第2話 牛乳アレルギー

 清武は、研究所に入所後、一つの課題に取り組むことになった。それは、

「牛乳アレルギーでも、食べれる乳製品の開発」

 というものであった。

 もちろん、本当の乳製品を与えることはできないが、いかに乳製品と同じような味であったり、同じ効果をもたらす洋菓子を作れるかという課題だった。

 この研究は、この会社がパン会社から独立してしばらくしてから始められた一大プロジェクトでもあった。

 だが、こんな研究はなかなかうまくいくはずもない。他のメーカーでも進められてはいるようだが、なかなか開発されない。モノが命に関わるアレルギーであるため、よほど安全性が確立されていなければ、商品化は難しいと言えるだろう。

 ただ、次第にプロジェクトは下火になってきた。メンバーは縮小されていき、会社の注目度も下がってきたのだ。

「研究所の目玉というよりも、密かに研究を続ける」

 という程度にしかならなあったが、そんな中でも、清武はこのプロジェクトから離れる気はしなかった。

 彼にとって最初に入った時のプロジェクト参加という思い入れもあった。

 さらに、人が減ってくることで、余計に自分が研究に勤しむことの意義を感じるようになった。そもそも天邪鬼なところがあるので、天邪鬼性を刺激したと言ってもいいだろう。

 会社の方でも、彼が残って研究をする分には何んら問題はないと思われた。

 そもそも、研究費用が掛かるからというところに問題があったのであって、彼は他の人の企画とは違い、極端に研究費用を使わない方法を、いつも提案してきた。これが彼の信念というべきか、人との差別化だと思っていることで、会社と彼の利害も一致したのだ。

 清武がそれだけあざとい人間であると言ってしまえばそれまでだが、どっちが利用しているのか分からないところが、清武のうまいとことであった。

 経費をあまり使わなくても、成果はしっかりとあげているそんな清武に、同じ研究員の中には嫉妬心を抱いている人もいないわけではなかった。

「あいつは、最初から洋菓子研究に脅威があったわけではないじゃないか」

 と言って、彼が薬学の研究員であったという過去をほじるし出して、そこを攻撃する人もいたが、しょせんは負け犬の遠吠えでしかなかった。

 清武の洋菓子研究で、実際に商品化したものも少なくはなく、清武はおいしさ重視というわけではなく、健康的で、身体にいいと呼ばれる製品の開発に掛けては、彼の右に出る者はいないと言われるほどだった。

 これは内部競争だけに限ったことではない。発売された製品は、いつもその時代のベストセラーとなり、宣伝効果もあって、別郡の売れ行きを示していた。

 清武の開発製品の特長は、

「全世代で支持される製品」

 ということだった。

 老若男女分け隔てなく上位に位置する製品ということで、総合ランキングはいつも一位だったのだ。

 清武の製品を専門家はどちらかというと支持するわけではなかった。味としては、さほどインパクトが深いわけではないが、どうしても、健康志向を考えると、全世代に支持される製品が売れ筋としては一番になるのは、今の時代いとしては仕方のないことであった。それは他の開発者も否定するわけではないが、こうも毎回、オオワダ社製作のスイーツがナンバーワンになっているというのは、他の専門家には気に食わないという証拠であろう。

 そのうちに、ある時、売れ筋ランキングナンバーツーではあるが、十代、二十代に爆発的な人気のあるスイーツが、食物アレルギーを持った人が摂取したため、救急車で運ばれるという事件が起こった。アナフィラキシーショックを引き起こしたようで、何とか処置が早かったおかげで、一命はとりとめた。

 しかし、そんなことがあったスイーツはすべて自主回収され、終売へと追い込まれる運命だった。それにもまして。アレルギーの恐ろしさを、さらに思い知らされた消費者は、余計に食品のアレルギーに対して、敏感になってきたのだった。

