第14話 嫌いじゃない

「ごめん…久しぶりに水惟のデザインを間近で感じて…」

蒼士は「はぁっ」と自分を落ち着かせるような溜息をくと、もう涙は無くなっていた。


蒼士の涙と言葉に水惟の胸がキュンと締め付けられ、不思議なほどにドキドキと高鳴る。自分でコントロールが効かない訳の分からない感情に水惟は戸惑った表情になる。


「……なんで…」

水惟は堪えられずに聞いた。


「なんで…嫌いな相手にそんな風に言うの…?」


「え…?」

蒼士は不思議そうな顔をした。


「嫌いな相手の好きなもの…そんなに覚えてて…イチゴのスイーツとか、好きなアーティストとか…なんで?手土産のゼリーなんて定番だからだって思ったのに…今日のどら焼きは違う…それに…紅茶のミルクだって—」

水惟は混乱してまとまらない気持ちをそのままぶつけた。

「—嫌いなら…早く忘れてよ…デザインのファンだなんて言わないで…あなたの行動、私には全然理解できない…」


「水惟、待った。誰が誰を嫌いだって…?」

蒼士が眉を顰めるような表情で言った。


「そんなの、あなたが私を、に決まってるじゃない。」

水惟がムッとして言った。

「え…?は?俺が水惟を嫌い?」

蒼士は全くピンとこないような、不思議そうな顔をしている。

「だって…言ったじゃない、別れるとき…もう…私のことは好きじゃない…って」

喉の奥がギュッと締め付けられる。

「………」

蒼士は当時を思い出すように、少し考えた。

「たしかにそういうセリフは言ったかもしれないけど、水惟が思ってるような文脈では言ってないはずだよ。」

「え…?」

今度は水惟が不思議そうな顔になる。

「やっぱり…水惟の記憶は混乱してるみたいだな…」

「…でも、じゃあ…」

「俺は水惟のことは嫌いじゃないし、これから先も嫌いになんてならないよ。」

蒼士は戸惑う水惟の瞳をまっすぐ見据えて言った。

「じゃあ…」


(どうして離婚したの…?)


「今までずっと俺に嫌われてるって思ってた?」

「……だって…当たり前じゃない…離婚してるんだよ?」

水惟は困惑した声で言った。

「それに…結婚しない方が良かったって…言った…」

「……水惟…」

蒼士がどこか切なげな表情かおで水惟を見つめる。

「…それを言ったのは…」

「え…」

「水惟、俺は—」

蒼士の手が、水惟の頬に触れようとしている。

水惟の心臓はバクバクと困惑を隠さないリズムを刻み、頬は蒼士の手の熱を想像して、微かに熱くなる。


———ガチャッバタンッ


玄関からドアの開け閉めの音が聞こえて、蒼士はパッと手を下ろした。

そして、ミーティングルームのドアが開いた。

「よぉ、いらっしゃい。」

洸が顔を出した。

「こんにちは。」

「…おかえりなさい…」

蒼士は何事もなかったかのように笑顔を見せたが、水惟は頭が整理できずまともに洸の方を見られなかった。

「これjärviさんのロゴか。」

洸はテーブルを見渡した。

「うん。水惟がすごく良いデザインを上げてくれたから、ここからいくつか絞って先方に見てもらうよ。」

「あ、洸さん、蛍さんが…」

「ああうん、病院行ったって連絡貰った。灯里はまだチビだからよく熱出すんだよ。明日にはケロっとしてるよきっと。」

「そっか…良かった…」

水惟はできるだけ普通にしようと会話を探したが、頭も心も落ち着かず、自分の心音が邪魔なほど耳に響いてしまい、うまく考えられない。


(………)


「じゃあ、湖上さんの要望に応えているものを2つと、このロゴを先方に提出しよう。他のデザインも念のため捨てずに取っておいて。」

洸が部屋から出ていくと、蒼士は通常の営業モードに戻った。

「…えっと、う…はい。データを整えて、提出用の資料をまとめておきます…」

蒼士は選んだ3つのロゴをまた無言で眺めた。

「………」

水惟はまた落ち着かない気持ちになった。

「水惟」

デザインを見たまま蒼士が水惟に声をかけた。

「…はい…?」

「デザインするの楽しい?」

「え?…このロゴは楽しかった…です。」

「他は?」

蒼士は水惟を見た。

「他?」

「他にも最近やってる仕事っていろいろあるだろ?楽しい?」

「え、はい。この仕事が好きだから…楽しいです。最近やっと、一人前になってきた気がするし…」

どうして急にそんな質問をされたのか、よくわからなかった。

「そっか。」

「…?」

蒼士はそこから少しだけ仕事の話をすると、帰り支度をした。

(さっきの、なんだったんだろうってくらい…普通だ…)

「じゃあ、また。」

「………はい…また…」


「ひょっとして、蒼士となんかあった?」

蒼士がいなくなった事務所で洸が聞いた。

「え!?何もないけど…!」

水惟はギクッとしながら必死にごまかすと、パソコンに向かった。


(さっきの…)


蒼士が水惟の頬に触れようとした場面を思い出していた。それは、蒼士が水惟にキスをする時によくしていたことだった。

右手で頬に軽く触れ、髪を撫でて、顎をクイッと上げて最初は唇に触れるようなキスをする。


(あのまま、洸さんが帰ってこなかったらどうなってた…?)


——— 俺は水惟のことは嫌いじゃないし、これから先も嫌いになんてならないよ


(私のこと、嫌いじゃない…?)


(他に好きな人がいたわけでもない…)


(じゃあなんで…)


(なんで私達、離婚したの?)


“昔のこと”と思ってはいるが、たったの4年前のことがなぜこんなに思い出せないのか、水惟は不思議に思っていた。


(涙…)


蒼士が一瞬だけ見せた涙が、なぜこんなに心を掻き乱すのか、水惟には理由がわからない。


耳が熱い。

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