第二十八話 霧の稜線

「ジェサーレ、旅は楽しいか?」

「ちゃんと食べてるの? お世話になった人にお礼は言えてる?」

「ジェサーレ、お前また愛らしくなったんじゃないか? 姉ちゃんに抱きしめさせてくれ」


「大灯台には魔女がいてね……海辺で動く砂がいたんだ。びっくりしたよ……僕、初めて馬に乗ったんだよ――」


 久しぶりの家族の会話は尽きることがない。

 父のコライは、ジェサーレの話に大袈裟に頷いたり驚いたりしてみせる。

 母のシーラは、ジェサーレがちゃんと食べているかどうかや、セダに甘えてばかりいないかが心配なようだ。

 姉のメルテムは、ことあるごとにジェサーレのぷにぷにの頬っぺたやお腹、そしてジャナンをモコモコと呼びながら、気持ちよさそうに撫でまわしている。


「僕、今度はケファレ山に登らないといけないんだ。登山口がアイナにもあるって聞いたんだけど、みんな知ってる?」


 料理も残りわずかとなった頃に、ジェサーレが今後の予定を話すと、すぐにメルテムがくいついてきた。


「私、知ってるぞ。最初の峠までは登ったこともあるし、山道を案内してやろうと思ってたんだ」

「いえ、あのお姉さん、色々と危険があるので、大丈夫です」

「お姉ちゃん、僕たちは危険な旅をしているんだ。巻きこめないから、ごめんね」

「モコモコは連れて行くのに、私はダメだって言うのかい? お姉ちゃん、寂しいなあ」

「ジャナンは一緒に冒険した友達だから」

「わふん!」


 メルテムはわざとらしく寂しそうな顔をしていたが、ジャナンが機嫌よく鳴いたことで、「じゃあ、気を付けていくんだよ」と笑顔になった。



   *  *  *



 ジェサーレの家に宿泊した二人と一匹は、翌朝、登山の準備に追われていた。昨晩はとても幸せな気持ちになって、家に着くなりすぐ寝てしまったからだ。

 シーラは古ぼけた登山用の地図を二人に渡した。

 メルテムは、厚手あつでの布で作られた長袖の上着と長ズボンを、それぞれ二着ずつと、体をすっぽり覆うことができるマントをジェサーレたちに渡した。山の上の方は気温が下がるし、山道で転んだときに危ないから、という理由だった。