 本当はこれだけの人口がいるのだから、このような事件は起こらなかったとは言えないが、人気絶頂の商品で、しかもアナフィラキシーを引き起こすという、よほどの条件が揃ってしまったことでの不幸な事故だったため、事件として報道されてしまったのだ。そのせいもあってか、またしても、食物の安全性がさらにクローズアップされるようになったというわけで、ひょっとすると、定期的に見直されるべきための事件だったのかも知れない。

 そんなことがあって、世間ではアレルギー関係の事件が頻繁に発生するようになった。軽い事故から、救急車での搬送。実際に人が死亡するなどといった事件が連鎖反応のように起こってくると、さすがに政府も深刻に考えざるおえなくなり、アレルゲンの表記が法律化されるなどの事態になったことは周知のとおりである。

 そんな頃から食品業界は、いろいろな表記が問題になってきた。特に、賞味期限の表記に関しては、これも一つ不正が見つかると、どんどん判明していく。まるで誰かがすべてを知っていてリークしているのか、あるいは、どこか一つをターゲットにしてそこが見せしめのようにリークされ、明るみになると、その会社は世間からの総攻撃を受けることで、廃業の危機に陥ってしまう。そうなると、まわりでも同じようなことをやっている企業が自分たちを陥れようとしていると思い込み、その思い込みが真実かどうかは別にして、今までの暗黙の了解が潰れてしまう。そうなると、まわりの潰しあいになって、連鎖反応のように、

「あの会社も、この会社も」

 ということになるのも、無理のないことだろう。

 何が真実なのかは分からないが、事実として、賞味期限の改ざんが行われていたのであるから、生鮮や日配の食品会社は、会社同士でも疑心暗鬼、いや、それどころか、食品業界全体に対しての、消費者の不信感。これはもう、

「食の安全」

 を完全に脅かすものとして、社会問題になったのだ。

「もう、お肉や魚、生菓子は安心して食べられない。特に子供には与えられない」

 という主婦の声も多く聞かれた。

 生鮮、日配関係の会社では、食品ロスの問題は深刻なものだということは分かり切っていることだ。避けて通ることはできない。それだけにこの問題は真摯に受け止めなければならない。

 中には経営不振から、賞味期限の改ざんなどしたくもないことをしないと、会社存続というところもあっただろう。しかし、結局最後は泥仕合になってしまうのであれば、本末転倒である。そういう意味で、少々、味を落としても、少しでも日持ちのする製品の開発が急がれたのも、無理のないことであった。

 オオワダ総合コーポレーションもその例外ではない。

 それまで順調な成長を続けてきた洋菓子部門であったが、分離独立してから少しして巻き起こった、

「表記改ざん問題」

 に対しては、会社始まって以来の大きな問題として立ちはだかってきたのだった。

 さすがに会社が倒産の危機に陥ることまではなかったが、売り上げが下降していったのは間違いのないことで、そのたびに、トップが責任を取らされるということが多かった。

 責任と言っても、クビになるわけではなく、社長職は解任されても、親会社に戻って、部長クラスに収まるのだから、他の会社ほど切羽詰まったものではなかったに違いない。

 ただ、開発部に対しての期待と責任はかなり大きなものとなっていった。この会社だけの問題ではなく、、業界全体の社会不審を取り除くという意味でも大きな問題だった。

 まずは、

「味覚よりも、安全」

 ということが叫ばれるようになり、

「いかに味をなるべく損ねることのないように、どれだけ賞味期限を延ばすことができる製品を開発できるか?」

 という問題が大きかった。

 それは製品自体にも言えることであったが、オオワダグループとしては、

「今までの原材料に変わる新しい人口の原材料の開発」

 というものがクローズアップされるようになった。

 そういう意味で、最初は大きなプロジェクトであったが、途中下火になっていき、少人数での開発を余儀なくされてきた、

「牛乳アレルギーでも、食べれる乳製品の開発」

 という問題が、再度、日の目を見ることになってきたのだ。

 清田健三を中心に開発が細々であるが進んでいた。実際に開発段階は終盤に差し掛かり、経費の問題さえなければ、試作品を作り、実験を重ねられるくらいにまで進んでいたのだ。ある程度の机上ではできあがっていて、後は、実験。実は、そこから先が製品化まではなかなか長い道のりなのだが、一つの区切りがもう少しでできるところまで来ていたのだった。

