第49話 猫と追憶の回旋曲 その2

 一年前、道路で猫が死んでいた。


 朝から日差しの強い日だった。コンクリートから立ち上る熱気で、視界がゆらゆらと揺れる。


 歩道を人が歩いていく。蟻の行列のように規則正しく、制服を着て、もしくはスーツを着て、学校へ向かって、あるいは駅へ向かって、何も考えず、ただそう決められたプログラム通りに動く機械として歩いていく。


 誰も道路に横たわる猫を気に留めない。いや、嘘だ。皆、視界の端にとらえている。かわいそうと話題に出すこともあったかもしれない。けれども足を止める者はいない。そうプログラムに書かれていない。


 それが普通だ。


 何もおかしなことはない。いずれ誰かが片付けるだろう。自分が何かする必要はない。かわいそうとつぶやいて人のようにふるまっておけばいい。そんな人でなしの隊列。


 僕もその一人。


 かわえしない道を、いつものように下を向いて歩いていた。イヤホンから流れてくるのは別に興味のないヒットチャート。押し売りしてくるエモさで心が動いたと錯覚する。錯覚していないとおかしくなりそうだったから、きっとみんなもそうしているように僕も同じようにしていた。


 そのときも、突然、彼女は僕の視界に現れた。


 初めは、天使が降りてきたのかと思った。猫の魂を連れていくために地上に天使が降りてきた。それくらい、当時の僕にとってはファンタジックな光景だった。


 気づけば、何でもない普通の女子生徒が猫の前で膝をついている。そして、彼女はためらう様子もなく猫の死骸を抱え上げた。


 夏用の半そでのシャツは白い。死骸を抱えては血で汚れてしまう。だが、彼女は気にせず大事そうに胸元に抱く。


 僕は足を止めていた。


 血まみれの彼女があまりに美しかったから。


 現代社会のことわりの外側にいる彼女が、僕には、それこそ人からはずれた神や天使のようにしか見えなかった。もしくはあやかし悪魔あくま。いずれにしろ魅入みいられるには充分であった。


 

 僕は恋に落ちた。



 その瞬間から、僕の生活は一変した。六条飾のことを考え、六条飾のことを目で追って、六条飾のことを思い続けた。彼女が度の過ぎたストーカーだったことは驚いたけれども、そんなことで失望することなどなかった。


 そして今、僕は目の前で猫に思いっきり避けられている不憫ふびんな女神を見て、再確認する。



 あぁ、やっぱり僕は六条飾が好きなんだなぁ、と。



 崖から引き上げられた僕と猫を交互に見てから、六条飾は猫の方に手をのばした。しかし猫は尻尾を立たせて、彼女に威嚇の意を示していた。



「あなたの猫なの?」


「いや、違う、けど」


「そう。この公園に住んでいるのかしら。だとしたら、ずいぶん間抜けね。自分の庭で怪我をするなんて」


「そう、だね」


「とにかくコテージに運びましょう」


「うん」


「ところで、あなた、同じクラスのよね? 何でそんな恰好をしているの?」


「え? あぁ、その、体操着を汚しちゃって」


「私服を持ってきていたわけ?」


「あぁ、これは借りたんだ。コテージの人に」


「ふーん、そう」



 それで六条飾は納得したようだった。遠足中だとすれば、僕はあきらかにおかしな挙動をとっている。だが、彼女にとっては些事なのだろう。何なら私服の僕をクラスメイトだと判別できたことが驚きだ。


 僕は猫を抱えて、六条飾と一緒にコテージへと向かった。


 その道中、僕は言葉がうまく出てこなかった。六条飾とこうしてちゃんと話すのは初めてだったからだ。いや、ちゃんとなのかはわからないが、とにかく何を話せばいいのかわからなかった。



「班の人は、よかったの? 置いてきちゃって」


「あぁ、いや、よくないんだけど、猫ちゃんが苦しそうな声で鳴いているのが聞こえたから、つい走ってきちゃった。祐太郎くん、心配しているかな」


「そう、なんだ。猫、好きなんだね」


「猫はね。犬ならどうでもよかったんだけど」



 さすが六条飾、好き嫌いがはっきりしている。



「まぁ、それはいんだけど、猫ちゃんがぜんぜん近寄ってくれなかったのがショックだわ。私、猫には好かれる方なんだけど」



 きょどる僕のことなど気にせず、六条飾はマイペースに猫と対話をはかっていた。



「それは、だと思う」


「え?」


「猫は柑橘系の匂いが嫌いだから、君のそのシャンプーの匂いを嫌がっているんだと思う。前のシャンプーの方の方が君には合っていたと思うけど」


「ふーん」


「あ、ごめん。変なこと言って」



 しまった!


 つい、しゃべり過ぎてしまった。六条飾が昨日シャンプーを変えたのは事実だ。この遠足に向けて高いシャンプーを買っていた。柑橘系の匂いのシャンプー。それが理由で猫が近寄らないのもその通りだが、それは


 さすがに、六条飾は不審ふしんそうに僕の方に視線を送ってくる。そして、自分の髪をくんくんと一度かいてから、ふんと小さく笑った。



「あんまり仲良くない女の子にそういうこと言わない方がいいわよ」


「あ、ごめん」


「でも意外。男の子ってそういうのわからないものだと思っていたから。笹木くんは鼻がいいのね」


「あ、うん。そうなんだ」



 なんとかごまかせた、ようだ。けれど、もう僕はしゃべらない方がいいのかもしれない。口を開けばボロが出る。そう頭では理解していたつもりだったのだけど。



「六条さん、僕と、友達になってくれませんか!?」



 心の方は理解できていなかったようだった。

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