第48話 猫と追憶の回旋曲 その1

「ドジな猫だな」



 立ち入り禁止の看板の奥。森林公園は山のふもとの方ではあるが、急な斜面や小さな崖もある。未整備な部分はこうして立ち入り禁止になっていた。


 ただ猫には立ち入り禁止なんて関係ない。


 崖は猫にとっても危険なのだ。まぁ俊敏な猫にとってはアスレチックみたいなものかもしれないが、人でもどんくさい奴は公園の遊具でもケガをするだろう。


 ちょうどそういう猫が鳴いていた。


 猫に詳しいわけではない。ただ明らかにその声は弱々しく痛みに堪えきれず、自らの不幸を叫んでいるようであった。


 そのとき、僕は迷わなかった。


 猫の方に足が自然と向かった。自分でも不思議であった。六条飾を見守ることよりも優先するべきものなどないのに。だけど、すぐに気づく。この行動は僕のものだとしたら不自然なだけで、彼女のものだとすればおかしくない。


 六条飾ならばこうする。


 六条飾は猫が好きだ。


 野良猫には必ず挨拶する。寺の猫を餌付けしているし、猫にかまけていて祐太郎を見失ったりする。祐太郎の次に猫が好き。そんな彼女があの鳴き声を聞いたならば、きっと一目散に走っていくだろう。


 そう思ったら、僕の体は動いていた。


 ちょうど崖の下。崖と言っても2メートル程度の段差。僕にとっては世界が分かたれたかのような光景。その下のところに、茶色い毛の猫が横たわっていた。野良猫だろうか。右足が変なようで立ち上がろうとして失敗している。


 僕は、急斜面にえた木々に足をかけつつ、慎重に崖を降りる。ただ、この判断が間違っていた。立ち入り禁止とは危ないから立ち入り禁止なのである。何の知識も経験もない者が足を踏み入れたらどうなるか。



「わっ!?」



 僕は何のミラクルもなく当然のように足を滑らして落下した。



「痛っ! あー! もう!」



 ごろんと転がって崖下の地面に僕の体を放り出された。最悪だ。体のあちこちが痛い。不幸中の幸いとして、動かないところはなさそうだ。


 隣を向けば猫。


 にゃぁ、と僕を慰めるように鳴いている。


 

「ドジなのは僕の方か。まったく嫌になるよ」



 独り言ちて起き上がる。猫の方は逃げようとしない。怪我をしているから観念しているのか、それとも人に慣れているのか。自然公園にいる野良猫だ。きっと利用客にちやほやされていたのだろう。


 僕はしばらく猫を撫でて慣らす。こちらが敵でないと安心させてから、そっと猫を抱き上げた。


 問題は、この崖を猫を抱えたまま登れるかということだが。


 一応、上の木に縄をくくりつけて垂らしてある。片手で猫を持って片手で縄? いや、僕の身体能力でそれは無理だろう。


 僕は服を脱いで抱っこ紐のようにして猫を覆って体に結び付けた。これで両手が使える。だからといって登れる保証もないのだけれど。


 僕は木に足をかける。僕の体重を支えられるような太い木もあれば、折れてしまいそうな細い木もある。石に足をかけたら、そのまま下に崩れ落ちた。進行方向には枝が伸びていてひたすら邪魔だ。顔にぶち当たってくる小さい虫が鬱陶うっとうしい。


 いったい何をやっているんだ、僕は。


 崖を登りつつ、僕は自らの現状をなげかざるをえなかった。


 一つ、嘘をついた。


 猫を助けに来た理由。六条飾ならば行くだろうから、というのはあながち間違っていないけれど、それは本当の理由ではない。


 見たくなかった。


 六条飾と祐太郎が二人でいるところを。六条飾が祐太郎の身体をもてあそんでいるところを。今の僕の精神状態では見ることができずに逃げ出したのだ。


 その結果、泥だらけになりながら崖を登っている。


 はぁ。


 ため息も出る。


 ただ、気を抜いていると落っこちると気合を入れ直す。僕はぐっと歯を食いしばって、身体を上へと引っ張り上げた。


 そのとき。


 やっと崖の上に手が届きそうになったそのときだった。



「泥だらけじゃない。大丈夫?」



 手が差し出された。



「何で、ここに?」



 一瞬、何が起きたのかわからなかった。うるさい蝉の鳴き声がパッと消えて、彼女の澄んだ声だけが夏の風に乗る。強い日差しが彼女の後ろからさして、まるで後光のようであった。いや、きっと後光だったのだろう。そのくらい彼女の存在はあまりに尊かった。



「猫の鳴き声が聞こえたから」



 六条飾は小首を傾げつつ、僕の手をぎゅっと握った。


 そうだ、君はあのときも――

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