 ただ、思わぬ社会現象の急変によって、彼らの研究は、牛乳という特定のものだけではすまなくなった。

「これから、今までの牛乳アレルギープロジェクトは、今度、賞味棄権延長プロジェクトとして再編成を行い、会社としても、全面的にバックアップしていくことが決定した。これまでの小さなプロジェクトから、正式に新部署として立ち上げることになるので、そのつもりでお願いしたい」

 というない湯が、経営者会議で図られ、正式に部署として立ち上げが決定した。

 その名も、

「食品改造開発研究所」

 という正式部署である、

 そこの所長に抜擢されたのが、これまでずっとプロジェクトでの実績を買われた清武であったのは、言わずと知れたことであった。

 清武は、入社すぐは、研修を行った音、牛乳アレルギーに関しての仕事一本だったが、規模の縮小に伴い、普段は食品開発部の部員として所属しながら、牛乳アレルギー開発も兼任していたという中途半端な立場であったが、今度は正式な配属になったばかりか、そこでの所長に就任するという大抜擢には、驚いた人も多いだろう。

 清武はその辞令を甘んじて受けたが、ただ、一つ条件として、

「私は研究者としての立場を変えるつもりはありません。あくまでも、所長である前に、研究リーダーも兼任する形をお願いいたします」

 というものだった。

 それは会社としても、望むところだったので、彼の望みはすぐに受け入れられた。

 こうして、

「食品改造開発研究所」

 は正式に立ち上がり、会社の重要な新部署として、日の目を見ることになったのだ。

 最初の頃は、食品開発部から移籍という形で少しずつ部員を増やしていたが、次第に外部からの募集を掛けたり、引き抜き部門の人たちも、回想開発に絞って人員を精査するようになってきた。

 新入社員などと違って、他の会社からの引き抜きなどは結構難しいところがあったが、今では他の会社でも行っている引き抜きに比べると、オオワダグループは歴史があるので、そのあたりは有利だった。

 研究員はある意味、

「売り手市場」

 であった。

 今までは会社に縛られる形が大きかったが、今は会社の方から歩み寄ってくる形で、

「思っている条件にそぐわなければ、別の会社に移籍すればいい」

 と考える人が増えてきたのだ。

 会社としても。開発者を養うというのは難しいことだった。営業社員や事務系の社員であれば、ある程度相手の気持ちを推し量ることは社会人として普通にできるであろうが、開発者というのは、いわゆる、

「偏屈」

 と呼ばれる人も多く、自分の理想や下手をするとわがままと呼ばれることも言い出すような人も少なくはない。

 自尊心が強く、プライドの高さとライバルに負けたくないという気持ちも営業などとは違う意味で強いだろう。

「会社のために」

 という考え方よりも、すべては自分のため、それも自分の名誉欲が強いので、えてして金銭の問題ではないだろう。

 会社トップの人の中には、

「何かあったら、金で解決すればいい」

 などという楽天的な考えを持っていると、大きな損をしてしまう。

 特に研究員にそんな姑息な考えを見透かされでもすると、すぐに見切りをつけられ、金銭では解決できないことを、その期に及んでも理解できない会社役員などがいる会社は、次第に没落していくことになるだろう。

 ある意味では、この時期は、業界再編と言われた時代でもあった。

 今まででは考えられないようなことが起こったバブル崩壊を思い出される時代であり、こういう業種ごとの再編というのは、目立たないが、毎年のように、どこかの業種で起こっていることなのかも知れない。