「じゃあ、行ってきます」

「コライさん、シーラさん、メルテムさん、ありがとうございました」

「わふん!」


 そうして二人と一匹は、家の裏手にあった登山道からケファレ山に登り始めた。

 その登山道はとてもひっそりとしていて看板もない。ジェサーレも何回か前を通ったことがあるはずなのだが、教えてもらうまで全く気が付かなかったほどだ。

 ゆるやかな上り坂は、最初、両脇に草が生い茂っていて、しばらく歩くと、まばらに木も見えるようになってきた。

 しかし、ある地点から、急に霧が濃くなってきて、視界がとても悪くなってしまった。


「足元が見えないのは危ないわね」

「アエラキの魔法でどかせないかな。撫でろ、アエラキ」


 ジェサーレが試しにアエラキを使ってみると、近くの霧が動いて、少し視界が良くなった。

 そうしてジェサーレとセダが交互に霧をどかしつつ、調子に乗って大股歩きにならないよう、少しずつ登山道を進んでいった。

 そして――


「わあ! すごい!」


 峠を一つ越えたとき、突如として霧が晴れたのだ。

 なだらかに上り下りを繰り返す稜線りょうせんには淡い色の草原が広がる。

 そのすれすれを雲が通り過ぎ、地面に落ちた影が流れていく。

 そしてその稜線りょうせん彼方かなた、ケファレ山の山頂と思われる場所は、日の光を反射して輝いていた。

 二人はそれぞれに感嘆かんたんの声を漏らし、しばし、その景色に見惚みとれていた。


「くぅーん……」

「ジャナン、どうしたんだい?」


 しかし、いつになく弱気なジャナンの鳴き声に我に返る。

 ジャナンの元気がない理由は分からなかったが、二人はまた山頂を目指して歩き始めた。

 だが、稜線りょうせんの道を半分ほど進んだところで、空は茜色あかねいろに染まり、無理をせずにキャンプを行なうことにした。

 焚火たきびを囲んで食事をしながら、ジェサーレとセダは話をする。

 焚火を見つめながら話をすると、普段は話せないことも話せるような気がするから、不思議だった。


「あのね、ジェサーレ」

「どうしたの? あらたまって」

「私ね、あなたに謝らなければならないことがあるの」


 満天の星空の下で、焚火の音がパチパチと、静かに聞こえる。


「……お姫様を黙ってたことなら、何も気にすることはないと思うよ」

「そうじゃないの。なんて説明したらいいのか分からないから、そのまま言うわね。私、どうやら月の魔女ヌライの子孫らしいのよ」

「それがどうかしたの?」

「だから、あなたに迷惑をかけちゃってごめんなさい。私のこと、嫌いになったでしょ」

「そんなことで嫌いになんてなるもんか。だってセダはヌライじゃないもの。セダはセダで、悪い魔女じゃないんだから」

「ありがとう、ジェサーレ。それじゃ、おやすみなさい。また明日」

「うん、また明日」


 セダは不思議とぐっすり眠れて、その翌朝、稜線には霧がかかっていた。

 でもそれは、ここまで来るときに見たような濃いものではなく、先まで道が見える薄い霧だった。

 ガラスの峰と思われる山頂のキラキラもうっすら見えて、二人は魔法で霧をどかすことなく進むのだ。

 道が見えているから、昨日と違ってどんどん進むことができる。


「わふん! わふんわふんわふん!」

「痛い!」


 やがて急な上り坂に差し掛かったところで、ジャナンががぶりとジェサーレのふくらはぎに噛みつく。


「ジャナン、僕の足はハムじゃないよ。やめて」


 二人は立ち止まり、ジェサーレはジャナンを振りほどこうとするが、ジャナンも本気で噛んでいるわけではないので、じゃれ合っているようにしか見えない。

 すると、セダが「ひ」と短く悲鳴を上げた。


「どうしたの?」


 ジェサーレが不思議そうな顔で聞くと、セダは足元を無言で指さす。

 その先を見たジェサーレも、セダと同じように「ひ」と短く悲鳴を上げた。


「地面がない……」

「崖ね……」


 これから進もうとしたその道は、底が見えないほどの高い崖になっていたのだ。


「ジャナンは崖を教えてくれたんだね、ありがとう」


 ジェサーレが笑顔でお礼を言うと、ジャナンは「わふん」と機嫌が良さそう。


「だけどジェサーレ、この崖、何かおかしいわ」

「え? おかしい? ……あ、本当だね。上手く説明できないけど、おかしいね」

「やっぱりそうよね。おかしいわよね。なんていうか、地面がないんだけど、道が続いているような感覚があるのよ」

「不思議だね」

「不思議よね。でも、不思議がってばかりいたら、いつまでってもガラスの峰には辿たどり着けないわ。ひとまず、ニヒテリニエビオギアのおまじないをやってみるわね。ジェサーレ、リュックサックからフクロウの羽根を出して。袋ごと」

「はーい」


 ジェサーレが、セダの背中のリュックサックから、小さな革袋を取り出し、中を見てから彼女に渡す。

 すぐにセダは、ニヒテリニエビオギアの呪文を唱えたが、目の前の崖に変化はなかった。


「うーん、ダメね。心よ燃えろ、エフティヒア」

「今のは?」


 会話の中で流れるように呪文を唱えたセダに、ジェサーレが手を上げて質問する。


「怖気付いているときに、勇気を振り絞る魔法よ。……うん、効いてきたみたい。ジェサーレ。私、今度はディアスコルピーゾを使うから、あなたの木霊こだまの魔法で増幅してくれないかしら」

「え、でもあれ、まだうまく使えるか自信ないし、おまじないにも使えるかどうか分からないよ」


 セダが木霊の魔法と言ったのは、ジェサーレだけが使える秘密の魔法のことである。マゴスやマギサの皆が使えるようになるわけではないが、セダはマギアスビビリオという、魔法辞典の魔法をすぐ閃いた。

 ジェサーレもマゴスになったときにすぐに閃き、ルスの際は無意識に発動させていたのだが、あれ以降は、練習しても自分の声が離れたところから出るだけで、どういうわけだかうまく効果が現れなかったのだ。

 それがジェサーレにはとても恥ずかしいことのように思えて、魔法の名前もセダには話していなかったのだ。

 だけど、セダは知っている。


「私、知っているわよ。あなたが毎晩のように、その魔法の練習をしていたことを。そして、木霊の魔法に呪文が乗ることも。必ず上手くいくと思うの。だから、とりあえずやってみようよ。ね?」


 そこまで言われれば、ジェサーレだってやらないわけにはいけない。どうせ他に方法が思い付かないのだ。とりあえずやってみようと、ジェサーレは大きく首を縦に振る。


「やるわよ」

「うん!」

「わふん!」


 セダが月桂樹げっけいじゅの葉、ミントの葉、そして朝露あさつゆの入った小ビンを体の前に構え、きびきびと手を動かす。


「解き放て、ディアスコルピーゾ!」

「鳴り響け、アンティドラシ!」

「わふん!」


 ジェサーレが、一生懸命に響かせようと念じながら木霊の魔法を使うと、セダのおまじないの声がいくつも重なって聞こえてきた。

 やがて木霊が収まった頃、二人の前に現れたのは地面ではなくジャナンだった。

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