ASMR(環境音_1)

 セミが激しく鳴いている。

 足元からはキリギリス。ぬるく風が吹くたびに茂った葉が揺れた。


「はー……はー……」


 木染が規則正しく呼吸をする。体力を消耗させないように機械的に無意識に繰り返していた。


「はー……はー……」


 しばらくして、鳥の声が聞こえた。カワセミだった。


「今の……?」


 弱々しい木染の問いかけに肯定を返す。嬉しそうに顔をほころばせると足を早めた。


「はー……はー……」


 ずっと続けてきたリズムより、やや早く、どこか弾んだ呼吸だった。

 すぐに川のせせらぎが聞こえはじめた。

 前へ、前へと足を踏み出す。

 木立ちを抜けると、視界には川が広がった


「はあああ……」


 木染が達成感をそのまま吐き出してしゃがみ込んだ。

 先ほどは一瞬聞こえただけのカワセミが、気づけば水流を伴奏のようにして大きく鳴いている。

 木染がしゃがんだまま、弱々しく言った。


「帰りたい……」

「騙された。完全に騙された」


 疲労からか、いつもよりも吐息の混じった声をしている。

 うわごとのように木染は続けた。


「これは……デートじゃない。こんなの……聞いてない。どうして、こんなことに……」


「撮影か……。撮影だね……。いや、確かにひとはいないけどさ」


「でも結局、私は話すわけじゃん? ……意味、あるの?」

「いや……ひとまずあんたのことは信じると決めてるから、やるけどさ」


「え、もう進むの?」

「ああ、もう少しちゃんと休めそうなところまで。確かに、日差しも……」


 木染が力んだ声をあげて立ち上がろうとした。


「ん……っとっとっと」


 すぐにバランスを崩して転びそうになる。慌てて支えると、左肩にしがみついた木染が力の抜けた声で笑った。


「ごめん、一回気を抜いたら何か足に力が入らなくなったっぽい。少し先の、あの木陰くらいまででしょ? 悪いけど、ちょっと肩借りてもいい?」


「いや、休憩するなら私も日陰がいいから。もうちょっと頑張るよ」


「……いや、あんたが陰作ったら、あんたが暑いでしょ。ちょっと引っ張ってくれたら、全然大丈夫だよ」


「……いいから。行くよ」

「ん、それでいいの」


 結局肩を貸すというより、腕にしがみつくような姿勢で木染はついてくる。

 けがをしているわけではなく、支えがほしいだけという歩き方をしていた。

 すいかでも冷やしたくなるような川の横を急ぐわけでもなくふたりで歩いた。


「ねえ、今も録音してるけどさ、ここはあんまり使えなさそうかな」


「だってプライベート感というか、弟に向けてって雰囲気じゃないしさ」


「逆にいい? どうして?」

「弟のためのASMRをふたりで取りに来てる感がでる??」


「んー…………?」

「なるほどね……?」


 分かったぶった木染の声を聞きながら足を止める。


「あ、木陰……」


 残念そうに呟くと、少し迷って木染が言った。


「やっぱり、もう少し歩こうか」

「足は大丈夫。だから……もう少し」

「んー……分かった。ちゃんと休む」


 意外に素直に木染は頷いた。

 木陰に入り、ひとつの幹にふたりで背を預ける。

 木染は「ふう」とやはり疲労を見せていた。


 しばらく休養に努める。

 木染も多分、音を聞いていたと思う。

 山の音がした。川の音がした。夏の音がした。

 木染の深い呼吸の音がした。

 隣で無防備にペットボトルの水を飲んでいた。

 青春の音かもしれないと思った。


 やがて木染がぽつんと呟いた。


「動画……さ、あれって、すごいよね?」

「五千人も見てくれたなんて、信じられない」

「私たちの学校の人、全部よりも多いってさ」


「はじめ思いついたときには、十人見てくれたら嬉しいなって思ってたんだ」

「お母さんと、お父さんと、おばあちゃんと、おじいちゃんに見てもらって。友達は……いない、から、お母さんとお父さんの友達にもちょっと見てもらって。そしたらなんとか十人くらいいけるかなって」

「それがさ、五千人だって」

「コメント、とか。高評価もしてくれて。チャンネル登録してくれたって人も、本当に……いた」


「五千人。嘘じゃないって。私、毎日夜に確認してるから」


「え…………?」


「一万? 本当に?」


「私が見たのは二十時くらい、だけど」

「うん、まあ寝るのは早いよ。弟がそのくらいに寝るからさ、私も何となく同じくらいに寝てる」

「……って私の就寝時間の話じゃなくて。動画、一晩で倍って、そんなことあるの?」


「はあ。紹介してくれた人がいてバズッた……」

「でも、それでそんなに増えるの?」

 木染はぴんときてないのか、どこか他人事のように言った。

「……凄いんだね、インターネットって」

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