 だが、

「食の安全」

 のように、すべての国民に栄養を及ぼすような事件が元となっての業界再編は、何かの形を示さない限り、事件として終結はしないのだ。

 それを思うと、これからの時代、いかに先んじた開発が見られるか、大きな問題になることだろう。

 清武所長が就任してから、開発部では、いろいろな改革が行われた。それを行ったのは清武所長ではなく、別の会社から引き抜きにあった副所長に就任した、波多野祐介氏であった。

 波多野氏は、洋菓子関係の老舗ともいうべき会社で、総務部長をやっていた。

 最近の、

「食の安全」

 に関しての考え方が、幹部連中と大きな隔たりgあり、お互いに歩み寄ることのできない大きな溝ができてしまった。

 そのことを突き止めた引き抜き専門員が密かに波多野氏の考え方と、相手会社の考え方の隔たりがどこにあるのかを調査し、波多野氏がオオワダグループにふさわしい考えを持っていることを理解したことで、急接近したのだ。

 接近してから、移籍を決意するまで、さほど時間が掛からなかった。

 すでに波多野氏は、年齢的に五十歳を超えているので、それなりのポストを用意するつもりでいたオオワダグループだったが、彼が提示した条件は、

「改造開発研究所に携わるポスト」

 というものであった。

「所長はすでに決まっている」

 というと、

「副所長のポストで十分」

 ということもあって、一気に移籍が決定したのだ。

 そもそも、彼が元の会社で幹部と揉めたのも、

「他の会社のように、食品改革に重きを置いた部署を独立させて、自分がその部署のトップに立ちたいからだ」

 という意思があったからだった。

 波多野氏は、その意識を幹部との経営者会議で力説はしたが、他に漏らすことはしなかった。それだけに、その事実を知っているオオワダグループが恐ろしいとも感じたが、そこまで自分を必要としていることの表れであることが分かっただけに、大いにオオワダグループに興味を持ったのだった。

「こんな会社は、今までに見たことがない」

 と、波多野氏にして思わせるほどであり、オオワダグループに、残りの人生を掛けてみるのも悪くないと思うのだった。

「所長に就任するのは、我が社の生え抜きで、元々小規模な食品開発を行ってきた人物なのだが、まだ年齢は三十代前半と若いが、我々がもっとも信頼している社員なんだ」

 ということを聞いても、

「なるほど、御社がそこまで期待されている人物というのがどういう人物なのか、会ってみたいものですね」

 と、年齢に関しても、波多野氏に違和感はなかった。

 波多野氏は元々人の年齢を気にするわけではなかった。どれだけの経験を重ねているかということを重要視していたので、一つの会社にとどまっている人であろうか、いろいろと会社を渡り歩いている人であろうが、優先順位はかなり低いところにあったのだ。

 そんな波多野氏は、実は転職は初めてだった。

 確かに会社に入社した時は、

「年功序列の終身雇用」

 などという言葉は一般的で、

「一つの企業にずっといて、そこで出世し、最後はその会社に骨を埋める」

 というのが、理想のサラリーマンだったのだ。

 だが、頭の中では結構早いうちから、

「実力主義、自由主義」

 という考えが頭にあり、ただ、自分はそんな連中を発掘することに力を入れる方を選んだ。

 自分が動くわけではなく、動かす立場である。

 これは年功序列、終身雇用に対しての、自分なりの挑戦であり、実際に満足のいく成果を果たしていると思っていた。

 だが、時々会社に対しての不満が噴出することも多く、自分だけの問題では肩がつかないことにも直面したりしていた。

 それは、きっと自分が思っているよりも、大きな改革は社会で進んでいるからではないかと思ったが、社会が膨張しているのか、変化が激しいのかということまでは分からなかった。

