、連動はしているが、もし、どちらかが壊れても、片方は稼働できるように、非常用として考えられたようだ」
ということだった。
この照明に限らず、大切な情報を持ったサーバー(ただし、ここはバックアップ)や、電灯関係は、無停電装置が噛んでいる。
「なるほど、よく考えられているな」
と感じた。
その日もいつものようにメインスイッチをつけて、サブスイッチで不要な電気を消そうかと思って移動すると、ふと事務所の机の配置が普段と違っているような気がした。開発部にはいくつかの課に分かれていて、机の配置も、部署ごとの島に分かれているのは、どこの事務所も同じで、その島もほぼ、等間隔になっていた。
しかし、その日は、中央部だけが、やたらと広い感覚を保っていて。端に行くほど窮屈さを感じさせた。まるで中心部に、ステージでもあるかにょうだった。
気になって、山口は中心部に歩いて行ってみると、部屋に入った時から感じていたのだが、無性に甘く、そして何の匂いかすぐには判断できないような、腐りかけたような臭いまでしていた。
しかも、これは最初から分かっていたが、入った瞬間にムッとした暑さが感じられた、幾分かは寒さが感じられるようになったとはいえ、暖房などまだいらない時期である。それなのに、誰もいない事務所に暖房がついていて、甘く何かが腐ったような臭いは、異臭以外の何ものでもなかった。
まず、急いで暖房を消した。そしてハンカチを取り出し、鼻を摘まむようにして、恐る恐る中央部への向かっていった。
「うわっ、何だこれ」
と思わず叫んだのだが、まず目の前に飛び込んできたのは、白衣を着た女性が横向きに垂れ込んでいて、胸からは血が噴き出していた。
最初は白衣ですぐには分からなかったが、彼女の顔や、床のカーペットに沁みこんでいる白い液体、ほとんどはカーペットが吸い込んでいたのだが、何しろ量が結構多かったので、白い部分が固まるようにして、残っていた。
「これだけ熱いと、沁み込むよりも先にカーペットの上で固まってしまうのかな?」
と考えた。
この白い液体、臭いなどから考えると、牛乳であることは一目瞭然であった。目の前に、一人の女が胸を刺されて死んでいて、その身体には牛乳がまき散らされていたのだった。
「これは一体、どういう状況なんだ」
と思って、彼女に近づいてみると、その横にまた何かが倒れているのが見えた。
今度は男で、この男には別に何も掛けられている様子はなかった、首筋を見ると、紫色に変色していた。
「絞め殺されたんだ」
と思って、反射的にまわりを見たが、凶器と思しきひもはどこからも発見されなかった。
まずは男の方をよく見ると、そこに倒れているのは、直属の上司である。阿佐ヶ谷直之だった。
阿佐ヶ谷の表情はいかにも苦しんだかのように断末魔の表情がくっきりと残っていたが、最初に発見した女の顔に苦痛の表情が現れてい赤ったことで、
「即死だったのかな?」
ということが言えそうで、声を立てる暇もないくらいだったのかも知れない。
この女の胸にはナイフが残っていて、それが止血になっているのか、白い液体にほとんど血の色である赤い色が混じってはいなかった。
「死体から流れた真っ赤な血と牛乳を混ぜ合わせて数時間経てば、どうなるんだろう?」
と不謹慎な発想をした。
だが、彼も研究者の端くれ、気が動転しながらも、そんな発想を浮かべたとしても、それは無理のないことだっただろう。
「急いで警察に知らせないと」
と思い、事務所の電話から、警察へ連絡した、そして警察が到着する前に、まずは上司に報告をしないといけないと思い、山口はまず、所長に連絡を入れた。
本当であれば、所長直接ではなく、副所長の波多野氏へ連絡を入れなければいけないのだろうが、どうしてもそれはできなかった。
署長の清武に連絡を入れると、
「分かった。すぐに行こう。それまではなるべく何も触らずに、警察がくれば、警察の指示にしたがって行動してくれ」
と言ったあと、思い出したように。
「どうして私に最初に連絡をしてくれたんだい? 緊急時のルールとしてはまず副所長だということになっているのでは?」
と、社長は、電話がかかってから死体があったという報告を受けただけの時に思い出したようにそう言った。
「それが、そうもいかなかったんです」
と山口がいうと、彼が一体何が言いたいのか分からず、疑問は収まらず、
「どういうことだ?」
と聞くと、
「実は、最初に発見した女性というのが、副所長の妹さんである、波多野千晶さんだったんです。社長としても、秘書であり助手ですので、まずは肉親の副所長よりも、直属の上司である所長に連絡をすべきだと感じました」
と山口はそう言った。
一瞬言葉を失った清武所長だったが、
「よし分かった、上層部と波多野副所長への報告は私の方でしておこう。それともう一つなんだが、一緒に死んでいるという男性の身元は分かったのかね?」
と聞かれた山口は、
「ええ、もう一人の被害者は阿佐ヶ谷家長でした。なぜ、波多野さんと阿佐ヶ谷家長がそこで亡くなっていたのかは分かりませんが、とにかく私は警察が来るのを待つようにいたします」
というと電話を切った。
とにかく時間的には、まもなく署員が出社してくる時間でもあり、他の部署はすでに稼働している。それを思うと警察が入ってきただけでパニックになることは想像がついた。清武所長とすれば、本当は自分が上層部と戦後策を協議する間、現場を取り仕切る刑事と、従業員の間に入ってもらう人として適任だと追われる副所長の娘が被害者ということで、難しいと思われた。ひとまず、自分が会社に出社しなければならないことは目に見えていたのだ。
そうこうしているうちに、現場に警察がやってきた。辰巳刑事と山崎刑事のコンビが神妙な表情で数人の捜査員を連れてきたのである。
「ご苦労様です」
と、山口は、先頭を歩いてきた辰巳刑事に敬意を表したが、辰巳刑事は軽く会釈をして山口を見た。
「あなたが、通報してくださった山口さんですか?」
と聞くと、
「ええ、そうです」
と言って、明らかに動揺しながら、声も震えている。
無理もない、人が殺されているところを見るなど、一生のうちにあるかないかというくらいのものであり、しかも自分が第一発見者ともなると、まず想像することもないだろう。
「じゃあ、殺害現場を拝見いたしましょう」
と言って、山口に案内させたが、山口と一緒に開発部の事務所に入った二人は一様に、
「むっ、うう」
と呻いて、顔をしかめ面にしたまま、口や鼻を塞いだ。
「なんだ、この臭いは」
「研究所員である山口でも、最初に入った時に違和感があった臭いである。まったく研究に関係のない人であれば、この臭いは耐えられる限界を超えているかも知れない。それほどの異臭が漂っていたのだ」
甘い匂いと酸っぱくて腐りかかった臭いが、消えるどころか、時間の経過とともに、さらにひどくなっているのではないかと、第一発見者として、先ほどの臭いを知っている山口は感じた。それほど、短期間で臭いの不快さが倍増していたのだ。
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