クランクイン
「そういうことなら、早速撮ろっか」
木染がマイクの前に移動して、煎餅を手に取った。
「えっと……これは、普通に食べればいいんだよね……?」
「え? ああ……挨拶? そういえば。ああー……でも、さっきの動画みたいに字幕でいれておけばいいんじゃない?」
「確かに……私の声が入ってた方が弟は喜ぶかも。また難癖つけれらても可哀想だし」
「はあー……じゃあ、挨拶からやろうか」
木染はしばらく悩む声をあげていた。
やがて「うーん……まあ、いっか」と呟いて、小さく咳払いをいれた。
「よし、じゃあはじめるからお願い」
「はい、それじゃあお煎餅のASMRをやっていきたいと思います」
淡々とした声でいい、そのまま煎餅を口に入れようとしたため思わず制止した。
「カット? 何かだめだった?」
「声が怖い?」
「うん、別に怒ってないけど……」
「そうだよね、ごめん。私、いつも話し方が怖いって言われるんだ」
「……」
「……ねえ」
「私、かわいい声とか出せないんだけど、どうしたらいいかな。やっぱりASMRに向いてないよね」
落ち着いたいい声だと伝えると、珍しく木染がうろたえた。
「え? そ、そう? ……ありがとう」
「もう、分かったから。いいってば」
「あ……ごめん。嬉しいは、嬉しいんだよ。いつも怖いって言われて、声を褒められたことってなかったからさ。なんか……恥ずかしい」
「でもASMRに向いてるなら良かったよ」
「うんうん、もっとゆっくり囁く感じだとASMRっぽい。確かに」
「弟にやってみせたやつ? ああ、あの『右耳でーす』のやつか。なるほど、あんな感じね」
木染は小声で「みぎみみでーす……ひだりみみでーす」と呟いた。
「ん、あともうひとつある?」
「……さっきのは挨拶じゃなくて説明……?」
「……」
「いや、あんたが言ってることは分かるよ」
「でも私、配信者になりたいわけじゃないし、別に名前とかもないんだけど」
「そりゃ動画投稿してもいいかなーとは言ったけど……」
「投稿しないなら本名でいいし、するならあった方がいい……」
「あんたは、どっちの方がいいと思う?」
「どっちでもって……なるほど、実名ならプライベート感出てプレゼントっぽいけど、動画投稿されてると弟が自慢できるかもしれないか」
「なるほどね……うーん……」
「動画投稿にしようかな。やっぱり検索でお姉ちゃんが出てくる、みたいな方が喜びそうかも」
「うーん……じゃあ名前考えないとダメか。あんた、何かいい名前思いつかない?」
「こぞめチャンネル? そのままじゃん」
「嫌に決まってんじゃん。学校の人にばれたらどうすんの。もし誰かが気まぐれで名前検索したら一発だよ」
「葉月……木染月の別名だからね。それならいっぱいいそうだから、ばれなさそうかも。というか、木染月のこと、あんたよく知ってたね?」
「昨日から考えてくれてたの? ふふ、準備いいね、あんた。ということはひょっとしてもっと候補あったりする? せっかく考えてくれてたなら、教えてよ」
「なに? いいじゃん、教えてよ。聞きたい」
「うん、馬鹿にしない」
「『ASMRな夏休み』……」
「あー……うん……」
「あ、そんな言い訳しないでも。何かすごくマジに考えてくれたんだなって思って、驚いたっていうか。木染月が夏で、だから夏のなんかいい感じの探してってことでしょ」
「ああ、もう……ごめん、ごめんってば。本当に悪くはないと思ってるって。というか、その名前にしようと思ってるくらいだから」
「ううん、いいんだ。その名前がいい。嬉しかったから」
「ほら、じゃあ撮ってみようよ。私たちのはじめてのASMR」
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