 実際に、清武は牛乳アレルギーではないが、食するのは好きではなかった。

 牛乳だけに限らず、ヨーグルト、チーズ、乳製品と呼ばれるものは、ほとんど食べることはできなかった。

「人生のほとんど損している」

 と子供の頃によく言われた。

 給食で出た牛乳も、おかずを口に含んで、鼻を摘まみ、臭いを消すかのように一気に飲み干す。子供心によく考えたものだと思ったが、せっかくのおかずを味わうことができないのだから、なるほど、

「人生のほとんどを損している」

 と言われるのも分かる気がした。

 高学年になれば、ほしい人にあげていたのだが、その発想がなかったくせに、よくおかずで飲み干すという発想が思いついたと思う。要するに、目の前の危機をどう逃れるかということで、全体的に物事を見ることができなかったということだろう。

 しかし、そんな性格が大人になって幸いした。目の前のことであっても、思いつくだけ、いいというもので、その分、集中力が極度に発達してきた。もって生まれたものだということなのかも知れない。その方が理屈に合っているような気もする。集中力というのは、確かに鍛練で備わってくるものであろうが、ある程度以上の、専門的な集中力を伴うものということになると、誰もができることではない。その部分が生まれつきなのではないかと思うのだ。

 だが、全体を見つめる目を養う能力は持って生まれたものというよりも、成長するにしたがって、備わってくるもののように思える。特化した部分の養成は、成長期に養われるものだと思っているのは、全体を見る目は、大人になってから備わるものだと思うからで、当然、持って生まれたものだという可能性は低いのだろう。

 清武は、子供の頃から偏食が結構あった。乳製品が食べれないだけで、ほとんどが偏食といってもいいのだろうが、酸っぱいものや辛いものが苦手で、子供の頃は、餃子のたれや、カレーさえ嫌いなくらいだった。

 中学に入ってからは、カレーは甘口なら、餃子のたれも、醤油に軽くラー油を垂らして食べるくらいはできるようになっていた。

 夏より冬が好きな清武は、

「おいしいものが多い」

 という理由が冬が好きな一つの理由だと思っていた。

 そもそも血圧が低く、体温が低い体質なので、夏にはよく立ち眩みを起こしていた。水分と摂っても摂っても汗で出てしまう。汗が出ることで体力が消耗する。その悪循環を思い浮かべると、夏は耐えられないと思うのだった。

「冬は着込めばいいが、夏は素っ裸になっても暑い時は暑い」

 と思っていたのだ。

 夏にはよく呼吸困難になるのだが、それが牛乳がダメな理由の一つではないかと思っていた。

「牛乳というのは、他の飲み物と違って、コロイド状で夏に飲み干すと、喉に引っかかって、さらに呼吸困難を引き起こす」

 と思うのだった。

 大人になってから、健康診断でバリウムを呑まないといけない年齢になってきたので、去年はちょうど呑む年齢だったので呑んでみたが、意外と嫌なものではなかった。

 確かに、食感は牛乳と同じようなものであったが、牛乳の味がするわけではなかったので、味がしないというよりも、嫌いな味ではないことが、

「なんだ。こんなものか」

 という意識にさせられる。

 要するに牛乳が嫌いだというのは、単純に考えて、味が嫌いだということだったのだろう。

 子供の頃は嫌いな理由を、

「アレルギー」

 と言ってごまかしてきたが、大人になると、さすがに偽っているようで後ろめたいので、

「アレルギーではないが、吐き気を催すので」

 というようになった。、

 実際に二十歳未満の子供が起こすアレルギーで、ナンバーツーとなっている。しかし、二十歳を過ぎると、ベストファイブにも入っていない。大人になるにしたがって治ってくるのか、それとも、大人になった初めて発症するという確率がめっきり低くなっているのではないだろうか。

 そんな清武が牛乳アレルギーでも食べれる食品を開発するというのは実に皮肉な気がするが、アレルギーというわけではないので、却ってうってつけなのかも知れない。

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